第78話 どーでもいいよそんなこと
月曜の朝。校門前には、見渡す限りの白い半袖の襟シャツ、薄い生地のズボン……にスカート。
重々しい学ランや、ブレザーをまとう生徒の姿はもはやない。先週の自由期間を経て、きょうからは完全に夏服となった。
いつもの風でもふわり、ふわり、軽やかになった制服たちが揺れ動いている。青葉が輝き、アスファルトやガードレールは熱を帯び、辺りはいよいよ夏本番の気配を漂わせていたが、なにより皆の装いの変化こそが、移り変わる季節を実感させた。
「おはよーっ! おはよ~っ! おはよっ! おっは! ……――よっ!」
登校後、俺が下駄箱で靴を履き替えていると、あちこちで挨拶されてはポンポン返していた、クラスのリーダーが、俺へは自分から、ばんばん背中を叩きつつ声をかけてくる。俺は薄いシャツの下に、じんわり残る痛みに、眉をひそめつつ振り返る。
果たしてそこには白い半袖シャツに、指定のリボンは外してボタンをふたつ開け、短い薄手のスカートをはいた、明るい茶色のショートボブ女子――くだんのリーダー、横岸が手を上げて立っていた。
「……なに? なんかしけた表情してるけど。まだ体育祭の疲れ抜けてないの」
俺の疲れた様子を認めた瞬間、横岸は、情けないぁ~と言わんばかりにため息をつく。俺は下駄箱の扉を閉めながら、体育祭のじゃねえよ、とだけ言って上靴をとんとんやったあと、歩き出すが、後ろからついてきた横岸が再度、顔を覗き込み話しかけてきた。
「もしかして、【立て込んでいる】とか言ってたヤツのせい? ……それっていつまで続くものなの」
「……さあな。疲れてるのは、それと関係あるというかなんというか……。ただまあ、いまのところは、いちおうひと段落ついたかな」
今度は俺がため息をついて返す。……いま、横岸が口にした【立て込んでいる】という言葉は、前に俺が、横岸への借りを返すのは、【立て込んでいる】のがひと段落ついてからにしてくれ、的に返事をした際のもので、要は先週水曜日から木曜日にかけての、ルイ宅での、泊まり込みの修行のことだった。それはなんとか終えたので、ひと段落ついたといえば、そうではある。
ただ、今朝の疲れは主に、昨晩の自主練の際、ルイの分身体である【ちびルイ】が出現したことによるものなので、もはや泊まり込み修行の続きみたいなものだったし、さらに言うと、今後も自主練の際に【それ】が現れて、俺がぼっこぼこにされたり、きのうみたく終わったあとに俺の部屋で(じいちゃんに隠れて)お茶会などを開かれることを想像すると……ひと段落ついたのか? と疑問符をつけざるを得ない。ずっとしごかれ続け、神経を使い続けているようなものだからな(ちなみに昨夜の【ちびルイ】は、ジュースを飲みながら俺ととりとめのない話をし続けたのち、本人が言ったとおりに一時間で煙のように消えた。どういう仕組みなんだ?)。
「……なーんか煮え切らない返事。いまの表情といい、そんなんで借りを返してもらっても楽しくないだろうし、やっぱまだいいわ。……ちょい先だけど、期末が終わればテスト休みがあるし、夏休みもあるしね~」
俺の表情とは逆に、ふふん、と楽しそうに横岸は笑い、すぐまた、「おっはー! ……夏服シンセ~ン!」と言いつつ笑顔で友人たちの挨拶に応えて、さっさと俺を追い越していった。テスト休みに夏休み、ねえ……。そこらはたぶん、修行の本番――分身体じゃない師匠様からの直接指導があるから、いまのほうが余裕があると思うのだが。あと夏休みになる前に、じいちゃんの【宿題】があるので、その練習もテスト休みにしておきたいし。……で、夏休みになってからは、水ちゃんとの約束に、まだなんかあったような……。
「おっ。晴じゃんか。おはよ。……なに難しい表情してんだ?」
顔を上げると、見覚えのある女子がまた、俺の顔を覗き込んでいる。横岸と違い、指定のリボンはちゃんとつけているし、スカートの丈もヒザ丈の標準。けれどグラマラスな体に、派手な金髪をポニーテールにしていて、否が応でも人目を引いている。彼女は、先日俺がなりゆきで仮入部することになった総合活動部の2年部員、弘末真理――通称『シンリ』である。
「いや、なんでもない。ちょっと夏休みの予定を……。……ん?」
シンリに返しながら、引っかかる。そういやなんか、部活で言ってたか……? 夏休みになにかするって。
「夏休みぃ? まだ期末も先だってのに気が早いな……、と言いたいところだけど。ま、いまから押さえとかなきゃならないよなぁ、泊まりの予定とかは。親の許可もいるだろうし。ってことで、ワタシらの【それ】。きょう、イッショー先輩から話があるってよ。ライン回ってきたから連絡。部活に顔出せよ。……ってか、思い出した。それと関係なく、ちびがあんたは絶対来い! って電話でブチ切れてたから来たほうがいいぞ。禊はさっさと済ませたほうが楽だし。――んじゃ。ワタシは伝えたからな」
シンリはそう言って、手をひらひら振って歩いてゆく。その後ろ姿を見つつ、ああ、部活の……、そういえば合宿があるとか言ってたなあ、と思い出せたことですっきりしたが……。なに? ちびがブチ切れ……? ちびって楠田先輩のことだよ……な? な、なんであの人が切れてんの? 俺に? 先週ふたりで部活に出た時はなんもなかったし、そのあとは体育祭でも会ってないのに……。つーか禊ってなに?
頭に疑問符がみっつくらい浮かび、考えるがなにも思い当たることもなく……。気づけばまわりにだれもいなくなっていたので、俺は慌てて廊下を駆け出すはめになった。
◇
「よーよー! 夏休みにはやっぱ、海だよなー! 青い空、白い雲、キラキラ輝くまぶしい海……。来年は皆、受験だなんだでばたばたしてるだろうし、……なにより考えたくもないがっ! 風羽さんと同じクラスになれるかどうかも分からんしっ!! ああああああ考えたくもないぃぃぃ!!」
「なーにが『やっぱ、海』よ、下心ありありでキモいんだって! それ、風羽さんの前で絶対言わないでよ!? ……海でも山でも、どこかへ風羽さんと出かけること! それが夏休みの目標なんだからっ! ……そのためにも期末テストもちゃんとやって、親に文句言われないようにしないと……!」
「おーおー、俺は今回マジモードだからな! テストなんて、赤点を回避できりゃいいと思ってたけど、そういうわけにもいかなくなっちまった。……なんつーの、人間の可能性? やっぱそれって無限大だよなー!? 土曜の体育祭で心底思ったもんな……。俺はまだ、本気だしてないだけだと!」
「あんたの本気はともかく、いまウチらアゲアゲだよねー。体育祭の次は、期末の平均点の上位、狙ってみる? ……まっさか私がこんなこと言うなんて、って笑えるけど。なんかイケそうな気がしてくるんだよねー……」
サッカー部の小川が叫び、それに吹奏楽部の塩田が突っ込み、チャラ男の垣爪が自身の可能性に目を輝かせ、ヤンキー女子の瀬川も、以前とは違った表情でポジティブな言葉を口にする。彼彼女ら、派閥は違えど、それぞれクラスの中核を担う者たちが口々に声を上げ、周りの生徒たちもあれこれ自分の意見を述べ、また話が広がり、深まり、盛り上がる。ちなみにこれは、もう昼休みが終わろうかという時間の光景である。
いつものように、俺は四時間目が終わるとすぐに東棟へ行き、かの階段踊り場で橋花や伊草と飯を食べ、体育祭のことなどを中心に談笑したあと、教室へ戻ってきたのだが……。出ていくときと同じように、ほぼクラス全員が話に加わり、盛り上がっていた。
体育祭が終わり、打ち上げを経ての、初めての登校日であるきょうは、以前からは考えられないほど、明らかに全員の親密度が増していた。……風羽と仲良くなるために頑張った経験が、どうも一時的な連帯感ではなく、これからもずっと続いていくような、そう予感させるようなものとなっていたのだ。
「……おっ。なんだ戻ってきてんじゃん。おい緑川。お前も次から教室で飯食えよ~。つーかいつもどこで飯食ってんの? 便所飯とかだったら悲しすぎるだろ~。飯の相手くらいしてやっからさ」
垣爪が手招きしながら失礼な、しかしたぶん、ヤツにしては善意で言っているのだろう言葉を投げてくる。この、俺とまったく生活スタイルが違うはずのチャラ男が、こんなふうに話しかけてくることなどありえなかったので、先の連帯感は、俺へも波及しているのだろうと感じる。まあ、空気だったり、邪険にされることと比べると、悪い気はしないよな。
「お、お、お前まさかっ! 風羽さんとご飯をいっしょしてるんじゃないだろうな……!? 前、風羽さんに弁当を作ってもらってたし……!! ――どうなんだっ! おいっ!!!!」
小川が半泣きで俺に詰め寄ってきた。コイツもまあ、相変わらずではあるんだが、これでも前よりは高圧的じゃあないんだよな。暑苦しいのは勘弁してほしいけど。
小川の態度に遠くから垣爪が、「んなわけないだろーがよ。雰囲気で分かんねぇの? この件に関しては緑川はシロだっつーの。……ああ、まー無理か。お前に男女の機微とか理解あるわけないもんなー。はっは」と自分の頬を叩いて変顔を作る。それに小川が、「お前みたいなチャラチャラしたヤツが語る男女の機微なぞ参考にもしたくないわーーーーーーっ!!」と俺に背を向け垣爪に突進、垣爪は即行で逃げ出した。そんな様子を尻目に、塩田や瀬川が俺をチラ見して、「そうそう」「ないない」とかぶりを振る仕草。コイツらも、前ほど馬鹿にする態度ではなくなっていて、ほんのわずかだが、距離が縮まっている感じがした。
ちなみに横岸はというと、さっきのふたりの後ろに立って、陽キャ組のひとりであるちいさなポニテ女子、坂口となにやら喋りつつも、時折ニヤニヤと俺を見ていた。……アイツはずっと、盛り上がるクラスメイトを少し距離をもって見つめている感じだったが、リーダー的な立場にある身としては、全員が仲良くなってゆくさま、……あとたぶん、俺が受け入れられつつある現状に、満足しているのだろうか。……自分が評価している相手である俺が、少しずつでも認められていくのが。
ともあれ小川や垣爪を中心に、またクラスが騒がしくなるが、予鈴が鳴ると同時に風羽が戻ってくるや否やぴたりと止み、全員自分の席へと戻る。なんだかんだと騒いでいたが、その話題の中心は、風羽を、期末テスト後の休みとか、その後の夏休みにどこかへ誘う計画について、だったからだ。皆、親にないしょの計画を立てるちいさな子供のように、くすくすこらえきれぬ笑みを漏らしながら、風羽へ隠したまま、楽しい未来へと想いを馳せているようだった。
そして風羽……ファレイのほうも、一見無表情のように見えて、かなり機嫌が好かった。こちらはたぶん、土曜の打ち上げが関係しているのだと思う。皆のとも、だけど……、これはうぬぼれではなく、俺とのが。最後に月をいっしょに見た時の、あの幸せそうな表情の残り香が、まだ彼女に漂っていたから。
……だれもが楽しそうにする空間に居るのは、好いもんだな。そんなふうに、俺が知らず笑みをこぼしたときに本鈴が鳴り、ほどなくして五時間目を担当する和井津先生こと、ロドリーが入ってきた。そのときも、まだ俺がよほどゆるんだ表情をしていたのか、こちらを見やった彼女が「……?」と訝しがったので、俺は慌てて表情を戻した。
◇
そうして、放課後――。例によって、まず風羽が教室を出たあとに、横岸がばっはは~い!(挨拶は日によって違う)と皆に言い退室、それに続いて全員、掃除当番以外の皆が部活やらアフターに繰り出した。俺もその波に乗って、昇降口の下駄箱……ではなく、一階突き当たりの部室へと向かう。
かの【ソーカツ部】は自由参加、ということで、昨晩の疲れもあった俺はその言葉に甘えて、きょうは帰るつもりだったのだが、合宿の話がイッショー先輩からあるというし、なんか知らんが楠田先輩がブチ切れているということなので、行くことにした。あとで「み・ど・り・か・わ・せーーーーーーーーーいっ!」とか言いながら飛びかかられて、髪の毛を引きちぎられたりしたら困るからな……。
そんな恐ろしい絵面を想像し、体を震わせ歩いているうちに部室へ到着。俺は恐る恐る引き戸を引く。……開く。と、いうことはもうだれか来ているということだ。く、楠田先輩じゃありませんように……。
俺は手に力を入れて、もう少しだけ戸を引いて、できた隙間に顔を近づけ覗き見る。畳敷きの上に、大量の漫画や小説が詰まった本棚。腹筋台その他運動器具。ずらりとかけられた衣装の数々、ポット、炊飯器、冷蔵庫……。何回見てもなんの部屋だかさっぱり分からない部室の中は、電気がついていて、奥の長机の前に誰かが腰かけていた。あの後ろ姿は……。
「……あ、先輩! お、お疲れ様です……! あ、あの、いますぐ帰って下さいっ!」
白い襟シャツに、指定の赤リボン(一年女子。二年は青で三年は緑)、膝丈のスカートといったふうに、冬服と同じく、ひとつの違反もない真面目な着こなしをしたボブヘアの女子――後輩の上間莉子ちゃんが、こちらに振り向くや否や真っ青な表情で叫んだ。……はっ? な、なんだって?
「い、いや……。どういうことなの。俺、朝シンリに会って、絶対来るように言われたんだけど……。なんか楠田先輩が怒ってるからって」
「――そ、そうなんですっ! あ、あの……っ! 体育祭の日に、部活の皆――……見ちゃったんです【あの応援】をっ!! 群青さんのっ!! それで彼女が叫んでた【晴】って名前と、そのあとに先輩が一位になったことで……応援してた相手が先輩だって皆分かって! その様子で、ふたりがお付き合いしてるってバレて……!! ――……このままだとマリン先輩に襲われちゃいます!!!!」
莉子ちゃんは青い表情のまま、まくし立てる。……は? 付き合う? 群青? 群青ってだれ? ……あー……、ペティか。ペティと俺が付き合う……。そういや体育祭当日の朝、学校へ向かう途中にペティと会って、莉子ちゃんとも会って。アイツが莉子ちゃんに、俺たちが付き合ってるとか、そんなことをほのめかして……。そのあと、いろいろ話したことで、ペティがそれを反省して。あとで莉子ちゃんに訂正する……とか。そんな話だったけど、その【あとで】ってのが【まだ】なのかよ。で、あの応援を目撃したせいで、あんなことまでするのはきっと彼女に違いない、そう皆が誤解していると。ここまでは理解した、が……。
「あ、あのさ……。だいたい分かったけど。なんで楠田先輩がそれで俺を襲う……ってのは大袈裟としてもブチ切れるの? 俺とペ……、群青さんが付き合ってたとして、楠田先輩がそんなに怒るのが分からないんだけど」
「マ、マリン先輩は【リア充死ね死ね団】の団長なんですっ!! だから……緑川先輩に彼女さんがいて、その人が体育祭にも来て、あんな派手な応援をして……! ……み、緑川先輩は、マリン先輩の中ではもう、完全にリア充側の人間になってしまったんですよっ!!」
莉子ちゃんは必死に叫んだ。……真顔で。あの、……これ、ドッキリとかじゃ……ないよね? いまどき小学生でもそのネーミングは……。あと『リア充側の人間になってしまったんですよ!』とか言われましても……。もし別のシチュエーションなら爆笑してたよ。
俺が顔を引きつらせていると莉子ちゃんはこちらに走り寄り、「さあ早くっ! 先輩が来る前に帰って下さいっ! 前に正一先輩に彼女がいることが分かった時、すごかったんですからっ!!」と俺の背中を押しながらまくし立てる。……えっ!? 正一彼女いるの!? い、いや驚くのも失礼なんだけど、筋トレ! 武術! 映画! ってな感じで、とてもそんな恋愛とかに関心を持っているように見えなかったしな……。どんな彼女なんだろう。すげー見てみたい。
「………………い~~~~~~~~~~~た~~~~~~~~~~~~~な~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~……」
突如、地底の底から響いてくるような、怨霊の声が耳に刺さる。俺を押していた莉子ちゃんは「……どひっ!!!!」と叫んで尻もちをつき、俺は……。引き戸の隙間からこちらを覗き込んでいるふたつの目と、モロに視線が合って息が止まる。あの……あなた人間? ――……こぉわっ!!
「みぃ~~~~どぉ~~~~りぃ~~~~かぁ~~~~わぁ~~~~、――せぇいぃっ!! お前……そんな顔してリア充側の人間だったのかぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!! 僕なんて こ の 世 に 生 を 受 け て 1 8 年 、 告 白 す ら さ れ た こ と な い んだぞぉーーーーーーーーーーーーーー絶・対・許さんっ!!!!」
ものすごい理不尽かつ悲しいことをわめきながら入室した夏服バージョン(※三年カラーの緑リボンは微妙に指定のデザインじゃなかった)の先輩は、想像してたように、黒のショートカットを乱し、薄手のスカートがめくれんばかりに俺に飛びかかってきたし、やはり想像通りに髪の毛につかみかかってきた。俺はその暴れ猿のごとき猛攻から必死に逃れ、長机を挟んで右に動いたり、左に動いたり、先輩と神経を研ぎ澄ました決死の鬼ごっこを始める羽目となる。お、お、襲われるってのが比喩になってねーーーーーーーーーーーっ!!
「ちわっすちわっす!! ……おっ! 晴! 友よっ!! 見たぞ~体育祭の【アレ】っ! キミ、あんな可愛い彼女がいたんだなあ~っ! 教えてくれよ~水臭いっ! ちなみに俺の彼女も負けないくらい可愛いぞぅっ! ……ほぅら、これ! いちばん好く撮れたのを待ち受けに……――」
と、入室するや否や俺と目が合いまくし立て、スマホを取り出し俺に見せようとした、こちらも夏服バージョン、筋肉マシマシとなった才川・マッスル・正一は、視界の端に楠田先輩がいたこと、そしてその形相に遅れて気づいてギョっとする。そして次の瞬間――先輩の投げた白ゴリラのぬいぐるみが顔面に直撃してすっころんだ。さらに先輩は倒れた正一の鍛え抜かれた腹筋を踏みつけながら、彼の落としたスマホを拾い上げ、「待ち受けをゾンビの写真にしてやるぅーーーーーーーーーーーーーーー!!」と怒鳴りながら操作していた。それで足元の正一が、「や、やめてくださーーーーーーーーーーーーーーーーーーいっ!! さ、早遊里ぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」と半泣きで叫んだが先輩は無視。……あんなに体格差があるのに動けないように踏みつけるとは。筋力とかじゃないよな? な、なんかすげー……。
「おーっす……、って。……おいちび。その体勢だと、正一からスカートの中、見えてるぞ。あんたもいちおう女子だろーが。いい加減、少しは年齢相応の恥じらいを持てよ……」
呆れたように言って入室したシンリに、楠田先輩は、「……はーんっ!? こーんなおっぱいおっきな彼女がいるクソリア充が!! 僕のパンツなんか眼中にあるわけないだろーーーーーーーーーーーーっ!? きっとえっちで大人っぽい下着を毎日いっぱい見せてもらってんだこのクソムキエロ大魔王がっ!!」と、正一のスマホの待ち受けにあった彼女の写真……確かにグラマラスな、長い茶髪を笑顔でなびかせた、お姉さん系の美人……を仁王像のような表情で俺たちに見せつけて、また、それをゾンビ写真に置き換える作業を再開した。正一は、「し、心外ですっ!! 俺たちはまだ清く正しく美しい交際をしていますからっ!!! あとマジでゾンビはやめて下さーーーーーーーーーーーーーいっ!!」と訴えながら、いまだ先輩のちいさな片足の重圧から抜け出せず、ひっくり返った末期の蝉のように暴れまくっていた。「なーにが清く正しくう・つ・く・し・くだ人間風情がっ!! 賢しらに動物界隈から抜け出たつもりの特権階級気取りかあーん!? 所詮はオスとメスだろーーーーーがっ!! きれいごと言ってんじゃねーーーーーーーーーぇ!!」とヤクザのように怒鳴られて。……しょ、正一が可哀想すぎる……。
呆然とする俺、先輩の剣幕にビビりまくり尻もちをつく莉子ちゃん、うるさそうに顔をしかめながら、冷蔵庫を開けて持ってきたペットボトルを入れつつ、「あんたのほうの禊は済ませたのか? あっちに飛び火してるってことは。……まあこういうことだから、これからはあんま彼女の話は、アイツの前でしないほうがいーぞ」と、淡々と俺に言うシンリ……といったふうに、全員態度は違えど共通して【楠田先輩を止めない(止められない)】という点で一致していた。なのでこの騒ぎが収まったのは、部の精神的大黒柱ともいえる常識人、眼鏡で細身のジェントルマン――三年の宝木一翔先輩――通称イッショー先輩がやってきて、「やあ皆……じゃない! な、なにしてるんだ!? ――……落ち着けマリンっ!! ほ、ほら、君の好きなお菓子を持ってきたぞ二種類もっ!! ……僕の分もあげるからっ!!」と、まるで幼児をあやすかの如く大人の対応をしたときだった(ちなみに待ち受けのゾンビ化はギリギリ回避し、正一は精神的に死ぬ一歩手前で助かった)。……み、禊がどうのって、彼女がいてすみませんでしたーっ! って謝り怒りを鎮めてもらうってことか? 楠田先輩はどこの反恋愛神だよ。そもそも誤解だっていうのに。あー説明が面倒くせー……。
◇
「……。彼女じゃない……? へっ、なーんでただの友達が、休みをつぶして、ほかの友達も誘わないで、ひとりだけで他校まで応援に来て、あんなに人がたくさんいる前で、おっきな声で応援してんだよっ! しかもラブ、だぞ? ラブ! んなこと友達が大声で言うかーっ?」
騒動のあと。部員全員でおしゃれイスに腰かけて長机を囲み、イッショー先輩の持ってきてくれたお菓子(※チョコパイと団子)を食しながら、俺は皆に、あの子は恋人じゃなく友達だ、という説明を必死にしたのだが……。「そうだったんだね……。ごめん、早とちりしたよ」「なんだ、違うのか。ふーん……」「わ、分かりました。群青さんの連絡を待っています!」「残念だー……! 近しい立場として、さらなる友情の深まりを期待したんだがっ……!」等々、皆がわりとすぐ納得したあとに、かの反恋愛神が半眼で、チョコパイと団子を同時に頬張りつつ反応したのが先の台詞である。俺は彼女の正面に座り麦茶を飲みつつ、たまった疲労を吐き出すようにため息をついて、静かに返した。
「そういう、人をからかって楽しむのが好きなヤツなんですよ、アイツは……。現に莉子ちゃんにだって、そうして恋人とか冗談言って楽しんで……。まあ、悪いヤツじゃないんで、俺も友達……でいるわけなんですけど」
じっさいは、ペティ的には、俺は友達というか上司、ということみたいなんだけど。俺としてはとても目下のようには見れないから、友達というのがいちばん近い。あと、悪いヤツじゃないことは間違いないからな。だから多少の欠点があっても、関係をやめるほどのことじゃない。【セイラル・マーリィ】の協力者として、魔術士としてのつながりとも関係なく、……【緑川晴】としても。
「そ、そうですよ! 私も体育祭の朝に会ったばかりなんですが、とっても明るくてフレンドリーで……。すごく魅力的な人だと思います。わ、私にはぜんぜんないものを持っていて、……うらやましいなあって」
楠田先輩の隣に座る莉子ちゃんが、オレンジジュースの入ったウサギのマイカップを両手で持ちながら、つぶやいた。それに、先輩を挟んで反対側の隣に座るイッショー先輩が、コーヒーカップを傾けながらうなずいた。
「僕は遠目で応援を見ただけなんだけど、確かに魅力的な感じはしたね。ただ明るいってだけじゃなくて、すごく子供みたいなんだけど、なんだろう……。すごく大人、ってふうにも感じたな。ノリだけで騒いでいるんじゃなくて、ちゃんと自分のやっていること、その言動の影響を自覚しているというかさ。……不思議なんだけど」
「ああ、それ。ワタシも感じました。うぇーい! 騒げ~! みたいなのとは違う、計算……というのもちょっと違うんだけど。ラブとかの言葉にも、応援を楽しんでることにも嘘はなかったから。……なんかいろいろ経験した大人が子供の立場に戻ったら、あんなふうになるんじゃないかなって。『楽しむことを楽しもう!』みたいな。世の中にいろいろある、【楽しいこと】の価値を分かって楽しんでいる人の騒ぎ方ですよね、アレ」
「……――ぶふっ!」
俺は思わず飲んでいた麦茶を噴き出して、イッショー先輩の言葉を受けて話した、俺の隣に座っていたシンリが「うわ汚っ! なにしてんだよあんたっ! ……莉子っ! そこの布巾!」と莉子ちゃんに言い、彼女は慌てて机の端にぶら下げていた布巾を取り、俺が受け取る間もなく拭いてくれたので謝り礼を言う。……いや、いや、だって鋭すぎるんだよ! イッショー先輩もシンリも! 先輩は歴史の研究をしていて、シンリは小説を書いてるんだっけか。横岸の鋭さは直感的な感じだったけど、ふたりのは理知的に思考した末の意見、って感じだな。……なんか部活でもうかつな言動は避けたほうがいいような気がしてきた。
「……ふん。どーでもいいよそんなこと。あの子がお前のこと好きなのは間違いないし。それが恋愛的じゃなくても、あのラブっていうのは、【自分の深くから出た、心からの言葉】だ。ただのからかいなんかじゃ絶対ない。……お前が気づいてないふりしてるのか、単に鈍いのか知らないけど。……あ~ーム・カ・つ・くっ!! 僕はそこまでだれかに想われたことなんかないってーのに……!!」
ばんばん机を叩くが、さっき激高していたような勢いはもはやなく、ぷいっと俺から顔をそむけてすねる楠田先輩。それを見て、シンリと反対側の俺の隣に座り、大事にスマホの待ち受けを眺める正一が、「誰かに強く想われる。そう、それこそが人が生まれてくる理由ですよねっ! 長い人生、人は決して、孤独では耐えられないのだからっ!!」と拳を握り、力こぶを見せて言い放つ。それでまたガタッ……と、引きつった笑みを浮かべた楠田先輩が立ち上がり、「……いひっ!?」と怯えて漏らした正一も立ち上がり、ふたりは無言で高速鬼ごっこを始めることとなった。……あのふたりは横岸とはまた方向性は違うけど、感覚派、直感タイプだよな。ふつうに話したら気が合うと思うんだけど、先輩に恋人ができない限り無理っぽい感じがする……。
……しかし、楠田先輩も鋭いんだよな。恋愛感情じゃないけど、ペティは【セイラル】に強い関心があって近づいてきて、呪いを解いたこともあって、部下にしてくれって必死に頼み込むほどだったから。……ラブ、……か。
◇
――アタイも旦那みたく、いつかは……本気でだれかを愛してみたい――
――そしたら、違う景色が見えるのかなって――
――【大人】になれるのかな……って――
◇
イッショー先輩やシンリはペティに大人の影を見た。それは実年齢66の彼女にとって、半分は正解だ。けれど当人にはまだ、彼女が考える【大人】には届かないものがあって、だから子供のふりをしているわけじゃなく、ペティもまた、イッショー先輩やシンリたちと同じように、歩いている途中なのだ。そしてそれは晴も同じで、たぶん、かつて本気でだれかを愛したという過去のセイラルもまた――……。
俺は麦茶の入ったグラスを見つめる。そのとき、なにかが茶色の水面に浮かびそうになるが、「おーいマリン、正一。そろそろ合宿の件について話したいんだけど……」というイッショー先輩の呆れたような声が響いてきたことで、それは消え……、ただの麦茶へと戻った。




