第85話 帰還。そして……
――セイラル・ヴィース。なぜ、常々私が君に阿呆と言うのか、分かるか? ――
――そりゃあ、マーリ……、師匠から見たら、いろいろ足りないからだろ、おれは。あとは嫌がらせ。つきまとってうっとうしいから、ついてくんな攻撃。……これでもけっこう傷ついてるんだぜ? もうちょっとさあ、突き放すにしても、こう、別の言い方っていうか、優しくしてくんないかなぁ……――
――違う。なにもかもが違う。私は君に、【自分のことを見ろ】、と言っている。いまのような反応も含めて、君は世界については一途に見つめるが、こと自分のことになるとてんで興味がない。しかし世界の真実というのは、その姿だけでなく、君自身についても知らなければ完全には得られない。つまり欠けているところを埋めろと忠告している。私に好き好き言うのにも、その欠け具合が表れている。君はもっと自分の心に向き合う必要があるんだ。……魔術士になりたい、というのがほんとうの気持ちならな――
――……。もしかして、その、自分に向き合う、とかいうのをしたら、師匠を好きじゃなくなる、って言ってるの? いまの気持ちはまやかしで、うそのものだって。……――冗談じゃないよ! そんなことあるわけない! 仮に万が一、……あんたに助けてもらったから、ただ、そういうので好きだと思い込んでいるとして、それが【真実】とかいうヤツだったとしても、それは【おれの真実】じゃないよ! ……魔術士っていうのは、自分のいま、ここに在る気持ちも疑って、それで実はこうだーって! 賢ぶってなきゃなれないもんなのかよ! ……俺は違うと思うな! そもそもあんたがすげー賢くて冷静で、【世界の真実】とかは知ってても、ぜってーそれに従ってないじゃん!! ――
――……。なぜそう思う――
――俺が惚れてるからだよ。俺はそんな【素直な女】、好きになんねーもん! ――
――…………。やっぱり阿呆だな、君は。そして聞いた私も阿呆だった。もう聞くまい。……行くぞ――
――あ、ちょっと待てよ! じゃあもう、阿呆阿呆言わないってことだよな!? やった! ……んじゃ次からは、『仕方のないヤツだな。君は。……だがそれがいい』とか! そんな感じで頼むよ、な!――
――阿呆か君は。そんなふうに思ったことは一度もないしこれからもない。言われたくなければ、私の忠告をきちんと聞き入れて、自分に向き合うんだな。……いつか、取り返しがつかなくなる前に――
◇
◇
「……。……はああ~っ……」
俺は顔をしかめたまま目を開けて、天井をその両眼に映す。久しぶりに見た師匠の夢が、これかよ。もっと好いヤツあったろうに。そういや怒られたのばっかか、いままでも。師匠との夢は。
俺はベッドから降り、ぺたぺたと部屋の隅にある水がめへ移動すると、そこへ浮かんだコップですくって飲む。口の端からこぼれ落ちた水が、ぽたぽたと足の指を濡らすが、汗ばみ熱を持った体を冷やすには至らず、逆に部屋の蒸し暑さに気づくはめになる。……まだ時間はあるし、川にでも行くか。ついでに、【あそこ】へも。
俺は汗ばんだシャツとズボンを替えずに靴をはき、寝室を出る。それから短い廊下を歩いて居間へ入ると、長椅子であおむけに寝たまま、眉間にシワを寄せるパスが目に入る。こちらも汗だくだ。
「ちょっと川に行ってくるよ。寄り道するから少し遅くなるけど、祭りが始まるまでには戻る」
「……――おー……? ……おー……。祭り、祭り、な。そういや、まだ始まってすらないんかい……」
と、ぶつぶつ言うとさらにシワが寄り、体勢を変えて縮こまる。祭りの準備が終わったあと、村の者たちは、祭りが始まる晩までは自宅に戻り、体を休めたり、用事を済ませたりする。いまはそういう時間で、俺もパスも疲れ切って寝ていた、ということだ。そしてパスは、ずっとひとりで、やぐらの柱にファレイ彗星の刻印を掘り続けていたせいで、まだ起き上がれずにいた。歳……は関係ないか。あれはだれでもこうなる。横にフースイがいてサボれなかったし。
「じゃあな。酒はどうせ祭りで呑むんだから、いまは控えろよ」
返事はなかった。そして俺が家を出て、ドアを閉めたとたん物音がしたので、酒瓶を取りに起き上がったか。要らんこと言わなきゃよかった。
◇
村は静かで、リフィナーたちの姿もまばらだった。おそらく皆、朝から準備で働きづめだったから、俺やパスのように寝るなどして、体を休めているのだろう。あとは俺と同じように、川で汗を流しに行ってるか。なにせ今回は例年の祭りと違って、だれも経験したことのない【5年祭】だ。事前に身を清めておこうというリフィナーはたくさんいるだろう。できれば時間がかぶらないほうがいいんだけど。とくにアイツらだと、面倒なことになるし。
ちなみに【アイツら】とは、準備のときに絡んできたヤルゥたち女子軍団ではない。村にいる、俺の男友達連中である。そもそもヤルゥたち女子とは洗い場が違うので会うことはない。
川の名はメルといい、村のふちをなぞるように、北から南に抜けてゆく大事な村の水源であるが、その上流が生活用水をくむ『ポルテ』、中流が洗い物をする『シルテ』、そして女の洗い場が下流の『ミテ』で、さらにその下、最下流が男たちの洗い場たる『イテ』となっている。
それらへ至るすべての道も早い段階で分かれており、どこも声が聞こえるほど近くにない。当たり前の話だが、余計なトラブルが起こらないための区分けだ。まあそれを破ってのぞきにいった男たちや、恋人同士のあいびきの場所として、だれも来ない夜に落ちあったりする者たちもいるわけだが。もし見つかれば、ふだんは日向の置き物と化している長老のサンバイ(924歳)に報告されて、「 3 0 0 年 !! 早いわぁ~~~~~~~~~っ!!!」と延々説教されるんだけどな。俺も一度だけその現場を見たことがあるけど、あれは殴られたり魔術で罰せられるよりもキツい。村の歴史だけならまだしも、サンバイの長い長い半生を夜通し聞かされ続けるのだから。
そんなことを考えているうちに、川の音が耳に入る。同時に、わいわいと騒ぐ声も、風で木々が揺れる音といっしょに耳を伝う。嫌な予感は的中した。どれもこれも、聞きなじみのある声しかなかった。
「おっ! セイラルやっと来たか! お前が遅いから、体が冷え切っちまったじゃねーか!」
「どーせグーグー寝てたんだよ。んで、マーリィの夢とか見てたに決まってるさ。コイツはそういうヤツ。……たぶん5年後の本祭のときだってそう」
「バカだねぇ……。ちゅーことは、やっぱだれとも踊らねぇんか? ……なんのためにここに来たんだよ」
文句を言うヤツ、皮肉を言うヤツ、呆れるヤツ。どいつもこいつも俺と同じ15歳、大人になったというのに、その面は俺がこの村に来た10歳のときと変わらない。いちばんムカつき、そしてだれよりも気が合う連中、ハク、ジュート、ルクラスだ。
「うるせーな。汗を流しに来たに決まってんだろ。俺がどんだけ働いたと思ってんだ」
シャツもズボンも下履きも脱ぎ全裸になると、川へ入ってゆく。ひんやりとした感触がつま先から脚、腰、胸へと伝わり身震いすると、ばしゃばしゃ三人が近寄ってきて、まずハクが俺の頬を小突き、ジュートが胸を押し、最後にルクラスがびゅっ! と両手で水を押し出し飛ばして俺の顔にかけた。
「おい、お前! 準備のとき! ヤルゥたちとやり合ってたろ! ……レミっ、レミルは、なんか俺のこと、言ってたか!? あ!?」
と、ハクがごつい体を縮めて不安そうな表情で聞いてくる。続いてジュートが、濡れた長い前髪をなでつけて、格好をつけたあとにかすかに笑うと、
「とうぜん、僕のことを噂してたろ? 【彼女】は。……どんなふうにほのめかしてたんだい?」
そう、自信満々につぶやいた。で、そのあとにはルクラスが横を向いたまま、
「……ルーは。アイツはだれと踊るとか……、そういうことは、言ってたかよ。べ、別に、どうでもいいんだけどな! 大人になって初めての祭りだしよ。いちおう……長い付き合いだし」
ぶつぶつ言い耳を赤くしていた。俺はどうしたもんかと半眼になっていたが、「おいコラ! なんだその態度はっ!? 俺の質問が聞こえねーのかよっ!!」とハクが耳に怒鳴り、「お、おまえーっ!! いま、僕を馬鹿にしたろっ!? ……ちょっと、ほんとに、【彼女】は……なにも言ってないのかい!? おおおおお!!」と半泣きになり、ルクラスは、見るも哀れな真っ青な表情で、「そうか……。そういうことなのか……」などと言いながら川の中央、深いところへ進んでゆく。まあそこでも、肩までなんだけどな。
仕方ない。祭りの前に暴れられたり、泣かれたり、自殺めいたことされても困るから、言うか……。
「落・ち・着・け。結論から言うと、お前らは【脈あり】だよ。たぶん、踊りに誘ったら、全員オッケーしてくれるんじゃないか? 本人たちの言葉を聞いたわけじゃないが、ヤルゥが俺にそう言ってたから確かだろうよ。……アイツはそういうことに関しては、うそは絶対言わねーから」
「「「ヤルゥがっ!!??」」」「「「ならイケるだろ!!」」」「うおーーーーーっ!!」「うひょーーーーーー!!」「よっ……しゃーーーーーーーーーーっ!!」
三人同時に叫び、水面をばしゃばしゃ叩きまくり、変な歌とともに歓喜の踊りを始める。ハクは足を「ほうっ! ほうっ!」とか言いながらヒザを何度も交互に上げ、ジュートは髪の毛をめちゃめちゃにしたまま、両手を上げて泣いていたし、ルクラスは「……っし! ――っし!」としずかに何度も拳を握りしめていた。……というふうに、要は全員、ヤルゥ軍団の女子に好きな相手がいるのである。皆同じ15歳の幼馴染で、俺は5年前からそこに交じったのだが、ほかは生まれたときからいっしょに過ごした仲だからな。その中の何人かは、互いに恋心を抱いていても不思議じゃない。
俺の個人的な感触だと、コイツらからの気持ちのほうが、【いまは】強いとは思うけど。レミルら女子たちもそれぞれ、まんざらじゃないというか、きょうだって、俺にヤルゥのことについてちくちく言いながらも、自分たちがだれと踊るのか、誘われるのか……ということを、楽しそうに、そして少し不安げに話していた。俺に文句を言うときとはまるで違った、美しい乙女の表情で。
よくも悪くも性格がはっきりしているハクに、同じくはっきりものを言うレミル。スカしたように見えて、実は面倒見のいいジュートと、豪快乙女のワンティ。そして大人ぶっているようでだれよりも子供心に満ちたルクラスに、姉さん肌なルー。なかなかお似合いではあると思う。……なんてことを、いつかヤルゥに漏らしたときは、彼女は同意しながらも、「ほんとう、自分以外のリフィナーのことは、よく理解ってますよね。あなたは」と、俺にとてつもなく冷たい視線を浴びせてきて、気まずい思いをしたのだが……。自分を見てない、か。……夢の説教も、これを克服しない限りは見続けるような気がする。
「よーっしこうしちゃいられねえ!! この日のために稼ぎをためて買った、いちばんイケてる服に早く袖を通さないとな!! ……セイラル、ありがとよ!!」
ハクが笑顔で叫んで川から飛び出す。そしてフルチンのまま服を肩にかけて木々の間を駆けていった。途中で着替えるつもりなんだろうけど、興奮してそれを忘れたまま、村中まで帰ってレミルに見られたらどうすんだアイツ。ブチ切れられたら踊るどころじゃないだろうに。ってか靴、忘れてるし。
「……仕方ないなあ、ハクは。動転しすぎてるよ。靴は僕が持って帰るから、セイラルは時間までゆっくりしていくといいさ。嬉しい情報をありがとう。……じゃね」
と、にこやかに伝えたあと、ジュートはハクの靴を拾い、自分も靴を履いて歩き出したが、服を拾い忘れてフルチンのまま、声をかける間もなく駆けていった。落ち着いた素振りで、その実ハクより興奮して、周りが見えていないじゃねえか。
「ったく……。ガキかよアイツらは、いつまでたっても。……まあ変に大人ぶるのも、俺らには似合わないか。……ばっちり、ルーのことは誘うぜ。今夜はきっと、大事な、忘れられない日になる。――ありがとうな、セイラル。……またあとで!」
ルクラスは笑みを見せると、ふたりとは違い落ち着いて服を身につけ、靴をはき、持ち帰るジュートの服を畳む余裕まで見せて去っていったが、よく見ると、シャツもズボンも後ろ前だった。……好きな相手と、一生に一度の踊りのチャンス、か。……俺だってマーリィとそんな機会があったなら、フルチンだろうと服がぜんぶ後ろ前だろうと、気づかないだろうな。……羨ましいと、少し思う。ヤルゥには悪いけれど、こんな想いのまま、彼女を誘うことはしたくない。
いつの間にか空がくすんでいる。俺は低い川床に座り、ぼんやり空を見続ける。あれから4年。マーリィが帰ってくる気配はない。それはこれからも続く可能性は高いだろう。会いたい、淋しいのは否定しない。でも待つ姿勢に疑問を持ったことは、もはやない。いつまで、とか、なんの意味が、とか。だれかを愛し続けるということは、少なくとも【俺の真実】では――。そういう考えや想いは浮かびようのないものだった。それにマーリィは愛する女、というだけでなく、魔術こそまだ教えてもらってないけれど、そのほかのこと、大事なことはたくさん教えてもらった師匠だ。彼女の言葉で、救われたことは数えきれないほどにある。これからも学びを受けたい弟子としても、待つのは自然のことだった。
俺は川を上がり、服を着て靴を履き、濡れた体を乾かすように、風を浴びながら木々の中を進んでゆく。ほどなくしていつもの村中への道が見えてくるが、そこへは行かず、村の北側へ続く、なだらかな丘をのぼってゆく。
やがて坂がきつくなり、村全体が見下ろせるほど高くまできた瞬間、一気に風が吹いて思わず目を閉じる。目を開けたときには、地平線と村が紅く染まっていた。俺は少しの間、その色を眺めたあと、くるりと振り返り――。足もとからハル(※芝桜に似た白花)の群生が広がって、天を突くようなジュラ(※クスノキのような木)の大木を包んでいる景色と相対した。それから、ジュラの根元に置いた、真っ白な岩……墓のもとへと歩いた。
ハルの花々を踏まないようにして、墓前へひざまずくと俺は【魔芯】に指を当て、その指を唇に当て、最後にその指を握り込み、ぱっと空に放つように広げる。これは亡くなった者への、リフィナーとしての挨拶で、この世にはさまざまな宗教があるが、宗派に関わらず基本的な礼儀作法だ。そして、それを行う亡くなった者……たち、というのは、俺の家族だ。
両親と、兄と姉。かつての戦争で命を奪われた皆の亡骸は、もうなくなってしまった俺の故郷だった土地に眠っている。だからここにあるのはほんとうの墓ではない。祈る場所としての墓を作ったのだ。だれに言われたわけでもなく、師匠がいなくなって少しして、村を見渡せる、ハルが咲き、ジュラが天を突くここなら、遠く離れた皆のところへも、想いが届くんじゃないかと思って、川辺にあった、いちばんきれいな石をひとりで運んだ。当時はパスにも相談していないし、しばらくは言わなかった。伝えた……というか知られたのは、3年前に、ここで泣いてからだ。
俺は家族が死んだときも、あまりにあっという間のことで、悲しむよりもぼうぜんとして、まるで夢のように事実に接して、そのときもそれ以後も、ずっと現実として受け止められなかった。師匠に助けられて、教育院で生活して、また師匠と再会して行動をともにして、別れたあとも。涙を流すことはなかった。
父さんや母さん、兄さん姉さんのことを忘れたことは片時もない。何度も夢に見た。うなされた夜は数えきれない。でもやはり、どこかで目をそらして、まともに受け止めるのを拒否していたのだと思う。師匠はそのことを分かっていて、別れる前の晩、俺に忠告していたが、そのときも俺は受け入れなかった。もっともそれは、師匠が、自分へ向けた好意を、家族を喪った代償行為としていた、と判断しての忠告だったから、受け入れることはできなかったのだが。
いまでもそれは、違うと思っている。泣けなかったのは、ただ俺に、死を受け止めるだけの心の体力がなくなっていたのだ。
師匠……マーリィと出会い、この村に来て皆と出会い、かつてあったぬくもりを再び与えてもらったことで、ようやく家族を喪った事実を受け入れることができた。だから墓を作り、祈ることもできたし、……泣けたのだ。胸をかきむしり、息ができなくて、その日はパスの待つ家には帰られなかった。しかしパスが探しにきたので、墓の場所と、俺がなにをしていたのかはバレてしまったが。パスはなにも言わず、ただ、「これからは、早う帰れよ」とだけ言って、頭をくしゃくしゃしてきた。
「……【5年祭】、だってさ。いったいどんなふうになるのかな。……俺はまだ、だれも踊りには誘わないよ」
そう、墓に話しかけて苦笑する。記憶に在る父さんは母さんと、兄さんと姉さんにはすでに相手がいて、毎年あるファレイ祭のときは踊っていた。兄さん……ゼスは俺に、「いーかセイラル。15になってから相手を探しても遅いんだぞ? 俺なんてそのときのために、10のころから……」と、意中の幼なじみを口説いた苦労を話すいっぽう、姉さん……レフラは、「アタシなんて断るのが面倒でいつも逃げてたわ~」と、相手がいても、毎年たくさん口説かれるモテモテ具合にうんざりして、でもちょっぴり俺に誇らしげに話していて。そんなふたりに父さんは、「ほんとうに好きになった相手なら、いつでも、だれでもいいさ」と優しく笑い、母さんは、「むしろ焦っちゃだめよ。父さんみたいな失敗をすることになるわ」と、よく分からない冷ややかな視線を父さんに飛ばし、父さんは目をそらしていた。……なんていう、当時はいい加減に聞いていたことも、いまでは大切な想い出として、こうして思い出している。
そしてきょう、皆が話していた、15の大人として参加するファレイ彗星祭、しかも【5年祭】が来てしまったが、相手のいない俺には、皆がしていたような、楽しげな報告はできそうにない。……でもいつかは、しに来たいと思う。必ず――。
「……じゃあ行くよ。パスが呑んだくれてまた寝てるかもしれないし。っていうか、パスは相手いないのかなあ。もしいるなら、それかできたら報告するよ。……いまの俺の、大事な家族のひとりなんだ」
と、笑い俺は立ち上がる。それから少しの間、墓を見たのち背を向けた。来たときのように風が吹き、ハルとジュラが揺れて丘がざわめく。目を細め、眼下の村を見やると、ちらほらリフィナーたちの姿が見え始め、同時に祭りのための灯りがともされ始める。……例年の祭りよりも早い。こりゃあ急いで帰らないと。パスが川へ行く時間は……俺がかついで走ればなんとか、あるいは水をくんでくるか。
そんなことを考えながら、俺は丘を駆け出そうとした――が。二歩と草を踏まないうちに、とてつもない魔力を感じて硬直する。まるで稲妻が体を貫くような衝撃が全身を駆け巡り、心臓が高鳴る。【魔芯】が不規則な光を放ち息ができなくなる。これは……1万2万の魔力、どころか、10万、20万というレベルでも――……それになにより、まさか、この魔力の感じは……!! ……――どこだ!! どこからだ!!
俺は体の硬直を無理やり解き、3歩、4歩と足を出すと、5、6、7と駆け出して、猛スピードで丘を駆けおりる。そしてあっという間に村中まで着くと、数名のリフィナーたちが、やはり俺と同じように目を見開いて騒いでいた。だが俺は、そんな彼らが話しかけてくるのにも応えずに、とてつもない魔力が感じられるほうへひたすら走る。やがて木々の群れを突っ切り、川に突き当たると沿ってのぼり、『ミテ』『シルテ』『ポルテ』を過ぎて、川が細まって木々が濃くなってゆくほど上流まで駆け上がり、ちいさな滝を前にしたところで――止まった。
膨大な、まるで太陽のような――明らかに100万をおおきく超えた魔力が、滝の前から発されているが、その元たる存在は影も形もない。俺は歯を食いしばり、辺りを見まわして石を拾うと、3500の全魔力を込めて思い切り【そこ】へ投げつける。すると石は空中で止まり、そのまま少しずつ消えてゆき、その代わりに、白い指が、手が、腕が、徐々に浮かび上がってくる。そうして俺の眼前には、川の中にヒザまでつかる――マーリィの姿があらわれた。
俺は口がきけない。体も動かない。しかし、声を出したい、動きたい、という強い気持ちだけあったせいで、思い切りこけて川に倒れ込む。水しぶきが上がり、ちいさな雨が降り……びしょぬれになった俺が立ち上がったときには、師匠と目が合い、……彼女は無表情、というか、どこかぼーっとした表情で俺を見続ける。そのさまに……俺はようやく、彼女が【どこに】行ってきたのかを思い出してぞっとした。
「あ……、マ、マー……、リィ。――だよな? ……――マーリィ」
俺の問いかけにも応えない。ただ赤ん坊のように俺を見続けている。……紺の長マントに術士服に白い肌、マントをはじめ服にも、体にもたいした傷も汚れもない。長い青髪も、きらきらと夕日で美しく輝いている。リフィナー、とくに魔術士は寿命が、若い肉体が長く保たれ、俺たちのように10代ならともかく、マーリィくらいの歳で、4年くらいで外見が変わることはない。けれどそれでも、見れば見るほどマーリィは、4年前、別れたあのときのままだったので、俺は唇をかんだあと、叫んだ。
「……――おいっ!! マーリィ!! 返事をしろよ!! 俺が分かんねぇのかよ!! あんたの押しかけ弟子のセイラル・ヴィースだよっ!! そんであんたを愛している男だっ!! ……あんたが帰ってこないから大人になったけど、なにも気持ちは変わってないぞっ!! ――……よく見ろよっ!! 姿は変わってるけど魔力は同じだろう!? ……――ほらっ!!」
俺は涙ぐみながらマーリィに近づくと、その手を取り、自分の【魔芯】に押しつけた。が、かつては抑えていただろう魔力が、いまはむき出しになっているからか、俺は吹っ飛ばされて川辺の大木に叩きつけられた。息が止まるが、それだけだ。骨が折れたわけでも、内臓がつぶれたわけでもない。血だって出てないんだ。150万の魔力に敵意があったら、俺なんてあとかたもなくなるんだから、……ほら大丈夫、マーリィは【正気】だ、正気なんだ……!!
青い表情、こぼれる涙を無視して自分に言い聞かせ、俺は再び川に入り、まだ呆然と突っ立つマーリィに近づいて、今度は抱きしめた。4年前は、頭ひとつ俺が低かったが、いまは同じくらいだ。魔力は大人と子供どころの差じゃないけれど、肉体だけは、男として、あんたを抱きしめることくらいはできるようになったんだ! 前よりは、きっとあんたの難しい話にもついていけるようになったし、酒だって少しは呑めるんだ! だからそんな……、あんたがあんたじゃないような表情はやめてくれよ!! また俺に、「阿呆だな君は」って、言ってくれよ……!!
いつの間にか泣きじゃくりながら、俺はマーリィを抱きしめ続けた。さっきのように吹っ飛ばされることはなく、その状態は続いた。やがて、ドクン……と俺の胸におおきな振動が伝わると、俺の両肩がいきなりつかまれ、突き飛ばされる。ただし、川に尻もちをつく程度の弱い力で。俺は川床に座ったまま見上げると、俺を倒したマーリィは右拳を振り上げて――こともあろうに思い切り自分の顔面を殴り飛ばし、その衝撃で自身の体が空中で一回転して川へ落ちた。
あまりのことに俺は動けず、ただ滝の轟音だけが耳に響いていた。やがて川に沈んだマーリィの全身が発光し、それから巨大にまき散らされていた魔力が少しずつ、少しずつちいさくなり……。そばにいてもほとんど感じられなくなった、かつてのようになったとき、マーリィは起き上がった。
「…………なんて最悪の気分だ。……しかし、【なんとか】は、なったようではある、な……」
そう、彼女はつぶやきながら頭を振り、水しぶきを飛ばす。目にはかつての光が、表情には見慣れた威厳が感じられて、俺の全身は震える。そしてゆっくり、喜びが冷えた尻から駆け上がってきて、俺は立ち上がると、「マー……」と言いながら手を伸ばす。が、その手をぱちん、と軽くはたかれた。
「もういい。きちんと把握しているからスキンシップは不要だ。その垂れ目、左目の下にはふたつの泣きぼくろ。セイラル・ヴィースに相違ない。……かつてのガキの姿ならともかく、いまの君に何度も抱擁を許すほど私は寛容ではないからな」
と、半眼で俺を上から下まで眺めまわすと、「おそらく3、4年ってところか。……想定通りではあるが」とつぶやく。俺は思わず再び叫んだ。
「4年だよ!! よ・ね・ん!! それもあんたが【ハーヴェ】に入って消息を絶ってからで、俺と別れてからは 5 年 だっ! ……分かるかこの長さがっ!? 俺は15で大人になってんだよもう!!! かっっってにさあ、訳の分からない、だれも帰ってこれないヤバいところに行ってさあっ!! しんっっじられないんだよあんたっ!! ……――俺がどんな気持ちでいたか分かってんのか!!??」
「知らん。そもそも君は試験に不合格で、破門したはずだ。私がどこでなにをしようと、君に許可をもらう必要はない」
と、ぷいっと横を向く。こ、このクソ女がぁ~……!! 言い方!! 態度!! なんっっにも変わってねえ!! ……こっちが大人になってるから余計分かるが、パスの言ってた通りだよあんたは。……大人なんかじゃない。ずっと……出会ったときから、だれよりも子供のままだよ。
俺は苦笑してかぶりを振る。すると横目で見ていた師匠が、ムッとしたように向き直り、「なにがおかしい。……気に食わないな。まさかたった15で大人になったつもりなのか。まだ女を踊りに誘ったこともないくせに」と鼻で笑う。……だれのせいだよ、だれの! と言いたくなる気持ちを抑えて、俺は、ごほん! と咳払いしたあと、言った。
「……あんたには聞きたいことが山ほどあるし、そもそも王様の命令で行ってきたんだろうから、ここに留まっていられる時間もほとんどないだろう。だけどひとつ教えてやるよ。きょうは【5年祭】当日だ。たぶん生涯で二度とない、な。これに出ないということは、もったいないと思うが。せっかくむちゃくちゃ【幸運】にも、きょうこの日に帰ってこられたんだから」
「【5年祭】ね……。そういえば4年ならそうか。だが私は、ファレイ彗星祭に対して、そこまで強い興味はない。それは【5年祭】のみならず、本祭についてもそうだ。春夏秋冬の訪れと同じようにとらえている。ゆえに私にとっては【幸運】というのは当てはまらない」
「そう言うのも想定内だから、わざと【幸運】ってこじつけてんだよ。でもあんた、この村のリフィナーたちには、強い想いがあるんじゃないのか? さっきまであんたの魔力はダダ洩れだったんだ。皆、完全に気づいたよ。きっと見つけたら祭りに連れ出すし、帰ってきたお祝いをするぜ。……それを無下にできるのかよ」
そう言って、村のほうを指で示す。すると師匠は初めて、心底困ったような表情をした。なので俺は続けて言う。
「あと、師匠。俺はあの試験を解いたよ。それを聞きたくないか? 俺の知ってる師匠なら、正解不正解はさておいて、いったい俺の出した答えがどういうものか、好奇心で聞きたくなるリフィナーのはずだ。……と、いうことで、祭りに参加して、俺の踊りの誘いを受けてくれたら、教えるよ。――どうかな」
俺は手を差し出した。師匠は、俺の、その濡れた手と、にこやかな表情を見たあと、村のほうを見つめてからまた、俺に視線を戻し、……はぁー……っ、と深くため息をついた。それから、かぶりを振ると半眼を向けた。
「……4年、いや、君に関しては5年か。それは、思ったよりも長い時間なのだな。少なくとも、君をわめきすがりで欲を通す子供時代からは脱却させるくらいには。……でも中身は同じだ。ガキのままだ。やり方が嫌らしくなった分、可愛げがなくなったしな」
ぶつぶつ言いながら、しばらく動かないでいたが、やがてほんの少し、観念したように手を前に出す。だがわずかに指先が、俺のそれに触れたとき、往生際悪くひっこめようとしたので俺はつかみ、握りしめた。それに師匠は一瞬だけ目をおおきくするが、すぐまた半眼に戻して、再度ため息をつくと、
「……図に乗るな。阿呆」
とだけつぶやいて、俺よりはるかに勝る魔力を放出して手を握り返し――果たして俺は悶絶して川に沈んだ。




