第99話 自分の生(せい)
「……ごちそうさん。んじゃ、行ってくるわ」
「おう。直した自転車を持って行くんなら、ちゃんとその子に連絡しておけよ」
「分~ってるって。すでに了解取ってるから」
俺は半眼でじいちゃんへスマホを軽く振り、そのままキッチンを出て玄関へ。靴を履いていると、「バイトの数は多いほうがいいんだからな~」としつこく声が飛んでくる、どころか、「夏にぃ~始まる恋はぁ~♪」とふざけた内容の歌が美声で聴こえてきた。……どんだけ俺に彼女作らせたいんだよこの親は! ぜってー誘わねえし、そもそも人が増えたら俺のバイト料が減るに決まってる。本の積み下ろしってけっこうな重労働なんだから、きっちりそれに見合った金額は請求してやるからな。
俺は玄関を出て鍵を閉める。それから門のそばへ置いたシンリの黒いシティサイクルのタイヤをもう一度確認し、問題なかったので門を開け、出発した。
「……お、おお~……。めっちゃ乗りやすいな、やっぱ」
気持ちの好い風を受けて住宅街を走りつつ、ちょっと感動する。きのうパンクを直したあと、少し乗ったときも思ったけど違和感がまるでない。前に橋花の自転車に乗ったときは、アイツのクセがついていて乗りにくいことこの上なかった。というか、橋花に限らず人の自転車というのはそういうもので、たぶんバイクや車も同じじゃないだろうか。
ということは、このシンリの自転車はまだ新しいか、俺と乗り方が似ているのかのどちからになるが、わりと年季が入っているようにも見えるので後者だろう。そういやあっちも、俺の自転車に乗って帰くとき、すいすいこいでたな。きょう会ったら聞いてみるかな。
そうして快適な運転のまま住宅街を抜けて国道へ。その後もすいすい歩道を進んでいたが、ぴろぴろぽろんっ♪ とスマホが鳴ったので俺は停まり画面を見やる。ファレイの文字が映っていた。なのでおおきく息をはいてから、自転車を端に寄せて停め、半眼で電話に出た。
「はい。……いちおう言っておくが、きのうの話ならナシだぞ」
《……―― え え っ ! ? ……あっ! あ、あの、も、もももも申し訳ございませんっ!! おはようございますっ!! それで……—― え え っ ! ? 》
挨拶をしてから、また驚き直すとかある? ……とか、ふつうは思うだろうが、別に向こうはふざけているわけではない。これが通常運転で素、ド真面目かつ忠実なる従者、もとい、ファレイという女なのだ。俺は頭をかいたあと、淡々と続けた。
「……え~っと。あのタイムマ……じゃない、俺の机の引き出しにつけられた変なワープ装置は、ルイが勝手につけたんであって俺が望んだものじゃない、ということと、ぶっちゃけ外して欲しいんだよ、ということ。そして、そんなふうに思っているのに、お前の家からまでワープ装置をつけられてたまるか、っていう話を、きのうも10回くらいしたんだが……」
昨晩。ルイが俺の引き出しからとつぜん現れて、そしてまた引き出しから帰っていったのだが、残されたファレイがそれを見て仰天、俺を質問攻めにしてきたため、やむなくかくかくしかじか説明すると、「……おっ!! おおおおおおおかしいじゃありませーーーーーーーーーーんかっ!!?? なななななんであの女の家とセイラル様のお部屋をつなげる必要が!!?? 師匠と弟子だから、とか、安全のために、とか、なにか筋の通ったていで話していたようですがこれは完全なる職権乱用かつ人権侵害……――もといっ! 破 廉 恥 行 為 に相違ありませんっ!! わ、わわわ私は弟子として従者として!!! そのようなふしだらかついかようにも悪用できる間違ったシステムには断固反対致します上……—— 下 心 満 載 女 の悪行を監視するために 私 の 部 屋 と も つ な ぐ べ き だ と ご提案申し上げますっ!!!!」と半泣きで真剣に訴えてきた。なので俺は、まずあれはルイの魔術研究から創り上げたものだけど、お前は創れるのか? とか、俺の人権その他をどうこう言うなら、お前の部屋からもつなぐのはおかしいだろ? とか、まともな突っ込みを入れたのだが、「 一 理 ! 確かに 一 理 ありますけれども……!!」とか言って、ちゃんと聞いてるていで受け入れる気ゼロ、まるで聞きやしない。けっきょく、ルイの残した結界が消える前に窓から追い返したが、こうしてまた、朝の早から電話をかけてくる始末。ふだんのファレイなら、よほどのことがない限り、通学中に電話などかけてこない。つまりまあ、よほどのことなんだろうけどな……。
《そ、……それは、お、……お聞きしましたけれども!! そ、その恐れながら……!! かの女……ルイ・ハガーだけでなく、彼女が昨晩いたルティーシャ、とかいう女と、晴様を、つ、つつつつ付き合わせるなどといったたわご……耳を疑う一件!! それも併せて考えると、事態は急を要するものだと存じます…………あのいい加減な恰好!! 手入れをまるでしていない髪!! 肌!! 唇!! なによりセイラル様に対する な め く さ っ た 態度!!!! よくもあのク……もし私の幼きころならば、【あれ】はいまごろ原型を残さずに宙に消えていたと!!!! ともあれくだんの二者の関係性から察するに、きっとルティーシャなる輩もルイ・ハガーに乗じてセイラル様の部屋へ出入りすること必至!! つまりは 下 心 女 の 二 乗 ! ! もはや正直に申せば学校になど通っている時間は あ り ま せ ぬ っ ! ! ! ! 》
完全にブチ切れていた。っていうか前から感じてたけど、コイツは頭に血が上ったらむっちゃくちゃ口悪いよな……。その辺のヤンキーよりよっぽど。ウチのクラスの瀬川が可愛く見えるわ。
それと、もし幼きころならば……って、もしかして昔は素の態度も過激だったのか? そうだとしたら、現在の、ふだんのふるまいは教育の賜物か。……俺がそれをほどこしたのだったらすごいな、昔のセイラル。とりあえず、いまの緑川晴も、その辺頑張らないと、だな……。
「ファレイ。お前が学校に通っているのは、俺の従者として、俺を守るためにそうしてくれてるんじゃなかったのか? いまの発言は、俺のことなどどうでもいい、という意味にも取れるが。……そう判断してもいいんだな?」
ややすごんだように言う。ちょっと可哀想だが、まず頭の熱を下げる必要があるからな。果たして数秒の沈黙のあと、《……—―ひょっ!!》と息を変なふうに吸い込んだような音が聞こえてきたのち、ぶち……っ、と電話が切れる。それで俺が訝しげにスマホを見ていると、急に影に包まれ暗くなり……――ダンっ!! と制服姿のファレイが【降ってきた】。えーーーーーーーっ!!??
「…………ぃます違います違いまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、するっ!!!! けけけけけ決してそのようないい加減なセイ……、せ、せせせ晴様に対して従……っ、ひ、ひひひ人として接する際にあるまじき態度を示し心を見せることなどおぉおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぅ信じて下さいっ!!! 私の立場や心にいっさいのゆらぎはなく!!! これは……、いまの、さっきのは……っ!!! た、ただのっ……ただのしっ……—― あ゛ っ゛ ! ! ! ! ! 」
半泣きというか全泣きでわめき散らしたかと思えば急に真っ赤な表情で口を押え、そのまま息も止めていたのかやがて真っ青になった直後ゴぉンっ!! と派手な音を立てて後ろに倒れてアスファルトに頭をぶつけた。うおぉーーーーーーーーーーいっ!!
「……、お、おいっ!! だ、大丈夫かしっかりしろっ!! か……、回復じゅ……!!」
と、スマホを持ったまま、慌ててファレイを抱き上げ口走ったところで、通り過ぎる自転車の学生や犬の散歩をするおじいさん、サラリーマンなどがちらちら見ていることに気づいて口を閉じる。そのあと、腕の中のファレイと目が合うが、ファレイは極限まで真っ赤な表情になり、「だいっ……じょっ! じょっ! ……うぶっ! —―DEATHっ!!」という裏声叫びとは対照的に、ふわり、天使のごとき所作で俺から離れると、脚、スカート、シャツを払いリボンを整え髪を直し、すらりとした立ち姿となったのち、にこぉ……と笑顔を向ける。無理やり。真っ赤な表情のまま。俺はそんなファレイにつられてぎこちない笑みを返したあと、ファレイが頭から倒れたアスファルトを見るが、ヒビが入っていた。ま、魔力でガードしてたから、だよな……?
「た……、大変失礼いたしましたそしてご登校途中にもかかわらずお足止めしてしまい申し訳ございませんいささか目立ってしまいまし、た、し、私はお先に学校へ向かわせていただきますゆえセイ……、せ、晴様はどうかごゆるりと御身の速度で。……—―それでは失礼いたします」
冷静さを装いまくりの不自然な口調を張りつけた笑顔のままでまくし立て、頭を直角に下げたあと、いまだ耳まで赤いファレイは俺に背を向けてすたすたすた歩いた果てに、先の交差点で右に曲がって消えた。学校へは、もっとまっすぐ進むので、俺が追いつかないようにしたんだろうが……それより。なんなんだいまの態度は? なにかを隠そうとして、ああなっているのは分かるけど。……ただの【しっ】? ……し……?
俺は首をかしげたあと、歩道沿いに延々続く、高々と積み上げられた間知ブロックと、その上にある道を見上げる。後ろから足音がしなかったから、あそこから飛び降りてきたんだろうか。下に通行人がいない、または離れた瞬間を見計らったにしても、その判断力を含めての人間離れした動作からは、いまの緑川晴よりはるか先にいる魔術士であることを、改めて思い知らされるいっぽう、同時に人間のふるまいとしてはありえなさすぎる非常識に開いた口が塞がらない。
そんなふうに人間として、魔術士としての印象が真逆なため、感情の綱引き大会が始まって、俺は変な笑顔を浮かべるほかなかったが……。スマホをしまったのち、ふと再びアスファルトに残ったヒビが目に入り、どうしようかと考えた。
はっきり言って目立つほどのものじゃないし、もともとあちこちにヒビは入っているので、放っておいてもいいのだが、原因を見てしまっている以上、気が引ける。ただ傷つけてしまったからじゃなく、なんというか、人間界にあまり、魔術士の痕跡を残しておきたくないのだ。足がつく、というのも変か。ゴミはゴミ箱に捨てる? そんな感じの、魔術士が、人間界で暮らす上のマナーというか。自分でも妙なんだが。
以前ローシャとカミヤとの戦闘後、ロドリーといっしょに破壊された食堂前を直していたので、ファレイにもそんな意識はあると思うが……テンパってたしな。あとで伝えてやってもらうとするか。……と、考えた刹那――。
「創術者はレッサラー・ポート。執行者はメラミル・ツターク。復元への意思を示せ。—―リバル」
だれもそれを拾わないだろう、極めて静かで控えめな、しかし俺の耳だけにはよく通る声が鼓膜を揺らす。振り返るとファレイと同じ制服姿の女がしゃがみ込み、くだんのヒビに手を当ててオレンジ色の……人間には見えない光を放っていた。
「……はーっ。ほんっと。馬鹿じゃないのあの女。ま、ちょくちょくいるんだけどねー。ああいう、人間界で暮らす自意識に欠けてる魔術士。とくに気楽に、なーんにも考えずに旅行気分で行き来しているような強者には」
言い終えたころには、ヒビはほぼ消えていたが、その女……巽芽良ことメラミル・ツタークは、もう一度同じ術式を詠唱し、そうして完全にアスファルトを以前のように戻した。
「そういうのって、二度掛けも効くんだな……。強いのをかけないと駄目かと思ってた」
「……。きみ、いかに少ない魔力とはいえ、私より3000は上なのに、そんなことも知らないってどういうこと? まさか魔術士見習いなの……」
呆れたように立ち上がったメラミルは、長い栗色髪の、片方だけ結んでいる髪束を払い、細い両眼をさらに細め、奥をのぞき込むように俺を見やる。俺は若干目を泳がせたあと、「……まあ、そんな感じかな。師匠についたとこ」と答えた。
「へー……。ほんとうに【これから】なんだ。でも言っちゃあなんだけど、きみの歳……たぶん表に出てる魔力の流れ的に70~80? まあ私と変わんないと思うけど、それで一万くらいじゃ、もう伸びしろないと思うよ? 止めたほうが好いと思うなあ……」
そう言って、そばに停めてあった緑色の自転車……おしゃれな藤カゴのそれのスタンドを蹴ると、手押しで歩き出した。俺はそれをぼんやり見ていたが、10メートルほど離れたところでメラミルは止まり、またスタンドを立てて自転車を停めると、俺をにらみつけつつ、ずかずか戻ってきた。……な、なに?
「ふつう、手押しで行くの見たらいっしょに歩かない? 声かけなくてもさあ……。私の感覚がおかしいの、か~な~ぁ……」
と、まったく自分がおかしいとは思っていない表情で、俺にガンを飛ばしてきた。なので、「あー、いや……。怒ってんのかなあ~、って」と苦笑して、俺は歩道の端に停めた自分の、ではなくシンリの自転車を引っ張ってくる。メラミルはその様子を薄い目で見て、「そうね。たったいま、きみの反応でね。なんとなく、きみのことを知っていくたび、怒る量が増えてく気がするなあ……」と歩き出したので、今度は俺も自転車を手押しし、横に並ぶ。すると、彼女はぽつり口にした。
「……で? なんで私が怒ってると思ったの。……もしかしてきのうのこと?」
「まあ。俺があおったような感じで別れたからさ。……つーか自転車通学だったんだな。きのうは徒歩だったから、てっきり電車かと」
「あおったような【感じ】? あおってたでしょむっちゃくちゃ。……そりゃあ、あんなふうに言われたら怒るけど、どーせわざとだろうし、私も乗ったし、それで終わりよ。しょーもない怒りを持ち越してもろくなことないからね。……あと自転車通学はきょうから。これはきのう買った」
停めた自転車まで戻って来た彼女は、ちりんちりん、とベルを鳴らす。俺は眉をひそめた。きのう? えらく急だなあ。なんでまた……って。……ん? いや、ちょっと待て。ま、まさかそれ買ったのって……。
「なんでって? そりゃあムカついたからに決まってんでしょ。とりあえずきみのことを知っていこうと思ってね。電車通学から、きみと同じ自転車通学に切り替えるため、別れたその足でサイクルショップにGO。お値段なんと39800エ~ン! ……いや~なかなかだったよね。別に私、そーんな余裕ある生活してるわけじゃないから。人間界は人間界の世知辛さがあるしねぇ。ああイタイイタイ出費イタイ。……だれかのぉ~せい~でぇ~♪」
俺のこわばった表情から内心を読み取ったメラミルは、ふだんとはまた違う、実に透き通った声で歌いながら藤カゴのフタをぱかぱかする。中には、きのう見たキーホルダーやら人形やらがじゃらじゃらついた鞄が見えた。俺はその鞄とぱかぱかを見ながら、片手で自転車を押さえ、もういっぽうの手で頭を押さえつつ、尋ねる。
「……もしかして、俺がここを通るのを待ってたのか? 言っておくが、あんたと通学するつもりはないぞ」
「ま・さっ・か~。ってゆーかきみ。さっきみたいな察しの悪さで、よく私の【人間としての面】に突っ込みを入れられるよね。ふつうに考えて、あんまり好意をもたれてない相手に、いきなり自転車通学いっしょにしよ、なんて持ち掛けると思う? 自分が好かれてるからって自意識過剰すぎ。たまたまよ、たーまたま! きのうと同じで。……ま、正確には、少し離れたとこにいて、あの非常識女の馬鹿でかい魔力で寄ってきたんだけどね。きみがいるかも、って……」
半眼で、嫌そうな表情を見せたあとに、また手押しして歩き出す。俺がすぐに横へ倣うと、表情は少しやわらかくなった。その後、おおきな音を立てて車が通り過ぎ、風でふたりの前髪が上がって落ちた際に、彼女は淡々と続けた。
「きのうは流されたし、どーせまともに答えてはくれないんだろうけど、いちおう。……きみとあの女の関係ってなに? もちろん学校の隠れアイドル、風羽怜花とのことじゃなく、正体のリフィナーのほうとのね。まるで従者と主にしか見えなかったんだけど。まあ魔力的にそんなことありえないから、魔法界の身分や家柄の関係性からくるなにか、なのかな……」
俺は黙った。別にメラミルを信用していないとか、そういうことじゃないが……。現状、関わったリフィナーで、かつて俺が魔法界最強の魔術士、【魔神】セイラル・マーリィだったと知っているのはファレイとロドリー、ローシャにカミヤ、そして以前ローシャの私兵団【赤の小星群】に属し、失踪したセイラルの情報を探っていたペティくらいで、俺の現師匠であるルイ、その兄のリイトも知らない。ネッ友として俺と一年の付き合いがある【するめ】こと、ルイの妹弟子たるルティーシャもそう。顔なじみ程度でも加えるなら、バーガーショップの店長も。要するに、ほとんど俺の素性は知られていないということだ。
そんな中、彼女へ、仮にセイラルであることを伏せて、俺のリフィナー関係だけうまく伝えることには煩雑さを含め、メリットはもちろんのこと、情を深めるという面でも、現状では意味がない。強者を嫌うメラミルに、彼女視点では強者であるファレイやルイとの関係性を伝えて距離が縮まるわけもなく、かといって、逆に嫌われ遠ざけるために話す気もとくにない。彼女に恋愛感情はないし、これからもそれは持てないと思うが、ただつながりを持つことに嫌悪感も拒否感もないからな。ただ、こちらが伏せていても、しつこく迫ってきた場合、どうするかだが……。
「……はいけっこう。詮索とか嫌いだしもういいよ。そもそも私はきみに近づきたいとは思ってるけど、【強者と関わりのあるきみ】には、近づきたいとは思わないしね。まったく興味がないといったらうそになるけど……そういうことをいろいろ話してくれるようになるくらい、まずは【お友達】から頑張ることにするよ」
メラミルは目を閉じて、ちりん、と自転車のベルを短く鳴らす。俺がため息をつくと、「そんなふうに、あからさまにほっとするの、やめてくんない? ほんっと、察しの悪さとか訳の分からなさとか、なのにリアクションは丸わかりっていう単純さ……。純粋に性格性質だけでいったら好みと真逆なんだけどねー……。ま、好きって呪いみたいなものだから仕方ないけど、さ」と、俺よりおおきくため息をついあと、こちらの自転車を改めてまじまじ見て、目を見開いた。
「……っていうか、いまごろだけどー。それ、きのうと違うよね? もしかしてパンク? でもなんか、見たことあるような……」
「あー……。パンクはそうなんだけど、俺のじゃなくてシンリのがね。きのう、あんたと別れたあと、ばったり会ったら困っててさ。それで交換して、俺がこのシンリの自転車を引っ張って帰って、直して、またこうして乗ってきた、……と。見たことあるっていうのは、シンリのだからだろ。きのうも乗ってたし。まあ、メインは折り畳みのほうらしいから、学校に乗ってきた回数は少ないんだろうけどね」
ははっ、と笑いながら軽くハンドルを叩く。するとメラミルは思い切り眉をひそめて、俺とシンリの自転車の間で、視線を三往復ぐらいして、最後に俺を見据えると、言った。
「えー……、っと。下心?」
「ちがーーーーーーーうっ!! なーんでだれもかれもそういう方向になるっ!? ふつーに大変そうだったし、自分はパンクとか慣れてるからそうしただけだっつーのっ!!」
ばしばしカゴに入れた自分の帆布鞄を叩きまくる。メラミルは、うっそでしょなに言ってんの?(キモっ)……とはさすがに口にはしなかったがそれに近い表情で眉間のシワを消さないまま、髪束を払った。
「私がムカついてサイクルショップで自転車選んでるときにー、きみはシンリと仲良くお喋りしながらー、『パンクした自転車引っ張って帰るの、大変だろ? 俺が持って帰ってパンクも直しておくからさ、シンリは俺ので帰りなよ(※イケメンボイスで真似)』って口説いてたんだー……。へー。へー。……キモっ」
とうとう口に出し舌も出しあかんべーすらした。俺は必死に、「だーかーらーっ! そーゆんじゃないってそもそもアイツは部活の仲間で!!」とまくし立てても、「はいはーい分かりマシタイイデスネーブカツナカマのアツキユウジョウ。私も入れたらなー、ナー」と俺から視線を外し、棒読み丸出しで話したあと、細く白い腕時計を見て言った。
「……おっと。そろそろ急がないと遅刻するかも。あとの嫌味は乗りながら、ね。あーでも横並びで走ってると邪魔だし警察に見つかると面倒だからー、縦で。……どっちが前か、じゃんけんしよっか?」
メラミルはグーを作って手を前後に振る。さっきまでのトゲも抜け、もうにこにこふつうの人間……フレンドリーなそれになっていた。切り替え早っ! まあふだんがこうだと、人間界では俺よりよほどうまくやってるのは確かだろうな。
シンリは彼女と二年付き合っても、本心をなかなか見せてくれないって嘆いてたけど、それはシンリの観察眼、感受性が優れているからで、ほかの人は裏表なく見せてくれていると思っているような気がする。友達多いっていうのなら。
「おっ! い~ですねぇじゃんけん! 朝シャンならぬ朝じゃん! あ、もう朝シャンとか言わないか。あははは! まーそれはともかく、なんのじゃんけんかまったくさっぱり分かりませんけど、私も交ぜてもらえます? —―では、はいっ! はーい! いっきますよ~! じゃ~んけ~ん……!」
と、とつぜん知らない男が俺たちの隣に立って拳を振っていたのでぎょっとする。スーツ姿のその男は満面の笑みでノリノリで、あたかも元から三人でいたかのような振る舞いだったが、よく見ると、片手になにやらチラシの束みたいなものを持っていたので得心した。……ああ。なにかの宣伝か勧誘か。それにしたって初めて見る手だな。あーびっくりした……、って。—―ん……?
「……あ、すみませーん、けっこうですー。ほら、緑川君。行こっか?」
メラミルはにこにこ笑顔を崩さないまま、男に軽く頭を下げてそう言って、自転車を早足で押し始める。なので俺もすぐに倣い、隣に並ぶと、彼女は、「【アレ】はたぶんややこしい男。私が先に行くから続いて」と言うが早いか自転車にまたがりこぎ出した。……やっぱリフィナーだよな。ほんとうに、ふつうに人間界であちこち暮らしてるんだな……と考えたせいか、メラミルに数秒遅れた俺に、男は追いついてハンドルの真ん中を握って進むのを阻止した。その手から、黒い光を放ちながら。
「そんなに急がなくても~、間に合うでしょ? 本気を出せば。一万【程度】でも魔力があれば。……ね? 同郷のよしみでぇ~、お話を聞いてもらえません?」
自転車のハンドルを握りながら、にこにこと男はのたまう。塩顔、というヤツだろうか。その方向性での細身のイケメン。見た目は25、6歳くらい。そして改めて注視してみれば、いままで接したリフィナーと比べると、魔力の流れ的に、じっさいのそれは170~180歳ってとこか。なので敬語こそ使ってはいるが、俺を100歳くらい下の子供、そして魔力値もかなり下の未熟者……として接する雰囲気的がよく漏れていた。
「……いやあ。いちおう【まとも】に暮らしてますんで。そういうことはしませんね。だから間に合わなくなるので、行かせてもらえませんか?」
「あー……。そう言われるとキツいですねえ。人間界で魔力無双! とかしてたら馬鹿ですし。幼稚園で高校生がイキってるのと同じですもんねー」
そう言いながら、男はハンドルから手を離し、今度はチラシを渡してくる。やむなく受け取り、目を落とすと……『お祈りの会』という字がおおきく書かれ、その下に集いのある場所と日取りが載っていた。宗教か。にしては、何教とか書かれてないんだけど。
「おっ? なーんで宗教名がないか考えてますね? それはですね~、祈る対象はなんでもいいからなんですよ。既存の神様でも、大切な故人でも、いまも生きていらっしゃる人たち……身内や友達、有名人、ペット、動物どころか無機物、アニメや漫画のキャラクターでもなーんでもっ! そういう自由さ、だれかに誓いを立てたり寄りかかったり懺悔したり、祈る内容も問わないというところが、この集まりの人気がある理由なんですよ! つまり【信仰と告白そのものの価値】を讃える活動なんです。……素晴らしいでしょう!」
やや興奮気味にまくし立てる。俺は逆に冷めた面持ちでチラシに目を落としていた。日本には八百万の神々がいる、と言うけどさ。神どころか、なにをどう信仰しても自由って……節操なさすぎないか? つーかそれを隠れ蓑にしてなんか怪しい集会でもしてんじゃないの。そもそもこの男、リフィナーだったら精霊を感知してるか、していなくともその存在を神的な存在として認識してるはずだけど、こんなことしてていいのか……?
「何度もすみませーん。私たちぃ、そーゆーのには関心がまだ持てないのでぇ~。このチラシは頂きますんで、今回はお暇させていただきますね!」
戻ってきたメラミルが、にこにこ顔で俺の手からチラシを取ってくるくる丸め、自身の胸ポケットへ。そして俺の腕を一度引くので、「あ、まあそういうことで……」と俺も倣う。しかしすぐ、男は後ろから言った。
「いいんですか、そのままで。【弱いまま】で。これからもこれまで通り、数々の困難を、その弱さによって苦しみながら、なにに助けを求めることも、だれに寄りかかることもなく、ただひとり、弱さに呑まれて死が訪れるのを待つ。……そんな辛い生き方でいいんですか?」
その言葉に、俺より早くメラミルが足を止めた。細い両眼がおおきく見開かれ犬歯が見えている。そうして、俺たちの動きが完全に止まったのを見計らい、男は続けた。
「私、いや、私どもは、だれかれ構わず声をかけているわけではないんですよ。あなた方のような、自分では声をあげられない、内心救いを求めている【弱者】、弱き同郷の友にこそかけているんです。……恥ずかしい気持ちは分かります。けれどここで一歩、勇気を踏み出すことで、新たな道が生まれ、真に自分の生を生きることができるようになる。……そうは思いませんか?」
彼女は表層だけを笑顔に変えて、依然同じ表情のまま男に振り返った。
「思いませんねー。助けも求めてませんし。関心もない相手に【同郷】というだけで寄りかかる趣味もないですし。そもそも辛いかどうかは、【人】それぞれじゃないですか? たとえば私は、けっこー楽しく生きてきましたよ。お察しの通りの力しかないので、それを受け入れてね。……で、これは個人的な実感ですけど、お兄さんのように、……5万、くらいですか? そのくらいのほうが、苦しんできてるのを直に見てるんですよ。だって半端なプライドがむくむく育つラインじゃないですかー、その辺り。じっさい、そうだからお兄さんも、こーゆーものにすがって、きょうも自分を騙し続けてるんじゃないんですか? ……【自分の生から外れて】」
メラミルは笑顔のまま、胸ポケットに丸めて入れていたチラシを、びりびりに引き裂いて、すたすた男へ歩いていくと、それをすべて彼のスーツの胸ポケットに突っ込み、ぽんぽん、と叩いた。男は柔和な笑みを崩さずに、彼女を見下ろして言った。
「……あなたは。どうもやけっぱちになることで、自身の弱さから逃避して精神を保っているようですね。でも安心してください。そんな【人】でも、私たちの集いは救いを与えることができるのです」
「いーえ? 私は私が弱いことを知って認めているので、心もばっちり健康ですねー。……強者は大嫌いで、ストレスを感じないように、そこからは距離を取って生活してますし。だからお兄さんみたくー、いつか俺もそこに仲間入りできるんだあ、みたいな願望オーラ丸出しなのに、自分はそういう価値観では生きていないんだぞ? と取り繕うような、ねじれにねじれた自尊心の保護はしてないんですよ。だいたい人間界に来てこんなことしてる時点で、ねえ……。……あ、ちなみに私はお兄さんからは距離を取りませんよ? だってむっちゃ弱くてダッッサいから、ストレスなんて感じませんもーん」
もう一度、胸をぽんぽん、と叩いて笑みを強めたあと、男に背を向けこちらに歩いてくる。男の表情に変化はなく、変わらぬ笑みをたたえていたが……。抱えていたチラシの束に、わずかにシワが寄ったのが見え、さらに俺と目が合うと、男は目を極めて細くして、ねちっこい笑みを見せた。いわく、あなたも大変ですね、そんな子と付き合っていて……とでも言うような。
そんな自分のメッセージが伝わったと思ったのか、男は俺に会釈すると、背を向けて歩いて行った。
「……感じた通りのややこしい男だった。朝にいちばん出会いたくないタイプ。そして彼氏には絶対したくないヤツ。でもそんなのに限って、彼女がいたりするんだよねえ……。世の中は広いわ」
げんなりした表情で舌を出すメラミルに、俺はぼそりと言った。
「いちおう警戒しておいたほうがいいんじゃないか? なにをしてくるかはともかくとして、ふうつにあおりすぎだぞ、あんた」
「きみがそれ言う? そのあおりで39800円の自転車を即日で買わせたきみが。……ま、伊達に【弱者】として75年生き抜いてないよ。ちゃんと相手を見てあおってるから。仮になにかしてきても、たぶん対処できる範囲のことしかしてこない。……もし私の見立てが外れたら、きみが守ってよ。自分を好きだって言う女子になにかあったら、目覚めが悪いでしょ?」
ちりんちりんちりん、と三回鳴らして目をいっそう細くして笑い俺を見る。俺がため息をつくと、「あ、それと『あんた』って、もうやめてくれるー? なーんか聞いてて腹が立つようになってきた。メラミルか巽で以後はね。どうしてもっていうならお前でもいいよ。男ってほんっと女をお前呼びするの好きだよね~謎。初対面でもばんばん言ってくるもん」と、藤カゴをぱかぱかやる。俺はかぶりを振った。
「メラミルはふたりのとき、それ以外では巽、で好かったんだよな。……あと自分を好きとか関係なく、知ってる相手が危ない目に遭いそうだったら、ふつう助けようとするだろ。目覚めと言うならだれでも悪い。だから俺ももちろん警戒して守るけど、あん……、メラミルも警戒してって……あいたっ!」
メラミルは急に肩パンチしたあと、自転車にまたがり、「朝に出会いたくないタイプその5っ! もうちょっと、嘘でもなんでも少しはさあ、脈があるように見せかけたら~? 喜ばせる気ゼロって……。……はーなんでこんな察しもサービスも悪い男を好きになったんだろ……。生きるって謎ばかりだわ」と言ってこぎ出したので、慌てて俺も追った。
「……ま、確かに下心はなかったのかもね。だれでも親切とか、ぜんぜん嬉しくないけど。自分の好きな男がさ。……あー、ほんっと、めんどくさい恋ダナー。久しぶりなのに――」
ぽつり、そう漏らしたメラミルは、その後は絶妙なスピードコントロールで俺とはつかず離れず、会話が難しいくらいの距離を保ち、けっきょくそのまま、ひとことも話せず学校についてしまった。




