医療獣団本部へ①
どこか遠くで、木が軋むような音がした。
視界の奥がぼんやりと明るい。鼻腔には、土と薬草、そして布の柔らかな匂いが漂っていた。
——ここは……?
優がゆっくりと瞼を開くと、見慣れぬ天井が目に映った。仮眠用の天幕のようだ。周囲には仕切り布が垂れ、穏やかな明かりがぼんやりと差し込んでいる。
すぐ横で、誰かが立ち上がる気配がした。
「お、気がついたか。よかった、よかった。」
低く、安心した声が響いた。見ると、椅子に座っていたフドが、笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。
「ぶっ倒れて驚いたぞ。ま、無理もないな。あんだけ動いてりゃなぁ。」
優は寝起きの頭で少しだけ笑った。
「すみません…気づいたら、身体が動かなくて。」
「謝ることじゃねえさ。命を守る者も、まずは自分の身体を守んなきゃな。」
そう言ったフドが、ちらりと天幕の外に視線を向けた。
「おーい、ハスナ。水、頼む。」
「はーい!」
元気な返事とともに、すぐにハスナが駆け込んできた。手には水袋を抱えている。
「はいっ、水分補給!ちゃんと飲まないと倒れるのは当たり前ですよ、マサル先輩!」
小柄な体を屈めながら、彼女はにっこり笑って水を差し出す。その笑顔は太陽みたいにまぶしくて、優は思わず照れくさそうに目をそらした。
「…ありがとう。」
受け取った水を少し口に含むと、ひんやりとした感触が喉を潤し、身体の芯にじんわりと広がっていく。フドが肩越しに笑った。
「まずは一杯の水からだ。」
優が息を整えていると、フドがふいに真面目な表情になり、腰を上げた。
「起きてすぐで悪いが、本部に戻る準備をしてくれ。」
「準備……?」
フドは軽く頷いて続けた。
「この戦場での任務はこれで終わりだ。本部に戻って次に備える。」
ハスナも横で頷きながら明るく言った。
「休む時間もちゃんとあるから安心して!でもね、本部に戻る前に片付けやら確認やら、ちょっとだけ手伝ってもらうかも!」
「本部……」
優はその言葉を繰り返すように呟いた。その場所が、自分にとって“帰る”場所になるのかもしれない、数時間前には想像もしていなかった。でも今、それが自然に聞こえる。
フドは優の肩に手を置いて、力強く言った。
「お前はもう、俺たちの仲間だ。本部に行って、“名前”を刻め。」
それを聞いたハスナが、ぱっと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、出発の準備だね!マサル先輩、立てる?」
優はゆっくりと身体を起こし、頷いた。
「はい、大丈夫です。」
フドが立ち上がり、天幕の布を軽く払いながら言った。
「よし、行こう。」
ハスナが先に布をめくり、優に向かって手を差し出す。
「さ、こっちですよ。マサル先輩!」
優はその手を取るようにして立ち上がり、軽く息を整えた。
仮眠室を出ると、外の空気はほんの少しだけ、柔らかさを帯びていた。遠くで騎獣たちが鳴き、仲間たちの声が交差している。
視線を向けると、広場の一角に集められた騎獣たちの姿があった。任務を終えそれぞれの鎧を丁寧に外され、のびのびと体を休めている。
大烏が翼を広げて日差しを浴び、象は地面に伏せて静かに目を閉じている。
大猪は仲間の顔を鼻先でつつき、大牛はゆっくりと草を噛みしめていた。どの騎獣の背にも、戦場で交わった傷と絆の痕跡が残されている。
それを見守る団員たちの手もまた、優しく、誇らしげだった。手入れをしながら声をかけ、水を与え、静かに背を撫でている。
それはまるで、“ここにいていい”と告げているような空気だった。
優はもう一度、深く息を吸い込んだ。心の奥に、じんわりと何かが染み込んでいくようだった。
すると、その横からひょいと顔をのぞかせたハスナが、両手を腰に当てて笑った。
「手伝ってもらおうと思ってたんですけどね〜、マサル先輩が起きるの待ってる間に、ほとんど終わっちゃってますね!」
「こちらギド。各班、隊員の点呼と装備確認を行え。本部へ帰還する。準備が整い次第、順次出発だ。」
拠点内に設置された拡声器から、ギドの落ち着いた声が響き渡った。
その声を受けて、団員たちが次々に動き出す。
「ラファ、起きて。出発よ。」
「バリオ、鎧戻すぞ。もうひと頑張りだ」
そこには、鎧を外され、体を休めていた騎獣たちの姿があった。巨大な狼があくびをし、鹿が身を丸めたままゆっくりとまぶたを開ける。大牛は地に伏したまま、静かに鼻を鳴らして反応を返す。
「アスリ、お家に帰ろう。」
ハスナが優しく声をかけながら、鹿の首元を撫でて笑う。
のんびりと寝息を立てていた騎獣たちは、団員の呼びかけに反応し、ゆっくりと身を起こしていく。鎧は脱がされているが、すぐに装着できるように整えられており、出発の準備は着々と進んでいた。
優はそんな様子を眺めながら、ふと隣にいたハスナに尋ねた。
「本部までは、どれくらいかかるんですか?」
ハスナは少しだけ首を傾げて、空を見上げるようにしてから答えた。
「そうですね〜、騎獣で隊列を組んで行くから、たぶん一日ちょっとくらいかな? 途中で休憩も入るし。」
「道中は静かだといいんだがな」
隣でフドが低く呟いた。彼はバリオの装具を点検しながら、ちらりとマサルを見た。
「ま、のんびり行こうや。」
優は頷きながら、自分がこれから向かう“本部”という場所に、ほんの少しの期待と緊張を覚えていた。