第8話 ……んなことは、分かってんだよ
「ねえ、じいちゃん」
「んー? どうした」
「なんでうちには、じいちゃんしかいないの?」
「……。それはなあ……。じいちゃんひとりで、全部オッケーだからだな」
「ぜんぶおっけー? ……なにそれ」
「謙太君ちのお父さんは、野球がうまいだろう? でもじいちゃんは、もっとうまい。……この間、町内の運動会で、あの人からホームラン打ったのは、じいちゃんだけだ。……それと料理」
「しってる! じいちゃんのりょうりは、ちょーうまい!」
「そうだ。坂木のおばちゃんよりな。……でもこれは、言っちゃだめだぞ。じいちゃんがいない間、いつも世話になってるから。……ともかく、そういうことだよ」
「……ぜんぜん、いみわかんない」
「つまり……、お前には、じいちゃんひとりがいれば、充分ってことだ! だから誰かに、なんか言われたら、そう言っておけ。じいちゃんは野球がうまくて、料理もうまい。うまいうまい星人だから。うまいうまい星人は、ひとりでオッケーなんだって」
「えっ!! じいちゃん、にんげんじゃないの!?」
「ああ。実は宇宙人で、Mうまいうまい星雲から来た。……お前を食うためになあーっ!!」
「ぎゃー、くわれる~!! あはははは!! こちょばい、こちょばい!!」
「さ、帰るぞ! きょうはカレーだ! 坂木のおばちゃんのより、……どこのお母さんのよりもうまい、とっておきのな」
◇
空と道が幾度もゆれて瞬く。
ぬるい風が、落ちそうな頭を何度も抱き起こす。
熱く濁った空気が、ふいに鼻の奥を刺して足が止まる。
トラックがゆっくりと、国道から狭い歩道へ乗り上げて、横切った。
「……っ、――げほっ……!」
鉄塊のおくびをまともにかぶり、俺は、よたよたと端の縁石へ腰を落とす。
背中に騒音を受けながら、ようやく呼吸を整えたのち、顔を上げた。
歩道の脇からは、おおきな看板が空へ伸びていて、トラックをおりた男たちは、それを指差しながら道沿いの店へ歩いた。
重い左腕を上げて、俺は銀時計を見やる。
もう12時前だった。
◇
俺は、しばらく店を見ていたが、その近くに自販機を認めて、ごくりと喉が鳴る。
のそりと立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出す。
そして、ポケットをまさぐろうとしたが、そのとき――。
右手に鏡を握り締めていたままだったことに気づいた。
指は硬直して動かない。
やむなく、左手で一本ずつ指を伸ばしたあと、いまいましげに手鏡を見つめ――、震える手のひらをじょじょに傾け、汗まみれのそれを落とそうとする。
しかし、真横にしてもぺたりと張りついたままだった。
俺は舌打ちし、ポケットに右手を突っ込むと、こすりつけるようにしまい込む。
その際に、汚れた上靴が目に入った。
「……なんなんだよ、これは……」
くぐもった声が、ぽつりと漏れる。
朝から訳の分からない呼び出しをくらって、変な女に、変な話……。
学校さぼって上靴のまま、いら立ちまぎれに外を2時間近くも歩きまわっている。
星座占いがワーストワンとか、もはやそんなレベルじゃないだろう。
悪魔からの誕生祝いか?
だとしたら感涙ものだ。目玉が干からびてくる! ……くそ……!
俺は機械へ乱暴に硬貨を押し入れ、出てきたスポーツドリンクを一気飲みする。
その後、国道を行き交う車をぼんやりと眺めつつ、汗ばんだ学ランを脱いで、Tシャツ一枚になる。
そうして風に吹かれていると、だんだんと冷静さを取り戻し、顔つきも、元に戻ってきた。
――ご自身の秘密をなかったことにして、日常へ帰られるのは難しいと思います――
「……んなことは、分かってんだよ」
俺は、ペットボトルを握りつぶした。
◇
じいちゃんと俺に、血のつながりはない。
それを知ったのは、4年生になったばかりのころだった。
庭がはなやかに色づいたおりに、じいちゃんの口から聞かされた。
話は簡潔で、「お前は赤ん坊のころ、ある人から預けられて、じいちゃんが育ててきたんだ」
「詳しいことは、いつか話すときが来る。……それまで待っていてくれるか?」
で、終わった。
そのとき俺がなにを言ったのか、いまはもう思い出せない。
ただ、ぶつけた言葉のすべてが、否定の感情に満ちていたことは覚えている。
じいちゃんと俺は、顔が似ていない。
ものづくりが得意なじいちゃんに比べ、自分は、工作がぜんぜんだった。
ほかにも、……たとえば友達が、その親や祖父母と並んだときに感じられた、「雰囲気の一体感」みたいなものが、俺たちには欠けていた。
元々じいちゃんと自分だけの生活、訪れる親戚はなく、両親の話もなかったので、幼心に、なにかあるんだろうなとは前々から思っていた。
なので当時の俺でも、話が事実と察するのは易しかった。
だが納得し、受け入れるには、まったく歳が足りなかった。
結果、その日から――。俺はいつもの生活を投げ捨てた。
じいちゃんを無視し、手伝いをやめ……、やがて学校もさぼって部屋に引きこもった。
じいちゃんが作ってくれた飯には手をつけず、貯めていたこづかいで菓子パンやカップラーメンを買い込み、水や湯の調達、トイレなどはじいちゃんがいないときに済ませ、完全に接触を絶った。
けれどじいちゃんは怒りもせず、とがめもせず、毎日食事を用意し、ふだんと変わらずに優しく、朝昼晩と声をかけ続けた。
それがますます俺には辛かった。
そんな生活が1週間続いて、とうとう俺は爆発する。
部屋を飛び出し、じいちゃんへつかみかかり、しきりにわめいて最後、泣きながら言った。
――じいちゃんは、おれをすてるの? ――
と。
ほんとうは怒りなんてなかった。
血のつながりがないことすら、どうでもよかった。
ただそれを理由に、大好きなじいちゃんに、捨てられるのが怖かっただけだった。
じいちゃんが、泣きじゃくる俺をどんなふうに見ていたかは、分からない。
気づいたときにはハンカチが当てられて、顔中、なでるようにふかれていた。
それでもなお、ぐしゃぐしゃな顔のまま、泣き続ける俺の肩に手を置いて……。
じいちゃんは、
――捨てないさ――
と言った。
まっすぐに見つめて。
何度聞いても。聞いても。
そう言い続けてくれた。
その声で、言葉で、俺が手放し、遠くで消えかけていた大切な輝きは――。
きらきらした光をまとって、彗星のように帰ってきた。
以来、俺はそれを手放したことはない。
ずっと。
これから先、手放すこともない。
それは決して――。手放してはいけないものだった。
◇
銀時計が、汗でくるりとまわり、陽が文字盤へ落ちた。
俺は目を細めつつ、ポケットからスマートフォンを抜き取って、連絡先を開く。
いちばん上が、家。
2番目がじいちゃんの携帯。
3番目はじいちゃんがやっている古書店の電話。
以下、4番目に伊草、5番目に橋花と並んでいる。
初めての携帯はガラケーで、中学へ入学したときに買ってもらった。
色は青。じいちゃんとおそろいだった。
そのガラケーは、活躍したり、しなかったり。いまと同じように使われて、高校へ受かった日を境に思い出ボックスで眠りについた。
新しくやってきたスマホは、ふちが赤色のブラック。じいちゃんはガラケーのまま。
本人いわく「あれのどこが電話なんじゃ」。俺がスマホをねだってもかなり渋い顔をしていた。
そして高校1年の5月、前の席だった橋花と、とある会話がきっかけで友達となり、9月の調理実習で同じ班となった伊草と仲良くなる。
クラスが分かれたいまも、学校でただふたりの友達として、昼休みに飯を食ったり、たまに出かけたりする仲だ。
ダチになったのは、橋花のほうが先だったが、当時、ヤツは携帯を持っていなかったので、この登録順となっている。
なぜ持っていなかったのか、そして持つようになったのか。
それらの理由や、伊草と橋花の初対面のエピソードなど、思い出すだけで笑いがこみ上げてくるが……。
数だけで量るなら、そんな楽しい思い出も、見えることはない。
たった5行の連絡先。
そのうち3つが家。
友達のは2つ。
女っ気はゼロ。
ひょいとのぞき込み、地味でさえないと笑うヤツもいるだろう。
しかし俺にとっては、陽を受けたこの銀時計のように、光り輝く日常の証だ。
あのときから続く、俺の――。
なら俺は……。
……俺の、やるべきことは――。
◇
「……っ週間が、2時間ちょい。少しはマシになった、か……」
ひとりごち、苦笑する。
そしておおきく息をはくと、スマホをしまって立ち上がり、ひしゃげたペットボトルをゴミ箱へ突っ込む。
それから、来た道を戻るため、俺は駆け出した。




