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第9話 境界を超えた日

 白い光雨こううが、コンクリートの林へふりそそぎ、街に影をのばしている。

 行き交う鉄塊てっかいは変わらずに、せわしく息をはき合っていた。


 アスファルトを蹴るたび、上靴の中では指がぬめり、シャツはひたり、ひたりと背中へ触れ――全身に不快さを湛えたまま、俺は走った。


 靴をはき替えるために。

 置き忘れた鞄を持ち帰るために。

 そして、もうひとつ。ある目的のために――。


 波打つ歩道みちの上を、魚のように跳ね進んでいた。


     ◇


 やがて人の騒がしさが辺りを包み、住宅街へいざなう長い坂道が現れて、おおきく息をはき、また足を動かす。


 そうして坂をのぼり切った俺は、数時間ぶりに学びと相対した。


     ◇


 呼吸を整え、校門をするりと抜けて、足音も立てずに舗装された道をゆく。

 がらんどうの昇降口へ入り、しずかに鉄箱てつばこを開くと、砂にまみれた外靴をつかんで落とし、乾いた音が響いた。


 汚れた上靴から、冷めた外靴それへ足を移す。

 熱気が靴へ吸い取られ、高ぶった気持ちもなだらかになってゆく。

 俺は、わきに抱えていた学ランの襟をつかみ、二、三度振りつけ空気にさらすと、袖を通し、生温かい上靴を鉄箱へ放り込んだ。


 裏山は、細いながら石畳も敷かれている。なので上靴で行く生徒がほとんどだった。

 俺もふだんの通り、そうした。

 ……アイツも。


 ふり返り、同じようにずらりと並ぶ鉄箱のネームプレートを目で追い、風羽ふわと丁寧に書かれた文字を認めると、一歩踏み出す。

 少しの間、名前を見つめていたが、そのまままばたきもせず視線をそらし、出口へ向かって駆け出した。


     ◇


 グラウンドから笛の音と、体育館から漏れ聞こえるかけ声を左右の耳で聞きながら、西棟から東棟へ連絡通路を進んでゆき、ほどなく東棟も過ぎる。

 そして人の気配が薄れて、草木の声が増したころ、裏山へ至る、さびた門の前に戻ってきた。


 開け放たれたまま、たゆたう境界を通り抜ける。


 時刻は、13時30分。

 5時間目が始まって15分。

 高くのびる石の絨毯には、誰の姿もない。


 道すがら、かたわらの草むらで、食べ捨てられた菓子の袋や、つぶれた紙コップが、昼休みの跡を伝えるものの、いまは山の声を隠す者はなく、風が緑の歌を響かせていた。


 その歌が、歩を進めるたびに、だんだんとちいさくなっていく。

 喉の奥が、しめり気を失ってゆく。

 ただ視界だけは、梢の隙間に映る遠い青や、まだらに揺れる光、足もとの雑草や石ころひとつまで明瞭に捉えていて、俺の意識がひとつのことだけに集中しているさまを明らかにした。


 ほどなく両眼は、遠くのベンチに腰かける、ちいさな人影を映し出した。


     ◇


 それは春の過ぎ去った花のように。

 道に張りつく枯葉かれはのように。

 生気を失い、輝きはなく、ただ身を伏せぬよう、最低限の力を体に込めて、姿勢を保っていた。


 ヒザの上に俺の帆布はんぷ鞄をのせていて。

 自分の鞄は横に置いて。


 美しい横顔はあらわになるにつれ、いっそうの悲惨さを周囲に伝えて、黒曜石の瞳はすみと化していた。


「……。おい。――あんた」


 俺は屍のような女に声を飛ばす。


 風羽はゆっくり頭を動かして、長い前髪から目を見せると、俺と視線が合うやすぐ、一瞬で光を取り戻し、跳ねるように立ち上がる。


 そうして口をぱくぱく、目をぱちぱち……顔を赤くしたり、眉を落としたり、俺の鞄を持ったまま、手をばたばたと振りまわしたり……、全身で訴えだした。


「あ、――あのっ! 先ほどのことは……! き、記憶のないあなたに信じていただくに足る説明にはほど遠く、稚拙な、幼稚な……っ! し、しかしいま一度……!!」


「……あんた、ずっとここに座っていたのか?」


 淡々と言葉を挟む。

 風羽ふわは、「は……、……! お、思えばすぐあなたを追いかけて……!」と、必死さをつよめたので、俺はかぶりをふり、もう一度、同じ言葉を続ける。

 するとようやく、俺が責めているわけではないことに気づいた。


「……は、はい……。……ずっと。山をおりていません……」


 子どものようにうなだれた。


 俺は、風羽の手のうちで、少しひしゃげた帆布鞄をじっと見る。

 それから、一度目を閉じ……、開けると言葉を放った。


「……俺は、あんたの言うことは信じられない」


 風羽の体が、わななく。

 おそるおそる上がってきた顔が、こちらへ向けられ、口が動かされるも、なにも出てこない。


「だから別れる前、あんたへ投げつけた言葉に対して謝る気はない。……悪いと思っていないからな」


 風羽は、ゆっくりと表情かおをゆがめ、とうとう目を伏せた。

 そのまま、消え入りそうな声で、「は……、……はい」と漏らす。


 俺はため息をついたのち、しずかに言った。


「……だけど。あんたが嘘を言っているとは、思わない」


「……。……えっ?」


 風羽は切れ長の目をまん丸にして、唇を震わせると、またぱくぱく金魚のように動かし始めたので、俺は手を突き出して止める。


「そもそも、冷静になって考えてみれば、関わりのない俺を、嘘をついてだます理由も、メリットもないし……。誰かとつるんで、俺を笑いものにしようとしているなら、明らかに人選ミスだろ。嘘をつくのが下手すぎる」


「……!? わ、笑いものに!? もしそんなやからがいれば、――直ちに!!」


 と、ポケットから鉛筆を取り出す。俺は慌てて、「ばっ! や、やめろ!」と制した。

 あれのからくりはともかく、いま見たいものじゃないからな。……気持ちが乱れる。


 俺の本気を感じたのか、「……す、すみません!!」と、すぐに鉛筆を引っ込めて、「……し、しかし、信じておられないのに、私のことは、とは……。いったい、どのような……」と困惑する。

 俺は言った。


「……その前に。まず、嘘ほんとうのことよりも、俺が258年生きたとか、こっちの世界にやってきた魔術士だとかいきなり言われても、『困る』ってのを理解してくれ。仮に、あんたが別の世界の住人だとして……、その世界にだって、常識外れのことがあるだろう? それが常識だったなんて、急に言われて信じられるか?」


「……た、確かに……。フィラゴンがガヴォットとゲーハーすると言われても、閉口するしかありません」


 うなずきながら、感心する。……コイツ、やっぱり俺をおちょくってるんじゃなかろうな……。心がめっちゃ揺らいできた。


 おおきく咳払いし、気を取り戻すと続けた。


「ともかく、あんたの話は、斜め上すぎて信じがたいけど、言葉にいくらかの真実味があるのは……なんとなく分かる。……そういうことだ。だから、もしもの可能性を考えて、いくつか質問したい。そのために戻ってきた。……いいか」


「わ……、分かりました。お答えします。――包み隠さず」


 風羽は姿勢を正す。

 俺は唾を飲み込んで、尋ねた。


「単刀直入に聞く。……あんた、……もしかして、俺のじいちゃんのことも知ってるのか」


「……。はい。名は緑川宗治みどりかわそうじ。満65歳。半時町はんときちょう1丁目4番地3号の古書店、『緑星荘りょくせいそう』を、20年前の7月7日から営んでおられます。直接、接触したことは、現在まで……、客として25回」


 風羽は、俺がわずかに頬を動かしたさまを見ても、まばたきもしなかった。


「こちらの世界での、あなたの生活については……。過去のあ……セイラル様から、御身おんみに近づくことを許された2年前の期日より、調べさせていただいていますゆえ。……ある程度のことは」


「……。俺と、じいちゃんの関係についてもか」


「はい。……申し上げてもよろしいのならば」


 よどみなく返す。

 視線をそらすこともなかった。


 俺は深呼吸し、間を置いたのちに、息だけを漏らす。

 それから、たどたどしく言った。


「……ああ。いい。……だから教えてくれ。じいちゃんは……。あんたの言うようなことを……。……その、俺を……」


 喉がせばまり、声が途切れて口ごもる。

 風羽は、すぐに言葉を継いだ。


「私が調べた限りでは、宗治氏は、こちらの世界にある乳児院から、赤ん坊になったあなたを、ほかの例にたがわず、人間ふつうの子として、正式な手続きを経て引き取られました。……まだその詳しい事情や、施設へ預けられた経緯いきさつ、それを行っただろう、あなたが御身おんみを託された魔術士が誰なのかは、突きとめておりませんが……」


「……。……そうか。なにも知らなかった……、ってことだな……」


 そう、思わず出た瞬間――、俺の体から力が抜けた。

 こけそうになったので、慌ててベンチに手をついた。


「……! セ、セイラル様!!」


 そばに寄ってきた青い表情かおに、俺はかぶりをふる。

 だが力が入らず、なかなかうまく座れない。


 理性にそむき、風羽の言葉によってゆるんだ身体からだと、胸に広がる気持ちに……俺は歯ぎしりした。


     ◇


「……。あの……。ほ、ほんとうに大丈夫……ですか?」


 双子の黒曜石が水のように震えている。

 俺は黙ってうなずき、なんとか居住まいを正す。

 その後、落ち着きを取り戻し、風羽が安堵したさまを見届けてから、再び尋ねた。


「……もうひとつ。……もし、もし俺が……あんたの言うような……だったとして。ややこしいことが起こる可能性は。……危害が加わるような」


「……ないとは言い切れません。あなたは特別な存在でしたから……」


 重い声が、耳に届く。

 風羽は俺の目を見据えた。


「魔神と呼ばれる、世界最強の魔術士――。それがとつぜん、姿を消したのです。生死は不明。……しかし魔力が復活したいま、万に一つの可能性として、存在が感知され……、あなたに『関心』を持つ幾多の魔術士やからが、消息を確かめに来ることも、あるやもしれません。そして現在のあなたは、記憶がありませんから。それらに対処するすべをお持ちではなく……。なので……。そ、その……」


「……最悪の可能性もある。とでも言いたいのか」


 風羽は黙った。

 俺は首筋をなでて、そのまま後ろ髪をかき上げると、すべてから逃れるように頭を落とす。

 地面に、まだらの影が揺れていた。


 ……どこまでも馬鹿げている。

 さいしょから最後まで。

 こんなもの、誰がまともに受け取るっていうんだ。

 こんな与太話……。


 魔術士とやらが現れて、俺を殺す?

 魔術で火責め、水責めか。

 かなたまで、風で吹き飛ばすか。

 それとももっと……、こっちの常識を超えた、残酷な方法で。……。


 きっと恨みの数もやっかみも、栄誉欲しさの輩もあれこれも――。両手の指じゃ足らないってことなんだろうな。……世界最強の魔神様は。

 ――……馬鹿馬鹿しい!!


 拳を握り、わずかに顔を上げ、まだらの影をぬうように視線を移す。

 そして、『アイツ』が立っていた場所を見やった。


     ◇


――感動した俺は、人間界そっちにいる間中、ライトノベルを読んで、読んで、読みまくった――


――今まで知らなかったのは、人生の損失だ! と言い切れるほどに、夢中になったんだ――


――……それで魔法界こっちに帰ったあと、ふと、あることを思いついた――


     ◇


 魔法の世界があること。

 258年生きた魔術士がいること。


【そいつ】は魔神と呼ばれる、世界最強の存在で……。

 数多あまたの魔術士より生命いのちを狙われている。


 しかしそれを意に介さず、【そいつ】は人間界こっちへ転生し……。

 ありもしない虚構生活フィクションライフを夢見て、人生をやり直そうとしている――。


 この与太話以上の与太話が最悪なのは……。


 【そいつ】が【俺】だって聞かされたことだ。


     ◇


 これを聞いてどう思う?

【ふつう】ならどう処理するんだ?


 ……分かりきったこと。

 そう、無視だ。


 笑って聞き流す。

 あるいはしかめ面でそっぽを向く。


 それきり、いつもの生活へと舞い戻り……。

 もう、顧みることはない。


 それが、【多く】の、【決まった】、【ふつう】の対処のはずだ。


 だが……――。


     ◇


 俺は唇をかみ、左腕の銀時計を見つめる。

 喉の奥に、朝の塩パンの味がよみがえってきて、ちりちりと粘膜を突き刺した。


 ……。

 もし、もしも……。

 与太話がそうでなく……。


 伊草いぐさや、橋花はしはな……。

 坂木さかきのおばちゃんや……。

 ……――じいちゃんや。


 馬鹿げたことが、俺だけでなく、俺に関わるすべての人間に及んだら……――?


「――……っ!」


 想像が闇に触れた刹那――、いままでの風羽の言葉や行動が、理性の壁を突き破り、触手のように伸びてきて、脳の真ん中や胸の奥をつかみ取り、思い切り全身を震わせる。


 そして震えは、抜け殻になっていた体に再び意思ちからを呼び戻し……。


 俺はおおきく目を見開いた。


     ◇


「……あ、あの! あくまでも万にひとつの可能性であると! 魔力が復活したといっても、かつてのばく大なそれは、ほぼ完全に凝縮されていて、周囲に放たれておりません。なのでまず、人間界こちらに来ていることすら、ほとんどの者が知ることは、できないでしょうし……!」


 耳に伝う音が、だんだんとつよくなる。

 目に映る風羽の両足は、かすかに地面をえぐりながら、動いていた。


「それに……もし、危害を加えようとする者が現れたとしても……。それがどれほどの魔術士であっても……」


 鞄が、隣に置かれたと気づいた瞬間――。

 眼前に、風羽がひざまずいていた。


「私がすべてをちます。――生命いのちをもって。……そのために参上したのです」


 風が長い漆黒の前髪を揺らす。

 薄いピンクの唇は、まだらの光を受けて海のように輝いている。

 比類なき宝玉ほうぎょくを宿した双眸そうぼうは――。

 ぶれることのない、まっすぐな心をこちらへ向けていた。


 あるじ、か……。


     ◇


「……。あんた。携帯……持ってるか」


「……えっ? は、はい……」


 風羽は目を柔らかくして立ち上がると、ベンチにある自分の革鞄をまさぐって、藍色のガラケーを差し出した。

 それは革鞄のように素っ気なく、飾り気のないものだった。


「……きょう、さいしょにあんたが言っていた、交流を極力さけてきたとか、『ふつうらしく』ふるまっていたっていうのは……。たぶん、これまで話したことが関係しているんだろう。……俺に伝えたいまはもう、どうでもよくなってるのかもしれないが、それは続行してもらう。俺との関わりについては」


 風羽は、しばたたいた。

 俺は藍色の機器をいちべつしたのちに、続ける。


「あんたは、クラスはもとより、校内でもけっこうな有名人だ。でもあんた自身が触れたように、人と積極的に交流しているわけじゃない。それがとつぜん……しかも男と、たびたび話している姿なんて見せてみろ。話す内容だって、『ふつう』とは、ほど遠い。……はっきり言う。いろいろ面倒が起きるのは避けたい。……悪いがそういうことだ」


 俺は風羽の目を見る。

 輝きが戸惑い揺れる。


「……は……い。あなたがそう、望むなら……」


 風羽は、しばらく俺の光を受け止めたのちに、携帯を持った手をわずかに下げる。

 再び風が吹き、長い前髪と、スカートの裾がゆらめく。

 俺は、それらの動きが収まったころ、言った。


「……けど、すでに、あんたの話は無視できるものじゃなくなった。俺は……、あんたに、まだ聞きたいことが山ほどあるんだ。だから……」


 俺はポケットから、黒いスマートフォンを取り出すと、うつむく藍色に差し向けた。


「番号を交換してくれないか。話をするときは、これで連絡をとって……。どこか人目のつかないところに移動する。会えない場合はそのまま電話で。……とりあえず、それでどうだ」


 風羽は、呆然とした面持ちで、俺の顔をのぞいていた。

 だが数秒後……とつぜん口をおおきく開け、


「……は、はいっ!! はい、はい、はい!! ――……はいっ!!!」


 叫んだため、耳をえぐられた俺はスマホを落っことした。……な、なんちゅう声を……!!


「あっ……! す、すみません!! も、もしかしていまので壊れましたか!? ど、どどどどうしましょう!! 修理はどうやって……! いえ、新しいのを買いに行くべきですね!! で、ではいますぐ……!!」


「壊れてない!! 落ち着け!! これくらいなんともねーんだよ!!」


 スマホを示し主張するも、風羽はそれをひったくって砂を払い、ハンカチでふき……。上下左右裏表となめるように点検し始め、あまつさえ中を確認しようとしたので、奪い返した。

 かしこまっているわりに、なんてデリカシーのないヤツだ……。


「……ほら、これが俺の番号。メアドもいちおう。でもなるべく電話で頼む。内容は、おそらく他人が見たら、不可解に思うことが多くなりそうだからな。万が一のことを考えて、文字で残さないほうがいい。……あと名前のことだけど」


緑川晴みどりかわせい様、ですね。承知しております! 先ほどは、つい取り乱し、セイラル様とお呼びしてしまいましたが、以後は確かに、緑川様と……」


「……いや。いい」


「……えっ?」


 俺は風羽へ、番号を示したスマホを見せた。


「登録名は、セイラルでいい。俺もあんたの登録は、ファレイでする。電話やメールでやりとりするときは、そっちの名前で頼む。さっき話した通り、緑川おれ風羽あんたは、クラスや学校では関わりのない『という』関係だからな。念のために。……じかに会って話す場合は……、人がいなければ、別にどっちでも……」


 風羽は、ほうけた表情かおで突っ立っている。

 俺は訝った。


「……言っておくが、もし人前で話すことになったら、『緑川』だからな? 『様』じゃなくて、呼び捨てでも君でも、ともかくそれで! 俺も『風羽』って言うから。……そこは気をつけてくれよ」


 返事がない。

 放心したように、風羽は風にさらされていた。


 ……な、なんだ……? ひょっとして怒ったのか。

 そこまでして隠したいのかって。


「おい。……あのな。不愉快に思ったのなら悪いが、これは……」


「……番号とメールアドレス、及びお名前の登録を終えました。ご確認下さい」


 とつぜん、淡々とした声と光を向けられて、『セイラル様』の文字と、俺の番号、メアドが収められた、長方形の画面が目に入った。

 様、ってのがあれだが……。ちょっと様子が変だし、黙っておくか。


「あ、ああ……。早いな。じゃああんたの……」


「こちらになります」


 またすばやく、よどみない動作で情報が示された。

 俺はそれに引きずられ、慌てて番号とメアド、『ファレイ』の名を打ち込んだ。


「……っと。これで間違いないな? 見てくれ」


 風羽は、差し向けた光をのぞき込む。

 そして一度、まばたきをすると、


「……手に取って、確認しても……? ……落としませんから」


 と、つぶやいた。


     ◇


 俺は、スマホを黙って少し前に出す。

 一瞬、手を震わせてから、風羽はそれを受け取る。

 その表情かおは、先ほどまでのほうけたものではなくなっていた。


 口はまっすぐに結ばれて。

 ただじっと、息をひそめて。

 またたくことすら惜しそうに――。

 手の中の光を、焼きつけるように、見つめ続けていた。


 そうして、しばらくのち……、風羽は口を開いた。


「セイラル様。……ひとつ、伺いたいことがあります」


「……。あ、ああ……。……なんだ」


 思わず応える。

 風羽は手もとの光から、俺の目に視線を移す。

 そのあと、長いまつげと唇を震わせてから、言葉を紡いだ。


「もし……。もしも私が……。あなたに仕える使命の末、生命いのち果て……、あなたの前から永遠とわに去ることになったとき……」


 スマホを握りしめ、続ける。


「あなたは……、ずっと記憶が戻らないままでも――。緑川晴様として……、私の名前を憶えていてくださいますか?」


     ◇


 山の音が、ゆっくりと通り過ぎる。

 ふたつの光が、俺の喉から水気みずけを奪ってゆく。


「……生命いのち、って。さっきの、万にひとつのことか。……それにしたって、いきなり話が……」


 宝玉ほうぎょくの輝きは、乱れることなく、こちらを捉えている。

 俺は、ちいさく息をはいた。


「……俺は、あんたの話を信じられないと言った。いろいろ聞いたいまでも、理解の及ばないことが多すぎるし……信じ切ることは、できない。だけど……」


 黒い機器を包む、白い手を見据える。


「あんたのその気持ちは、やはり、嘘のない、ほんとうのものだと思う。だからそれに対して、返事をする。……が、まず言っておきたいことがある」


 風羽は、唇を結び直す。

 俺は、まっすぐに言葉を放った。


「もし、あんたの言うように、なんらかの危機が訪れて……、あんたが俺のために、その身を投げ打って、生命いのちを落とすことがあったなら――。俺はきょうの、すべての言葉と行動を恥じて、あんたを弔ったあとに死ぬ」


「……!? そっ……!! そんな――!!」


 風羽は、スマホを落としかける。

 俺は、華奢な指からこぼれそうになっているそれを取って、ポケットにしまった。


「あんたは俺をあるじだと言うが、こっちにそんな実感はない。俺にとっていま現在、あんたは魔術だのなんだの、突拍子もないことを言う、ただのクラスメイトだ。入学以来、ずっと同じクラスでも、一度も話したことがなかった、な。……でも」


 黒曜石の輝きがゆらめく。

 俺は、ポケットのふくらみに触れた。


「関わりがなかろうと、どんなにおかしなことを言う、変なヤツだろうと……。実は正しいことを言っていて、それを信じなかった俺を守って、死なせてしまったのなら……、――その責任は取る」


「……な……っ! ……なにを仰っているのですか!?」


 風羽は、地をえぐるように蹴って身を寄せて、犬歯を見せる。

 赤らんだ頬から発せられる声が、俺の髪の毛を震わせた。


「責任? ……そんなものはありません!! 私が勝手にした末のことなのですから! そ、それに実感がないと仰いましても、事実、私はあなたの従者で、あなたはあるじで……、負い目を感じることなどなにも……!!」


「そういうのじゃない。……あんたに、あるじに対しての揺るぎない気持ちがあるように、俺にだって、自分にとって曲げられないことがあるんだよ。……――要するに、それが俺のすじだ」


 風羽は口をおおきく開けたまま、固まった。

 その後、ぎこちなく頭を下げてゆき、体を震わせた。


「……していつも、あな……は……。……っても。まったく……に……」


 くぐもった声が、くうに解けていく。

 両の指が、スカートを這い、濃いしわを作り出した。


「……す、……目です……、……――駄目です、絶対に……! そのようなことをされたら、私は……!」


 何度もかぶりをふり、つよく一歩踏み出す。

 ……が、そこで動かなくなる。


「……なんのために……。……私の生命いのちは……」


 長い前髪は、黒い雨のようにしたたり、ふたつの星を隠した。

 俺は、力をなくし、陰ったその身を見据えたまま、……口を開いた。


「……あんたの生命いのちは、あんたのものだ」


 雨の隙間から、輝きがのぞく。

 俺はしずかに言った。


あるじとか、従者とか……、あんたの言うそれが、じっさいどういう関係ものだったのか、俺には分からない。でも生命いのちは、どんな世界だろうと――。誰に束縛されることもない、自分自身のもののはずだ。……だからファレイ・ヴィース」


 宝玉ほうぎょくまたたきが止まった。


「同じ一個の生命いのちとして、もしこの身を救ってもらったのなら――。……緑川晴として。あんたが望むなら、セイラルとしても――」


 俺は、拳をゆっくりと上げて、自分の胸に当てた。


「……その名前は、ずっと憶えているさ。……死んでも忘れない」


「……――うっ! ……うう~っ!!」


     ◇


 ガラスのバラ。

 高嶺の花。

 ポーカーフェイス・ビューティ。


 男子も女子も、遠巻きにして眺めるばかりの氷の偶像。

 ときおり見せる笑みも、皆の憧れを増すばかりの完璧笑顔パーフェクトスマイル

 怒る顔も、困惑するさまも、誰も目にすることもない。

 ましてや泣く姿なんて――。


 だが……。それもこれも、かりそめの表情すがたで……。

 ほんとうの姿かおは……。


 すべては【アイツ】の――……。


     ◇


――……あとは、ファレイに聞いたらいい――


――そいつは甘ったれで泣き虫で、どうしようもないガキだが――


―……今の俺よりは、役に立つ――


――じゃあな――


     ◇


「……ゃあなじゃねえんだよ、馬鹿くそ野郎……!」


 俺は拳を握りしめ、小声ではき捨て、つま先で土をえぐる。

 目の前では、俺の罵声にも気づかず、風羽が泣きじゃくっていた。


 ……いったい【コイツ】は、どういうつもりだ?


 あるじかなにか知らんが、ここまでしたっているヤツを放置して……。


 心配をかけて、迷惑をかけて、生命いのちまでかけさせて……!


 それも……、これも……、ありえない――。


 ふざけた目的のために……!!


     ◇


「……じゃあな、じゃない。……またな――だ」


 俺はポケットに手をつっこむと、四角い鏡をつかんだ。

 そして再び、【ヤツ】が立っていた場所を見据える。


 それからもう一度、つぶやいた。


「……思い出すぞ、俺は【おまえ】を。……夢の中から引きずり出してやる」


     ◇


 5月××日。

 17歳の誕生日。


 時刻は未確認。

 ただ、目の端に、銀時計の輝きだけが映っていた。


 そのとき発したそれが、緑川晴おれの、最後の言葉となり――……。


 セイラル(おれ)の、さいしょの言葉となった。



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