第1章2
…でもよ。最後に伊東の野郎が、嫌なこと言いやがった。「可愛いお嬢さんに、辛い目を見せたくはないでしょう」ってよ。
あやうくそいつを、ぶん殴りそうになっちまったんだが、オレだって大人よ。
権力には敵わねぇってことぐらい知ってるぜ。
それでオレは、自分の参加と引き替えに、娘っ子や近所に住んでる姉ちゃんへの配給品や生活保障に、便宜を図って貰えるように頼んだのよ。
…奴等が帰った後、オレは五軒隣の姉ちゃんの仮設住宅に行ったんだ。
札幌の病院に職を見つけた姉ちゃんも、娘っ子のことを不憫に思ってくれてるらしくて、看護婦の夜勤が無ぇ日には、いつも面倒を見てくれる。
そんな姉ちゃんと、粗末な食卓を囲む娘っ子には、本当のことさえ話せねぇ…。
「遠くの方に出稼ぎに行かなきゃならねぇ」って嘘ついて、「暫く帰れねぇから、姉ちゃんと一緒に、大人しく暮らすんだぞ」って言うのが精一杯よ。
娘っ子は、死んじまったオレのボウズと違って、妙に聞き分けが良いから、「嫌だ」なんて言わねぇが、それでもその、でっかい眼の目尻には、真珠の粒が光ってた。
…そうは言っても、姉ちゃんだけには、ホントのことを話さなくちゃならねぇ。
娘っ子がフトンの中で寝息を立てだした頃、オレはもう一回、姉ちゃんの所に行ったのよ。
…長い付き合いだから、言わなくっても、姉ちゃんは知ってたぜ。
「オレが帰って来れねぇかも知れねぇ」ってことをよ…。
気丈な姉ちゃんが、涙を流したのを見たのは、ばあさんの葬式以来だったな。
オレは、目蓋の奥から溢れ出してくる熱いモンを、見られねぇように背を向けながら、部屋の片隅に置かれてる、ばあさんの位牌に向かって、手を合わせたのよ。
…姉ちゃんの暖たけぇ手が、オレの肩にそっと差し伸べられて、心の中にまで暖かけぇモンが、入り込んで来たみてぇだった…。
そのうち降り出した、ミゾレ交じりの雨が、トタンの屋根を叩く音さえ、やけに遠くに聞こえたっけ…。
…数日後。
黒服野郎が指定した場所に行く前に、オレは学者先生の研究室が入ってる北大の遺伝子病研究所に寄り道したんだ。
先生はホントに偉い人で、一生懸命ゾンビの研究に取り組んでるんだが、いい結果が出ねぇから、自分を責めるような口ぶりだった。
例の試薬品だって、完全じゃ無ぇから、オレに向かって「済まない」って謝るのよ。
…オレなんか一度捨てた命だから、気にすることは無ぇンだけどな。
学者先生は、いつも通り、オレの体を診察しながら、ゾンビの研究が、どんな状況になってるか話し始めたのよ。
オレは「学」が無ぇから、先生の言ってることはチンプンカンプンなんだが、ゾンビの生体組織は、恐ろしいほど良くできてるって話だぜ。
ゾンビウイルスに感染した奴は、体内の遺伝情報や塩基配列を、めちゃくちゃにされちまう。
心臓や内臓に異常な負担が掛かって、「人」としては死ンじまうんだが、ゾンビに変質した細胞は増殖し続けて、次に目を覚ましたときには、「生ける屍」野郎の出来上がりよ…。
最初のうちは、元の人間の体内に蓄えられた栄養分を消費して動いてるらしいが、そのうち皮膚から直接、お日様の光や空気を取り込んで、必要なエネルギーを作り出すらしい。
体は木の葉っぱみてぇな奴等だし、頭ン中まで変質しちまってるから、「御頭」の中は「食う」っていう、生き物の基本行動しか残っちゃいねぇ。
そんな理由で、奴等は何でも噛み付こうとしやがるらしい。
そのうえ普通の人間だったら、筋肉組織が壊れるのを無意識に庇って、百パーセントの力は出せねぇんだが、奴等ゾンビ野郎は、そんなことはお構い無し。
いつでもマックス、フルパワーで向かって来やがるから、普通の人間様は敵わねぇ。
ゾンビ野郎に見つかっちまったら、奴らの頭蓋骨をふっ飛ばして、息の根を止めるしか助かる道はねぇんだ。
ここだけの話、そんなオレの腕も半年前に噛み付かれた後遺症で、一部がゾンビ化しちまってるから、ゲンコで五寸釘だって打てちまうのよ。
それでオレは、学者先生に、事情を話して、「暫く来れねぇかも知れねぇ」って言ったんだ。