医療獣団本部へ②
出発してから数時間が経ち、辺りは次第に夕闇に包まれていった。優は、フド、ハスナ、そしてミスラと共に、本部へと向かっていた。
無線機からニーファの落ち着いた声が響く。
「今夜はここで野営する。各自、準備にかかれ。」
その声が全体に伝わると、あちこちから軽い歓声やため息が漏れた。
「ようやく休憩か~! 腰が砕けるかと思った!」
「さっさと天幕張ろうぜ、腹減った。」
「誰が飯を作る? 今回は俺じゃないからな!」
団員たちは笑い交じりに言葉を交わしながら、慣れた手つきで天幕や簡易テントの設営を始める。騎獣たちには水と餌が配られ、鎧の一部を脱がせて休ませる者もいれば、焚き火の薪を集めてくる者もいる。
その中で、ハスナはアスリに水を与えながら少し怖そうに言う。
「……ニーファさんの声って、いつ聞いてもピシッとしますよね。なんか、ちょっと恐ろしいっていうか……怒られてないのに背筋伸びちゃうんですよね〜」
「分かる」
近くで作業していた団員の一人が笑いながら相づちを打つ。
「声だけで空気が締まるよな。ま、だから副団長なんだろうけど。」
ハスナはにこにこと頷きながらも、手元の作業は止めない。どこかで本気でそう思っているからこそ、冗談めかして口にできるのだろう。
優も思わず小さく笑ってしまう。まだ話したこともないニーファの声に、確かに一種の威圧感と安心感を覚えた。
そんな様子を横目に、ミスラが静かに近づいてきた。灰青色の瞳がマサルを捉え、短く声をかける。
「マサル。フドと一緒に薪を集めてきてくれる?」
「はい、わかりました。」
優が素直に頷くと、すぐそばで聞いていたフドが軽く手を上げた。
「よし、こっちだ。一緒に行こう。」
二人は焚き火の起点となる広場の外れへと向かいながら、少しずつ暮れていく空を見上げた。藍色の空に、いくつかの星が瞬き始めている。
「星、綺麗ですね。」
優のつぶやきに、フドは空を見上げたままにんまりと笑った。
「ああ、ここじゃ“星は眠る獣の夢”なんて言われたりもするんだ。」
「獣の夢?」
「そう。日が沈んだあと、獣たちが眠るときに見る夢が夜空に映るってさ。気持ち良く寝るやつほど綺麗な星を浮かべるらしい。だから、あいつらが気持ちよく眠ってる証拠だって、子どもたちは信じてるんだよ。」
そう言ってフドは、少し離れたところで丸まってうとうとしている騎獣たちに目をやった。
「バリオも、きっとあの星のどれかを浮かべてるんだろうな。野原で草をムシャムシャ食ってる夢でも見てるかもな。」
「美味しそうに、のんびりと?」
「そうそう。たまに寝ながら口を動かしてるしな。夢の中で食べてるんだろうな。」
二人は顔を見合わせて笑い、黙々と薪を集めていった。適量を抱えて焚き火のもとへ戻ると、すでに鍋の支度が進んでいた。
ハスナが鼻歌まじりに野菜を切り、ミスラは静かに火加減を見つめている。
「おかえりなさーい。星見ついでに薪拾い、良いですね〜」
「助かったわ。これで煮込みが進む。」
ミスラの静かな声に、マサルは小さく頷く。
「今夜は干し肉と野菜の煮込み。香辛料は控えめよ。」
「うまそうな匂いだな。」
フドが鍋を覗き込むと、ハスナが笑いながら手で鍋を隠した。
「ダメですって! 味見はできあがってから!」
柔らかな笑い声が焚き火の灯に溶けていく。戦場の緊張がようやく和らいだ、穏やかな夜だった。
やがて鍋から立ちのぼる湯気と香ばしい匂いが、周囲の空腹を刺激し始めた。
「そろそろいいわね。」
ミスラが火から鍋を下ろすと、周囲にいた団員たちが次々と器を手に集まってくる。ハスナが手際よく盛りつけていき、マサルの手にも温かな煮込みが渡された。
「お待たせ、マサル先輩!」
「ありがとうございます。……すごくいい匂いですね。」
優はひと口すくって口に運ぶ。干し肉の旨味が染みた野菜と柔らかな塩気が、疲れた体にじんわりと染みわたった。
「うまい……」
素直な感想に、ハスナが嬉しそうに笑う。
「でしょ? こういうときは、あったかいご飯が一番なんですよ!」
フドはというと、黙々と鍋をおかわりしていた。仲間たちは輪になって座り、それぞれがゆっくりと、しかし確かに心と体を休めていた。
温かな食事が身体をほぐし、笑い声が交わされるうちに、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
「ふぅ……お腹いっぱい。」
ハスナがごろんと寝転がりながら呟くと、近くの騎獣アスリがのんびりと鼻を鳴らした。
「食ったら動けなくなるってのは、お前と一緒だな。」
フドが笑いながら言うと、ハスナは口を尖らせるが、すぐにまた笑い声が漏れる。
その後、マサルとフドは使い終わった鍋と食器を手に、水場へと向かっていた。
「……なんか、こういうのって久しぶりかもしれません。」
マサルが器を洗いながらつぶやく。
「こういう“日常”ひとつひとつが貴重なんだ。無駄にすんなよ。」
フドの大きな手が鍋をこすり洗う音が、水音と共に夜の空気に溶けていく。
洗い終えて戻ると、仲間たちはすでにそれぞれ寝袋を広げ、休む準備を整えていた。
「ほら、お前の分だ。」
フドがマサルに、きちんと畳まれた寝袋を手渡す。
「ありがとうございます。」
そのとき、野営地に設置された無線機からギドの落ち着いた声が響いた。
「明日の起床は0600。ゆっくり休め。」
マサルは寝袋を広げながら、ふと疑問を口にした。
「見張りとかは、いいんですか?」
すると、近くにいたミスラが静かに答える。
「何か異変があれば、ラファたちがすぐに気づくわ。」
焚き火のそばで丸まっていた巨大な狼、ラファがゆっくりと片目を開け、まるでその言葉を肯定するかのように鼻を鳴らした。
「頼もしいですね。」
優の言葉にミスラは何も言わなかったが、その横顔には確かな信頼が滲んでいた。
夜風が天幕の端を優しく揺らし、焚き火の火がぱち、ぱち、と音を立てる。
優は寝袋の中に身を滑り込ませながら、空を仰いだ。星は今日も変わらず瞬いていて、騎獣たちの寝息が静かにあたりを包んでいる。
「おやすみなさい。」
誰にともなくそう呟いて目を閉じると、すぐにまぶたの裏があたたかくなった。
騒がしさも不安も、すべてが少しずつ遠のいていく。
優は、自分でも気づかないうちに、深い眠りへと落ちていった。