不機嫌な声
痛い。
加治屋は先の駅から急に増えた乗車客の間に揉まれ腕の痛みを堪えていた。
ちょっと油断した隙に、カバンが人と人の流れに引っ掛かって、彼自信から離れてしまった。しかも身長だけはひょろ長い彼は、長い腕を最大限に伸ばされ、体とカバンの間を複数の人達が複数入る形になりちょっとやそっとでは吹き抜けそうにないうえに、中腰を強いられていて、力も入りずらい苦しい体勢だった。
カバンを持つ手が震えてきたが、せめて次の駅まで持たせないと。いきなりカバンを落とされたら、周りの人の迷惑にもなるだろうし、自分のノートパソコンも無事ではないかもしれない。
なんだってこんな日にパソコンなんて持ってきたんだ俺は。ああ!レポートがなかなか終わらないから、学校でと思った俺のせいですよ!いてて。それにどうなってんだ、この時間は雨でもこんなに混んだ事は無いのに!いてててて。そこのにーさん!体重かかってるよ!手が、健が延びるから!
心の中で悪態を付きながら、何度目かの挑戦(手とバックを自分に引き寄せる)を始めた彼の耳に、小さいけど良く通る高めの声が聞こえた。
「不快です」
と。
声の主は今の彼からは見えない。いつもは高い視線が今は中腰のせいで見えにくい。その不機嫌な声は続く。
「おしりに当たる物があり、とても不快です。故意であれば次の駅で駅員さんを呼びます。不幸な事故であれば、心当たりのある方は名乗ってください」
その声は、不快であっても人を信じる芯のある声で、彼は一瞬聞き惚れてしまった。
が、ちょっと待て声の方向がとてもヤバい。
府と気づいて、彼は焦り出す。角度からいっても彼の手は声のする方に延びていた。
周りが彼女の声にシンとなる中、彼は冷や汗がドッと浮かぶのを感じた。
不機嫌な声が少し間を空けて続く。
「すみませんが、後ろの方、証人にな・・」
「まって!待ってくれ!その手は俺かもしれないが、事故だ!今、見えないけど、グレーベースで青の枠のカバン持ってる手は俺だ。でも、人に引っ掛かって抜けないんだ!事故なんだ」
周りの好奇心の視線が痛い。恥ずかしさで憤死しそうだが、冤罪の前ではプライドなんて糞食らえだ。俺はまじめに誠実に生きているぞ!だから、信じておねがい!
「・・・名乗れますか?」
「なっ」
いつもこの時間のこの車両に乗る彼としては、恥ずかしいことこの上ないが、覚悟を決める。
「名乗れる。俺は、か、加治屋っていう!身分証は・・・あ、そっちのカバンに入ってるよ」
周りの視線が俺と彼女を往復しているのがわかる。
そのうちの視線が同情めいてる気がする。俺に?彼女に?俺じゃないよ!?ほんとマジで。
その時、彼と彼女の間にあって、彼の腕を最大まで伸ばしていた人垣が少しずつずれて割れていき、腕が解放された。彼の目線も徐々に元の位置に戻り、彼女の顔をみることができた。
俺の今の心情をなんと表せるだろか。
彼女は周りより少し低い所から加治屋を見上げている。背が低いのだ。この先の駅の高校の制服を着ていた。長い前髪はさらさらでキツく縛られているおさげも解いたら日本人形のように真っ黒なストレートになるんだろうと想像できた。
前髪は鼻に届くほどでさっぱり表情が見えない。
肌は白く柔らかそうで、大福餅を思わせる。
長めのスカートから出る黒いタイツの足も丸太を思わせる太さだった。
そう、彼女はデブだった。一目みて惹かれるところはどこもないような女の子だったのだ。
周りの目が加治屋を見ている。その時彼は思った。
そうか、俺か。俺を同情するように見ていたのか。
頭の端からスッと冷えていくような感覚がした。
加治屋の今の心情を表すならば怒りだろうか。いま、先程まで心を占めていた焦りが怒りに変わった。恥ずかしさも、後悔も、全て静かに怒りに変わって行くのを彼は感じていた。
彼女が口を開こうとしたとき、駅に到着した。
ガタンという揺れに、現実に戻されたように周りが動き出す。
加治屋は、怒りに変わっていく心をもて余しながら流れにのって車両の外に押されていくが、このまま次の電車を待とうと歩き出す。そこに良く通る声が彼を止めた
「加治屋さん!」
「は?」
加治屋は怒りを抑えたつもりで振り返る。そこには真っ直ぐに彼をみる先ほどの彼女がいた。
元から出口間際に立っていたので、先程とさほど変わらない距離にいる。俺は早く立ち去りたくて、なに?と聞き返した。
そんな彼に彼女は良く通る澄んだ声で謝った。
「恥ずかしい思いをさせてしまってごめんなさい。あの、どうすればいいか分からなくて、怖かったんです。加治屋さんが声をあげてくださって、説明してくださって、とても救われた気持ちです。その、有難うございます」
「あ・・・」
加治屋はやっと理解した。彼女の怖かったであろう心境を。
それなのに、気を悪くした彼にたいして申し訳なく思っているということを。
彼女は潔く真摯に彼に謝って、自分は救われたと謝辞まで述べてくれた。
なんて、素敵な考え方のできる子だろうと、素直に感心し自分が恥ずかしくなった。
俺はなんて、下非た考えに染まっていたんだろう。
彼女の容姿をみて、お前なんか触る奴いるわけがないだろうとまで考え、恥ずかしさが怒りに染まり、あまつさえ被害者が自分であるように勘違いをし、加害者である彼女に傲慢な態度をとってしまった。
でも考えてみれば、本当に事故であり、俺の些細な油断から起こった事でもあるんだからやっぱり彼女は被害者なのだ。彼女の体に当たったのは多分事実で俺の方こそ謝らないといけないのに。
彼女の綺麗な高い声が、加治屋の怒りをふるい落として、真実に気づかせてくれた気がした。
彼女は周りに対してもお騒がせしました、と詫びている。
加治屋もそんな彼女に謝りたいと思った。
「いや、その。俺は何もしてないよ、色んな意味で。あの、俺の方こそ、ご」
ルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル
プシュッシューーーーーーーーーゥットン
え。
モーターの低い音が車両を橫に移動させていく、彼は首だけを動かして間抜けた顔で車内の彼女を見送った。
心なしか、車内にいた彼女もその回りにいた人達も呆気にとられた顔をしていたように見えた。
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今、痴漢に間違われた彼、加治屋が見送ってくれるなか、電車が走り出した。
浅水の乗った車両は奇妙な沈黙が落ちていたが、浅水の橫にいたOL風の女性が吹いたのを皮切りに、あちこちで小さな笑い声が聞こえた。
複雑な気分で笑い声を聞いていた浅水だったが、最初に吹き出した女性が、浅水に声をかけた
「ごめんねえ、笑っちゃダメと思うと我慢できなくてえ。さっきの背の高い彼さあ、間が悪すぎるというか。可哀想なのが、何かうけるタイプの子っていうか。ツボっちゃってー」
何を言いたいか、浅水も良くわかる気がした。加治屋が焦った声で説明をしてくれたとき、誠実そうな声に恐怖心はすぐに消えたが、思い返すと、何か弄りたくなる要素があったと浅水も感じる。名前まで言わせる事はなかったのかも・・・と今は少し後悔もしていた。
そんな浅水の思惑は知らずに、OL風の彼女は話しかけてきた。
「でも、あなたさあ、良く言ったね。えらかったよお。今回は痴漢じゃなかったけどさあ、疑わしかったら言わないと!本物は言わんと増長するからねえ!」
自分の体験を思い出したのか、拳を握り説明してくれる。
「そ、そうなんですか?でも、加治屋さんには悪いことをしてしまいました」
「あ~、うん。でもあなたが謝ってから、謝り直そうとしてたよお。彼は大丈夫じゃないかなあ。なんかお間抜けな彼のおかげか車内も変な空気にならなかったし」
彼女はそう言って、また思い出したのか笑いだした。
「そうだと良いんですけど。でも、気持ちが楽になりました
有難うございます」
「あらあ、いいのよお。あなたさぁ素直で良い子ねえ。私好きだわあ。この時間の車両は初めて?また会ったらお話ししましょう。私、相田佐智っていうのお」
「え。有難うございます。私は浅水麟子と言います」
なんだかいつの間にか友達になってしまった相田は話し好きなのか自分の学生時代などを聞かせてくれた。
そのまま浅水が降りる駅になり、相田と別れたあと学校に向かった。
道すがら同じ制服の生徒は少ない。こんな時間に登校している生徒は部活で朝練がある者くらいだろう、ジャージの生徒の方が多い。
浅水は電車での出来事を思い出し、思わず笑ってしまう。
いけないと思いながら、口元を隠し小さく咳をする振りをした。
「それにしても、加治屋、さんかぁ」
口元を隠したまま呟いた小さな言葉は浅水本人にしか届かなかった。