第96話 私は、あなたを間違うことなどありませんでした
――[うん。きょうのも好いな。なんか、手に入らないものをじーっと見てるような顔がさ。ぐっとくるよ]――
――[このロバシカ!! 手に入らない? 自分はそんなつもりで描いてないんだよ! いつもいつも、お前は、知ったふうなことを!]
――[だからなんなんだよ、その罵倒は。もうお前の地雷が俺には分かんねーよ。毎回毎回、いい加減、ほめてるってことくらい分かれよな。そもそも、絵をどういうふうに受け取ろうが俺の勝手だろ? こう考えて描いたんだろ? って言ったならともかく。俺にはそう感じたんだから仕方ねーじゃん]
――[はっ。ならお前には、手に入らないものがあるってことか。それで、じーっと見てるのがぐっとくるって? なんとも情けない話だよ。そして聞いてるだけで腹が立つ。こっちこそ毎回毎回、なんなんだと言いたいね。お前は自分をむしゃくしゃさせる天才だ]――
――[意味が分からん。腹立てるわりには毎回返事してくるし。もう感想書かないほうがいいか? って聞いたら書けという。とりあえずなにか書きたくなるほどには、お前の絵が好きだってことは理解しろよ。んじゃ、また]――
――[なにが好きだ。【ほんとうに好きだったら言葉なんか出ない】んだよ。見てろ。いつかお前がなにも言えなくなるような絵を描いてやるからな。絶対に。待ってろよ!!]
◇
◇
「……。そんなに気になるんなら、会わせてやろうか? どうも会ったことはないようだしな」
「……。……—―えっ?」
叫んだあとに硬直したまま、あるときの【するめ】との、コメント欄のやり取りを思い出していた俺に、ルイが声をかけてきた。彼女は腰に手を当てて、訝しげにこちらの表情を見ている。無理もない。とつぜんすっとんきょうな声を上げて、しばらく呆然としてたわけだから。
「い……や。別に、気になるとか、……確かに会ったことはないんだけど、だから会いたいとかそういうわけでは。ただ、びっくりしたっていうか……」
「いまのは、単に私とつながりがあった、というだけの、驚きの声とは思えん。気にもなっていない相手に、そんな表情になるわけがないだろう。もしかして、ルティーシャとは知らなかったが、するめという偽名の相手としてそれなりに交流があったのか? ネット上で。一方的に観ていたわけじゃなく」
「……あ、ああ。まあ……」
歯切れの悪い言葉を返す。どこまで話したものか……。いまの話しぶりだと、人間はネット上のみでも交流することがある、という理解はあるようだけど。まあ部屋にアニメや漫画のあれこれがあったどころか、自分でもフィギュアを創ってるくらいだから、この人にもそうした趣味からのネット付き合いがあるのかもしれないが……。でもこの人、人間的な常識がビミョーな感じで、そもそも感性が独特だからなあいたあったたたあたっ!!
「顔をじっと見て、こんな至近距離で、私についてあれこれ考えてたら即伝わるということをいまだ理解していない 馬 鹿 なのかお前は? ……だれの常識がビミョーで感性が独特だっ!! 私ほど人間界に溶け込んでいる女もそうそうないぞっ!? それこそルティーシャなんかひとりでファミレスにも入れないんだからなっ!! ほんとうに、アイツが人間界に来たいと言って、私がどれほど世話をしてやったことか……!」
あの恩知らずめ! 自分の頼みのとき以外には連絡も寄こさずに! 等々俺の頬をつねりながら罵倒が続く。痛い! 痛い、が……! なんかそこを聞く限りだと、どうもするめは想像通りの生活を送ってたんだな……。むちゃくちゃ気は強いし、絵から信念は感じられるんだけど、どうもその土台というか足元がフラフラな感じで、言葉の端々から、まるで生活力が感じられなかったからなあ。浮世離れした芸術家というような。そしてそんな芸術家よろしく、周りに迷惑をかけていた、ってことか……。
「……ちっ。しかし……そうか。考えようによっては、これは【いい機会】か。アイツを引っ張り出す。それに、いまのお前にとっても【具合がいい】――」
俺から手を離したあと、ルイはそう漏らして涙目の俺を見やる。それから、嫌な予感がして後ずさりする俺に再び寄って、今度は腕をつかみ、ニヤリと笑って言った。
「お前。面倒くさい女【も】好きか?」
「……。も、とは……?」
「お前の好みは髪の長い、グラマラスで年上の、素直で包容力のある女。とどのつまり、【面倒くさくない、私のような女】が好みなんだろう? だからそれはともかくとして、お前の守備範囲の広さを問うているんだよ。……どうだ。【面倒女】もいける口か?」
「……は。あは。あははははは……」
すぐに引きつった笑いが喉の奥から出る。向こうは図星を突かれて笑うほかないのだな、みたいな盛大な勘違いをしていて助かっている、が……。髪の長さや年齢やスタイル以外はどこから感じ取ったんだよ俺の女性のタイプをネットの閲覧履歴からっ! 自己認識に自信フィルターかかり過ぎじゃなあ~い!? ある意味むちゃくちゃ素直なのかもしれないけどな!
……まあ、このスーパーポジティブな、世界屈指の面倒くさい女は置いておいて。いまの言いぐさだと、嫌な予感、どころか嫌な未来図しか見えねーっ! だいたいこの人が笑いながら話しかけてくる時点でろくなことがないんだよっ! ……ってこれは伝わったのか腕を握る力がいててえっててててええ!!!!
「お前がネット上で交流していた【するめ】がどういう【人間】かは知らん。しかし、私の妹弟子である【ルティーシャ】という【リフィナー】は、ガキのころから齢50になるいまに至るまで【現実的な恋愛】にまるで関心を示さず、絵ばかり描き続けている。別にそれが心から望んだことなら文句はない。だがアイツの場合は、ただ【あること】に囚われているだけだから、健全とはとうてい言えないし、そこから抜け出さずして、この先リフィナーとして満足な生を送れると私は思わない。だから好い方向に向かわせることができるなら、姉弟子としては、それに越したことはないと思っている。……そこでお前の出番というわけだ」
「……なにが【そこで】、なのかまったく分からないんだけど」
「だから、アイツと人間として、絵を通してそれなりに付き合いがあったんだろう? いかに生身のふれあいがないとはいえ、アイツが人間と関わりを持つなんてよほどのことがない限り、ない。リフィナーですら極力付き合いを断っているのだから。要するに、お前は確実に気に入られている。アイツは私が呼びつけてもなかなか出てこないが、お前がいると言えば来る可能性が高い、ということだ」
「つまり、するめ……、じゃない、ルティーシャ……さんを呼び出したいってこと? 俺をダシにして」
「第一段階はな。次に生身の男との現実的な付き合いを経験してもらう。だからいける口かと聞いたんだよ」
ルイは俺から手を離す。そして「ちょっとそのままでいろ」と言いながらすぐに俺の机の引き出しを開けて、中に入った。マジでさっき見たまま、異次元空間の入り口になってるじゃねえか……じゃなく! なに……なんて? あの人いまなんて俺に……。なんかすごいこと言わなかった? 現実? 経験? ……生身の男? ……—―それって俺か?
するめ、もといルティーシャの年齢は50歳。肩書は魔術士でルイの妹弟子。現在は人間界でほぼ人間として暮らしていて、ほとんどリフィナーとの接触も断ち、人間とも極力付き合わず、いままで【現実的な恋愛】(これがよく分からんが)の形跡もなく、ずっとひとりで絵ばかり描いている。そんな生活の中、ネットのイラスト投稿サイトで【するめ】として絵を投稿し続け、俺と出会い、いつしかため口で言葉を投げ合う仲となる。
そして約ひと月前に俺が【セイラル】として目覚めたことでネットから離れて、戻ってきたら絵はすべて消えていて、いまどうしているか不明――。と、いう感じだが……。ルイは俺とするめの関係性の中身より、【結果として関係を持っている】ことで、アイツが俺に好意があると断言している。それほどに付き合いの継続が難しいヤツだと。……だがしかし、それはヤバいんじゃないのか?
だって見たことないんだぞ? なんか男女交際させたがっているように聞こえたが、どれだけアイツが変わっているといったって、ふつう、見たこともない相手と付き合うか? そもそも【するめ】の性格からして、そうした話以前に、俺がとつぜん消えたことについてブチ切れるだろうし。
なんにせよ、俺にとって頭の痛くなる展開しか浮かばない。妹弟子想いなのはけっこうだが、俺はあなたの弟子なんだけど、弟子想いにはならないんですか……。『いまのお前にとっても【具合がいい】――』とか言ってたのが気になるけど……。
そんなことを考えて頭を押さえていると、引き出しからルイが戻ってきた。二回目だからか、かなりスマートに飛び出して、音もなく畳に降り立つと同時に髪を払い表情を見せたが、なんかものすごく疲れているようだった。
「っとにあのガキだけは……。おい晴。お前、いったいなにをやらかしたんだ? アイツ、むちゃくちゃ怒ってたぞ。なんで私が罵倒されなきゃならないんだ……」
「……えーっと。その……。彼女と話したの……か?」
「電話でな。お前がさっきのサイトでアイツと付き合いがあったこと、リフィナーであり、私の弟子だということを伝えて、会いたくないか? と聞いたら『なんにも知らない【人間】だと思ったら……! リフィナーなのにセイラルなんて名乗ってたのか!? ……――な、な、なんって厚かましい男だっ……!!』と。……お前、ネットでセイラルと名乗ってたのか? あのサイトをよく見ていなかったから気づかなかったが」
「…………。そ、の……。それはあれだよ、とくに意味はなく……。あの、あれじゃないから! 【あの】セイラルとは関係ないからな!?」
ぎこちなく、しかし必死にまくし立てる。とくに意味なく名乗ったのはほんとうのことだ。まさか自分の本名だなんて分かるわけがないんだから。……つーか、なんでそれで怒るんだ? まさかメラミルがセイラルを天上人として捉えて怯えてたみたいな感じで、あの【魔神】の名を名乗るなんて!! ……ってことだろうか。
「……。とくに意味もなくその名をつける、しかもリフィナーが、というのは腑に落ちんが……。かの【魔神】にあやかって、我が子にその名をつける親はいまもたくさんいるし、自分で改名して名乗る者すらいるが、【なんとなくつけてそうなる】っていうのはあんまりないからな。別に格好良くもないし、ありふれてもない名だから。まあお前は過去の記憶がなくて、ずっと人間として生活していたわけだから、人間界の経験や感性からの命名と考えれば納得はできる」
息をはく。セイラルって名前、リフィナー的には格好良くないの? 俺は格好いいと思ってつけたのに……。あとありふれてもないのかよ。人間界の名前だとどんな感じだろうか。……未里斗、みたいな?
「しかし不味いことになったな。せっかくの計画がこれでは進まん。電話にはもう出ないだろうし、家には結界まで張ってるし。それを無理に破るのはさすがにな。さて……どうしたものか」
ルイはため息をついて、首をさする。珍しく困った表情になっていた。計画という言葉には引っかかるし、そもそもその中身は俺にとってほとんどいいことはない。だが彼女がいま見せている表情には、姉弟子としての想いがにじんていることは伝わってくる。やり方はともかく、たぶんほんとうに彼女への思いやりが動機にあるのだろう。
そうであるなら、弟子として、多少の協力はしてあげたいという気持ちと、いまの言葉――。ルイの口を通してとはいえ、久しぶりに聞いた【するめ】の罵倒に、俺は、突如絵とともに消え去ったアイツへのもやもやが吹き飛ぶような気がして、いま、どうしてもアイツと話をしてみたくなった。
「……ルイ。ラインとか文字のやり取りはできないのか? その……ルティーシャさんと。できるならそれで話をしたいんだが」
「できるが、返事がくるかは分からんぞ。アイツは機嫌を悪くしたら二年でも三年でも関わりを断つからな」
「……いや。たぶん大丈夫だよ。文字でのやり取りなら。【するめ】の怒らせ方ならよく知ってるから、それを無視はできないと思う。……俺の知るアイツなら」
まっすぐルイを見つめて言う。彼女はじっと俺の目を見返してから、一度唇をなめて、「……よく分からんヤツだな。ほんとうにお前だけは――」と言って、ジーンズのポケットからスマホを取り出し、少しいじってから俺に投げる。ルティーシャとのライン画面がすでに出てきた。最後のやり取りは、いついつにアニメショップに付き合ってほしいというルティーシャに対して、その日は仕事だ、とすげなく返したルイの言葉で終わっていた。日付はふた月前。もしかして、きょう連絡を取ったのも久しぶりなんじゃないの?
俺はため息をついて、言葉を入れてゆく。
[するめ。セイラルだ。久しぶりだな。ちょっと話したいことがあって、ルイからスマホを借りている。通話はしなくていいから、これに返してくれないか?]
返事はない。たぶんこのメッセージだけではいつまで待っても来ないことは分かっていたので、すぐに続けて打つ。
[俺のことはかんたんにルイから聞いたと思うけど、いまはそれに触れない。人間とかリフィナーとかよりも、ネット上で知り合った【するめ】に【セイラル】として聞きたいことがある。お前、なんで絵を消してるんだよ。あんだけ偉そうに絵について語っててさ。どんな理由があるにせよ、お前のパソコンに絵が残ってるとしても、サイトで観ていた人間たちの気持ちを考えろよ。つーか俺のな。消すならアカウントごと消せ。やることが半端なんだよ。だからこうしてぐたぐた言われる羽目になるんだ。いま絵はひとつもないが、このアカウントだけ残して絵を消した跡地をお前の作品として感想を言えば、『ダサっ』。そのひとことしかない。お前はそれでも表現者か? 絵描きなら絵描きとしての格好くらいつけてみせろよ。俺に、世界に、いつも熱く投げてたみたいにな]
送信する。さいしょはもう少し考えて書くつもりが、ただ感情の赴くままに書きなぐってしまった。これはどう考えても……。返事は確実にくるだろうが、なにを言い返されるか不安になってきた。しね! くらいならいいが、もっと心をえぐるなにかをフルスイングで放ってくる気がす……。
[とつぜん消えたなすぼけが偉そうに講釈垂れてるんじゃないよロバシカ!! いつもいつも知ったふうな口をききやがってなに様だと思ってたらリフィナーのくせにセイラルと名乗ってたビックバンロバが!!!! 【リフィナーがその名で自分について知ったふうな口をきくんじゃない】ペンポートペンペンの最下級!! 自分が絵を消したのはお前が厚かましく名乗っていた名前の本人、セイラル【さん】が復活したからだよ!!! 事情も知らずにぐたぐとお前こそ恥を知れ!!!!]
「……。……—―は……?」
久しぶりに読んだ、訳の分からない罵倒に苦笑したのもつかの間、すぐに俺の意識は最後の文に持っていかれる。そしてよほど変な表情をしていたのか、ルイが身を寄せてのぞきこんできて甘い香りが鼻をくすぐる。
「……セイラル・マーリィが復活した? コイツはなにを言ってるんだ。いまだ消息不明のままだろうが。……いよいよ妄想が極まったか」
ルイは舌打ちしてため息をつく。俺はその言葉と吐息で我に返り、スマホを持つ手をうごかせないまま、目だけをルイに向けて尋ねた。
「いよいよっていうのは……? 妄想ってなんのことだ」
「コイツはな、セイラル・マーリィにご執心なんだよ。ガキのころに命を助けられたらしく、以来、ずっと心を奪われて生きている。決して報われない不相応の恋が、いつしか叶うと信じてな。魔術士になったのもセイラルに近づくためだというし、絵を描き始めたのも、そもそもが、そのときセイラルに絵をほめられたからだと。しかも直接会って言葉を交わしたのは、その助られたときの一度きりと。こんな恋に理解を示す身内がどこにいる。……【魔神】の気まぐれもたいがいにしてほしいものだよ」
思わず目を見開いた。そして思考をめぐらすよりも早く、右手のスマホには、新たな文字が打ち込まれていた。
[言葉もないか! あるわけがない! 今回【だけ】はお前が悪いんだからな!! ルイ師姉がお前と会わせたがってるのは、きっといつものろくでもない理由に決まっているが、さっきのクソロバシカ文で気が変わった!! 今回は乗ってやるからお前、そこを動くなよ!!]
「……。よく分からんが、自分からだれかに会おうとするなんてもうないかもしれんから、迎えに行く。座って待っていろ。おそらく少し時間がかかる」
ルイは硬直する俺の肩を軽く叩き、三度机の引き出しへと消えた。それでようやく思考の歯車がかみ合い始め、同時に脱力し、俺はよろよろと椅子の背もたれに手をつき、腰かけるとスマホを机にこぼすように置いた。…………助けた、だと……—―? 過去のセイラルが、するめ……ルティーシャを。いま50歳と言ってたが、ガキのころというのはいくつだ。少なくとも、俺が人間界で緑川晴として生きた17年よりも前のことだろうが。……命の恩人への恋情? それがルイの言ってた、『【現実的な恋愛】にまるで関心を示さず』とか、『【あること】に囚われている』ということか……。
【魔神】と呼ばれ畏怖されるくらいだから、人間界でいうスーパースターに権力がくっついた感じの存在なんだろう。かつてのセイラルは。ルイが【決して報われない不相応の恋】と断言していたことからもそれが窺える。極端に言えば天皇陛下に一般庶民が恋したようなものだろう。……その成就を夢見てだれとも恋せず、近づくために魔術士となり、ほめられた絵の腕をさらにと磨き続けている。いつかまた再会できることを信じて。……これはルイが無理にでもそこから引き離そうとするのも仕方ない。単なる偶像の追っかけならまだしも、そうじゃなく本気、ということだから。
それに、するめのいう【復活】というのが、もしセイラルの魔力が晴の誕生日に戻ったことを感じ取って存在を認知したのだとしたら――。居場所までは分からないにしても、どこかでの生存をはっきり感じ取ったのだとしたら。それはローシャと同等の【強烈な関心による察知力】ということになり、ルイの言う妄想などではない。現実的に、正常に、鋭敏に、セイラルのことを認識している。と、するならば――。
そこまで思い至り、俺は顔が引きつった。もしかして、会ったら不味い……んじゃないのか? 魔力で晴がセイラルとバレるんじゃ……。いま、仮にするめがそれで騒いで真実を告げ、それをルイが聞いても「なにを馬鹿なことを」と一蹴するだろうが、のちにどうなるかは分からないし。これを放っておいていいのか? そもそもルイや兄のリイトに事情を伏せているのは、ふたりの師匠をかつてのセイラルが三回もボコボコにしたから言わないほうがいい、というロドリーの助言からではあるが……。じゃあなんでするめはその師匠に弟子入りしたんだよ。入ったときは知らなかったのだろうか。……ああくそ面倒くさいなもう! とりあえず、まだ時間はあるようだから、いちおうファレイに電話で確認しておくか――。
俺はおおきく息をはいたあと、机のスマホを取り、ファレイに発信する。するといつも通り秒で出た。いま夜中の11時まわってるんだけどな。スマホを肌身離さず持ってるのかよ……。
《――はい。如何なされましたか?》
極めて落ち着いた、しかし感情に満ちあふれた返事が聞こえてくる。来いと言えば即従うような。俺はわずかに考えたあと、しずかに聞いた。
「ちょっと確認したいことがあってさ。仮にいまの晴に、かつてのセイラルの知り合いが、そうとは知らずに会うとして。それがもし、当時のセイラルに対して、強い関心を持っている者なら、……同一人物として認識するのか?」
《……!? つっ……つつつつつ 強 い 関 心 ! ! ? ? だ、だっ、……—―だだだだだだれかが会い会い会い会い会いにクルクル来るのででですかっ!!??》
なんでそんなにセイラルに関することにはカンが良いんだよお前はっ!! ここで言葉を間違うと面倒くさいことが二倍どころか十倍くらいになるわっ!! ……えーっとえっと……そうだこれだ!!
「落ち着けっ! あくまで仮の話だ! ……ちょっといま、思い出したことがあってな。前にローシャが襲ってきたときに、アイツは感じた魔力でセイラルを同一人物と認めていたが、気持ちでは認めたくないようで、最終的にはカミヤの術式での判定をもって、理性で【認めざるをえなくなった】。そんなふうに、俺に対して強い関心があったアイツでも、あまりの俺の変わりように、認識が阻害されたわけだが……。それと同じようなことが、今後、ほかの相手でも起こる可能性が高いのか、……お前の考えを聞きたい」
《それはリフィナーによると思います。そして、私見を述べさせていただくならば、晴をセイラルと、目前で魔力を感じてもなお、術式に頼らねば認め難いというのは、その強い関心とやらも、あなたの魂にではなく……—―ただ皮相にのみ向けられたものであると存じます》
すぐに強く、確かな声が響いてきた。そして言葉にはしなかったが、これらのあとに、確かに――【私は、あなたを間違うことなどありませんでした】――と。俺の心には響いてきた。あの日、【再会】したときの、ファレイの――……涙目で俺を見つめる姿とともに。
「……そうか。よく分かったよ。それとありがとうな。……ほんとうに」
《……えっ? い、いえっ! と、とんでもございませんっ! お、お役に立てたのなら、嬉しく思います……》
少しの間、沈黙が流れた。しかしそれは、気まずいものでなく、温かで、そしてどこか懐かしい、いつかファレイと過ごしただろう時を思い起こさせるもので、さっきまで高ぶっていた俺の心は落ち着いた。
「……遅くに悪かったな。用事はそれだけだから、切るよ。またあした、学校で」
《――っ! ……は、はいっ! ま、【またあした!】 お会いできることを楽しみにしておりますっ! ……そ、それでは失礼いたし……》
「—―っと。……あー疲れた。おい晴、『風切り』はもう残ってないか? 前に飲ませてもらった宗治氏のジュースだ。オレンジの。あれでも飲まないとやってられんぞ。んっとにあのガキだけは……」
机の引き出しが開いて、ルイが飛び出すと同時にそうまくし立て、もはや慣れた身のこなしで畳に降り立った。彼女は、すぐそばで椅子に座り、思い切り顔を引きつらせてスマホを耳に当てる俺――とっさに通話口を押さえた――を見やると、訝しげに続けた。
「なんだお前……。だれと話してるんだ? とくに重要でない話なら切っておけよ。もうすぐアイツが来るぞ」
「……や。あの……、これ……」
《……セイラル様。ちょっとお尋ねしてもよろしいでしょうか》
瞬間、スマホから耳に、敬意は払いつつも向けられたことのないような冷淡な声が響いてきた。なので俺は通話口から手を離し、ぎこちない笑みを浮かべながら、猫背で返す。
「な、なにっ? ちょっといま、不測の事態が起きたところで……」
《それはルイ・ハガーがセイラル様のお部屋に 侵 入 してきたことでしょうか? さらには馴れ馴れしくも大切なご家族たる宗治氏のお飲み物を、それも23時をまわろうかという非常識な時刻に、残りはないかと再度要求する、そんな厚かましさ極まる愚行――もとい 犯 罪 行 為 に対してでしょうか? ……—―ともあれ、どうか即刻、私にその ゴ ミ カ ス の排除命令を――》
いつの間にか冷淡を通り越して殺意まんまんな怒声が耳を突き刺してきた。それに対して、へっ、へへっ……と疲れ切った声しか出ず、ファレイはその反応に、《――直ちに向かいます》とだけ言い切った。……夜中の11時過ぎにジュースを要求することより、うちに来ることのほうがアレだとおもうんだけどなあ……じいちゃんまだ起きてるしっ!!! どーすんのどこから来るのまさか玄関からピンポーン! なんてことはしないよないくらなんでも!? じゃあ窓からか!? 天井からか!? うおおおおおおなんでいつもかつもこんな流れになるんじゃーーーーーーーーーーーいだれのせいでっ!! う……、【運】がなさすぎる……っ!!!!
頭を抱えていると、「……ファレイ・ヴィースか。また面倒くさい女に嗅ぎつけられたな。お前、アイツの主というなら、もう少し人間の常識を仕込んでおけよ。変な思い込みで私に怒り狂って部屋を吹っ飛ばしても知らんからな」と声がしたので顔を上げると、俺のスマホをつまんで半眼になるルイの姿が目に入る。運!!! 運が悪かったと思うようにしてるが!!!! 三分の一くらいはあなたのせいだからなぁーーーーーーーーーその辺分かっとんかこの女ぁ!!!!
「お前!! いま私のことを【この女】と吐き捨て……——ちっ!! 要らんときだけ行動が早い……のがふたりか!! ……——あとで覚えておけよ!!」
ルイが苦々しく俺に舌打ちし、それから俺のスマホを机に置くと開いた引き出しに手を突っ込んだ。すると中から、半眼で唇をかんだ、肩ほどの髪の毛がぼっさぼさの――服もだるっだるの灰色トレーナー一枚切りの女が引きずり出され、畳に捨てられるように落とされる。女はそんなルイの扱いに対してはなにも言わず、すぐ――椅子に座り唖然とする俺と目が合い――……足をつかんで引きずり落としてきた。
「った!! なっ……な、なにすんだよあんた……、いきな……!!」
「……お前がセイラルーーと不届きに名乗っていたロバシカかぁ!! なんっっっって凡庸な面だ……それでよくセイラルさんの名前を……—―こぉのペンポートペンペンの最下級がぁっ!!!!」
水色の光を放ち、俺の足首をつかんで喚き散らすぼさぼさ頭のいい加減な部屋着の女は、この世の悪がすべて俺に集約していると断じて退治せんとする正義の使者よろしく、眠そうな目を全開にしてにらみつけ――その表情で、聞くまでもなく俺は、コイツがただひとりのネッ友――【するめ】だと察した。強烈に。完全に、画の印象のまま……俺を罵倒していたあの様子のまま。性別はともかく、ここまでイメージにブレのないヤツがいるか? というくらに……。は、はは……っ。
「なにがおかしいっ!! お前っ!! 自分がわざわざこうして出向いた意味が分かってるんだろうなあ……!! 魔力は一万くらいか……ほんっとうにふざけやがって【偽セイラル】っ!! 雑魚だろうともう知らんからな!! —―ぼっこぼこにしてや……」
「……だれがだれを? クラス3B程度の未熟者が。お前、自分がいまなにをしているか理解してる? ……—―その貧相な四肢肢体が消滅するくらいで許されると思うなあっ!!!!」
とてつもない怒声と形相で、いつの間にか現れた銀光のファレイがするめを俺から引きはがし、その足首をつかんで逆さ吊りにしていた。……窓が開いている、ということはあそこから入ってきたのか。瞬間移動並みの来訪はさておいて、いちおう、高校の異性の同級生が夜中に訪問することがどういうことかは理解していたんだな……、とあまりの事態からの逃避の心理か、極めて冷静に思いつつ、それから眼前で吊り上げられたするめが、トレーナーが完全にめくれ上下の下着全出しになっていたため目をそらし、そのときにルイと目が合うと、彼女は【伝達魔術】で淡々と【言った】。
《こうなると踏んで、ファレイ・ヴィースの着信を確認した時点で、この部屋に結界を張ってある。宗治氏にはこの阿呆どもの怒声は届いていないから安心しろ》
《……それはどうも。心から、ほんとうに。……じゃあ、俺は主のすべきことをするわ――》
と、逃避からの冷静さが切れる前に、俺は部屋が赤い光で包まれていることを確認しつつすぐ立ち上がり、逆さまのまま、おそらく恐怖で気を失っている、だらんとしたするめを見やったあと、お前のほうが【魔神】じゃないのかと言いたくなる従者の頭をぱちん、と叩いた。
「……おろせ阿呆。これは命令だ。」
「……? ……—―あっ……!! あ、あ、ああああああああああすすすすっすすすみまっ!!!!」
三白眼が収まって、だんだんと目にいつもの光が戻ってきたファレイが、大口を開けてそう叫び、同時にどさっ! とするめを畳に落とした。……泡を噴いて白目をむいている。い……生きてるんだろうな。魔力は感じるけど……。
《心配要らん。びびって気絶しているだけだ。コイツは基本、どうしようもないほどに臆病者だからな。まあ、足首の骨は折れているが大したことはない》
《あ、そう……》
俺の師匠かつするめの師姉の言葉に、それは好かったな……と心で漏らす。さいきんは、俺も手とか脚とかぼんぼこ飛んでるから、骨折くらいだと大したことないとすら思うようになってしまった。そして、あれほど怒り狂っていたのに、死ぬほど理性を働かせて抑え込んでいたってことかな、こっちも……。詳しい話を聞き出すために生かしておいただけかもしれないけど。
俺は苦笑して、土下座しまくる従者を見やる。よく見ると、こっちも頭はぼさぼさ、シャツはえりぐりの広いTシャツに、洗いざらしのデニスカのミニといった超部屋着で、脚も裸足。いつも俺の前に出てくるときはむちゃくちゃ身なりに気をつけるのに、よほどの事態として駆けつけたんだな……とおかしくなり、かすかに笑みをこぼす。
「……っ!? しぇっ、しぇいら……、――い、いへっ、しぇい、しゃまっ……?」
「なんでもない。そもそも、俺の格好だって【たいがい】だからな」
と、ルイに投げつけられて着た、自分のてきとうなシャツとズボンを引っ張るとまた笑い、いよいよファレイは不可解な表情をする。そんな彼女の身を起こして座らせて、涙を拭き、それから気絶したするめに回復術式をかけるルイに、「ジュースを取ってくるから襖だけ結界を解いてくれ」と頼んだ。じいちゃんのとっておきを、二本は持ってこないとなと苦笑して。
たぶん、今夜はすんなりお開きとはいかないだろうから、……と。




