10
その数日後、私の不安が形となって現れた。
校舎の角を曲がったときだった。どんっと勢いよく何かがぶつかってきた。
私はとっさに受け止める。
「レヒーナ様……ッ!?」
そこにいたのはジャスミンだった。
喜びを感じるより先に、痛々しい彼女の目元に視線が引き寄せられる。
さっと視線を動かせば、彼女の来た方向に生徒たちが群がっているのが見えた。どうやらまた例によって、イグナシオが彼女を詰ったのだろう。
不安げに揺れる大きな瞳が微かに潤んでいる。
胸に鋭い刃が刺さったように、痛みが走った。
「ごめん……」
どうしようもなく情けない。
彼女の目元に手を伸ばす。
好きな女性が傷ついているのに、見ていることしかできないなんて。
腫れが少しでも治まってほしくて、何度も何度も優しくさする。
「ごめん、あと少しだから……」
もう少しだけ待っていて。
そしたらもう二度と泣かせない。
本当はここに永遠にとどまりたかったけど、私にはやらなくてはならないことがある。
名残惜しかったけど、無理やり足を引き剥がした。
拳をぎゅっと握った。
これ以上、一日だって、彼女に辛い思いをさせてなるものか。
私はジャスミンと別れたその足で、イグナシオに会いにいった。
彼女を針の筵のような場所にこれ以上置いておきたくなかった。
ジャスミンの涙を見て居ても立っても居られなかった。
イグナシオは婚約破棄の舞台に、卒業式を予定していると言ったが、許せるはずもない。衆人環視の中で見世物にするなど、どこまで性根が腐っているのだ。
私は一刻も早くジャスミンを苦しみから解放してあげたくて、イグナシオの前で嘘泣きをした。
というか、とっととこの阿呆が婚約解消する旨を書いてくれれば、それで良いのに、ずるずると「まだジャスミンを追い詰めていない」とかわけのわからないことを言うからこうなったのだ。本当に殺してやりたい。
お前のプライドなど、ジャスミンの涙の百分の一、いや万分の一さえ価値がないというのに。
「殿下が誰かの婚約者であることが一日だって辛いのです。わたくし、このままだと耐えきれないかも……」
暗に別れを仄めかすと、イグナシオが慌てた。
「わ、わかった。ジャスミンに婚約破棄を突きつけよう。本当は卒業式の日にしたかったんだが……」
まだ逡巡するイグナシオに追い打ちをかける。
「殿下はわたくしの願いなど、聞き届けてくださらないのね。わたくしが大事ではないんだわ。それに、卒業式の日だなんて、あまりにジャスミン様がお可哀そう」
ふいと顔を横に向けると、イグナシオが跪いて、私の手をとった。
「怒らないでくれ、優しいレヒーナ。よし、わかった。明日、ジャスミンを呼び出そう。そこで婚約破棄を突きつけてやる」
「まあ、嬉しい!」
本当に嬉しいよ。
こんな猿芝居も明日で最後だと思うと。
「ジャスミンのやつも充分、追い込んだしな。皆すっかり、ジャスミンが悪女だと思い込んでる。これなら婚約破棄したあとも、俺たちの邪魔をすることはないだろう」
邪魔なのはお前だよ。お前さえいなければ、こんな回りくどいこともせずに済んだのに。
イグナシオが立ち上がって、キスをせがんできたので、上手に避ける。
「いやですわ。殿下、婚約者のいる方とそういうことをするのは、わたくしの信条に反すると言ったでしょう。あと一日、我慢なさって」
にっこり笑ってやれば、イグナシオが焦れるような期待に満ちたような顔つきになった。
「ああ! あと一日で、君は俺のものだ。楽しみで仕方ないよ」
初めて会ってからこの日まで、今初めてお前と同じ気持ちを共有できそうだ。
私はイグナシオに初めて、嘘偽りのない表情を返してやった。




