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 それから一日も経たぬうちに、呼び出されたのが今日。

 レヒーナ様との出来事を脳裏に過ぎっていた私の眼の前に、差し出された一通の書状。


「婚約破棄の同意書だ。そこにお前のサインを書け。俺はもう書いてある」


 吐き捨てるように告げる殿下。

 私は文面を見下ろしたあと、顔をあげる。


「このことは陛下と王妃様は……」


「ええい。つべこべ言わず、とっととサインしろ。お前が嫉妬に狂い、陰でレヒーナを虐める陰険女だと知ったら、父上も母上も迷わずお前との婚約破棄を手放しで喜ぶだろう」


 冷たく言い放ったあと鼻で笑う殿下に何を言っても、届かないのだと悟った。


「本当は卒業式の日に皆の前で、お前の悪事を明らかにするとともに婚約破棄を突きつけてやろうと思ったが、ここにいるレヒーナが慈悲深くもやめてくれと懇願したため、こうして席を設けたのだ。ありがたく思え」


 私はレヒーナ様を見上げた。レヒーナ様は静かな眼差しで、私を見つめている。凪のように澄み切った綺麗な表面だ。


――ごめん。あと少しだから。


 あの時言った言葉はこのことだったの?

 婚約破棄されると知っていたから、謝ったのかしら。

 だとしたら、本当にふたりは両想いなのだろう。

 私ではいくら言っても、女遊びをやめてくれなかった殿下。

 でもレヒーナ様が現れてから、ぱたりと火遊びをやめ、レヒーナ様一筋になった殿下。

 私ではできなかったことをレヒーナ様なら、今後もしっかりと殿下を導いてくださるに違いない。

 それなら、ふたりの仲を分かつ私はお邪魔虫ね。

 私はそっと息を吐くと、ペンをとった。

 白い空白に自分の名前を記す。

 ペンをことりと置き、一仕事終えたように肩の力を抜く。

 再び二人を見上げようとした私の視界に、眩い銀髪が入り込んできた。さっきまでぴったりと寄り添って殿下のそばを離れなかったレヒーナ様が眼の前にいる。

 婚約破棄書を掴み、きらきらした目で眺めている。

 よほど嬉しかったのね。

 さっきまで感情を窺わせない目だったのに。


「はは」


 レヒーナ様が口の端をあげる。かと思ったら、婚約破棄書を掴んだまま突然天井を見上げて、高笑いを始めた。


「ははははははははは」


 ぎょっとする私と殿下。

 レヒーナ様、こんなに大きな声をあげて笑う方だったかしら。

 学園ではいつも楚々として、淑女の鑑みたいな方だったのに。

 啞然としていると、レヒーナ様が私の手をがしっと掴んできた。


「これで、ジャスミンは私のものだ!」


「は?」


 言う相手が間違ってます。その台詞、後ろでぽかんと口を開けた殿下に言ってあげてください。

 嬉しさのあまり、見境がつかなくなってしまったのかしら。

 それに口調もなんだか男性っぽい。声音もハスキーではなく、完全な男の人のものに聞こえるんだけど……。


「あ、あの……」 


「幼い頃の約束、覚えているだろうか? 迎えに行くと君に言った」


 私は目を見開いた。

 封印していた『彼』の言葉が私の頭に蘇る。


――きっと迎えに行くから。


「覚えている?」


 レヒーナ様が首を傾げて、優しく問うてくる。

 その見覚えのある眼差し。春の陽射しよりも柔らかで、夏の陽射しよりも強い光。

 見覚えのある紫の瞳が、私の過去の記憶を掘りおこした。


 ――あれは八年前。私がまだ七つだった時のこと。

 過保護な父が私を屋敷に置いておけないと、仕事場である王宮へわざわざ連れていった日。



 


 父の執務室の隣部屋にずっといるのが退屈で、渡された絵本を放り出して、外へと飛び出した。

 開放的な青空の下、気分良く歩いていると、中庭の茂みのひとつから、くぐもったような高い音が断続的に聞こえてきた。

 耳をすませて、近づく。

 音はしゃくり上げる声に似ていて、茂みの向こうに人がいるのだとわかった。


「どうしたの?」


 反対側に回り込むと、子供らしい無邪気さで、私はためらいもなく声をかけた。

 隠れるように座り込んでいた人物がはっと顔をあげる。

 私と同じ年くらいの男の子だった。

 目が合って、驚きに目が見開かれる。

 彼は突然現れた私に。

 私はその美しくて珍しい紫色の目に囚われて。

 見つめ合ったのが一瞬か数秒なのか、わからなかったけど、先に目を逸らしたのは彼だった。

 怒ったような目つきに変わって、ふいと顔を横に向ける。泣き顔を見られたくないようで、手で顔を隠すようにしている。

 私の驚きに見張った目を見て、泣き腫らした赤い目のせいだと勘違いしたみたい。隠したくてわざわざここにいたのに、不躾にじろじろ見られたと思ったなら、怒って当然。

 今更取り繕うにも、少年が築いた堅い空気に弾き返されそうで、口を噤んだ。

 代わりにハンカチを取り出して、少年の顔の前に差し出す。

 少年が驚いた顔をして、私を見上げる。無言で差し出す私をしばらくじっと見てから、おずおずとハンカチを受け取る。

 無事、少年の手にハンカチが渡ったのを見て、私はにっこり笑った。少年の隣に腰におろした。


「あなた、お名前は? 私はジャスミン。ジャスミン・ティルッコネンって言うの」


「……僕はロレンシオ・ベルセリウス」


「ロレンシオね。……ねえ、どうして泣いてたの?」


「…………」


 ロレンシオが何も言わず、静かな時間が続く。話題を変えようかと思ったら、ロレンシオが口を開いてくれた。


「……兄上たちに仲間外れにされて」


 ロレンシオの顔が俯く。


「僕は出来損ないだから、兄上たちの邪魔になるって……」


 言葉が尻すぼみに消えていく。

 

「どうしてあなたが出来損ないなの?」


 私は首を傾げる。ロレンシオは至って、そんなふうには見えない。身なりはきちんとしているし、最初に惹かれた紫の瞳は神秘的でとても綺麗だ。瞳ばかりに目をとられていたけど、二度三度と見れば、顔立ちも女の子みたいに可愛らしい。髪だって、日にあたったらきらきらと輝きそう。


「僕の家はね、昔から紫の目の色の子が生まれるんだ。その色が濃いほど、『立派な子』で、『尊重』されるんだ」


「ソンチョウ?」 


「大事にされるってこと」


「あなたは大事にされてないの?」


 ロレンシオが顔をしかめた。悲しそうに。


「僕は駄目だよ。兄上たちと比べて、色が薄いから。兄上たちの目はアメジストみたいに綺麗だって言われるけど、僕の目は……」


 ロレンシオが首を俯かせた。


「安っぽいスミレの色だって」


「スミレ、私好きよ!」


 その時の私は、ロレンシオの深刻さも気に留めず、子供ながらに深く考えもせず、思ったことを口に出していた。

 ロレンシオが疑わし気にぐっと眉を寄せる。


「どこがいいの? 慰めならいらないよ。小さいし、みすぼらしいし、地味だし。道端に咲いてる雑草だよ。出身の賤しい人間を母に持つお前を例えるに相応しい花だって、兄上によく言われる」


「そんなひどい! それにスミレだって、頑張ってるよ。ううん、花壇に咲いてる花よりずっとすごいかも」


「すごい?」


「うん。だって、花壇の花は土を耕して、種を撒いて、肥料をやって、毎日水やりして、雑草が生えてれば抜いて、大事に大事に育てるの」  


 私はいつだったか、庭師が花壇を見ながら説明してくれた話を思い出していた。


「スミレと違うね」


 ロレンシオがどこか悲しげに笑った。  


「うん。たくさんお世話してるから、綺麗に咲くのは当たり前だよ。でも、スミレは種を撒かないのに、いつの間にか、自分で居場所を見つけて咲くんだよ。誰の力も借りずに」


 私はロレンシオに向かって笑った。


「あんなに小さいのに、強くて逞しいんだよ。だから、あなたもきっと強い子だよ」


 ロレンシオが驚いた顔をした。


「それにスミレは雑草かもだけど、他の草と違って抜かれないでしょ。私の家にも咲いてるけど、庭師のお爺さんはスミレだけ残しとくの。母様は、可憐で可愛いって言ってた。私もそう思う!」


 私はロレンシオを励ましたくて、――何故だが会ったばかりのこの子が悲しい思いをしてるのが嫌で――身を乗り出した。

 

「スミレの花、みんな大好きなんだよ!」


 ロレンシオは呆気にとられた顔をしていたけど、私の必死な顔がおかしかったのか、吹き出した。

 笑いに細められた瞳の奥に春の陽射しのような柔らかな光を見出して、私はどきりとした。先程まであった憂いは霧散していた。


「ありがとう。君のおかげで、元気が出た」


 笑い混じりの目には先程とは違う涙に濡れていて、私も嬉しくて笑い返した

 それから私達は幼い子が当然するように、一緒に遊んだ。

 次の日もそのまた次の日も、約束したわけじゃないのに、ロレンシオは中庭で待っていてくれた。

 ロレンシオは最初の印象とは大分違って、朗らかに笑う少年だった。日の光の下にいるロレンシオが髪はなびかせるたび、その銀色の輝きに、その笑顔に、惹かれていった。たまに見せる優しさには、胸が温かくなり、心臓が波打った。

 すっかり私はロレンシオが大好きになっていた。

 そして一週間が過ぎた頃、ロレンシオが言った。


「今日で王宮(ここ)にもいるのも最後なんだ」


「最後?」


「うん。最初から一週間の予定だったんだ。明日には国に帰らなくちゃ」


「そんな……」


 悲しげに眉を下げれば、ロレンシオが私の手をがしっと握った。


「でも、また会いにくるから。その時は今よりもずっと立派になって、自信をつけて、君に会いにくるから」


 初めて見る強い眼差しだった。どこに隠れていたのか、夏の陽射しのような強い光だった。


「それまで、待っててくれる?」


 あまりに真剣な表情に悲しみもどこかに消え失せ、私は無意識に頷いていた。


「うん」


 ロレンシオがほっと息を吐いた。

 張り詰めた表情から嬉しそうに笑う。


「きっと迎えに行くから」


 それが最後に見た彼の表情だった。

 




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[一言] 私もスミレは抜かないですわ。
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