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第77話 予感

 真っ暗で、音もなく、においも感じず、そして床に立つ感触はおろか、動けば肌をなでるだろう空気のそれすら感じず、さらにはなめる唇の味も感じない。つまり五感が完全に奪われた状態に、俺は置かれていた。

 俺のいま居る部屋――【魔具まぐ】によって形成された別次元の空間――が、一時的にそれらの感覚を奪っているのだ。無論、魔術士としての【自主練】のためである。


     ◇


「ふつう、魔術士に弟子入りすれば、少なくとも数年は、食事と寝る以外の時間は修行漬けになるものだ。お前のように、まるで人間界の学校で出される宿題のごとく、日常の合間にちょこまかやる修行などありえない。……が、それを許すのは、なにもロドリー・ワイツィの言うように、お前の人間としての生活を守ってやるためではない。お前が元・クラスエスというからだ。……だから【身につける】というよりも、魔術の要点、基本を押さえた、【思い出す】ための修行――ということになる」


 泊りがけの修行を終えた、あの日の、駅前での別れ際――。俺に修行のための別次元発生装置である魔具……青く四角い、サイコロのようなそれを手渡しながら、ルイは言った。


「私が直接、修行をつけてやる日以外は、毎日欠かさずそれを使って自主練しておけ。それはさっきまで修行していた部屋と同じく、別次元の空間を発生させる装置で、六畳の部屋だろうが、トイレだろうが、押し入れ、机の引き出し、その他なんでも空間でありさえすれば、中へ放り込むことで、外観はそのままに、中身が教室程度に広がる。外へは音も振動もなにも漏れないし、……お前に渡したそれは、流れる時間も違う」


 俺が訝しがると、ルイは近くにある、点滅を始めた信号を横目で見たあと、続ける。


「この種の魔具で発生させる【別次元の空間】というのは、魔法界と等しい空間のことだ。私の部屋に造った空間ものは、時間に関して、人間界と合うよう調整したものだが、そっちのはなにもしていない。だから、中での1時間は、外の人間界では15分。比較して4倍になる。しかしこれは別に、魔法界のほうが人間界よりも、時の流れが速いということを意味しない」


「……? そ、れはどういう……」


「だから、ほんとうに、まったく【別次元の空間】ということだよ。基準が違う世界なんだ。人間界の物差しでそれを測れば、人間界の基準で測れる差異が出るだけで、それが魔法界の真実というわけではない。……ここで大事なことは、短い時間でたくさん修業ができるから、どんなに忙しくてもできるはずだ、サボるなよ、ということと、……あとは決して人間を中に入れるな、ということだ」


 真顔で俺を見る。俺が思わず唾を飲み込むと、ルイは告げた。


「我々リフィナーは、世界の根源たる精霊から魔力を借り受けているが、人間はひとりの例外もなく魔力を持ち得ない。そうした生物が魔法界、及びこの種の魔具で再現している空間に足を踏み入れると、急速に生命が干からびて死ぬ。これには魔力の多寡は関係ない。たとえ魔力値が1でも、リフィナーであれば死ぬことはない。要は存在そのものが、人間とリフィナーわれわれは違うという話だ。……私にはどうでもいいことだが、もしお前が、人間の身内や仲間が大切なら、決してそうした間違いを犯すなよ」


 信号が青になり、多くの人が駅のほうへ、または駅から渡り、すれ違ってゆく。ルイのそばに映る、そうした人たちを見やりながら、俺は、「……分かった」とだけ言って、深くうなずいた。


     ◇


 五感が閉ざされていると、いまのようにどうしても思考が働き、過去のことを思い出したり、ごちゃごちゃと考えたりするが、そうしたことを我慢して、ただただ【五感以外】を働かせることに意識を集中しなければならない。つまりは、それがこの特殊な空間で行われる……【魔力を感じることに特化した修行】だ。


 目が見えれば目で、耳が聴こえれば耳で、においが嗅げるのならばそれを、というふうに、感覚器をたよってしまうが、魔力というものは、リフィナーの心臓にあたる【魔芯ワズ】で感じるものらしいので、その感覚を鋭敏にしないと、話にならないのだそうだ。魔術を使う以前に、その辺りが鈍いと、肉体的な攻撃にしても、回避にしても遅れをとってしまう。だから魔術士の修行を始めた者は例外なく、五感を用いて世界を把握するように、魔力を【魔芯ワズ】で感じる修行を基礎として行うらしい。


 そもそも魔術士、あるいはルイの兄であるリイトのような魔剣士……魔力を使用した剣士……なども、人間ではとうていできないような動きをするが、それは筋力に頼んだものではなく、魔力によってなし得ているものである。だからムキムキであろうがガリガリであろうが関係がなく、魔力が多いか、磨かれているか、扱いが優れているか、という点が重要になる。もっとも、魔力に関する修行を重ねれば、たいてい引き締まった肉体になるらしいが。そういえばルイも、ファレイもスタイル抜群だし、リイトなんてめちゃくちゃ恵体だもんなあ。……ロドリーは服装とか姿勢とかで、分かりにくいけど、なんか意図的に隠しているような気がしてきた。


「……。1。……2、3。…………4……?」


 いま、俺が自信なさげにつぶやいたのは、周囲に感じている魔力の数である。つぶやいても聞こえないんだけど、口でも動かしてないと頭がおかしくなる。というか、今回で3回目になるが、初めて入ったときはマジで狂うかと思ったからな。そりゃそうだろう。五感を奪われることなんて、ふつうありえないわけだから。事前に聞いててもパニックになりかけた。


 ルイの話では、この別次元の空間……魔法界と同じそれに人間が入れば、漏れなく干からびて死ぬらしいけど。それ以前に、この魔具に関しては、五感を奪われることに【人間】は長時間耐えられないと思う。俺がこの異常な空間で持ちこたえているのは、根性があるからとかではなく、【リフィナー】だから――魔力を持っているからとしか思えない。……もっと言えば、精霊とつながっているから。


 ルイとの修行の日に【感知】したけど。確かに世界の根本、真実と言うのもおおげさじゃない、巨大で、おおきく、豊かな存在だった。……それに、あのときの、【精霊の言葉】は――。


     ◇


――≪【極点レブラ】の忘れ形見か。久しいな≫――


     ◇


 忘れ形見、というのは、死んだ人が残したもの、あるいは残した子供……ということだよな。しかしあの【話し方】だと、【俺が】忘れ形見と言ってないか? 【極点レブラ】というヤツの。……俺の実の親? それとも【たとえ】としてそう言っているのか。さっぱり分からないが、精霊の言葉は聞くことができないとされているのに、俺には聞こえたことも含めて……――。やはり悠長に歩いている場合じゃない、ということだけは確かだった。


 俺は考えるのをやめた。そして【魔芯ワズ】だけに意識を集中させる。するとなにも見えない、聴こえないけれど、そこになにか【在る】ことがはっきりわかる。さっき数えた通りに、やっぱり4つ。頭の上、足の間、右肩のそば、……それと俺の前方、顔の高さ、1メートルほど先にひとつ。分かりにくかったよっつめはあれか。


 俺はまず、左手で右肩の【それ】をつかんで潰す。そして頭の上のを、次に足の間のを同じように潰すと、最後に感触のない足を動かして前へ進み、そこへ【在る】ものへ手を伸ばし潰そうとした……が、やめた。違う。これはフェイクだ。


「……――ここか」


 俺は自分の胸の上部――【魔芯ワズ】のある辺りに【在る】ものをつかみ、潰した。すると次の瞬間――とつぜん視界が戻り、パンパカパーン! という音が聞こえ、甘いシャンプーの香りがし、床の冷たい感触、そしてなめた唇から、わずかにしょっぱい味がした。


「3回目にしてようやく100パーセントか。まあ及第としてやるか」


 と、明るくなった部屋……まるで古びた剣道場のような、殺風景な板張りの屋内に、ひとり立つ、少女の姿が目に入る。長い髪に、体のラインが出る黒い長そでシャツ、青いジーンズに裸足。……どう考えても見覚えのある髪型、服装の人が、見たことのない【姿】になって立っていた。


「……。えー……っと。ルイ……だよな? この魔力は。だけどその……なんで?」


 俺の前方に立ち、腕組みをするその少女は、幼い顔立ちに、子供らしい声の小学生……それも三年生くらいにしか見えない。しかし全身から発する魔力は明らかにルイのそれで、間違えようもない。娘や妹とも考えられない。容姿以前に、魔力が【似ている】のではなく【同じ】だから。ただ、魔力値は大分低いが……。


「なんでもなにも、お前の自主練を手伝ってやろうと思って【仕込んで】おいたんだよ。私は、お前の1万程度の魔力に合わせた、1万ほどの魔力値を持つ分身体だ。ありがたく思えよ。これは選ばれた魔術士にしか使えない、かなり高度な術なんだ。……ファレイ・ヴィ―スはクラス1Aワンエーで、クラス3Aスリーエーの私よりも上、かつ魔力値も高いが、そんなアイツだって使えまい。特別なセンスがいるからな」


 と、ちびルイは胸を張る。いつも子供っぽいところがある人だったけど、まさかほんとうに子供になってしまうとは。いや、分身体ということは、本人じゃないのか? 魔具に【仕込んで】おいたとか言ってるし、ルイ本体とは切り離された、別人的存在なのか……。っていうか、自主練を手伝うって、それって自主練じゃなくない? あ、あの手とか足が飛びまくる【しごき】が始まるんなら……。


 俺は思わず後ずさる。するとちびルイはため息をついた。


「なにをビビッているんだ? お前はさっきまでなにをしていたんだ。……いま目の前にいる女をよく感じてみろ。魔力はお前と変わらないだろうが。しかも体はずっとちいさいんだぞ。……そんな態度をとる必要がどこにある?」


 そう、可愛らしい声で言い、にこにこ華奢な両手を広げる。いっぽう俺は青ざめて、半笑いで彼女を指差した。


「いや、でも、魔力値が同じでも、習得した術式の数とか、その扱い方とか身のこなしとか、経験値が違い過ぎる……でしょ? 体のおおきさとか、魔術士、関係、ないし。だから、その、実戦形式の練習というのは……、対等じゃなさすぎるし、……ないよね?」


「ははっ。馬鹿かお前は。……何のためにこの仕込みをしたと思ってるんだ?」


 と、言うが早いか、気づいたときには俺の眼前にちいさな頭があり、間を置かず腹にはちいさな拳がめり込んで吹っ飛ばされた。……や、やっぱりかーーーーーーーーーーっ!!


「いま、私がどのように魔力を扱って攻撃したか分かるか?」


「え、あ、の……。そ、その前に、かい……ふ……く」


 俺は壁際に倒れ込み、床に頭をつけながら、腹を押さえる。たぶん胃が潰れ……た……。確かに【魔芯ワズ】に意識を集中させてればかんたんに死なないし、気絶もしない。しないんだけど……。それって地獄の苦しみが続くだけですよね!? あ、あがぁ……。


「創術者及び執行者はルイ・ハガー。……活性せよ。シルヴェール」


 赤い光に包まれて、痛みがひく。それでおおきく息をはいて顔を上げると、半眼になった小学生女子が、思い切り馬鹿にしたような表情かおで俺を見おろしていた。や、やめて……。別の意味でまた腹が痛くなるからぁ!


「……まだ五感に頼ってるからそういう目にうんだ。目で追うな。筋力に頼るな。魔力の流れを感じてすべてのことを行え。そうすれば相手がいろいろ上まわっていない限り、防げるんだ。ちなみに【いろいろ】手加減したんだからな。つまりは防げなかったお前が悪い。……それと、この分身体では【ミスターリア】は使えんから、半殺しにはしない。あれは【魔神】セイラル・マーリィが創り出した大変優れた回復術式で、1万程度の魔力値では使えないからな」


 胃を潰すのは半殺しじゃない、ということは分かった……。それとミスターリアって、ファレイも使ってたけど、そんなにすごい回復術式だったのか。確かにカミヤやローシャに殺されかけたときも、ほぼ元通りになったけど。……それを創った、か。ほんとう、遠い道のりだな……。


 俺は息をはいて立ち上がる。そしてすぐにちびルイから距離をとると、構え、【魔芯ワズ】に意識を集中した。……分かる。自分の魔力が、天地とつながっていることが。そしてちびルイのほうも。自分が発生させて持っているわけじゃなく、精霊に借り受けているというのはまさにそうだ。筋力に頼ると、そんな自分の中を通り抜けてゆく魔力の流れにひずみを生じさせ、うまく扱えない……ということか。


 ちびルイの足が動いて、突っ込んできた。しかしさっきとは違い、天地につながる赤い魔力が太さや形を変えて近づいてくることが【魔芯ワズ】で感じられる。これを防ぐには、どの程度の魔力が必要か。考えるのではなく瞬時に感じて、俺は体全体をもって緑の光を動かして、右手に流し込み――彼女の赤く光るちいさな拳をつかんだ。


 すると今度は、反対の拳が飛んでくる。俺はまた、拳そのものではなく、拳の内外に流れる赤い光の道筋を感じて、空いた手でつかむ。両手をつかまれたちびルイは、ニヤッ……と笑い、自分の額を俺の額にくっけるほどに顔を寄せ、言った。


「いいぞ……お前は必ず阿呆のようなつまずきをするが、すぐに反省し、指摘を受け入れ、実行に移す。お前がかつてクラスSだったとしたら、確実に天才のそれではない――。鈍さを叩き、叩き、叩き、叩き……呆れるほどの時間を費やし黄金に輝かせた、究極の凡人の叩き上げだ! ……――ますます私好みだ、気に入った!!」


 その言葉に、俺が思わず口を開け、集中力が途切れた刹那――彼女は頭を後ろに引き、そのまま思い切り頭突きを食らわせて、俺は意識が途絶えた。


     ◇


 それから。俺が目覚めたのは、自分の部屋の、開け放した押し入れの前でだった。どうも魔具で造った空間から弾き出されたようだ。体を起こすと、くだんの青く四角いサイコロのような魔具が転がっていた。


 机の上にある丸い置き時計を見やると、夜の11時半。修行のために空間を造り、入ったのが11時だったから、【俺の部屋では】30分しか経っていない。弾かれたあと、こっちで寝落ちしてたらもっと時間が経ってるはずだから、気絶から目覚めただけなのかな……あの頭突きの。


 頭は痛くないし、コブもできていないから、それもちびルイが治してくれたのか。しかし……。同じ程度の魔力に合わせてもらっても、ぜんぜん敵わなかったなあ。当たり前っちゃ当たり前なんだけど。この悔しさは……。これも、少しは俺も前に進んでるっていう証か。


「おーい。お前の家、オレンジジュースはないのか? ないなら金を渡すから、買ってきてくれ。この姿で出歩くと、面倒なことになる場合が多いんだ」


 ドアが開く音、そしてこの家で、この時間に聞こえるはずのない声が耳をつく。がき、ごき、がき……俺がロボットのように振り返ると、そこにはさっき、魔具で造り出した空間内で会ったちびルイが立っていた。


「なんだその表情かおは。まさか魔具から出てこれないとでも思ったのか? 魔具に仕込んだ、というのは分身体を発現させるための魔法陣で、分身体そのものじゃない。お前を外に出したのも私だ。ちなみにあと一時間もすれば消えるから心配するな」


 そう言いながら、阿呆のように口を開ける俺を尻目にすたすた歩き、俺の勉強机に置かれた置き時計をつかみ、「お、なかなかセンスいいじゃないか。この机も椅子も。……手作りだな? だれが作ったんだ?」と言いながらイスを引き腰かけて足をぷらぷらさせる。この、大人びた口調でしゃべる小学三年生が あ と 一 時 間 ? こんな時間に? 俺の部屋に? じ い ち ゃ ん は ま だ 寝 て な い ん だ け ど ? ……じょっ……冗談じゃねーーーーーーーーーぞ見られたらどう言い訳すんだ!? ……即刻出て行ってくれぇ!!


「……っていうか……、い、いま、ドア開けて入ってきたけど。まさか一階におりてないよな? オレンジジュースがどうとか、言ったけど。……キッチンに入ったとか」


「ああ。入ったが、宗治そうじ氏の気配くらい分かるからな。見つからないように冷蔵庫を開けることくらい造作もない。……で、冷蔵庫以外に保管してないのか? さっきの訓練で無性に飲みたくなってな。すっぱいのが。……リンゴじゃないぞ。オレンジだから」


「リンゴでもオレンジでも、ど う で も ええ~~~~~~~~~~~~~っ!! 常 識 っ!! 人 間 界 の 常識っ!! 人の家で勝手に動きまわらな~~~~~~~~~~~いっ!! 冷蔵庫開けるなんてありえな~~~~~~~~~~~いっ!! アナタ人間界(こっち)の常識知らない人デスかぁ~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」


 と、いうことを(人間的常識で)思い切りボリュームを抑えてまくし立てる。するとちびルイは、「もちろん、【本体】ならそんなことするわけないが、いまは分身体だからな。お前も分身体を創れたら分かる。いろいろ心が解放されるんだ。大目に見てくれ。あと、私は人じゃなくてリフィナーだから」と、微笑んだ。……確かに、いつもに比べると愛想がいい気がするが、関 係 ねぇーーーーーーーーーーーーーーっ!! 人でもリフィナーでも、ど う で も えぇーーーーーーーーーーーっ!! ……と、とにかくこの人をこの部屋から出さないようにしないと! 押し入れにも、いざとなったら入ってもらうしかない! まあ、じいちゃんはめったに、こんな時間に上がってなんてこないけど。なんか特別なことでもない限りは。ただ万が一、ということもあるからな……。


「そもそもそこまで慌てる必要はないぞ。この分身体は、依り代となる私の髪の毛以外は魔力で具現化したものだから、人間には視認しにくいんだ。魔力や魔術が人間に見えないことは知ってるだろう? 分かりやすく言うと、依り代に絡みついている分、見えることは見えるが半透明な……幽霊みたいに見える感じだな。人間からだと」


「余計悪いわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!! なに!? あなたいま、人間から見たら半透明なのっ!? さっき外にジュース買いに行ったら面倒になる云々って言ってたの、子供だからじゃななくて幽霊状態だからかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


 とうとうふつうに叫んでしまい、慌てて口を押える。そして俺は急いで部屋を出て下へ降り、果たして怪訝な表情かおをして自室を出てきたところだったじいちゃんと遭遇し、じいちゃんが、「おい、お前いま……」という前に「ごめーーーーーーーーーーーーんダチとの電話っ!! もう静かにするからっ!! 俺、 常 識 あ る ふ つ ー の 人 間 だからっ!!」とまくし立てて、すぐさまキッチンへ。そこで戸棚を開けてグラスひとつと100%オレンジジュース『風切かざきり』を持って風のように階段を駆け上がった。背中で、じいちゃんの「……夜中にそんなもん飲んだら寝つき悪くなるぞー」という呆れた声を聞きながら。……飲むの俺じゃなくて 幽 霊 だから平気だヨ! ありがとう心配してくれてお父様っ!


「おっ。あるじゃないか。……しかもうまい。これ、どこのヤツだ? もしかして宗治氏が購入したものか。だとしたらさすがだな。味覚がズバ抜けている。さっそく私もきょう注文しよう」


 イスからおり、今度は畳に女の子座りして、俺の持ってきたビンのラベルを見ながら、グラスを傾けながら、満足そうに言うちびルイ。疲れ切った俺はその場に寝転んだ。……ほんとうなら一時間ほど自主練(しゅぎょう)して、ぐっすり寝て、あしたは寝坊せずに起きて、新しい週を迎えるはずだったんだけどな……。これは確実にすんなり寝れないだろ。


 きょうはすいちゃんがソーシャ人形の回収に来たり、そこに人形を見るために来た橋花はしはな伊草いぐさが合流したり、それで水ちゃんの作ってくれたお昼をいっしょに食べたりしたあとは、けっきょく皆でトランプしたり、バドミントンしたりして遊んでと、なんというか、実に人間らしい日曜日を過ごしたんだけどな。最後の最後で本質的なものに引っ張り戻されたというか……。


 ……つーか、マジソーシャ人形運び出しててよかったわ! ルイがローシャの見た目を知ってたら、ややこしいことになるところだったからな。……水ちゃん、ありがとう!


「……お前、そんなに人間としての生活が大事なのか?」


 ぽつり、声が聞こえてくる。俺はそれで思考をやめ、顔だけ動かし、ジュースを飲むちびルイを見やる。その表情かおは、からかうでも馬鹿にするでもなく、純粋に問いかけている、そんなふうだった。


「……ああ。大事だよ。【緑川晴(おれ)】は人間界ここで生きてきたから。たとえ魔法界あっちでの生活が、ほんとうはずっと長くても、重いものでも、……その記憶が戻っても、それは絶対に変わらない」


「記憶がないのに断言できるのか。ほんとうに戻れば、その言葉は正しくなくなるかもしれないぞ。……そもそも、お前がクラスSで、なんらかの事情で記憶を失い、力も失い、人間界に流れてきたのだとしたら、よほどの事情があるはずだ。それが事故にしても、……自発的なものにしても」


 ちびルイの表情かおが、目が鋭くなる。俺はその目をぼんやり見たあと、閉じて……、やがて開けるとゆっくり体を起こして座った。


「過去の俺が【どれほどのもの】を抱えているにしても、俺が人間界ここで、人間として積み重ねてきた日々が軽くなるわけじゃない。記憶がなくても魂がある。それこそ、あなたが教えてくれたように【魔芯ワズ】で感じれば、そこに心を傾ければ――……この日々は愛おしく価値があるものだったと。そう断言できるんだ。記憶が戻った未来でも、必ず。……――俺は俺の歩いてきた道すべてに自信がある。そこに一分いちぶのうそもない」


 ちびルイを見つめ、しばらくのち、俺は微笑んだ。彼女は一瞬、目をおおきくしてから、いつもの様子に戻る。そしてグラスに視線を落とした。


「……ほんとうにぶれないな、お前は。いや、呆れるほど頑固と言うべきか。……興味深いリフィナーであることは確かだ」


 ちびルイは笑う。それからグラスを一気飲みしてからにすると、言った。


「一度、記憶を失う前のお前に会ってみたかったとも思うが、……記憶を失っていなければ、人間界に来ていなければ、お前とは会うことも、縁を結ぶこともなかったかもしれないな。……そして、記憶が戻れば縁が切れるような。……そんな気もする」


 彼女はぼんやりくうを見る。そのあと俺を見て、また笑うと、口を開こうとした俺にグラスを差し出し、「お前も飲め。まだ見えない未来さきよりいまだ。私はクラスSだったお前じゃなく、弱っちいおまえと飲んでるんだ」と無理やり持たせて、ぎりぎりまで注ぎ……、自分がしたように一気飲みさせた。

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