序章
赤色灯が回る中、雨の降る道路に膝をついていた桜田優は、懸命に胸骨圧迫を続けていた。周囲には交通事故の現場が広がっており、同僚の救命士が呼吸確保とAEDの準備に走っている。
「心拍、まだ戻らない!」
「酸素入れるぞ、カウント頼む!」
雨で濡れた地面に手をつきながらも、優の目は患者の顔を見つめ続けていた。痛みに顔を歪める仲間、救急車のサイレン、叫ぶ声、緊張と焦燥。だが、その中でも優の手は止まらなかった。
「まだ、終わらせない……!」
数分後、微かに震える瞼に気づき、誰かが叫んだ。
「反応あり! 心拍、戻ったぞ!」
緊迫していた空気が一瞬ゆるみ、仲間たちは小さく息をつく。優も肩で大きく息をしながら、わずかに顔を上げた。
その顔には、疲労と共に、命をつなぎとめた者だけが浮かべる静かな誇りがあった。
*
勤務が終わり、優は制服の上着を脱いで肩にかけ、夜道を歩いていた。空には雲が立ち込め、街の灯りがぼんやりと滲んでいる。
濡れた髪に手をやりながら、小さなコンビニ袋を片手に持ち、団地の階段をのぼっていく。今日もまた、救えた命と、救えなかった命が胸の奥に残っていた。
「はぁ……」
誰に聞かせるわけでもないため息をひとつついて、ドアを開ける。人気のない部屋に、蛍光灯の白い光がぽつりと灯った。
いつもと同じ、一人の帰宅。テレビをつけず、椅子に腰掛け、冷めたコンビニの弁当に手を伸ばす。
静かな部屋。電子レンジの音だけが、ぽつんと響いていた。
「……今日は、少しはマシだったかもな」
冷えた弁当を温め直しながら、優は窓の外に目をやった。昼間とは打って変わって、外はしとしとと雨が降っている。街灯に照らされた雨粒が、夜の空気を淡く揺らしていた。
食事を終えると、風呂も入らずそのままベッドに倒れ込む。だが、目を閉じても、まぶたの裏にはさっきまでの現場が浮かんで離れない。
(……やっぱり、少し歩こう)
そう思い立って、上着を羽織ると傘も持たずに部屋を出た。
*
夜の街は雨に濡れて、誰もいない公園や住宅街の道は静かだった。濡れたアスファルトを、スニーカーがしゃくしゃくと踏みしめる。
(命を救うって、何なんだろうな……)
そんなことをぼんやりと考えながら、人気のない坂道を歩いていた、そのときだった。
「……あ」
足がつるりと滑った。
雨で濡れた側溝の金属の蓋。踏んだ瞬間、思いのほか滑りやすくなっていた。
景色がぐるりと反転し、重力に引かれるように視界が沈む。
頭の中で、過去の記憶が走馬灯のように巡る。
そして——世界は、音もなく暗転した。
これから連載していきますので、よろしくお願いします。