第9話 境界を超えた日
白い光雨が、コンクリートの林へふりそそぎ、街に影をのばしている。
行き交う鉄塊は変わらずに、忙しく息をはき合っていた。
アスファルトを蹴るたび、上靴の中では指がぬめり、シャツはひたり、ひたりと背中へ触れ――全身に不快さを湛えたまま、俺は走った。
靴をはき替えるために。
置き忘れた鞄を持ち帰るために。
そして、もうひとつ。ある目的のために――。
波打つ歩道の上を、魚のように跳ね進んでいた。
◇
やがて人の騒がしさが辺りを包み、住宅街へいざなう長い坂道が現れて、おおきく息をはき、また足を動かす。
そうして坂をのぼり切った俺は、数時間ぶりに学び舎と相対した。
◇
呼吸を整え、校門をするりと抜けて、足音も立てずに舗装された道をゆく。
がらんどうの昇降口へ入り、しずかに鉄箱を開くと、砂にまみれた外靴をつかんで落とし、乾いた音が響いた。
汚れた上靴から、冷めた外靴へ足を移す。
熱気が靴へ吸い取られ、高ぶった気持ちもなだらかになってゆく。
俺は、わきに抱えていた学ランの襟をつかみ、二、三度振りつけ空気にさらすと、袖を通し、生温かい上靴を鉄箱へ放り込んだ。
裏山は、細いながら石畳も敷かれている。なので上靴で行く生徒がほとんどだった。
俺もふだんの通り、そうした。
……アイツも。
ふり返り、同じようにずらりと並ぶ鉄箱のネームプレートを目で追い、風羽と丁寧に書かれた文字を認めると、一歩踏み出す。
少しの間、名前を見つめていたが、そのまま瞬きもせず視線をそらし、出口へ向かって駆け出した。
◇
グラウンドから笛の音と、体育館から漏れ聞こえるかけ声を左右の耳で聞きながら、西棟から東棟へ連絡通路を進んでゆき、ほどなく東棟も過ぎる。
そして人の気配が薄れて、草木の声が増したころ、裏山へ至る、さびた門の前に戻ってきた。
開け放たれたまま、たゆたう境界を通り抜ける。
時刻は、13時30分。
5時間目が始まって15分。
高くのびる石の絨毯には、誰の姿もない。
道すがら、かたわらの草むらで、食べ捨てられた菓子の袋や、つぶれた紙コップが、昼休みの跡を伝えるものの、いまは山の声を隠す者はなく、風が緑の歌を響かせていた。
その歌が、歩を進めるたびに、だんだんとちいさくなっていく。
喉の奥が、しめり気を失ってゆく。
ただ視界だけは、梢の隙間に映る遠い青や、まだらに揺れる光、足もとの雑草や石ころひとつまで明瞭に捉えていて、俺の意識がひとつのことだけに集中しているさまを明らかにした。
ほどなく両眼は、遠くのベンチに腰かける、ちいさな人影を映し出した。
◇
それは春の過ぎ去った花のように。
道に張りつく枯葉のように。
生気を失い、輝きはなく、ただ身を伏せぬよう、最低限の力を体に込めて、姿勢を保っていた。
ヒザの上に俺の帆布鞄をのせていて。
自分の鞄は横に置いて。
美しい横顔はあらわになるにつれ、いっそうの悲惨さを周囲に伝えて、黒曜石の瞳は炭と化していた。
「……。おい。――あんた」
俺は屍のような女に声を飛ばす。
風羽はゆっくり頭を動かして、長い前髪から目を見せると、俺と視線が合うやすぐ、一瞬で光を取り戻し、跳ねるように立ち上がる。
そうして口をぱくぱく、目をぱちぱち……顔を赤くしたり、眉を落としたり、俺の鞄を持ったまま、手をばたばたと振りまわしたり……、全身で訴えだした。
「あ、――あのっ! 先ほどのことは……! き、記憶のないあなたに信じていただくに足る説明にはほど遠く、稚拙な、幼稚な……っ! し、しかしいま一度……!!」
「……あんた、ずっとここに座っていたのか?」
淡々と言葉を挟む。
風羽は、「は……、……! お、思えばすぐあなたを追いかけて……!」と、必死さをつよめたので、俺はかぶりをふり、もう一度、同じ言葉を続ける。
するとようやく、俺が責めているわけではないことに気づいた。
「……は、はい……。……ずっと。山をおりていません……」
子どものようにうなだれた。
俺は、風羽の手のうちで、少しひしゃげた帆布鞄をじっと見る。
それから、一度目を閉じ……、開けると言葉を放った。
「……俺は、あんたの言うことは信じられない」
風羽の体が、わななく。
おそるおそる上がってきた顔が、こちらへ向けられ、口が動かされるも、なにも出てこない。
「だから別れる前、あんたへ投げつけた言葉に対して謝る気はない。……悪いと思っていないからな」
風羽は、ゆっくりと表情をゆがめ、とうとう目を伏せた。
そのまま、消え入りそうな声で、「は……、……はい」と漏らす。
俺はため息をついたのち、しずかに言った。
「……だけど。あんたが嘘を言っているとは、思わない」
「……。……えっ?」
風羽は切れ長の目をまん丸にして、唇を震わせると、またぱくぱく金魚のように動かし始めたので、俺は手を突き出して止める。
「そもそも、冷静になって考えてみれば、関わりのない俺を、嘘をついてだます理由も、メリットもないし……。誰かとつるんで、俺を笑いものにしようとしているなら、明らかに人選ミスだろ。嘘をつくのが下手すぎる」
「……!? わ、笑いものに!? もしそんな輩がいれば、――直ちに!!」
と、ポケットから鉛筆を取り出す。俺は慌てて、「ばっ! や、やめろ!」と制した。
あれのからくりはともかく、いま見たいものじゃないからな。……気持ちが乱れる。
俺の本気を感じたのか、「……す、すみません!!」と、すぐに鉛筆を引っ込めて、「……し、しかし、信じておられないのに、私のことは、とは……。いったい、どのような……」と困惑する。
俺は言った。
「……その前に。まず、嘘ほんとうのことよりも、俺が258年生きたとか、こっちの世界にやってきた魔術士だとかいきなり言われても、『困る』ってのを理解してくれ。仮に、あんたが別の世界の住人だとして……、その世界にだって、常識外れのことがあるだろう? それが常識だったなんて、急に言われて信じられるか?」
「……た、確かに……。フィラゴンがガヴォットとゲーハーすると言われても、閉口するしかありません」
うなずきながら、感心する。……コイツ、やっぱり俺をおちょくってるんじゃなかろうな……。心がめっちゃ揺らいできた。
おおきく咳払いし、気を取り戻すと続けた。
「ともかく、あんたの話は、斜め上すぎて信じがたいけど、言葉にいくらかの真実味があるのは……なんとなく分かる。……そういうことだ。だから、もしもの可能性を考えて、いくつか質問したい。そのために戻ってきた。……いいか」
「わ……、分かりました。お答えします。――包み隠さず」
風羽は姿勢を正す。
俺は唾を飲み込んで、尋ねた。
「単刀直入に聞く。……あんた、……もしかして、俺のじいちゃんのことも知ってるのか」
「……。はい。名は緑川宗治。満65歳。半時町1丁目4番地3号の古書店、『緑星荘』を、20年前の7月7日から営んでおられます。直接、接触したことは、現在まで……、客として25回」
風羽は、俺がわずかに頬を動かしたさまを見ても、瞬きもしなかった。
「こちらの世界での、あなたの生活については……。過去のあ……セイラル様から、御身に近づくことを許された2年前の期日より、調べさせていただいていますゆえ。……ある程度のことは」
「……。俺と、じいちゃんの関係についてもか」
「はい。……申し上げてもよろしいのならば」
よどみなく返す。
視線をそらすこともなかった。
俺は深呼吸し、間を置いたのちに、息だけを漏らす。
それから、たどたどしく言った。
「……ああ。いい。……だから教えてくれ。じいちゃんは……。あんたの言うようなことを……。……その、俺を引……」
喉が狭まり、声が途切れて口ごもる。
風羽は、すぐに言葉を継いだ。
「私が調べた限りでは、宗治氏は、こちらの世界にある乳児院から、赤ん坊になったあなたを、ほかの例にたがわず、人間の子として、正式な手続きを経て引き取られました。……まだその詳しい事情や、施設へ預けられた経緯、それを行っただろう、あなたが御身を託された魔術士が誰なのかは、突きとめておりませんが……」
「……。……そうか。なにも知らなかった……、ってことだな……」
そう、思わず出た瞬間――、俺の体から力が抜けた。
こけそうになったので、慌ててベンチに手をついた。
「……! セ、セイラル様!!」
そばに寄ってきた青い表情に、俺はかぶりをふる。
だが力が入らず、なかなかうまく座れない。
理性にそむき、風羽の言葉によってゆるんだ身体と、胸に広がる気持ちに……俺は歯ぎしりした。
◇
「……。あの……。ほ、ほんとうに大丈夫……ですか?」
双子の黒曜石が水のように震えている。
俺は黙ってうなずき、なんとか居住まいを正す。
その後、落ち着きを取り戻し、風羽が安堵したさまを見届けてから、再び尋ねた。
「……もうひとつ。……もし、もし俺が……あんたの言うような……だったとして。ややこしいことが起こる可能性は。……危害が加わるような」
「……ないとは言い切れません。あなたは特別な存在でしたから……」
重い声が、耳に届く。
風羽は俺の目を見据えた。
「魔神と呼ばれる、世界最強の魔術士――。それがとつぜん、姿を消したのです。生死は不明。……しかし魔力が復活したいま、万に一つの可能性として、存在が感知され……、あなたに『関心』を持つ幾多の魔術士が、消息を確かめに来ることも、あるやもしれません。そして現在のあなたは、記憶がありませんから。それらに対処する術をお持ちではなく……。なので……。そ、その……」
「……最悪の可能性もある。とでも言いたいのか」
風羽は黙った。
俺は首筋をなでて、そのまま後ろ髪をかき上げると、すべてから逃れるように頭を落とす。
地面に、まだらの影が揺れていた。
……どこまでも馬鹿げている。
さいしょから最後まで。
こんなもの、誰がまともに受け取るっていうんだ。
こんな与太話……。
魔術士とやらが現れて、俺を殺す?
魔術で火責め、水責めか。
かなたまで、風で吹き飛ばすか。
それとももっと……、こっちの常識を超えた、残酷な方法で。……。
きっと恨みの数もやっかみも、栄誉欲しさの輩もあれこれも――。両手の指じゃ足らないってことなんだろうな。……世界最強の魔神様は。
――……馬鹿馬鹿しい!!
拳を握り、わずかに顔を上げ、まだらの影をぬうように視線を移す。
そして、『アイツ』が立っていた場所を見やった。
◇
――感動した俺は、人間界にいる間中、ライトノベルを読んで、読んで、読みまくった――
――今まで知らなかったのは、人生の損失だ! と言い切れるほどに、夢中になったんだ――
――……それで魔法界に帰ったあと、ふと、あることを思いついた――
◇
魔法の世界があること。
258年生きた魔術士がいること。
【そいつ】は魔神と呼ばれる、世界最強の存在で……。
数多の魔術士より生命を狙われている。
しかしそれを意に介さず、【そいつ】は人間界へ転生し……。
ありもしない虚構生活を夢見て、人生をやり直そうとしている――。
この与太話以上の与太話が最悪なのは……。
【そいつ】が【俺】だって聞かされたことだ。
◇
これを聞いてどう思う?
【ふつう】ならどう処理するんだ?
……分かりきったこと。
そう、無視だ。
笑って聞き流す。
あるいはしかめ面でそっぽを向く。
それきり、いつもの生活へと舞い戻り……。
もう、顧みることはない。
それが、【多く】の、【決まった】、【ふつう】の対処のはずだ。
だが……――。
◇
俺は唇をかみ、左腕の銀時計を見つめる。
喉の奥に、朝の塩パンの味がよみがえってきて、ちりちりと粘膜を突き刺した。
……。
もし、もしも……。
与太話がそうでなく……。
伊草や、橋花……。
坂木のおばちゃんや……。
……――じいちゃんや。
馬鹿げたことが、俺だけでなく、俺に関わるすべての人間に及んだら……――?
「――……っ!」
想像が闇に触れた刹那――、いままでの風羽の言葉や行動が、理性の壁を突き破り、触手のように伸びてきて、脳の真ん中や胸の奥をつかみ取り、思い切り全身を震わせる。
そして震えは、抜け殻になっていた体に再び意思を呼び戻し……。
俺はおおきく目を見開いた。
◇
「……あ、あの! あくまでも万にひとつの可能性であると! 魔力が復活したといっても、かつてのばく大なそれは、ほぼ完全に凝縮されていて、周囲に放たれておりません。なのでまず、人間界に来ていることすら、ほとんどの者が知ることは、できないでしょうし……!」
耳に伝う音が、だんだんとつよくなる。
目に映る風羽の両足は、かすかに地面をえぐりながら、動いていた。
「それに……もし、危害を加えようとする者が現れたとしても……。それがどれほどの魔術士であっても……」
鞄が、隣に置かれたと気づいた瞬間――。
眼前に、風羽がひざまずいていた。
「私がすべてを絶ちます。――生命をもって。……そのために参上したのです」
風が長い漆黒の前髪を揺らす。
薄いピンクの唇は、まだらの光を受けて海のように輝いている。
比類なき宝玉を宿した双眸は――。
ぶれることのない、まっすぐな心をこちらへ向けていた。
主、か……。
◇
「……。あんた。携帯……持ってるか」
「……えっ? は、はい……」
風羽は目を柔らかくして立ち上がると、ベンチにある自分の革鞄をまさぐって、藍色のガラケーを差し出した。
それは革鞄のように素っ気なく、飾り気のないものだった。
「……きょう、さいしょにあんたが言っていた、交流を極力さけてきたとか、『ふつうらしく』ふるまっていたっていうのは……。たぶん、これまで話したことが関係しているんだろう。……俺に伝えたいまはもう、どうでもよくなってるのかもしれないが、それは続行してもらう。俺との関わりについては」
風羽は、瞬いた。
俺は藍色の機器をいちべつしたのちに、続ける。
「あんたは、クラスはもとより、校内でもけっこうな有名人だ。でもあんた自身が触れたように、人と積極的に交流しているわけじゃない。それがとつぜん……しかも男と、たびたび話している姿なんて見せてみろ。話す内容だって、『ふつう』とは、ほど遠い。……はっきり言う。いろいろ面倒が起きるのは避けたい。……悪いがそういうことだ」
俺は風羽の目を見る。
輝きが戸惑い揺れる。
「……は……い。あなたがそう、望むなら……」
風羽は、しばらく俺の光を受け止めたのちに、携帯を持った手をわずかに下げる。
再び風が吹き、長い前髪と、スカートの裾がゆらめく。
俺は、それらの動きが収まったころ、言った。
「……けど、すでに、あんたの話は無視できるものじゃなくなった。俺は……、あんたに、まだ聞きたいことが山ほどあるんだ。だから……」
俺はポケットから、黒いスマートフォンを取り出すと、うつむく藍色に差し向けた。
「番号を交換してくれないか。話をするときは、これで連絡をとって……。どこか人目のつかないところに移動する。会えない場合はそのまま電話で。……とりあえず、それでどうだ」
風羽は、呆然とした面持ちで、俺の顔をのぞいていた。
だが数秒後……とつぜん口をおおきく開け、
「……は、はいっ!! はい、はい、はい!! ――……はいっ!!!」
叫んだため、耳をえぐられた俺はスマホを落っことした。……な、なんちゅう声を……!!
「あっ……! す、すみません!! も、もしかしていまので壊れましたか!? ど、どどどどうしましょう!! 修理はどうやって……! いえ、新しいのを買いに行くべきですね!! で、ではいますぐ……!!」
「壊れてない!! 落ち着け!! これくらいなんともねーんだよ!!」
スマホを示し主張するも、風羽はそれをひったくって砂を払い、ハンカチでふき……。上下左右裏表となめるように点検し始め、あまつさえ中を確認しようとしたので、奪い返した。
かしこまっているわりに、なんてデリカシーのないヤツだ……。
「……ほら、これが俺の番号。メアドもいちおう。でもなるべく電話で頼む。内容は、おそらく他人が見たら、不可解に思うことが多くなりそうだからな。万が一のことを考えて、文字で残さないほうがいい。……あと名前のことだけど」
「緑川晴様、ですね。承知しております! 先ほどは、つい取り乱し、セイラル様とお呼びしてしまいましたが、以後は確かに、緑川様と……」
「……いや。いい」
「……えっ?」
俺は風羽へ、番号を示したスマホを見せた。
「登録名は、セイラルでいい。俺もあんたの登録は、ファレイでする。電話やメールでやりとりするときは、そっちの名前で頼む。さっき話した通り、緑川と風羽は、クラスや学校では関わりのない『という』関係だからな。念のために。……直に会って話す場合は……、人がいなければ、別にどっちでも……」
風羽は、呆けた表情で突っ立っている。
俺は訝った。
「……言っておくが、もし人前で話すことになったら、『緑川』だからな? 『様』じゃなくて、呼び捨てでも君でも、ともかくそれで! 俺も『風羽』って言うから。……そこは気をつけてくれよ」
返事がない。
放心したように、風羽は風にさらされていた。
……な、なんだ……? ひょっとして怒ったのか。
そこまでして隠したいのかって。
「おい。……あのな。不愉快に思ったのなら悪いが、これは……」
「……番号とメールアドレス、及びお名前の登録を終えました。ご確認下さい」
とつぜん、淡々とした声と光を向けられて、『セイラル様』の文字と、俺の番号、メアドが収められた、長方形の画面が目に入った。
様、ってのがあれだが……。ちょっと様子が変だし、黙っておくか。
「あ、ああ……。早いな。じゃああんたの……」
「こちらになります」
またすばやく、よどみない動作で情報が示された。
俺はそれに引きずられ、慌てて番号とメアド、『ファレイ』の名を打ち込んだ。
「……っと。これで間違いないな? 見てくれ」
風羽は、差し向けた光をのぞき込む。
そして一度、瞬きをすると、
「……手に取って、確認しても……? ……落としませんから」
と、つぶやいた。
◇
俺は、スマホを黙って少し前に出す。
一瞬、手を震わせてから、風羽はそれを受け取る。
その表情は、先ほどまでの呆けたものではなくなっていた。
口はまっすぐに結ばれて。
ただじっと、息をひそめて。
瞬くことすら惜しそうに――。
手の中の光を、焼きつけるように、見つめ続けていた。
そうして、しばらくのち……、風羽は口を開いた。
「セイラル様。……ひとつ、伺いたいことがあります」
「……。あ、ああ……。……なんだ」
思わず応える。
風羽は手もとの光から、俺の目に視線を移す。
そのあと、長いまつげと唇を震わせてから、言葉を紡いだ。
「もし……。もしも私が……。あなたに仕える使命の末、生命果て……、あなたの前から永遠に去ることになったとき……」
スマホを握りしめ、続ける。
「あなたは……、ずっと記憶が戻らないままでも――。緑川晴様として……、私の名前を憶えていてくださいますか?」
◇
山の音が、ゆっくりと通り過ぎる。
ふたつの光が、俺の喉から水気を奪ってゆく。
「……生命、って。さっきの、万にひとつのことか。……それにしたって、いきなり話が……」
宝玉の輝きは、乱れることなく、こちらを捉えている。
俺は、ちいさく息をはいた。
「……俺は、あんたの話を信じられないと言った。いろいろ聞いたいまでも、理解の及ばないことが多すぎるし……信じ切ることは、できない。だけど……」
黒い機器を包む、白い手を見据える。
「あんたのその気持ちは、やはり、嘘のない、ほんとうのものだと思う。だからそれに対して、返事をする。……が、まず言っておきたいことがある」
風羽は、唇を結び直す。
俺は、まっすぐに言葉を放った。
「もし、あんたの言うように、なんらかの危機が訪れて……、あんたが俺のために、その身を投げ打って、生命を落とすことがあったなら――。俺はきょうの、すべての言葉と行動を恥じて、あんたを弔ったあとに死ぬ」
「……!? そっ……!! そんな――!!」
風羽は、スマホを落としかける。
俺は、華奢な指からこぼれそうになっているそれを取って、ポケットにしまった。
「あんたは俺を主だと言うが、こっちにそんな実感はない。俺にとっていま現在、あんたは魔術だのなんだの、突拍子もないことを言う、ただのクラスメイトだ。入学以来、ずっと同じクラスでも、一度も話したことがなかった、な。……でも」
黒曜石の輝きがゆらめく。
俺は、ポケットのふくらみに触れた。
「関わりがなかろうと、どんなにおかしなことを言う、変なヤツだろうと……。実は正しいことを言っていて、それを信じなかった俺を守って、死なせてしまったのなら……、――その責任は取る」
「……な……っ! ……なにを仰っているのですか!?」
風羽は、地をえぐるように蹴って身を寄せて、犬歯を見せる。
赤らんだ頬から発せられる声が、俺の髪の毛を震わせた。
「責任? ……そんなものはありません!! 私が勝手にした末のことなのですから! そ、それに実感がないと仰いましても、事実、私はあなたの従者で、あなたは主で……、負い目を感じることなどなにも……!!」
「そういうのじゃない。……あんたに、主に対しての揺るぎない気持ちがあるように、俺にだって、自分にとって曲げられないことがあるんだよ。……――要するに、それが俺の筋だ」
風羽は口をおおきく開けたまま、固まった。
その後、ぎこちなく頭を下げてゆき、体を震わせた。
「……していつも、あな……は……。……っても。まったく……に……」
くぐもった声が、空に解けていく。
両の指が、スカートを這い、濃いしわを作り出した。
「……す、……目です……、……――駄目です、絶対に……! そのようなことをされたら、私は……!」
何度もかぶりをふり、つよく一歩踏み出す。
……が、そこで動かなくなる。
「……なんのために……。……私の生命は……」
長い前髪は、黒い雨のようにしたたり、ふたつの星を隠した。
俺は、力をなくし、陰ったその身を見据えたまま、……口を開いた。
「……あんたの生命は、あんたのものだ」
雨の隙間から、輝きがのぞく。
俺はしずかに言った。
「主とか、従者とか……、あんたの言うそれが、じっさいどういう関係だったのか、俺には分からない。でも生命は、どんな世界だろうと――。誰に束縛されることもない、自分自身のもののはずだ。……だからファレイ・ヴィース」
宝玉の瞬きが止まった。
「同じ一個の生命として、もしこの身を救ってもらったのなら――。……緑川晴として。あんたが望むなら、セイラルとしても――」
俺は、拳をゆっくりと上げて、自分の胸に当てた。
「……その名前は、ずっと憶えているさ。……死んでも忘れない」
「……――うっ! ……うう~っ!!」
◇
ガラスのバラ。
高嶺の花。
ポーカーフェイス・ビューティ。
男子も女子も、遠巻きにして眺めるばかりの氷の偶像。
ときおり見せる笑みも、皆の憧れを増すばかりの完璧笑顔。
怒る顔も、困惑するさまも、誰も目にすることもない。
ましてや泣く姿なんて――。
だが……。それもこれも、かりそめの表情で……。
ほんとうの姿は……。
すべては【アイツ】の――……。
◇
――……あとは、ファレイに聞いたらいい――
――そいつは甘ったれで泣き虫で、どうしようもないガキだが――
―……今の俺よりは、役に立つ――
――じゃあな――
◇
「……ゃあなじゃねえんだよ、馬鹿野郎……!」
俺は拳を握りしめ、小声ではき捨て、つま先で土をえぐる。
目の前では、俺の罵声にも気づかず、風羽が泣きじゃくっていた。
……いったい【コイツ】は、どういうつもりだ?
主かなにか知らんが、ここまで慕っているヤツを放置して……。
心配をかけて、迷惑をかけて、生命までかけさせて……!
それも……、これも……、ありえない――。
ふざけた目的のために……!!
◇
「……じゃあな、じゃない。……またな――だ」
俺はポケットに手をつっこむと、四角い鏡をつかんだ。
そして再び、【ヤツ】が立っていた場所を見据える。
それからもう一度、つぶやいた。
「……思い出すぞ、俺は【俺】を。……夢の中から引きずり出してやる」
◇
5月××日。
17歳の誕生日。
時刻は未確認。
ただ、目の端に、銀時計の輝きだけが映っていた。
そのとき発したそれが、緑川晴の、最後の言葉となり――……。
セイラルの、さいしょの言葉となった。




