第94話 ……見せたら止まることねーぞ
メラミルと別れて公園を出て――。
時はいよいよ赤黒く街を染め、それにかぶせるよう街灯がともってゆく。そんな道々を進み、通り過ぎる車のヘッドライトをまぶしく感じ始めたころ、俺はじいちゃんに頼まれたことを思い出して愛車を止めた。……ネジだ。確か石墨に百均あったよな、商店街の中に。……そこで買うか。
俺は愛車をUターンさせて石墨へ戻る。それから飲み屋の立ち並ぶ狭い路地を抜けて商店街に入り、騒がしい人込みをぬって駐輪場へ。百均の前は駐輪禁止なので、少し離れていて面倒だがここへ停めるしかないのだ。一時間以内なら無料だし、さっと買ってくるとしよう。
そうして駐輪場を出ると小走りで、またも人込みをぬって百均に到着する。二階建ての店内はそれほど広くないが品ぞろえはいい。一階フロアにはまばらに人がおり、中には俺と同じように菜ノ高生もちらほら見える。……全員女子だけど。
なんかどの店に行っても、男子がいないときはあっても、女子はたいていいるんだよなあ。どうも買い物という行為が男よりも日常的のような気がする。単に男よりも物入りだからなのかもしれないが。この辺の考えは、もし横岸なんかに聞かれた日には、「決めつけんなっ!」って怒られそうだな。……さて。ネジは二階か。
狭い階段をのぼり、二階フロアへ行き、俺はきょろきょろしながら工具類のコーナーへ向かう。するとその近くの自転車関連コーナーに、菜ノ高の制服を着た、見覚えのある金髪ポニーテールの女子が腕組みをし、口をとがらせて商品を見つめていた。……シンリじゃんか。なんでこんなところにいるんだ。さっき見た女子たちみたく、一階のコスメコーナーとか、スマホ関連コーナーならともかく。……って、ああ……。
「もしかして、パンクか?」
「……? ……なんだ晴かよ。『よう』とか言えよな。……そーだよパンク! よりにもよって、いつもの折り畳みじゃないヤツのときに、最悪だよ。押して帰るしかない。……部室に行くんじゃなかった。ちびに悪運移された……」
はーあ、とため息をついてうなだれる。それから顔を上げると、しゃあねえなあ、と言わんばかりに、陳列されたパンク修理キットのひとつへ手を伸ばし、足もとに置いたカゴへ入れた。そして、「……もう一個買っとくか。ちびに一割増しで売りつけよう。ワタシのカンじゃ、たぶんアイツも近々パンクする」とふたつ目を落とす。俺は苦笑しながら言った。
「じゃあ、そこの駐輪場にパンクした自転車停めてるのか。……家、遠いのか?」
「そりゃあ、歩いて帰るにはな。でも父親は会社、母親もいま出れねーし、仕方ないよ。駐輪場に置きっぱなしにはできないしさ」
と、今度は肩にかけていた茶色のスクールバッグから、ピンクの長財布を出して見せる。……料金ね。
それにもし取りに行くのが遅れたら、放置したと誤解されて、撤去されるかもしれないしなあ。……うーん。
「……好かったら、俺の愛車に乗って帰るか? そしたら、そっちのは俺が預かるけど」
「……はっ? んなことしたら、あんたはどーやって帰るんだよ。あんたの家だって別に近くはねえだろ」
「まあ、それなりに。でも大丈夫だよ。俺も学校近くでパンクして、押して帰ったことも何回かある。……パンクも家に修理のがたくさんあるから、こっちで直しておくし。それはそれで買っておいたほうがいいと思うけど」
俺はシンリのカゴを指差す。チャリの修理くらいは、昔から「これくらいはできるようになっとけ」って、じいちゃんに教わりつつやってたしなあ。おかげで不器用なりに、パンク以外にもブレーキやペダル交換もできるから、自転車屋の世話になったことはない。
「いや、いや、いや! おかしいだろ! 要は押して帰るってことだろ? ワタシの代わりに! 家の人に迎えに来てもらうとかじゃなく! ……なんでそこまでしてくれんだよ! も、も、もしかしてなにかとんでもないことを、ワタシに頼もうとしてんじゃないだろうな……」
急に眼を見開いて、財布を両手持ちしたまま後ずさりする。俺は苦笑したあと、おおきくかぶりを振った。
「そうじゃなくて、別にたいした……。まあ、しいて言うならこの間、楠田先輩の星ガチャの件で世話になっただろ? それを思い出したこともある。レモンティーをひっくり返した借りもあるし」
俺はシンリの持つ長財布のチャック部分からぶら下がる、地球のキーホルダーを指し示す。それは俺が先のガチャの際、シンリに求められてダブりをあげたものだったが……。まさか財布につけていたとは。そこそこおおきいのに、使いづらくないのか?
「釣・り・合・わ・ねー! 100円のジュースと、ちょっとしたアドバイスくらいで、ついこの間部活仲間になったヤツのために何キロも自転車押して帰ってパンク修理までするとかありえねーっつーの! ……ほら、ほら、しょーじきに言えっ! 【なに】を協力して欲しいんだ? 別にンなことしなくても、できる限りのことなら、それこそ同じ部活のよしみで聞いてやるからっ!」
な? ……な? ……と、まるで悩みを隠している生徒を諭す教師よろしく俺の肩を叩いてくる。これはシンリにとって、どんだけ釣り合ってない申し出なんだよ。つーかなにを頼まれるのかとびびってるわりに【聞いてやる】とか。できる限りとか言ってるけど、けっこうなことまで聞きそうなんだよなあ。
たぶん彼女は、頼まれごとのおおきさ云々よりも、【自分がよく分からないこと】に対して警戒してるように感じる。前のガチャのとき、俺がとつぜん飛び跳ねたりしてたら、予想以上にびっくりしたり、わけの分からんことするな! って怒ってたし。そりゃあ未知のものはだれでも警戒するけど、その度合いがおおきいというか、……案外怖がりなのか?
あと、昔もだれかに似たような反応されたことがあるような。……いつだったか思い出せないが。
「……別に悩みも隠しごとも頼みもないっつーの。単にそっちが思ってるほどたいへんなことじゃないんだよ、俺にとっちゃ。ひと駅ふた駅自転車押して帰るくらい。そもそもじいちゃん……、うちの教育方針じゃ、身近な人間が困ってるなら、むしろそれくらいしろ、って叱られるわ。……それにきょうは【ついてない】んだろ? それは引きずらないほうがいいとも思う。俺の申し出が運気を変える可能性もあるし、そしたらシンリだけじゃなく、周りの人間の運もよくなると思うぜ。だからそうしたほうが【得】なんだ。……『周りの人間そのいち』の俺にもな」
俺はシンリの足もとにあるカゴを拾い、差し出す。シンリはなにやら呆然とした面持ちで突っ立っており、少しの間があったが、やがて、「……っとに、わけ分かんねえ。もっと分かりやすくしろよ、いろいろと」と、よく分からないことをぶつぶつ言いつつも受け取った。それで俺は、「……とりあえず、ちょっと待っててくれるか。俺も買うものがあるんだよ」と伝えたあと、小走りで工具類のコーナーへと移動した。
◇
その後。シンリは店を出てもうだうだ、駐輪場へ来てもうだうだ言い続けていたが、俺がシンリの、パンクしたという黒いシティサイクルのカゴに自分の帆布鞄を放り込んだときに、ようやく、はあああ~、とでかいため息をつくことで、無理やり自分を納得させたのか諦めたのか、自分のスクールバッグを俺の愛車のカゴへしずかに入れた。
「わぁーったよ、世話になるよっ! ……ただし、これは私の【借り】だかんな。あんたの中では釣り合ってても、私の中じゃ、ぜんぜんバランス取れねーから。……それに昼のこともあるのにさ」
「……昼? …………あー……」
俺は苦笑した。昼休みのアレ……メラミルね。さっきの、メラミルとしてのインパクトが強すぎて、【シンリに紹介された巽さん】のことをすっかり忘れてたわ。どうせアイツが無理やり仲立ちを頼んだに決まってるし。マジできょう、シンリはついてないんだな……。
「こんな状況になるなんて想像してなかったからさ。ちょうどいい、……って言うのも厚かましいんだけど、いまその話もしていいか? 歩きながら。……やっぱラインよりも直に話したほうがいい気がする」
「ああ。俺は国道に戻るルートなんだけど。桜山に向かってずーっと。シンリはどっち方面なの」
「ワタシも途中までは国道沿いの桜山方面だよ。桜西図書館で曲がるけど。たぶん国道に出るまでに、話、終わるから」
シンリはそう言って俺の愛車を押し始める。俺もそれに倣いシンリの自転車を押してあとを歩き、俺たちは商店街の人込みを前後に並んで進んだ。そのあと狭い路地を抜けて、ようやく風が気持ちよく感じるほどの道に出たとき、シンリが速度を落とし、俺の横に並ぶと……そのまま話し始めた。
「……芽良とはさ、一年のときから同じクラスなんだよ。なんつーか、ワタシ的には捉えどころのないヤツで。明るくて話題も豊富で、いつもにこにこしてるから友達も多いけど、そのわりにぜんぜん根っこを見せねーような、最後のラインには皆を近づけさせないような、そんなタイプ。だから自分の恋バナとかぜってーしなかったし。人のはだれのでも聞いてるんだけど」
半眼で息をはく。……まあ、そうだろうな。そしてアイツは自分よりもはるか年下、かつ【人間】の恋バナなどに一ミリも興味ないだろうし。単に人間界で生きるための処世術として輪に入りやすい態度で接し、どれも聞き流してるんだろう。その辺は要領よくやるといっても、たぶんペティとは少し違う。アイツはアイツの基準で人間との間に線を引いてはいるんだろうけど、楽しむときはふつうに楽しんでる感じがするしな。
「だからあんたのことを好きだって……その、体育祭でひと目惚れしたって聞いたときはびっくりして。ワタシは恋バナとか苦手でさ。相談にも乗れないから、いつもならだれでも、そっち系の協力とかしねーんだけど、つい……。芽良の素顔を初めて見られた気がして、友達としては嬉しかったんだよ。……あんたには申し訳ないと思ったんだけど」
「……なんで。ただ紹介するだけだろ」
「あんたとはまだ、それほど付き合いがあるわけじゃないけど……、芽良がタイプじゃないことは分かるんだよ。つーか苦手だろうなと。まだちびのほうが合うっていうかさ。……あんた、自分を取り繕ってるヤツに抵抗あるだろ」
「まあ……。好きなほうではない、か。でもそんなふうに見えるのか?」
「見える。隠しごととか言えないことがあるのはともかく、気持ちをごてごて塗り隠してるヤツは【ルール違反】だって。そんな表情してる。平たく言えば、ワタシが日頃面倒みてるちびたちと同じだよ。擦れた大人の態度……【気持ちの厚着】が嫌そうだってこと。少なくとも、親しくなろうとする相手がそうなのは。……それはあんた自身が【薄着】だからじゃないかってさ」
そう言って、ちらりと俺を見やりつつ、長めの踏切を渡っていく。俺は腑に落ちないまま、ワンテンポ遅れてついてゆき、渡り終えたときにまた、横に並んだ。
「そんな自覚はないんだけど……。ただ、表情に出てると言われることは多いかな。【薄着】っていうのがそういう意味なら、まあ……」
水ちゃんとか坂木のおばちゃんとか。基本的にうそバレは速攻するから、どうしてもうそをつく必要がある場合は、かなり気合入れて、まず自分をだますくらいの勢いが要るし。じいちゃんが相手の場合はそれすらも無理で、温情で見逃してもらう感じだ。よく考えたら、橋花や伊草に対しても同じか。そもそもアイツらも俺と同じ系統なんだけど。とくに橋花。ということは、推察通りってことか……。
前も思ったけど、観察眼があるというか、鋭い。これも小説を書いていることが関係するのなら、どんなものを書いてるのか、ちょっと興味出てきたな。
「……言っとくけど、ワタシはあんたがいま想像したような、たいしたものはまだ描けてないぞ。協力してもらうことがあるから、近いうちに見せるけどがっかりするなよ」
少し口をとがらせてポニーテールを揺らす。ルイの伝達魔術がなくても、俺の心を読むのは容易いな、ほんとう。そもそも見過ぎたってのもあるけど。
シンリは派手な金髪やそのグラマラスなルックス、言葉遣いのせいで、一見キツめなタイプにみえるけど、いままでの話を聞く分には、文句を言いつつ子供の面倒もよくみてるんだろうし、たぶんそれでなつかれてもいる。そして顔もいまみたく間近で見ると、キツい系のお姉さん、という感じじゃなくて、優しく穏やかな眼をしており、表情も擦れたり、それこそ【気持ちの厚着】をしたような感じじゃない。かといって、俺みたく【薄着】でもなく、……明るさの中にどこか憂いをも含んだ、大人びた奥行きを感じた。
「……だーかーらー、ンなたいしたものもまだ描いてねーし、ワタシもたいした人間じゃねーんだよその表情をやめろっ! ……たまーにいるんだよなあ。いまのあんたみたいな目でワタシを見るヤツ。ちなみにその中の三人は男で、もれなく告白してきたが、全部断ったからな」
と、思い切り半眼になり言う。俺はぎょっとして思わずベルを鳴らしてしまう。
「……お、俺は告白なんてしないっつーの! いまのはただ、しみじみ思っただけだよ! 変な勘違いはやめろって!」
「わーってるよ。ただ思い出しただけ。ついでに言うと、そいつら全部年下だったんだよなあ……。おかげで年下は、完全に恋愛対象外になったよ。もともとちびっ子に囲まれて生きてるから、そういう対象に見にくかったんだけど、それで歳だけじゃなく、ワタシより精神年齢が下と感じたヤツもパスになった」
「……。あの。もしかしていま、俺もそういう判定された? ……その、【下】……っていう」
「さぁーね。この程度の付き合いではまだなんとも。【おおきいちび】ではあると思うけどな。……気になるのか? 告白なんてしないんだろ? ワタシには」
そこでニヤリ、初めて面白そうに笑う。俺は舌打ちしたあとにため息をつき、「……そういう意味じゃないことくらい、賢明かつ、ちびっ子たちに慕われるシンリ先生には分かると思いましたけどね。俺の勘違いでしたか」と嫌味を飛ばす。だがシンリは少しも動じずに、「ああ勘違いだな。ワタシはあんたの先生じゃねーし」と一蹴し、ちりんちりん、自分の押す俺の愛車のベルを鳴らした。
「……ま、ちょい話は逸れたけど。そういう感じで悪かったなってことだよ。紹介したのはあんたの気持ちよりも、ワタシがアイツの根っこに、初めて触れられた感じがして嬉しかった、っていう自分の気持ちを優先したってことだから。合わないのは分かってたのに。……やっぱそういうのはやめとくべきだったなあって」
線路沿いを行く最中、最後にそうつぶやいたあとシンリは進むのを止めた。そして街灯の下、光を受けながら俺へ向き直り、しずかに言った。
「あした、代わりにワタシが断っておくよ。アイツのひと目惚れが一時の熱じゃなく、たとえほんとうだったとしても、いまはまだ本気じゃない。もしかしたら、断ることでムキになって、種火が炎に変わるかもしれないけど。ワタシは自分の欲のためにあんたの気持ちも、アイツの気持ちもちゃんと受け止めずに紹介したことが嫌なんだよ。それだけはやり直したい。……これもワタシの勝手な欲なんだけどな」
バツが悪そうに頭をかき、横を向く。俺は少しの間黙っていたが、もうとおくになった踏切から警報音が聞こえてきたときに、再び口を開いた。
「あのさ。実はシンリと会う前に会ったんだよ。メ……巽と。ぐうぜん。それで蛍川の商店街を抜けたところの公園でいろいろ話したんだけど」
「……はっ? あ、あんたそんなことひとことも……—―なんで言わねーんだよっ!!」
ばんばんカゴに入れた自分のスクールバッグを叩き俺に怒鳴る。俺は気圧されつつも、「や、その、言うタイミングが……」と返すと、「それを【いま】言うかっ!! タイミングっていうなら!! いろいろワタシが話終わったあとにっ!!」といよいよブチ切れる。言われてみればその通りなんだけどっ! 犬歯をむき出しにして俺に迫るのはやめて~っ!!
「それでなんて……なにを話したんだっ!! —―も、もしかして断ったのか!?」
「……ああ。断った。でもアイツは諦めないって。むしろ本気になったって。端的に言うとそんな感じだな。……【覚悟しろ】とも言われたよ」
そのときフェンスの向こうで電車が通り過ぎ、轟音とともにシンリのポニーテールが揺れて、戻る。やがてしずけさが戻ったとき――シンリは、「は、は、……はっ」と苦笑して、顔を上げるとぐいっ! と俺に近づいた。
「あんた……【なに】を言った? ただ断るだけでそんなになるわけねーだろ。とくにアイツはかんたんに根っこを見せないんだから。……—―どうやって【怒らせた】んだ?」
もはやなんの迷いもなく、そう断言して迫る。正解なんだけど、言えるわけがない。俺の言葉から連想して、アイツの中から【魔神】の名前が出てきて、それで怯えて取り乱し、その姿を俺が【美しかった】と言ったから、なんて――。リフィナー関連のこともそうだけど、それをのぞいても理解されにくいだろ。ただでさえ、わけの分からないヤツと思われているというのに。に、濁すしかねえー……。
「…………。まあ、その……。その辺は企業秘密、と、いうか……」
「あ ん た が い つ 企 業 に 属 し た んだよっ!! そもそもその言葉の使い方はおかしいだろーがっ!! てかワタシは芽良とは二年の付き合いがあるけどなあ、アイツが怒ったトコなんか見たことねーーーーーーーーーーんだよっ!! どんな相手でも!! それがなんで、きょう初めて話しただけのあんたに対して怒るんだっ!? ……—―なにが企業……もしかして社名は『株式会社【失礼】』かっ!!」
あながち間違ってない!! さすがの鋭さだな!! ……などと感心する間もなく、シンリは自転車を即フェンス前に停めて、俺の肩をつかんでぶんぶん……めっちゃめちゃキレとるがな! これはもう、ある程度怒気が抜けるまでされるがままにしておくしかない、な……。
「……はあ、はあっ……。くっそ……、なんかいろいろ馬鹿みたいじゃねーか、ワタシひとりで……。子供はほんとう、表面的には丸わかりなのに、根本的には読めねーから手に負えないんだ……」
しばらくのちに、ようやく俺を放したあとにそうひとりごち、フェンスにだらん、ともたれかかる。俺は息をはいて、同じようにもたれかかるが、そのときぽつりと彼女は言った。
「……ワタシの見知った経験上。芽良みたく、本音をめったに人へ見せないタイプは、……見せたら止まることねーぞ。自分が納得するまでは。—―納得、させられるのか?」
「……分からない。でも、俺が恋愛的な意味でアイツを好きになることはないと思うから。もしこの先、ちゃんとアイツを振ることができる、そのときが来るとしたら……。俺がはっきり、ほかに好きな相手がいることを伝えたときだろうな」
俺はふと【魔芯】を見る。いつの間にか、街灯に呑まれずに緑光が揺らめいていた。……いまの俺には、緑川晴として生き直してからは――。だれかを恋しく想う気持ちが、この胸を強く内側から叩くことはなかった。しかしそれは、セイラルだった時代はあったはずなんだ。その確信はこの【魔芯】が与えてくれている。
そして、【取り戻せ】――と。そう叫んでいる。それは忘れてはならないことなんだと。……決して。
「……。好きな相手が【できたこと】を、じゃなく、【いること】を、……ね。相変わらず変な表現をするなあ、あんたは。いまいるのかいないのか……。付き合ってる相手はいないんだよな?」
「ああ……。いないな。いまは」
「へー……。じゃあ過去にはいたのか。中学のときとか」
「あ、いや……! すまん見栄張ったあはははは! いないいない、たぶんいない!」
「はあ……? 【たぶん】? ……あんた、もしかしてワタシをおちょくってんのか!?」
と、シンリは再び犬歯をむき出しにして迫ってきた。『壁ドン』ならぬ『フェンスドン』で、両眼の輝きがはっきり見えるほどに顔を寄せて。……彼女はキツイ系ではない。それは確かだ。だけど、怒ったときのこの迫力は……。じいちゃんとはまた違う方向性で降伏せざるを得ないというか。これが日頃あちこちで、たくさんちびっ子たちの面倒をみている【保護者】的な経験値、というヤツか……?
「ち、違うって! その、俺はあんま言葉の使い方がうまくないっていうかさ……! と、とにかくアイツ……巽については断ったし、これからのことも、もう俺とアイツの問題になったっていうか……シンリがフォローをする必要はないよ、俺側に立っては。……もちろん巽の友達としては、アイツが頼ったら、俺のことは無視して話を聞いてあげて欲しい」
「それをあんたが言うか? ……とマジ突っ込みするのも、もう疲れたわ。あんたは【そーいうヤツ】。それでいまはワタシの理解は止めておく。これから付き合いも増えるから、それで少しずつ理解していくってことで。……合宿もあるしな」
シンリはおおきく息をはいたあと、反動をつけるようにフェンスへ沈み込んでから、離れる。そして俺の愛車のハンドルを握り、スタンドを蹴った。
「ちょい予定より早かったけど、できるところまで話もしたし、ここで先に帰らせてもらうわ。今夜中に芽良と話したいこともできたしさ。……悪いけど自転車、頼んだよ。直すのはいつでもいいから。ワタシの【一号機】は折り畳みので、そっちは【二号機】なんだよ。だからぜんぜん急いでない。……そういうことで。この借りは近いうちに返す」
「いや、別に俺が言い出したことだから……」
と、言った瞬間にぎろり、とやられたのでぶんぶんうなずき、俺もシンリの自転車のスタンドを蹴った。シンリはそのさまを見届けたのち、ペダルを一回転させて足を載せてから、言った。
「じゃあまたな。それと【好きな相手】が分かったら、ワタシにも教えろよ。……あんたがいったいどんな相手を好きになるのか興味ある」
「……恋バナ苦手なんじゃないのかよ」
「ああ。【ふつうのヤツ】のはな。……あんたはそうだっけ?」
俺が渋い表情をすると、ふふっ……と笑い、手を伸ばして俺の腕をぽんぽん叩く。そのあと、力強くペダルを踏み込み去って行った。まるで長年乗り慣れた自分の自転車のように、美しい軌道を魅せて――。
いっぽうそれに見惚れて事情を忘れ、子供が真似するようにおおきく踏み込みこぎ出した俺は、果たして二秒とかからずフェンスに突っ込み、……また渋い表情になった。