第89話 確証も実感もない【絶対】
もう鳥は眠り、虫も歌わず、ただハルやジュラ……草木花だけが風に揺れ、遠くに灯る村の宴へ静かなしらべを贈るころ。俺はハルの花を踏まないようにして、ジュラの根元に置かれたおおきな白石へと近づく。それは故郷に眠る家族へ祈りを捧げるために俺が作った墓だった。
俺は墓前へひざまずき、【魔芯】に指を当て、次に唇へ当て、最後に指を握り込み、ぱっと空に放つように広げる。師匠も隣で同じように、祈りを込めた魂の欠片を、空に放っていた。俺たちは手をおろすと、同時に立ち上がり、また墓を見る。
「……これは君の家族の。……祈るために、ということか」
師匠の言葉に、俺はうなずいた。俺の家族が皆、ここには眠っていないことを彼女は知っている。なぜなら当時、故郷が戦禍にまみれ、ひとり残された俺を助けてくれて、家族の亡骸を葬ってくれたのも師匠だから。よほどのことがない限り、墓を移すなどありえないから、すぐに彼女は理解した。
俺は師匠と別れてからほどなくして墓を作ったこと、毎日祈りを捧げていること、そして……家族の死を、きちんと受け止めたことを伝えた。
「師匠。前にあんたは俺に言ったよな。家族の死に向き合え、現実逃避するなと。言われたときは、腹も立った……まあそれは別の理由もあるんだけど。ともかくちゃんと理解できなかった。だけど、ここで村の皆と暮らして分かったんだ。……怖かったんだよ、俺は」
風が少し強くなり、ジュラのざわめきが強くなる。俺は墓を見たまま、続ける。
「当たり前に在った幸せが、いきなりなくなって。もう二度と父さんにも、母さんにも、兄さんにも姉さんにも会えないなんてことが、そんなことを認めるなんてできなかった。【そういう当たり前】が訪れただなんて、絶対に認められなかった。……でも、俺が認めるとか認めないとか関係なく、もう家族はいなくなっていた。あんたの言う通り、現実逃避してたんだよ。それを認めさせてくれたのが、【新しい当たり前】をくれたこの村の皆だ。……あんたが連れてきてくれて、出会わせてくれた皆だ。触れさせてくれた温かさだ。だからなくした当たり前を、ちゃんと見ることができたんだ。……泣いたよ。みっともないくらい」
師匠はなにも言わなかった。ジュラのざわめきの中、俺はかすかに聞こえてくる宴の音を耳にしながら、ハルの花たちを見る。
「……もし。もしもこの村に来ることがなければ、あんたが連れてきてくれなければ、父さんや母さん、兄さん姉さんたちの死と向き合うなんてことは、できなかったと思う。村の皆がその力と、もうひとつの故郷を……帰る場所をくれたんだ。それもこれも、ぜんぶあんたのおかげだよ。感謝してもしきれない。……ほんとうにありがとう」
俺は師匠に頭を下げる。顔を上げると、師匠は村か地平線か、天か……、とにかくとおくを見ていた。俺がそれに倣うように視線をそろえると、彼女は言った。
「感謝する必要なんてない。ただ私は、するべきことをしただけだ。戦時のおり、君と出会ったのがパスでもキーロルでも、同じことを、……いや、あのふたりならもっと、君のために親身になり、手際よくことをなしただろう。もしヤルゥが君と同い年ではなく、当時大人だったなら、……やはり同じように」
「だろうな。パスは見た目とあの喋りで勘違いされるけど、魔具を見れば繊細なことくらいすぐわかる。それによく皆のことを見ていて、親切で……。キーロルは、なぜか俺のことを好きでいてくれるけど、それと関係なく、だれに対しても情が厚いし、すぐ自分ごとのように感情移入してばたばたする。でも頭がよくて、ここぞというところはクールに決めるし。ヤルゥは言うまでもなく聡明で、リフィナー想いで、子供たちにも懐かれている、優しい女だ。きっとその三人でも俺は救われただろう。……いっぽうあんたはすげー子供っぽくて、雑で、合理的といえば聞こえはいいけど、相手の気持ちを無視してことを運びすぎる面がある。俺も何度、それで腹が立ったか分からないしな」
「……おい。感謝の必要はないと言ったが、そこまで言われる筋合いもな……」
「でもあのとき出会ったのは、あんたなんだよ。パスでもキーロルでも、ヤルゥでも、ほかのだれでもない、俺を救ってくれたのは、師匠、この世でただひとり、あんたなんだ。……そしてそのときからいままで、ただひとり、俺が男として愛している女も―—あんただけだ」
こちらへ振り向いた師匠をまっすぐ見て、言い放つ。師匠は面食らったように目を見開いたあと、ほんのわずか硬直し、それから強引に表情を戻した。しばらくのち、おおげさにため息をついてまたとおくを見るが、まだ俺の視線が途切れないのを察して、居心地が悪いのか、言葉を放った。
「……要するに、当時の君の立場からは、【ぐうぜん】ことをなした私は大恩を感じるリフィナ―にあたり、だからこそ、その強い気持ちを恋や愛と勘違いしていると。改めて話し、それがよく分かっただろう。……良い機会だ。今夜はその勘違いを払い、正しい気持ちに向き合うといい」
「正しい気持ち、ね……。あんたはいままでもそうやって、そういう言葉を使って自分の気持ちの選別をし、【正しくない気持ち】として封じ込めてきたものがあるんだろうな。……たぶん、大切なこともその中には」
師匠は、ゆっくり俺を見た。表情は一見、平静さを保っているが、唇の端がわずかに下を向いていた。
「君はなにを言いたい。私を言い負かしたいのか。それとも、自分の正しさを証明したいのか。……どれにせよ、大仰に感謝や愛を口にしながら、それ以上に私へこらえきれぬ不満があり、ぶちまけたいのはよく分かった。宴の中、それがわざわざ墓へ連れ出してすることかどうかは疑問だがな。……付き合ってやる。言ってみろ」
もはや怒りを完全に隠そうともせず、魔力すらわずかに漏らして、半眼で腕組みをして俺をにらみつけていた。ふつうのリフィナ―ならビビるんだろうが、俺は逆に、いよいよ子供のような、実に師匠らしいそのさまに噴き出しそうになる。それを感じ取った師匠の半眼がきつくなってきたので、俺は言った。
「……5年前。あんたが俺を試験して、俺がそれを解けなくて、あんたは出て行った。当時はあんたの『なぜ君は強くなりたいのか。私の弟子になりたいのか』という問いに答えを出せなかったし、俺には元からそういうものがなかったんじゃないかと思ってさ。愕然としたよ。パスにもそれを見抜かれていたし。それでパスに村へ住み、皆と暮らし、時間をかけて、自分の中に在る【答え】を自覚しろ、と言われて。……答えを見つけたよ。というより、村の皆と生きることで気づかせてもらった、というのが正しいけど」
師匠のまぶたがわずかに持ち上がり、目の光が増す。俺は淡々と、当たり前のように口にした。
「俺が強くなりたかったのはな。命を救ってもらったあのときにひと目惚れしたあんたを、振り向かせたかったからだよ、師匠。自分の背負ったもののおおきさから、世界のだれも相手にできない、巻き込めない――そう思い込んでいるあんたと、ただふつうの恋をしたかったんだ、俺は―—」
師匠は腕組みを解いた。それから、気が抜けたように間抜けた表情になった。瞳は理性の縛りから解放されたように、星月の光をまともに受け、きらきらと輝き、唇はぽかりと開いている。子供っぽい彼女は、いまほんとうに子供の……無防備で無垢な表情になっていた。
「この村のリフィナ―は、皆、魔力値が100に満たない。でも世界一の魔力値を持ち、魔術士として最高位のあんたにまったく臆していない。それはあんたが、あちこちにいる魔術士みたく、魔力値の低いリフィナーを見下したり、高圧的に接したりしないからだけど。それだけじゃなく、皆【強い】んだよ。生きる物差しとして、魔力値とか魔術のすごさとか、そういうもの以外の、自分の足場があるんだ。パスの魔具作りにかける情熱のように、たとえ一瞬で首を飛ばされるような存在に対しても、自分の生き方を引っ込めない覚悟がある。……あんたが皆を好きで、尊敬し、大事に思っているのもそういうことだと思う。俺をここに連れて来たのも、たぶん、それを俺に見せたかったんだ。【ほんとうの強さ】がこれだと。……なぜならそれは、そうした自分の願いを貫く強さは、あんたには決して得られないものだから。……——憧れの強さなんだ」
師匠は唇を閉じる。それから瞳を揺らした。それは子供が隠していたことを、親につきとめられたような……。昔、俺が母さんにそうされたときにした表情と同じだった。
「あんたはものすごく強い。この世にあるものは、その気になればなんでも手に入る。それは王様だって叶わない、特別な力だ。だけどそんなふうにはふるまえないくらい、ものすごく優しくて、……ものすごく弱いんだ。自分の欲しいものに手を伸ばし、わがままを貫いて、ポケットをいっぱいにして喜ぶ気になれない。あんたの持っている強さは、あんたが求めたものじゃないから。勝手に天が……あんたの大切なものをたくさん奪って押しつけてきたものだからだ。そんな力で、強さで、なにかを求めても、なにかを目指しても、精霊か神様か、ほかのなにかか分からないけど、最後にはそういう存在に紐づけされて、マーリィ・レクスゥエルとしてはほんとうに生ききれないということを、あんたは嫌というほど知っている。……これまで、恋や愛をどれほど手にしてきたかは分からない。だけどいま独りでいる、これからもそのつもりなのは、自分の縛られた生に、この村の皆のような、大事になったリフィナ―たちをもう巻き込みたくないからだ。……——だからそれを俺が終わらせる」
師匠は俺を見た。俺は彼女に、一歩近づくと言った。
「ヤルゥがあんたのことを、『天才がゆえに運に左右されない』、と言っていた。すべてが見通せて、自分がどうなるか理解してしまい、運という不確定要素がその生に関与しないと。だから俺は言ったよ。俺がその不確定要素に――【俺が師匠の運になる】と。あんたの生に巻き込まれるんじゃなく、俺があんたの生を巻き込んで、最後に師匠の隣に並び立つ。……それはぜんぶ師匠、惚れたあんたに振り向いてもらうためだ。なくした家族の穴埋めなんかじゃない。あのとき出会ったあんた自身……恋や愛を封じている、不器用で子供っぽい、だれよりも哀しくて優しくて美しい、【ただのありふれたひとりの女、マーリィ・レクスゥエル】を抱きしめるため、俺は【世界最高の魔術士、マーリィ・レクスゥエル】に学び強くなる。——……これが俺が強さを、師匠から求める理由だよ」
「…………、ふ。…………ふ、。…………ふ―—。馬鹿げている。ほんとうに。……心の底から。いま、私はそう思ったよ」
師匠は言葉のとおり、心底呆れたように苦笑して、目を細め、口をひきつらせ、頭を押さえていた。その反応に、俺は若干気圧されて、出した足を戻そうとしたが―—上から踏みつけられて悶絶した。
「——っ!? つ……ってーぇっ!! な、なにすん……!!」
「戻すな。引っ込めるな。【君が出したもの】だろう? ……なんだって? 私が恋や愛を我慢している? 自分の縛られた生にだれも巻き込みたくない? だから君が私の運となり、自身の生へ逆に私を巻き込む!? ……——ふっ。ふ、ふ、ふ! なんだそのおかしな言葉は!! そして実にたいそうな分析、大言壮語な物言いだなセイラル・ヴィースどのよ!! ……あまりに面白すぎて笑いがこらえきれんよ!!」
そのまま師匠はぐりぐり俺の足を踏みつけて、俺は悲鳴を上げる。師匠の力なら、とっくに俺の足は粉砕されているだろうから、肉がつぶれず、骨が砕けない程度を見極めて俺に制裁を加えている、といったところか。……つまり理性的にブ、チ、切れ……ていっ…………てえええええええええええ!!!!
「わめくんじゃない、ガキっ!! よくもまあ長々長々しったふうな口をきいてくれたなぁ……! 大口を叩いてくれたな阿呆がっ!! まさか15の小僧にここまで言われるとは、甘やかしすぎたか!! だがこれからはそうはいかん!! ……命を落とすぎりぎりまで鍛えぬいてやる!!」
「つたたたたあたあたあ!!! ……——えっ……、——えっ!? え、え!!?? い、いまなん……、師匠っ!! ——いまなんてっ!!??」
「自分の都合の良いときだけ師匠と呼ぶんじゃあないよっ!! 鍛えると言っているんだよ!! パスとの甘い時間は今夜限りということだ!! ——以後、君はこの私、マーリィ・レクスゥエルが正式に、魔術士として弟子に取り、育てる! ……——反論は許さん!!」
「……っ!! は、はい!! はいはいはいはい、はいっ!!」
俺は何度も何度も頭を振り、うなずく。足の痛みも吹っ飛んだ……まだぐりぐりされてるけどなっ!! ……っ……たあ!! 弟子だ!! 仮じゃなく、ほんとうに、……正式に師匠の弟子になったんだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!
そのまま万歳したら師匠が足を上げて俺を解放し、俺は後ろにすっ転ぶ。思い切り地面に倒れたが、ハルが守ってくれてぜんぜん痛くない。たくさんの星が目に飛び込んでくる。月の輝きが俺を照らしている。ジュラのざわめきが祝福の音色に変わる。っしゃーーーーーーーー!! 合格だぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、あいたっ!!!
「起きろっ!! 弟子には取るが、その前に聞いておかねばならんことがある。……君のさっきの大口。私はいい加減な言葉が嫌いでな。君に現実を伝えた上で、再度問う。……君のいまの魔力値が3500ほどなのは、理解しているな?」
師匠に蹴られ、起き上がり、尻を押さえつつ涙目で俺は彼女に向き直る。そして聞かれたことに、静かに答えた。
「ああ……。それと、先にこっちも聞いておくけど。ヤルゥによると、いまの俺の歳でこの魔力値だと、これからどれだけ鍛えても、生涯の上限値は5万。しかもそれも、好い師と出会い、死ぬほど努力して、というのがこれまでの、大勢の例らしい。……それに間違いはないか」
「ない。その通りだ。さすがによく調べているな、ヤルゥは。……つまり、それでは150万を超える魔力値を持つ私に並ぶことはおろか、クラスSどころか、Bの下位になれるかどうかも怪しい、ということだ、君は。魔力値に関しては。……それを分かっていて、どうやって私に並ぶつもりなんだ?」
師匠は半眼で、腰に手を当てて俺を見る。呆れてはいるが、馬鹿にはしていない。その証拠に【どうやって並ぶか】、具体的な話を求めている。無理だと言っていない。というか、大口で終わることを許していないのだ。俺はそれに嬉しくなって、わずかに笑みを浮かべて言った。
「無論、【それなりのやり方】を探すつもりさ。……たとえば俺は、パスと出会ったときに、魔具を使ってボコボコにされたけど、パスの魔力値は12だ。俺はそのときパスに【そんなの自分の力じゃない!】って文句を言ったけど、いまは違うと思っている。というか、どうでもいいんだ。なにを使ったとか。それをパスもよく知っていて……たぶん俺に教えてくれたんだと思う」
「手段を問わず、勝てばいいと?」
「違う。パスは自分の考え、想いを、未熟な俺に伝えるため、そしてたぶん男の先輩として、師匠の友として、なすべきことをなすために、意図的に魔具を用いて、魔術士を目指す当時の俺をボコボコにしたんだよ。【強さは相対的なもんや】と言ってたし、それを伝えるために。……俺はそれに学び、魔術士として高みに昇るために応用する」
師匠の目の色が変わった。口の端がわずかに上がる。「ほう、ほうほう。ほう。……で?」と言いながら一歩寄ってきたことでも分かる。子供が菓子を求めるのと同じ期待だ。俺はそれに応えるように、右手で拳を作って、左のてのひらを、ぱちんと殴った。
「力のおおきなものが、弱いものを圧倒する。これは当たり前だ。魔術士でいえば魔力値が、最も単純な力のものさしとして機能する。けど魔術は使い方によってはそのものさしを使えなくする。ちいさな火でも竜巻に、【いつ、どのように使うか】で結果が変わる。それに魔剣士とかの魔術を使えない戦士たちだって、単純に魔力のおおきさだけで強さが決まるなら、それぞれの技を磨く必要がない。そのままおおきな魔力で殴ればいいんだから。……つまり、魔力を扱う【術】とか【技】のほうを、その本質を徹底的に考えれば、なにかが見えてくるはずだ。……だから魔術士の修行と等しく、余技ではなく、俺は魔術の開発者となる。加えて魔具の開発者にも。そっちはもうパスに少し教えてもらってるけど、自分の手で、魔力効率のいい魔術を創るために必要なことなんだ。そして同時に、精霊が魔力を個にもたらすしくみ……なぜリフィナ―によって魔力値の差があるのか―—を解き明かす。精霊についても研究する。タブーにだって躊躇せずに、切り込むつもりだ。……これらをあんたに鍛えてもらいながら実行する」
「それらはもう、当たり前にやっている者たちがたくさんいるし、過去にもいた。それでもある程度の差ならばともかく、圧倒的、巨大な魔力には、どうやっても太刀打ちできないという結論が出ている。……ということを分かった上での発言か?」
「いや。【やってない】ね。本気では。だって、あんたがいま言った結論は、取り組む前から皆に刷り込まれている思い込みだからだ。だからけっきょく、なにをしたってそこに収束するようになってるんだ。なぜなら、リフィナーの上位存在である精霊のことを、それがもたらす世の仕組み、奇跡を【だれもほんとうに疑ったことがない】から。皆信心者なんだよ。……だから俺がいちばんはじめの【不信心者】、世の作り、秩序を疑い、【クラス0S】の魔術士と渡り合える、魔力値5万の魔術士になり、新しい当たり前——【現実】を創る。言ったすべてを実行して。【現状】を打破して。——……それだけだ」
はっきりと、師匠に言い放つ。師匠は俺の両眼をひとときもぶれずに見据えていて、俺の言葉が完全に消え、静寂がもたらされた瞬間——その美しい目を細めた。
「く、く、……く……——。やっぱり阿呆だな、君は。とほうもない阿呆だ。しかし世の中を変えてきたのは皆阿呆だ。ぜんぜん現状を受け入れなかった者たちばかりだ。そして、それらの者は皆、阿呆ではあっても馬鹿ではなかった。君がこれから、ほんとうに彼彼女らと並び立つ者かどうかは……——私にもその責任の一端がある、ということか……」
師匠は、はっきりと笑みを浮かべて天を見た。長い青髪が風になびく。目は星月の光を受け、きらきらと輝いている。楽しそうに、嬉しそうに―—。やがて彼女は前髪に手を入れて、後ろになでつけるとこちらに振り向き、手をかざした。
「創術者及び執行者はマーリィ・レクスゥエル。隔絶せよ。——リドミール」
刹那、俺の周囲に金色の丸い膜が張られる。ほぼ透明で辺りは見えるし、音の聞こえにも変化はないが、檻のごとく外へ出ることができない。それもただの檻じゃない。明らかに違う空間だと、俺の魔力の変化が伝えている。……これは結界だ。
「お、おい! なにするつもり……、まさかまた、こうして閉じ込めてどっかに行くつもりじゃ―—あいたっ!」
師匠はいともたやすく膜をこじ開けて、俺を殴る。そして半眼で、涙目で頭を押さえる俺を見下ろしたあと、手を放し膜をもとに戻すと、言った。
「いちいち君をまくために結界なんか張るか阿呆が。結界はいまからすることで、君が死なないための処置だ。つまり、逃げずによく見ていろ、ということだ。……君が大口を叩いた、クラス0Sの【魔神】を超えるということが、どういうことなのか。……その【現実】をな」
「し、死なないように……って。いったいなに……——っ!?」
空気が変わった。さっきまでかすかに聞こえていた村の宴の音、そしてジュラのざわめきが消滅し、完全に無音となる。音がかき消されたというよりも、【皆、黙った】という感じに。師匠の周囲で風がやみ、時が止まり、星月の光が一瞬、飛んで闇に包まれたとき―—。
「……天地の精霊よ。いまこそすべての魔力を解き放つことを、希う。求める我が名は、マーリィ・レクスゥエル! ……――【全結】!!」
師匠の声だけが響き渡り、透明な光が彼女を中心として爆発し、ハルの群生は荒れ狂う川面となり地を揺らし、ジュラはしなり空を乱し、そこに眠っていた鳥たちは吹き飛ぶように飛び立って、辺りは魔力光で夜が消えて昼となる。結界に守られている俺に衝撃は来ない。だが【魔芯】の鼓動が止まらない。息ができない。目がそらせない。あのとき、師匠が帰ってきたときに漏れていた巨大な魔力とはまったく質が違う。これがほんとうの、師匠の全力なのだ。そんな世界最高の魔術士の、その力の根幹が示されて、その感動もあったが、それよりも―—。太陽のごとく輝きの中に立つ、哀しい表情を隠せない、美しく気高いひとりの女の姿に……俺は釘付けになっていた。
これほどの魔力なのに、ものすごい衝撃なのに、ハルの花は地に咲き続けている。ジュラの大木も倒れていない。鳥は吹き飛ぶように押されはしたが、皆ちゃんと自らの羽で飛び立った。全力を解放しつつ、世界を気遣っている。極力傷つけないように思いやっている。それが彼女にどれほどの負担をかけるのか及びもつかない。……キーロルを始め、この村で五年間暮らすうちに、何人もの魔術士の術式、魔力を見てきたが、こんなものは見たことがなかった。……これが世界一の魔術士の……マーリィ・レクスゥエルの在り方か!!
やがて太陽のごとき光が、少しずつ収束してゆく。それに合わせてジュラのざわめきと、遠くの宴の音に交じって、明らかに騒ぎが起こっている様子が伝わってきて、同時に俺を包んだ膜は消えた。見ると光の消えた師匠はやや気まずそうな表情をして、遠くで右往左往している灯りの群れを見ながら、頭をかいていた。
「……とうぜんと言えば、とうぜんだが……。これは村の者たちだけでなく、キーロルもまた、飛んでくる、か」
「だろうな。宴の邪魔をして! なんてレベルじゃないだろうし。……しかし、そんなことくらい分かってたんじゃないのか? まるで思ってなかったみたいな感じだけど」
「……君が【巻き込んだ】からだろうが、この阿呆! 私がいつも冷静だと思うな! ……皆には、というかキーロルにも君が説明しろ。『すべては俺が悪いんだ! 師匠は俺のためにやったんだ!』と。一言一句事実だからな」
ぷい、と横を向いて腕を組む。俺は苦笑してため息をついた。すると師匠はこちらを見ないまま、言った。
「……れで、どうだったんだ。あれが君が立ち向かおうとしている【現状】で【現実】だ。自分がとんでもない阿呆なことを言ったことを反省したか? 撤回する気になったか。……ならいまだけは、多少の付き合いの情として、それを受け入れてやらんでもない」
「まさか。ますますあんたを尊敬したよ。それに惚れ直した。やっぱりすごいし、あんたはだれよりも美しい。……だれにも渡したくない」
「……。ガキの言葉をまともに取るほど、私はもうガキではないよ。ただ言ったことの責任を取る態度だけは認める。……——やはり君が私の、さいしょで最後の弟子だ」
師匠は腕組みを解き、振り向いた。そして俺に近づくと、俺の【魔芯】に手を当てた。
「君を弟子にすると同時に、私の従者にもする。……従者については知っているな? その主従契約のことも」
「ああ、ヤルゥに教えてもらったことがある。いまあんたがしているように、従者となる者の【魔芯】に手を当てて、【汝、ただ我がものとなれ】と、あんたが思えばいいんだよな。そしてその契約は絶対で、ただ弟子になるのとは違い、生命を共にするに等しいと。……そんな感じだったか」
「またヤルゥか……。君はヤルゥにたいそう好かれているみたいだが、こんな面倒くさいおばさんに構っていて、ほんとうにいいのか? きっと後悔するぞ」
「突き放すように言うわりには、目が半眼になって、口が尖ってるんだけど。もしかして拗ねてるのか? 俺がヤルゥの名前をたびたび出……っててててていてぇ!!!!!!」
思い切り顔面をつかまれて骨がきしむ。指の隙間から見える表情はブチ切れていた。……見当違いのことを言ったからか? それとも多少は嫉妬……もあるのか。だとしたら嬉しいんだけどいてぇ!!
「契約について分かっていればそれでいい。従者から解除することは死を意味することも分かっているな? それでもよければ目を閉じろ。……——契約する」
言われてすぐ、俺は目を閉じた。そのとき、空耳かもしれないが、ほんのわずか、笑う声が聞こえてきた。そして次の瞬間——俺の【魔芯】が発光し、自分の奥から生命の根、と言うべきなにかが出てきて、師匠のだろう、俺と同等の生命の根が絡み合い、ふたりの間で溶け合って、天に昇ってゆく。……俺の魔色である緑と、師匠の無色透明のそれが混じって輝いた。
そうしてしばらくのち。光が消えたころ。俺が目をゆっくり開けて、師匠が俺から手を離したとき……彼女はぽつりと言った。
「……年、か……。私も本気で立ち向かわねばなるまい」
「……? いま、なんて……」
「なんでもない。契約は完了だ! ……ほら見ろ。あの天を翔る緑の光を。さっそく弟子の、従者としての初仕事だぞ! あの面倒な小娘をなんとかなだめて、送り帰せ! ……私はいま、戻ってゆっくり酒を飲みたい気分なんだ」
師匠はどん! と俺を押し出し、俺は慌てて土を踏む。足元にはハルの花が、花びらも落とさず咲いていた。それを見て笑みがこぼれてきた俺は、気持ちを切り替えるように、少し離れたところに着地したキーロルが、緑光をまき散らしたままずかずかこちらへ向かってくるさまに相対して、……どう言い訳したものか頭をかいた。
◇
◆
◇
夢を見たときは、その最中ははっきりと覚えているのに、起きたはしから消えてゆく。ふつうの、いつもの夢であってもそうだけど、この、セイラルとしての夢を見たときは、消える速度は一瞬で、……しかし感触だけが胸に残るから、覚えていなくてもはっきり【見た】ことは分かる。いまなら【魔芯】を自覚しているから、その感触でも、確かに。
ただ今回は、前に何度か見ただろう、セイラルとしての過去の夢とは違い、そうした感触だけでなく、……——【肉体の反応】として出ていたのだ。
「……んだ、これは……。なんで俺は―—」
起き上がり、ひとりごちる。その間もぽたぽたと涙がこぼれ、俺のズボンとベッドを濡らしていた。寝ながら泣いていたんじゃない。いま泣いている。胸が、【魔芯】がざわめいて、なにか抑えきれない感情が、激しく動いていることは分かる。……ただし冷静に、他人事のように。
そもそもなんで、俺は寝ていたんだ? 時間は……夜の11時前か。まだそんなに遅くはない。確か……だれかと電話を。そうだ、莉子ちゃんから電話があって、それで彼女がストーカー被害に遭っていて、その相談に乗って……。彼氏の振りをするとか、そんな話をして電話を切って。……その対処がいまみたく冷静過ぎると、そう思って気持ち悪くなったんだ。だんだんと、緑川晴としての自分が、セイラル・マーリィとしての自分に侵食されていっているような気がして。……。それでぶっ倒れた、ということか。
……ったく。いつもいつも……。自分のこととはいえ、【セイラル・マーリィ】っていうヤツは、ほんとうに……——。
「……。……——マー……、リィ。セイラル・マーリィ……。——……【マーリィ】?」
俺は目を見開き、それから立ち上がると頭を押さえた。……マーリィ。待て。なんだこの引っ掛かりは……。もう聞きなれたこの名前。ファレイに教えてもらってから、自分の、もうひとつの名前としても受け入れていたこれに、なぜかいま違和感を感じる。そう、これは【ほんとうに、セイラルの名前だったのか?】。
魔法界のことはまだよく分からない。だけどファレイ・ヴィースとか、ロドリー・ワィツィとか、ルイ・ハガーとか。彼女らの名前は、たぶん人間界の西洋人とかの呼び名と同じで、名前+苗字の順だ。でも【セイラル・マーリィ】って【名前+名前】っぽくないか? 改めて、いまさらだけど。そりゃ、マーリィっていう苗字があるのかもしれないけど。俺の感覚では、ものすごい違和感がある。なぜかいま、さっき見た夢のせいで、いよいよ―—。
◇
―—君はほんとうに阿呆だな―—
◇
「……。——あっ……——」
なにかがいま、頭の中で響いてきて、それで俺は、いつも忘れる過去の夢の中で唯一、覚えている【藍のマントを羽織った、長い青髪の女】の姿を思い出す。そして唇をかんだ。……確証はない。実感もない。ただしそう思うと【魔芯】の輝きが揺らいでいる。……もしかして、【マーリィ】っていうのは……あの青髪の女の名前なんじゃないのか? でも、だとしたらなぜ、セイラルの名前に……過去の俺はそれを名乗っているんだ。どういう関係だ。どうでもいい存在じゃないことだけは、分かる……。でも……——。
「おーい。ちょっと降りてこーい!」
下からじいちゃんの声がする。それで俺は我に返り、慌ててはーい! と返事をして、部屋を出ていこうとするが、ふとベッドに転がるスマホを認めると、拾い上げてメモ帳を開く。そして『セイラルに関すること』の記事を開いて、ただ一行、書かれていた、【藍のマントをまとった、長い青髪の女】という文の下に、
【 ↑ たぶん名前は、マーリィ。セイラルとの関係は不明。 ← たぶん、どうでもいい存在じゃない】
とだけ、素早く打ち込んで保存すると、またスマホをベッドに放り、涙をぬぐい……——急いで部屋を出ていった。




