「わたモテ」はどう終わるべきか
「わたモテ」14巻のアマゾンレビューで懐疑的な意見が述べられていて、それが「参考になった」を一番集めている(現状)。アマゾンレビューは、クソみたいなものも多いのだが、こういうまっとうな意見が出てくるのは良い事と思う。
レビュアーの意見を拾うと、要するに、作品内部でもこっちはもう敵もほとんどおらず、みんながもこっち好きー、になってしまったので、物語内で解決すべき問題がほとんどないというもので、ごく真っ当な意見かと思う。物語、作品というものを作るには、葛藤や問題、謎が必要となる。実際には現実生活において、我々は問題なく幸せに暮らしたいわけだが、作品内部には問題や葛藤を要求する。既にここに欺瞞的構造があると思うが、それは置いておこう。
レビュアーの言わんとする事はよくわかるし、実際、もこっちがリア充になってしまえば、もう解決すべき問題はなくなってしまう。ただのイチャイチャだけでは、作品にならない。まあ、最近では、川上弘美「センセイの鞄」とか映画「ルーキーズ 卒業」、なろう小説など、葛藤をゼロにして、ただもう官能というか、抵抗があるように見せかけているが実際にはゼロでただ主体を甘やかすだけのイチャイチャ空間が基本になっているが、そういうものを自分は作品とはみなしていない。同時代との馴れ合いとも言うべきもので、独立した作品形態ではないと考えている。
では我らが「わたモテ」はどうなのか。そういう作品になってしまったのか。そうかもしれない。とりあえず、自分なりに「わたモテ」を振り返ってみたい。
元々、もこっちはぼっちであり、ぼっちに耐えたという事、また孤独を怖れないという点において、学園生活において逆説的に優れた存在になったと言えるだろう。なぜなら、学園生活では、誰しもが意識的無意識的に自分を演じているからであり、その演技を越えられるもこっちが、型破りであるが為に型の中で優等生をしている人達に憧れと好意をもたれるという構造は間違ってもいないし、悪くもない作品の作り方であると思う。
個人的に注目したい、また、今考えている事とも絡んでいるので特筆したいのが、生活とは演技であり、芝居であるという点だ。社会の中における優等生とは、彼が社会から求められる芝居をうまくこなしているという点にその核心がある。彼の実質が、社会が彼に求めるものと一致するとそれは「優秀」という事になる。人間関係でも同じで、人は関係の網の中で、自分を演じる。礼儀が重要なのは、それが真実ではないという点においてであり、真実において彼が世界を憎悪していようと、どんな「心の闇」を抱えていようと、彼が普通に生活していればそれでいいのである。
例えば、いつか世界を爆破しようともくろんでいる男がいて、彼は五十を越えたらテロをしようと考えている。彼は、それまではおとなしい。妻あり、子供あり、仕事あり、きちんとした大人で、それを演じている。彼が五十の年の前に事故で死ぬとすると、彼は彼の内部の真実を隠したまま死ぬ。その時、彼は「良い人」だったのであり、心の中の真実に誰も気づかなかったから、彼は「良い人」として生き死んだのであり、「真実は~」とは言えない。彼は良き社会人、家庭人だったのである。
世間は真実を望まない。望むのは虚偽であり、芝居である。もこっちが心の中で何を考えていようと、どれほどゲスな妄想をしていようと、うまく芝居できれば、それで世間は良いのである。優等生やリーダーと言った人達は、生活の中でそういう芝居をうまく演じきった人達である。彼らが内心で悩んでいるかどうかは関係がない。
しかし、もこっちはその芝居がうまくできない事、それを突き詰めた人物ではなかったのか。芝居がうまくできない、芝居の裏側にある自分が本当の自分だと別に言ってもいいではないかと開き直った人物ではなかったか。そこに、百合ヒロイン達は惹かれたわけだ。ここまではいい。だが、百合ヒロインに囲まれ、そこで人間関係が発生し、相手の好意を損ねないようにうまく振る舞いだす時、そこにはまた「芝居」が発生してこないだろうか。つまりは、ここでまた問題は元に戻るのではないか。
現状のもこっちはリア充になった。もこっちをまわりを優しく受け入れてくれるし、もこっちもなんだかんだ言って気をつかい、まわりに嫌われないような振る舞いをしている。ここには以前のダークなもこっちにあった何かが抜けているとは見えないだろうか。
元々、「わたモテ」のドラマの最良な部分は、もこっちの孤立した内的意識と、外的世界が様々に触れ合う事によってできたと言っていいだろう。前半部分では内的意識だけが問題となり、今は、外的世界のみが問題となっている。わかりやすく言えば前半ーーオタクであり、後半ーーリア充である。オタクとリア充の葛藤が「わたモテ」のドラマの最良の部分を作っていた。今や物語は天秤の片方からもう一方に移動したが、この移動、運動がドラマであるにも関わらず、これが結論に達してしまうと、それは物語とは言えないだろう。
現状では、もうドラマと言える部分はあまりない。つまりは普通の楽しい、イチャイチャ空間になっている。楽しさ、とは、苦しさとの相対関係で現れるものだから、不幸を知らない人生はその反対の幸福も知らないという風に言える。もこっちの今の楽しさは過去のぼっち経験があるからであって、ただ楽しい日々が続けばそれはもう楽しい日々とは呼べなくなる。単なる惰性の連続となる。
ここから先、「わたモテ」はどう話を展開すべきなのか。現時点でも、もはや主人公はもこっちから、多少問題のある田村やネモに移っているので、実質作品は半分くらい終わっているとみなしてもいいのかもしれない。
「わたモテ」はもう話を終わらせる段階に来ていると思うが、一番オーソドックスな終わり方は、大学進学して、なにかの事情で、みんなバラバラになって、もこっちが「はあ、また一人か」とため息をついたら、田村や加藤さんやネモが励ましてくれる、そこで終わる…なんて終わり方が頭をよぎるが、いずれにせよ、もこっち他、百合ハーレムが同じ大学に行って、ずっと楽しい時期が続くというのが考えられる限り最悪の終わり方だろう。
何故これが最悪の終わり方なのかは、最近、そういう文章を何度か書いて、繰り返すのが面倒なので、ちょっと省略させてもらう。(「喪失と成長」という文章を読めばわかると思う) 要するに、楽しさがエンドレスに続くというのが今の消費社会の、ぬるい消費者願望なのだが、それはそんなに良いものではないという話だ。自分は「嵐」解散の報道を聞いた時、(ああ、よかったな)と思った。
「わたモテ」に話を戻すと、もこっちは果たして本当に普通の人になってしまったのか、という気もする。ここで、あえて尖った終わり方をするのであれば、今度はもこっちが意識的に、もう一度ぼっちになるというものが考えられる。最も、この場合は「孤独」に何か崇高な、例え滑稽でも、普通以上の観念を付け加えなければならないから、やっぱり難しいだろうな、と思う。
もこっちはぼっちである事から抜け出たいと思っていたのであって、そこで何かもこっちが有意義な哲学というか、何か一人でやる事、考える事を見つけていたわけではないから、意識的に戻ると言っても、その根拠がわからなくなってしまう。だからやっぱり……大学進学エンドという事になるだろうか。
「わたモテ」という作品は、ぼっちから百合ハーレムになったのだが、これは作者が全体を構想していたわけではなく、描いている内に、諸々の偶然も含めて、そうなっていったのだろうと思う。こういう事を言うとよく、具体的に作者が変わった事件、契機なんかをわざわざ教えてくれる人がいるのだが(「走れメロス」を読み解こうとする際の、太宰治本人のエピソードに全根拠を持っていくなど)、考えてみれば、仮にそのエピソードが自分の身に降り掛かっても、内的に創作できる能力や意欲がなければそのエピソードは意味がない。
優れた創作家ほど、創作は自己の内部で行う。その内部が外部の出来事にインスピレーションを受けたり影響はされたりはするだろうが、外部の出来事が全てなら、何故同じ環境、事件の中にいる人は同じ話を作れないのか。重要なのはクリエイターの内部にあるものだが、内部がわからない人はあらゆるものを外部化し、因果系列の中に組入れ、見せかけの構造を作り上げて満足する。
「わたモテ」という作品も描いている内に変化が出てきて、それが作品として現れたのだと自分は見ている。しかし、この場合、最初から全体を構想していたわけではないだろうから、作品をどう統制するかというのは結構難しいとは思う。
本来的に作品は、ゲーテの言う通り、最初の一行を書いた時に最後の一行を予想していなければならないもので、これが難しい。現実は開かれて、どこまで果てがないのに、作者は作品を閉じなければならない。何故閉じるのか、物語、作品を閉じるとはどういう意味なのか。現代の観点からすれば、ずっと楽しくてイチャイチャしていればそれでいいだろう。何故終りがあるのか、なければいけないのか。無限は駄目なのか。ここに、現代において、優れた作品が出てきにくい一要因があると思っている。終わりがない世界では成長もない。幼児化する世界で、人々を甘やかすものが求められ、それを叶えてやれば称賛を受け、自分もいつしか成長したかのように思えてくる。しかし、そこに成長はない。
もこっちは成長したのか、後退したのか、よく考えてみれば難しい所であると思う。自分は「わたモテ」という作品が好きだが、ここから先は自分で考えて自分で作るしかないと思っている。もこっち自身にはもはや問題はない…葛藤は消失してしまった…この先、もこっちに彼氏ができる事があっても蛇足でしかないだろう。
重要なのはもこっちが感じていた、世界との差異だった。世界との関わり方だった。世界にすばやく溶け込める人は、世界にたやすく従属する人とも言いかえられる。文学というジャンルで常に反抗者がなにがしかの意味を持っていたのは、優等生だけでは世界は更新されないからである。停滞するからだ。
もこっちが持っていた違和感、差異、葛藤は今や解消された。作品のゴールには、今江先輩が待っているのかもしれない。あるいはもこっちが、今江先輩のようになり、後輩を導けるようになって作品は終わるのかもしれない。しかし、それはあまりにも綺麗な終わり方ではないか…という気もする。
作品というものを作るには、ガソリンというか、何らかのエネルギーを積んでいる必要がある。それが葛藤であり、謎であり、問題であり、エンタメ作品はそれを形式としてのみ起用するが、芸術作品になると、それが作者自身の人生観や世界観と結びついていく。「わたモテ」はもうそのエネルギーを使い果たしたのかもしれない。もう一同は「卒業」に向かって歩いているのかもしれない。
しかし、また自分のこのような想像を良い意味で裏切ってくれるような一打が先に待っている可能性もある。この作品がどこに着地するか、それを最後まで見ようとは思っている。ただ「わたモテ」という作品は確かに終焉に向かっているのかもしれない。各キャラクターに、もう一度ドラマのうねりを作る何かが感じられないからだ。唯一あるのは、キバコだが、これもそれほど大きなものではない。「わたモテ」はどこに着地するのか、それを横目で見ながら、ここから先は自分は自分の倫理ー哲学を作る必要性を感じている。