第95話 消えた絵描きの正体は
「……おう。お帰り。寄り道にしちゃあ遅かったが、パンクでもしたか?」
「ああ。俺がじゃないけどな。……ただいま」
帰宅し、手洗いうがいのあとすぐキッチンへ顔を出すと、じいちゃんがコーヒーを飲みながらテレビを観ていた。テーブルには俺の分に、食卓カバーがかけられている。俺は冷蔵庫から麦茶のビン、水屋からはグラスを取って一気飲みしたのち、それらをテーブルに置きつつ、じいちゃんの正面に腰を下ろしカバーを取った。……鮭か。久しぶりだなあ。
「いただきます。部活の同級生のチャリがパンクして困ってたからさ。俺のと交換して引っ張って帰ってきた。飯のあとに直す」
「ほーっ。そりゃ偉い。わしの教育のたまものじゃな。……で、その相手は女の子か?」
「……そうだけど。別に女子だからいい恰好したわけじゃないからな」
俺は半眼で、切り分けた鮭を口に入れる。ほんっと、すーぐそういう話題に持っていくからな。やれデートに誘えとか彼女作れとか。果たしていまも、テレビの音をちいさくしてこっちへ顔を向けてきたし。
「お前は相変わらずじゃなあ……。そういうときは、格好をつけるもんだろうが。まあきっかけはできたから、そこからいろいろ広げて行くんだな。もうすぐ夏休みだし、金が要るなら手伝い増やしてやるぞ。ちょうど横さんちに本を引き取りに行く予定もあるから、人手があるに越したことはないんでな。なんならその娘をバイトに誘ってもいい」
「あのなあ……。だれがンな下心丸出しみたいな誘い方するんだよ。『パンク直しておいたよ。ところでさあ、俺のじいちゃんが古書店してて、近々仕入れの手伝いに人手が欲しくてバイト探してるんだ。俺もやるんだけどいっしょにどう?』……ってか? 冗談じゃない。期末の勉強もあるし、向こうだってそんなヒマじゃないよ」
「どうせ予定を聞いてもないくせに、よく言うわ。男ならがーんと行かんかい、がーんと。ちなみにすーぐ言い訳かますから言っておくが、いまその娘を好きとか気になるとか、そういうのはなくてもいいんだよ。部活仲間で、代わりに自転車を引っ張って帰ってやろうと思うくらいには【ダチ】なんじゃろう? ならふたりで出かけて、いろんな表情を見る機会を増やせと言っている。その先に好きとか気になるとかが出てくるもんなんだよ」
と、まくし立てたあとチャンネルを変える。じいちゃんが嫌いなタレントが出てきてひとこと発した瞬間に。俺と話しながらよく聞いてんなあ……というのはさておき。なんだかんだ言葉を並べても、けっきょくは【彼女作れ】なんだよな言いたいことの根幹は。あーやだやだ。せっかくのうまい鮭が台無しだっつーの。
「……つーかさあ。なんでじいちゃんは、そんなに彼女作れって言うの。勉強しろとかはぜんぜん言わないくせに。それに関しては、人としてとか男としてとか、そういうのを説く次くらいに言ってるよな、昔から。……なんで?」
「そりゃお前が、まったくそんな話をしないからだろうが。同じクラスのなんとかちゃんが好いなあ、とか、ちびのころから聞いたことがない。だれかに気のあるそぶりもない。親としちゃ心配するのがふつうだろ? ……まあエロ雑誌もエロDVDも持ってるところをみると、女に興味はあるんだろうが。どーせネットの履歴もそんなのばっかじゃろ」
「—―なに人の私物を勝手に漁ってるんだおらあっ!! 信じらんねえ鍵かけるぞきょうかける!! 俺のプライバシーをなんだと思ってるんだクソ親父っ!!」
「なんだ、ほんとうに持ってたのか。いまどき珍しいヤツじゃなあ。ワシらの時代はネットなんぞなかったから、小僧の時分はそういうのもダチと貸し借りしてたもんじゃが。この携帯やらパソコンやらの時代にそんなヤツは……と思えば自分の息子がとは。ますます情けない。その金をデート代にでもまわさんかい」
「 う る せ ー カマかけくそじじいがっ!!!! もー終わりっ!! 終わり終わりご馳走様でしたっ!! ……—―あとこれがお使いのネジでーっす!!」
ぶち切れつつあっという間に飯・味噌汁・鮭に小松菜のおひたしを口に放り込むと、ポケットから百均で買ったネジを取り出し、叩きつけるようにテーブルへ置く。それにもじいちゃんは涼しい表情で、「おー、これこれ、こんな感じ。これで好いものができるぞ」と、そのネジ入りの小袋を俺に振った。俺はしかめ面のまま、口をもごもごすべてを飲み込み立ち上がり、食器を流しに置いて、「あとで洗う! パンク直してくる!」とガキのように叫んでキッチンを出ようとした。……が、「……あ、ちょっと待て」と呼び止められた。
「いまの話で思い出したんじゃが、そういやお前、ネットでなんかしてたよな。なんだ……、セイラル? とかいう名前で」
瞬間—―さっきまでの熱が吹き飛び呼吸が止まる。だがすぐに、じいちゃんの言う『セイラル』というのが、俺がネット活動に使っていたハンドルネームのことだと気づいて息が戻った。
17歳の誕生日にファレイに呼び出され、俺が【セイラル】だと告げられたあの瞬間から、その名に因果の鎖を見て嫌気がさし、ネット活動をやめてしまっていたのだが……。それまでは、ふつうにじいちゃんにも話してたのだ。格好いい名前だろ? とか自慢げに。いま考えると顔が引きつるほかない。
「あ、ああ……。まあ……。さいきんはご無沙汰だけど。前に言ったことあったろ? イラスト投稿サイトに出入りしてたって。俺は見る専だとか、アニメとか漫画が好きだから、そういう絵の感想書いたりしてた、とか……」
振り返り、なんとか平静を保ちつつ返す。いま、明らかに俺の態度が変わったことはじいちゃんも察したろうが、そういうときじいちゃんは突っ込まずにスルーすることが多い。俺が隠そうとするほどに。触れるのはその後、それが原因で俺に異変が出てきたときのみ。……こういうところが、勝てないって思うところなんだよなあ。
「……ほーん。さいきんはやってない、か。いやな、横さんが趣味についてのSNSを始めたいんだと。ワシはそっちはからっきしじゃから、お前が横さんに教えてやってくれんかって話だよ。バイトのあと、皆で飯食うときにでも。横さんもワシと同じでネット音痴でな。なーんも分からんらしい」
「……別にいいけど。横さんには俺も昔からお世話になってるし、この間も誕生日祝ってもらったし……—―って、ん……? ちょっと待て。その言い方だと俺のバイトが確定してる感じじゃねーか! 『好かったらやるか?』みたいな聞き方しといてっ!!」
思いっきり指差して突っ込んだ。だがじいちゃんは、「お前なあ……。いい歳こいて、ほいほい無心するのも心苦しかろうと仕事を用意してやる親心が分からんか? 外でバイトするより手っ取り早くて期間も短い、こんなうまい話があることに感謝せい。高2の夏休みに金欠じゃ悲惨だぞ?」と、コーヒー請けのクラッカーをひとかじり。な に が 親 心 だっ! 軽トラに大量の本を積み込んだりおろしたり、店の倉庫に運んだりするのが大変なだけだろーがっ! ほかのバイト雇うより俺のがツーカーで圧倒的に早いしな! ……子供のときからいろいろ教えてもらって、やってるし。
あと飯って、宴会っていうか酒盛りだろ。横さんちで皆呼んでさ。どうもそっちがメインのような気もしてきたぞこの不良老人だけは。はーあ。
「……つーかそれはともかく。SNSっていうならさあ、横さんといっしょにじいちゃんも始めたらいいんじゃないの。店のヤツ。俺が教える……っていうか、めんどいなら俺が代わりにやってもいいし。いまはどこもやってるじゃんか、個人店でも。じいちゃんならたぶん、そこに写真でも載っければ、いま以上に女性客が増えるんじゃないの」
60代半ばにして女子高生のファンまでいるんだからな。見た目がイケメンなだけじゃなく、中身もそうだから。ちびっこからお年寄りに対してまでわけへだてなく、自然体のふるまいで。俺が知る限り、じいちゃんに接して声と表情がやわらかくならない女性はいない。ネットでもさぞかし人気が出ることだろう。……まあ坂木のおばちゃんに対してだけは、身内感覚というか、ちょっとだけ感じが違うせいか、その【魔法】が通用しないんだけども。
「お前、わしと店をなんだと思ってるんだ? 商店街の寄り合いでもネット戦略についてはいろいろ話し合っとるがな。わしは単にネット音痴なだけじゃなく、自分なりに男として、店主としての矜持があるからやってないんだよ。……ま、お前が店に来る女性客が増えたほうがいい、それで出会いに前向きになるっていうなら、親としてその矜持を曲げてやってもいいが」
「 す み ま せ ん で し た 俗物根性丸出しな提案をしてっ!!!!! どうかお父様の誇りを大事になさって下さいあと俺の男としての価値を地の底までぶん投げるのは ヤ メ テ !!!!!」
「ははっ! おーうおう。じゃあ大事にさせてもらうか。お前はお前の矜持があるじゃろうから、……それを守るために頑張れよ」
そう言ってじいちゃんはカップを手に取り、テレビの音量を戻した。いっぽう俺は柱にしがみつき、自分の、俗を極めた発言がもたらした恥の熱さと痛みで顔をゆがめたあと、おおきくため息をつき……パンク修理のためのろのろと玄関へ向かった。
◇
その後――。
パンクは、分かりやすい穴がひとつだけだったのですぐに直した。洗い物も手早く済ませ、部屋で制服を脱ぎパンツ一枚のまま風呂へ直行。さっさと体を洗った。だがそのあと、ゆっくり湯につかったことで、またさっきの、自分の愚かさを思い出して顔が熱くなった。
セイラルは、緑川晴としての人生も合わせると300歳近いらしいのだが疑いたくなる。ほんとうに、そこまでの積み重ねがあるのかと。いかに記憶がないとはいえ、人間としてはガキとはいえ……いまだじいちゃんと差がありすぎるから。
そりゃあ俺にも俺なりの矜持はあるし、じいちゃんにだってみっともないところも少しはある。坂木のおばちゃんには頭が上がらないし、たまに酔っぱらって廊下で寝落ちもする。あとこれは一度だけだが、俺の腕をつかんだまま寝たこともある。……泣いたところは見たことがない。
もし男としての理想像を挙げろと言われたら、俺にとってはじいちゃんだと即答する。かつての俺はどう生きてきたのか思い出せないが、そんな理想像はあったのだろうか。そしていまは……いまこうして生き直していることは、その男としての理想の生き方に沿っているのだろうか。じいちゃんの息子になっていなければ、こんなことも考えなかっただろう。……この縁もぐうぜんなのか。
◇
――私が調べた限りでは、宗治氏は、こちらの世界にある乳児院から、赤ん坊になったあなたを、ほかの例にたがわず、人間の子として、正式な手続きを経て引き取られました――
――……まだその詳しい事情や、施設へ預けられた経緯、それを行っただろう、あなたが御身を託された魔術士が誰なのかは、突きとめておりませんが……—―
◇
ファレイと【再会】した17歳の誕生日。俺がじいちゃんに引き取られた経緯について、ファレイは自分の知る、伝えられる限りのことを話してくれた。たぶんいまも調査は続けてくれていると思うが、報告がないということは、依然はっきりしないのだろう。かつてのセイラルが、赤ん坊になった自分の身を託した魔術士がいる、ということ以外は。
【そいつ】がじいちゃんを選んだのか、赤ん坊になる前のセイラルが選んだのか。もしくはただ乳児院へ預けただけで、その後、ぐうぜんじいちゃんが引き取ることになったのか。分からない。だが、もし【そいつ】かセイラルが選んだのであれば、単にじいちゃんが親としての優れた資質を備えていた、という見立てだけじゃない、なんらかの合理的な理由があったはずだ。
かつてのセイラルには目的があり、それを果たすために人間界へやってきて、人間として生き直しているのだから、ただ無事に育てばいいという話でなく、目的達成に適うなにかをじいちゃんが有していたと考えるほうが自然だ。……少なくとも、いまの緑川晴ならばそう考える。
じいちゃんはただの人間だ。魔力がないことは確認している。人としてものすごく優秀ではあるが、リフィナ―ではないし、魔術も使えないのだ。なのに【そいつ】、またはセイラルが、じいちゃんのなにを認めてセイラルの生命を託したのか。そもそも【そいつ】は何者なんだ。ほんとうに魔術士か? セイラルとの関係は? ファレイは、【魔神】がその身を託すくらいだから、ただ者ではないと推測しているようだが……。
「……にせよ、感謝……だな」
俺はひとりごち、湯をすくって顔にかける。【そいつ】の正体や経緯、過去のセイラルの根本的な考えや動機はまだ分からないものの、【緑川晴】としての人生を得たいまとなっては、そのすべてに感謝するほかない。ぐうぜんでも必然でも……恵まれた縁には違いないのだから。
そんなことを長々考えていたら、すっかりのぼせてしまった。もう夜も遅く、風呂から上がればすぐにでも日課である、魔術士としての訓練をすべきだが……。その前に、今夜は久しぶりに、どうしてもパソコンを起動させたくなった。
あの日。自分がセイラルである事実を突きつけられた当初はショックで、【ハンドルネーム・セイラル】の存在から離れていたけれど、いまは事実を受け入れて日も経った。あまりに以前と世界の見え方、環境が変わった上に、忙しくしていたからすっかり忘れていたが、じいちゃんの言葉で大事なことを思い出したのだ。俺は『セイラル』というハンドルネームで、ただなんとなくネットを見ていただけじゃなく、……交流もしていたのだと。
前にファレイ――風羽との親しい関係をクラスメイトたちにごまかすために、ネットの友達だとでっち上げたことがあるのも、じっさいにひとり、絵描きの【ネッ友】がいたからだ。
互いに顔も見せず声でやり取りもせず、メールすらしたこともなく、向こうの年齢も性別も、学生なのか働いているのか、どういう立場なのかも知らない。俺も聞かれてないので話してない。だからあくまで絵描きと閲覧者としての側面だけで、かつ、そのイラストサイトでのみ、そいつが投稿した絵に感想を俺がつけるという、ただそれだけの付き合いだが、それでも一年くらい、二、三日に一度の投稿のたびに言葉を交わすくらいのつながりはあった。
俺は漫画やアニメは好きなので、SNSや投稿サイトもいろいろ見ていたが、感想を書いたりは、そいつ以外にしたことはない。なんとなく好きな作風だったので、ある日二行ほど感想を書き残したらお礼を言われたのをきっかけに、ぽつぽつと書き続け、向こうも同じように返してきたのだ。
そいつは基本、絵を投稿するだけでなにも書き添えることもなく、感想もスタンプ(※感想の代わりとなる絵)ばかりだったこともあり、メール等は知らないが、少なくとも俺が見始めたときからは、だれかとコメント欄で言葉のやり取りをしている様子はなかった。
そんな中、コメント欄に、具体的な感想を書いていたのが俺しかいなかったのと、あるとき「ちょっときょうは絵の雰囲気が違いますね」と書いたとき、無茶苦茶反論されて、売り言葉に買い言葉で俺も言い返したのをきっかけに、ため口で会話するようになり……、以後ネッ友と言えるくらいには言葉を交わすようになったのだ。
ちなみに、先の言葉は決して悪い意味ではなく、むしろ心配してそう言ったのだが、なにが気に障ったのか「うるさいなすぼけ!」(※ぼけなすの間違いではない。ヤツはそう言う。というか言語感覚全般、微妙にズレている)とぶち切れられたのだった。あとその一件以後、ヤツの絵にスタンプを押す人間が大幅に減ったが別に俺のせいではない……とは思いたい。
ともあれ、俺が消えていた期間はひと月ほど。それを【長い】と思うか、【たった】と思うかは人によるだろうけど、アイツの性格からしたら怒っている可能性は高い。あれからどれだけ投稿してるんだろうなあ。……気が重い。
俺は風呂から上がるとてきとうに体を拭き、そのほてった身を冷ますためパンツ一枚のまま、キッチンへ行き冷蔵庫からコーラを取り出して、さっさと部屋に戻り机に座る。そして、本棚の前に置かれたノートパソコンのほこりを払い、久しぶりに開いて起動させた。
これは中学に入学した際、渋るじいちゃんにねだって買ってもらったもので、まだ現役だ。ちなみにじいちゃんが渋ったのは高いからじゃなく、ネットやコンピューターに興味がないから。モノづくりの達人で、かつラジオやテレビにオーディオ類、そして自転車バイク車など機械も好きなのに、そっち系はぜんぜんというアナログ派。いっぽう俺はそうでもなく、ネットもスマホもコンピューターも好きなほうだが理解力が低く、当時せっかく高いものを買ってもらったのに、まったく使いこなせていないでいる。ほとんどネットを見てまわっているだけ。ただ、そのおかげて得たものもあり、それが先のネッ友――【するめ】との出会いだった。
俺は起動後にすぐ、かのイラストサイトにアクセスする。そして【するめ】のアカウントへ移動し、増えただろう新作を観ようと、恐る恐る、投稿作一覧をのぞいたのだが……。
「……。……えっ?」
思わず声が出て、眉をひそめる。……絵が一枚もなかったからだ。
アカウント自体はある。プロフィールの説明も変わっていない。なのに100枚以上あった絵がすべて消え去っている。……飽きたのか? と一瞬思ったがそんなわけがない。絵に対しては一途で、あるときには「描いた絵はもうひとりの自分」とまで言っていたのだから。
炎上して削除した可能性は、するめの性格ならなくはないが、少なくともコメントでやり取りしていたのは俺しかいなかったし、スタンプ自体も減っていたのだからそっちの線も薄い。とつぜん消えた俺に腹が立ったから、というのも、先に言った絵に対する姿勢から考えにくいし、そもそも俺への当てつけでやるレベルの消し方じゃない。と、いうことは私生活でなにかあったのかもしれない。病気とか、家族の問題とか、学校か職場でなにかあったとか……それへのショックで。アカウント自体は、ぎりぎり残すけれど、というような。
これまで言葉を交わしたのは絵と趣味のことだけで、私生活のことはいっさい触れてこなかったから分からない。いま思えば、巧妙に隠していたと思う。映画に行ったと話すだけでも、いろいろ私的な部分は見えてくるものなのに、なにも出てこなかったのだから。俺のほうは隠していたわけじゃないが、そういうするめの言葉の選別に対して返していると、自分のほうも出てこないのだ。感情的に見えて、かなり理性的に俺と付き合っていたのだろうか……。
絵が消えているので、とうぜん、そこにあった俺とのやり取りもすべてない。思い返せば、ざっくばらんに打ち解けていたようでいて、なにもほんとうのところに触れていなかったのかな、と思うと寂しくむなしい気持ちになった。
たとえ私生活のことは知らなくても、伊草や橋花たちに感じるような友情も、俺のほうには芽生えていて、気持ちだけはアイツらと同じように伝えていたし、伝わってきた気でいたのにな……と。もし大変な目にあっているのなら、なんとかしてやりたいのだが……。これが自分の意思での消去なら、俺がなにかするのはするめの望むことじゃないのだろう。そうでないなら、絵の一枚でも残してそこにメッセージを書くはずだ。
そう思い至ると、がくんと全身の力が抜けて俺は姿勢を崩す。コーラをひと口飲んだあと、そのだらけた姿勢でぼんやり、しばらくするめのアカウントの跡地を見ていた。だが、急に机の引き出しががたがた揺れ始めて我に返る。……なんだ? 地震? ……じゃないよな、揺れてるの引き出しだけだし。え……、ちょっと待て。なに? ……おい、なんか……開き始めたんだけど!
「……ぷはっ!!」
「—―うおっ!!!!」
突如、一気に引き出しが開き中からだれかが出てきた。俺は眼球が飛び出すほどに目を見開いて、目前の異様な光景を注視したが……、長い黒髪に切れ長の目、そして見事な体のラインが目立つ半袖黒シャツに黒ズボンをまとった――どこかでよく見たような人間――じゃない、リフィナーの姿があった。……—―ルイじゃねーかっ!!
「……ん? なんだお前。そんな恰好で。まさか私が来ることを想定して裸でいたのか……?」
眉をひそめて、引き出しから出てきたルイが自身の体を抱きながら畳に降り立った。どーやって自分の机の引き出しからだれかが出てくることを想定するんだよふっざっけんな未来から来たアレか!!!!!! と心の中で叫んでいたが現実には口がぱくぱく動いていただけだった。あまりにありえなさ過ぎて。……こ、こ、……この人だけは……!!! いや、人じゃないんだけどなクソがぁーーーーーーっ!!!
「あ、あ、……なに? なんで? ここ、俺の部屋だよな? いつの間にか異空間……とかに引き込まれたんじゃなくて」
やっとの思いで言葉を発し、その反射的に出たことで逆に考える。……もしかしてこれ、魔術で転移されたんじゃないのかと。風呂から上がって、部屋の襖を開けた瞬間に、実はルイの用意した異空間に移動してたとか。なら、このおかしな現象にも納得がいくが……。
「異空間を創造したのはこの引き出しの中のみで、ここは正真正銘、お前の部屋だから安心しろ。要は私の家とお前の部屋を異空間を介してつなげたんだよ。私のほうも机の引き出しだから、それに合わせたんだ。まだ実験段階だが、ほとんど心身に影響もないし……うまく行きそうだな」
ルイはそう言いながら、自分の体を動かしつつぺたぺた触る。……えーっと……。つまり? 俺とあなたの家に、次元を超えた、直通の面白トンネルをこしらえたってことでいいのかな……? うん……。うん……、……—―なにしてんの?
「あの……。なんでそんなことを? 必要ある? ないよな? 絶対」
「ある。第一に、私の魔術研究のために。第二に、敵の襲来等、私になにかあったときの逃げ道として。そして第三に、お前が修行をサボったりしたときに捕まえるためと、お前をうちへ呼ぶときのために便利だからな。これでもう、泊まりの際にいちいち車で迎えにいかなくて済む」
「 あ な た の 都 合 し か な い ! ! ! ! 俺のっ!! 俺のプライバシーは!? いまみたく半裸でいるときとか、ほかにもいろいろ不味いときがあるでしょーーーーーーーーーーーーがどーせあなたとつぜんやってくるに決まってるし!!!! 中止!!!! その研究はいますぐ中止して!!!!」
おもくそ叫んだがすぐにじいちゃんのことを思い出し、ダッシュで一階へ。案の定、眉をひそめたじいちゃんが部屋から出てちょうど階段へ向かっていて、そこで駆けおりたパンツ一丁の俺が、「なんでもなーーーーーーい!! なんでもなーーーーーーいのダンスっ!!」と踊り出したら即拳骨をくらった上に「次やったらバイト代を減らすからな」と尻をつねられた。く、くそがあ~っ!! なんで俺がこんな目にっ!!
そうして怒りと涙をたたえて部屋へ戻ると、我が自己中師匠様は勝手に俺の椅子に座り、勝手に俺の飲みかけのコーラをあおりつつ、俺の開きっぱなしにしているパソコンを、勝手にカチャカチャマウスを動かして、過去の閲覧履歴をぉーーーーーーーーーーーーーーーーーやることがっ!! 人の部屋に来てすぐやることがっ!! あなたそれでも人かぁーーーーーーーーーーーって人じゃないんだよ二重の意味でクソがぁ!!!!!
「……お前。人間の立場としての年上で、かつ頭がよさげで髪の長い、グラマラスな女ばかり好きなんだな。どうりで私の弟子にすんなりなったと思ったが……。私をその気にさせたいのなら、もっと男を磨いてもらわないと困る。そして服を着ろ。……お前はとつぜん妙なパワーを発揮するからな。この履歴を見たあとだといっそうに、身の危険を感じるんだよ」
と、俺の顔にシャツとズボンを投げてきた。勝手にタンスを開けて取ったのだろうが……。いつ、だれが、すんなり弟子になったのぉ? とか、そのあふれんばかりの女としての自信はどこからくるのぉ? とか、いつ、俺があなたに気があるそぶりをしたのぉおおおん? とか……。危うく変顔で嫌味たっぷりに叫ぶところだったが死ぬ気でこらえた。バイト代のために!! あの感じだとマジに日給1000円くらいでやらされるんだよ!!!!
そうして歯ぎしりしながらズボンをはき、シャツに袖を通してすぐ机へ歩いてノートパソコンを閉じ、ルイからコーラを奪い一気飲みする。ルイは「お前、私の飲みか……」とかなんとか言っていたが逆、逆だから! あーうめえ風呂上がりのコーラは最高だな三分の一しか残ってなかったけど!!
「……ぷはあっー……。……と・に・か・く。話は分かったからもう帰ってくれないか? 【これ】をどうするかは後日、きっちり話をするけどな。きょうは遅いし、俺もやることあるし。それこそ修行の時間だよ。……師匠なら邪魔する道理はないだろう?」
「そうだな。ここに来たのは実験と、それをお前に伝えるためだったが……。せっかくだから直接私が見てやる。分身体は、あれはあれでけっこう疲れるんだよ。……ということで、とつぜんの押しかけ訪問のわびと言ってはなんだが、今夜は、片手と片足切断くらいに加減してやろう」
と、俺の手をつかみ押し入れの前へ。そして「ほら。早くアレを出せ」と、異空間を発生させるかのサイコロ魔具を要求する。さ、サイアクじゃー! 分身体でもまだ手も足も出ないのに、文字通り半殺しにされるでねーかっ!!
「……なにをぐだぐたと。さっさと用意を……、って、ああ。そうだ。女の履歴に気を取られて言い忘れてたが、さいしょのページ。お前、ルティーシャと知り合いなのか? そうならそうと早く言え。アイツはほんとうにすぐ隠すからな……。知ってたらやることもあったのに」
と、急にぶつぶつ言い始めたので、俺は訝しげにルイを見る。すると彼女も同じような表情になったので尋ねた。
「いや……。知り合いって? ルティー……、シャ?」
「……ん? さっきのパソコンの。さいしょにお前が開いていたページの、あのアカウントの持ち主のことだが。するめ、とかいう変な名前をつけて活動してるんだ、アイツは」
俺は固まった。その様子を見てまたルイが訝る。そうして俺の手を離し、自身の首を触るとため息をついた。
「なんだ、ほんとうにただ絵を見ていただけか。アイツのことを知らずに。いつからか知らんが、だとしたら因果なものだな。……アイツは私の妹弟子だぞ」
「……。はっ?」
俺はいよいよ眉をひそめて口を開ける。い、妹……弟子? ……って? ま、まさか……—―。
「だから、同じ師匠のもとで学んだ後輩ということだよ。ルティーシャ・ルニア。魔術士だが、いまは人間界に拠点を移し、ほとんど人間として暮らしている。というかまさかとはなんだ、まさかとは。私と関わりがあることに文句でもあるのか?」
俺の心を、かの【伝達魔術】で読み取ったルイが不機嫌に告げた。だがそれを聞いた俺は、その不機嫌さを尻目に、ただしばらく彼女の言葉を脳内で反芻し、ようやくその意味を理解できたとき、
「……。……—―はあっ!?」
……と、ぎりぎりじいちゃんが部屋へ乗り込んでこないぐらいのおおきさで、叫んだ。