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編入して三ヶ月。つまり卒業まで、三ヶ月を切った。卒業したらこの国の慣例に沿って、ジャスミンは王家に嫁入りしてしまう。
だからこれが正真正銘の最初で最後のチャンス。
ヘマはしない。抜かりもない。
そろそろ痺れを切らしてきたイグナシオに初めてしなを作ってやった。
傍目にも飛び上がらんくらいの喜びように、笑いを収めるのが辛かった。
「本当は初めてお会いした時から殿下をお慕い申し上げておりました。けれど、殿下には婚約者がおりますでしょう? その方を思うと、殿下にお応えするのが申し訳なくて……」
そっとハンカチで涙をぬぐう真似をする。
「おお! そんな理由があったなんて。レヒーナはなんて思慮深くて、思いやりに溢れているんだ!」
ずっと素っ気なくしてたのは、健気にも恋心をずっとひた隠しにしていた反動だと勘違いして感激しているらしい。
「でも、殿下のわたくしを想う気持ちを毎日聞かされているうちに、わたくしも抑えることができなくなってしまいました! 殿下! お願いです。殿下のお気持ちに応えるためにも、一切の憂いをなくしてくださいまし!!」
止めだとばかりに瞳に涙を含ませうるうる見上げれば、イグナシオの顔が赤く染まった。
耐えきれなくなったように肩に手を置かれる。
ちっ。触るなよ。馬鹿が伝染るだろうが。
「俺もできればあんな根暗な女との婚約なんて解消したいのはやまやまなんだが」
『根暗な女』と言った瞬間、殺意が漏れてしまったが、幸いこの馬鹿には気付かれなかったようだ。
「何分、ジャスミンは父上からも母上からも気に入られていて、俺が単純に婚約解消したいと言っても聞き入れてくれない可能性が高い」
「そうですか。殿下はわたくしとは結ばれたくないのですね……」
私は悲しげに顔を伏せて、イグナシオに背を向ける。
暗に婚約解消しなければこれっきりだと告げれば、イグナシオが慌てた。
今まで付き合ってきた女性のように想いが通じたら簡単に触れられると思ったら、大間違いだ。
婚約解消しなければ、私は一切この馬鹿に何も許す気はない。そもそも触れられたら、男だとバレてしまうし、私も私で何が悲しくて男に触れられなければならないのか。
まあ婚約解消した瞬間には、女を演じるなんてやめてやるが。
婚約解消が叶ったところで、この男のもとには何も残らない。
せいぜい俺とジャスミンのために踊ってもらおうか。
何やらぶつぶつと思い悩んでいる男にそろそろ次の段階に入るための声を掛けようとしたところで、イグナシオが顔をあげて叫ぶほうが早かった。
「そうだ! ジャスミンを悪女にしたてあげよう!!」
「は?」
突飛もない言葉に一瞬、思考が固まる。
「あの女がレヒーナを虐めたことにすれば、丸く収まるぞ!」
待て待て待て。何故そうなった。
私の白けた表情にも気付かず、イグナシオは自分の考えに没頭している。
「嫉妬に狂って、レヒーナを虐める陰険女ならこっちから婚約破棄を突きつけても、父上も母上も文句は言えないだろう」
「あの、殿下?」
「大丈夫だ。レヒーナは聖女のように美しく、心根も清らかで、みんなから慕われている。悪女と比べれば、どちらにみんな味方につくかなんて手に取るより明らかだ。悪いのは全部あちらのせいにすればいいんだ。虐められているレヒーナとそのか弱いレヒーナを守る王子である俺、みんな俺たちの味方さ」
イグナシオは自分の考えに興奮してるのか、私の言葉は耳に届いていないようだ。
「そして苦難を一緒に乗り越えた俺たちはお似合いのカップルだと言われるだろう。君を婚約者にすることに反対するやつなんていない! あの女と婚約破棄できただけじゃなく、君とも結ばれるんだ。一挙両得じゃないか! そうと決まれば、早速実行だ!」
意気込んで去っていくイグナシオの背を、私は止める暇なく見送る。
「一体、なにしようっていうんだ……?」
私はただ婚約解消する旨を一筆したためてもらうだけだったのだが。
そこにジャスミンのサインももらい、両者の同意書を携え、我が国から正式にジャスミンに婚約を申し込むつもりだった。
なんだが変な方向に行ったな。
ジャスミンが悪女だかなんだか言っていたが、ジャスミンが悪女になんかなるわけないじゃないか。
今日はあいつに付き合うのはもう懲り懲りだ。馬鹿だから、大したこともできないだろう。それに私が虐められることを装うなら、本人の協力がなければ、どうすることもできない。私はジャスミンを貶めるようなことは絶対しない。どうせ失敗する。
後日、色を使って、改めて婚約解消の文面を書かせよう。
だが、そう思った自分を私は後日後悔することになる。
「あのクソ野郎!! ぶっ殺してやる!!」
私は仮の邸宅で、ものに当たり散らしていた。
「で、殿下っ。だんだん言葉が汚くなってますよっ。ひとまず落ち着いてください!」
「これが落ち着いていられるか! ジャスミンがまたも公衆の面前で、侮辱されたんだぞ!」
イグナシオは想像を超える行動をしてきた。
なんとジャスミンをありもしない罪で責め立てたのだ。それも何度も何度も。
証拠も証人もいないお粗末な罪だが、なぜだかイグナシオは自信満々で。
初めてそのことを聞かされた時は、怒りを抑え込むのに必死だった。
やめてほしいと何度も懇願したけれど、こいつ好みの楚々とした演技では「レヒーナはなんて優しいんだ! 君の分まで俺は頑張るよ」と、逆効果になってしまった。
意気揚々と「俺に全部任せて、君は安心して待っててくれ」と言い渡して去っていく。
未だにキスのひとつも許さないことに、余計拍車をかけるのか、止めようがない。
「殿下がほしくてほしくて堪らないんでしょうね。まあ、俺だって殿下が男だとわかってなかったら、ぜひお相手を――」
「あ゛あ゛?」
「……その格好で低い声出すのやめてください……」
汗を一筋たらりと垂らしたシーグルドが、話題を変えるためにぽんと手をうつ。
「とにかく、作戦は大成功ってことじゃないですか。状況はどうあれ、イグナシオ殿下は婚約破棄するために奔走してるわけですから」
「まあな。でも、ジャスミンに対する生徒の視線が最近変わってきてるのが気がかりだ」
イグナシオの言葉を信じた生徒たちがあからさまにジャスミンに冷たい目線を送っている。
ジャスミンから何もされていないと私が言ったところで、庇っているとしか捉えられない。
やけに私に心酔してる者たちは、私が『悪』というものさえ、許してしまう高尚な人物に見えるようだ。
「やりすぎたかな」
イグナシオを引っ掛けるためとはいえ、出来過ぎた人間を演出し過ぎたようだ。
「いーえ。殿下は黙って立っているだけで、ご令嬢方をぽーっとさせて引き寄せる効果がありますから、多少手加減したところで変わらないと思いますよ」
私の考えを読んだのか、シーグルドが言ってくる。
「そうか? でも、もしジャスミンに手を出すような輩が現れたら、その時は――」
私の据わった目を見て、シーグルドがぶるっと震えた。
「今の顔、殿下の顔を見ていつもキャーキャー騒いでる国の令嬢たちにお見せしたいですね」
「美しいものには棘があるのに」と嘆息して愚痴を零された。