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第75話 隣

「……動き、ませんね……」


 トークの残骸が散らばった血の海に浸ったまま、突っ立つファレイの背中を見て、ハーティが漏らす。戦いを終えてからファレイはぴくりとも動かず、どこを見るともせずにただ棒立ちになっていた。しかしあれが呆然自失ではないことは……その実【なにをしようとしているのか】は、ハーティにも分かっていたので、先の言葉を放ったきり、じっと見守るように見つめていた。


【ヤートの森】は、ファレイにとって忌むべき場所であり、足もとの肉切れと化した男は、自らの自由を奪い続けていた憎むべき相手である。だがいま、アイツはあえてその血に浸り、その地から足を動かさずに、【魔芯ワズ】へすべての意識を集中し……精霊と【出会おう】としていた。


 ほんらいなら、初めての【出会い】は心が浮きも沈みもせずに、冷静冷徹になれる環境が望ましい。俗世間の手触りを払うことにより、ようやく、ふだんは見えにくくなっている、現実世界の奥にある真理本質と向き合えると考えるからだ。そうした常識に倣えば、ファレイが選んだこの状態は真逆だったが……、精霊の存在を信じていなかったアイツには、【アイツの知り得る現実の最たるもの】の中に、徹底して身を置くことにこそ、ほんとうに存在しているのなら、【それ】を感じられるはず――そうした信念に基づいているのだろう。でなきゃうそハッタリであると。アレは、精霊の実在を伝えた俺自体の真偽も見定める行為なのだ。


 そうして、ファレイが動かなくなってから、どのくらい時間が経ったか。夜が森を包み始め、月がのぼり、さあいまこそ一日の始まりだ、と言わんばかりに、魔鳥の群れが木の葉を揺らして飛び出した瞬間――。ファレイの【魔芯ワズ】から十字に銀光が発して、それが世界に溶け込むように、ゆっくりと散っていった折り……ヤツはこちらを振り向いた。


「……。くそ……――」


 開口一番、ファレイが俺を見て漏らしたのはそれだった。下唇をかんだ表情かおはゆがんでおり、悔しさ、不愉快さ、恐れ、……しかし、いままでとは違い、なにも知らなくて悪態をついていたときとは違う――……精霊と【出会い】、はっきりと世界の真実をつかんで、俺の言葉の正しさを認めた上で……【お前は気にくわない】といった表情ものだった。


 そんな表情かおで俺を見て、盛大に舌打ちしたあとにハーティをも見て、今度は唾を飲む。どうやらハーティのほんとうの実力ちからも悟ったようだった。いままでのように、本能的におおざっぱに【自分よりも強い】という動物的な感覚ではなく、リフィナーとして、魔術士のとば口に立つ者として、初めて理知的に悟ったのだ。その磨き抜かれた魔力の鋭さと、……わが身の不幸を呪い続けていた自分よりも、はるかについた膨大な傷を。


 ハーティは、そうしたファレイの様子を認めて、「……ようやく、入り口に立ちましたね」と、息をはく。引き取ってから半年の苦労が浮かんできたのか、どこか力が抜けたような、そして嬉しそうな気持を含んだ吐息だった。俺はちいさくうなずいたあと、いまだこちらを警戒するように立ち尽くすファレイに、声を飛ばした。


「おい、いつまでそうしている。……帰るぞ。お前の家はここじゃない」


「……っ、せー……! ば、馬鹿にしやがって……! そんなこと、分かってるんだっ!」


 ちいさな拳を作って振りまわし、こちらに泥をはね飛ばしで駆け寄ってきた。そして、俺たちが歩き出すと、これまでとは違って遠慮がちに、一定の距離を置いてよそよそしくついてくる。……それで俺は足を止めた。


「……ファレイ。前に、月を見せたときのことを覚えているか?」


「……はっ? あ、うん……。お、覚えてるよ……。そ、それがなんだよっ!」


「もう一度見せてやる。いまなら、また違ったものが見えるはずだ」


 俺はしばたたくファレイの手をつかみ、ふわりと浮かせ、自分の背にのせる。そして、「な、なんだよ……! なにすんだよっ!」とわめくファレイに、「俺は【これから両手がふさがる】から、しっかり自分の力でしがみついておけよ。落ちたら死ぬからな」と低く告げる。それでファレイがすぐさま俺の首にちいさな手をまわし、魔力をも込めてつかまったのを確認したのち、またですか……と呆れたようにこちらを見るハーティをメリーヌ(※お姫様抱っこ)した。


「……はっ!? ちょっ……! セ、セイラル様っ!?」


「前にファレイを抱いて飛んだとき、『私の時は丘の上でしたけれどね』とか言ってろ? 今度はいっしょに見よう。もうお前は子供ではなくなってしまったが、まだ【遅い】ということはないだろう。……初めてが、【ヤートの森ここ】の上、っていうのが、なんとも言えない気持ちだがな」


 そう、腕の中で口をあんぐり開けていたハーティに笑いかける。ハーティは、開けた口をぱくぱくさせて、文句を並べようとしたがなにも出てこず、唇をかみ……、少女のように頬を赤らめて、一度、二度と服をつまんでから、ようやく俺の胸元をつかんで、完全に身を預けた。


「よし。……創術者及び執行者はセイラル・マーリィ。――飛べ。アル・フィルレット」


 ゆっくりと宙に浮き、靴の裏についた泥がぽたり、ぽたりと数滴落ちた音が聞こえたあと、一気に上昇して森を抜ける。禍々しい気配は遠ざかり、ファレイとハーティのしがみつく力が強まって、頬に触れる風がどんどん冷ややかになってゆく。やがて雲を抜け、身体についた水滴が弾け飛び、それらがきらきらと輝いて、妖精のように俺たちの周りを舞ったとき――巨大な月と、それを彩るような赤や青の星々があらわれた。


 風音が響く中、俺の耳には、ファレイのちいさな声が届いていた。ただし、前に月と相対したときのような、驚きに満ちたものではなく、「……んだ……。……うかよ……」という言葉とともに発せられたその感情は、ファレイが、【元々知っていたこと】を思いだしたときの……それだった。


「……っ。……うっ……。――……ううっ!」


 ファレイは泣いていた。遠い昔、確かに触れていた、美しく温かだったものに、久しぶりに包まれて……。俺に抱き着く力が強まり、震える声と涙は、俺の耳に伝っていた。


 ファレイは、名前すら与えられず、生まれたときからもの扱いされていた、と言った。もし、それがまぎれもない真実なら、両親ですら愛を与えなかったのだろう。そうして【森】に捨てられ、魔獣に襲われ、ろくでなしの魔術士どものおもちゃにされ……。食うものも食えず、がりがりの体で、目だけをぎらぎらさせて、ただ生き延びるためだけに生きていた。それがアイツにとっての【世界】だった。……けれどそれは――それは世界のほんの一部なのだ。


 日は輝き、風は吹き、緑は伸び、花は咲き誇り、虫は跳ね、動物も走りまわり、美しく温かで、喜びにあふれ、自分を迎え入れる世界は、ずっとあった。そこへ駆け出すことも、飛び込むこともできなかったのは、ただいっときの不幸なのだ。ファレイは、そんな不幸に呑まれて、目を曇らせ、脚を鈍らせ、世界を黒く塗りたくる、貧しくする絵筆を握らされてしまっただけなのだ。……絵筆を置いてみれば、いまも、昔も、これからもずっと――世界は美しく豊かで在り続ける。そして、そこへ自分が手を伸ばすこともできる。……それに気づけたのなら……――やり直せるんだ。ハーティがそうだったように。……――俺がそうだったように。


 ハーティは、泣きじゃくるファレイのほうは見ずに、ただその嗚咽を聞きながら、ヤツと同じように、遠い昔に想いを馳せるように月を見ていたが、やがて俺の胸に頭を預け、ちいさな子供のときのように目を閉じる。そしてぽつりと漏らした。


「たぶん私は……。ただ、こうした日を重ねるために、魔術士になったのだと思います。そして、いつの日か……――この子もそうなると嬉しく思います」


 それから少しして目を開け、くしゃくしゃになったファレイの顔を見上げたあと、眼鏡を外して俺にかけ……、空の寒さから逃れるように、いよいよ深く、俺の胸に顔をうずめてまた目を閉じる。口元は笑っているようだった。


     ◇


 その――。屋敷に帰ってきてのこと。


 もう夕食の時間がとうに過ぎていたこともあり、すぐにハーティは食事の準備に取り掛かったが、いつもは嫌々雑用をさせられるファレイが、なにも言っていないのに、自ら「……手伝うよ」と申し出た。


 さらには、「ハーティさん。蜜のビンはどこに?」「ハーティさん。これの洗い方を教えてくれ」と、敬語は使っていないものの、さんづけで呼び、『お前』ではなく『あんた』と変化していた。そして仕事の手際を注意されて怒ったときも、声を荒げはするものの、二度と『わっかババァ』とは呼ぶことはなかった。これは、ハーティの強さを正確に理解して、恐れを抱いたから……、ということがまったくないわけではないが、それよりも、初めての敬意が、ファレイに芽生えたからであることは、明白であった。態度が堂々としていたからだ。他者にだけでなく……自分に対する自信……敬意も持てたのだ。


 食事の際も、テーブルマナーについてハーティに幾度も質問し、雑用の時と同じように、怒られても放り出さず、学ぶ姿勢を崩さなかった。そうした変化にハーティは、「いつまで続くことやら……」とは言いつつも、口元はゆるみ、明らかに気分上々。その証拠に、食事を終えてすぐ、「戦闘用の服を作って欲しい、と言っていたわね。私の部屋に来なさい。採寸しましょう」とまで言い出した。だが、ファレイが、「それはありがたいんだけど、……変なふりふりレースとか、リボンはやめてほしい……」と、心底嫌そうに頼むと、顔色が変わり、逆に、「……愚かな。あなたはあれらの愛らしさが、まだよく分かっていないようね。戦闘服の前に、メイド服を新調しましょう」と、半眼で無理やり言い放ち、果たして、「だ、だからそういうのが嫌なんだってば! い、や、だ~っ!!」と叫ぶファレイを引きずって去った。……あれでも罵詈雑言を投げつけないのだから、ほんとうに変わったんだな。俺としても喜ばしいことだが、しかしアイツ……。帰ってきてから、俺に対して、ひとことも口をきいてないのは、どうなってるんだ……。


 そんな疑問を抱えたまま、夜は更けてゆき――。俺がひとりベッドに入ったときに、部屋をノックする音がした。なので、「いいぞ。ファレイは寝たのか?」と返事をしたら、白いフリフリ寝間着を着せられたファレイが、半眼でドアを開けた。


「……なんだ。ハーティじゃないのか。こんな夜中にどうした」


「……」


 ファレイは無言で、半眼のままドアを閉めると、ぺたぺたこちらへ歩いてくる。俺は起き上がり、そばの低いチェストに置いた蝋燭ろうそくに触れ、灯りをともす(※魔力が伝達することによって、火がともるよう作られた蝋燭。魔術ではない)。それでますます難しい表情かおをしたファレイの姿が浮かび上がり、哲学者面したその子供は、ぼすん、とベッドの端に腰をおろした。


「……。っていうかお前、なぜ俺を無視するんだ。ハーティにはあんなに話しかけていたくせに……。ああ、もしかして呼び方のことか? 別に『セイラルさん』と呼びたくないなら呼ばなくていいぞ。いままで通り、お前でも、クソ垂れ目でもなんでも。正直、もう慣れたしなぁ。……いや、クソ、だけは取って欲しいか、さすがに……」


「……そんなしょうもない話をしにきたんじゃないよ。それと、別に無視してたんじゃない。なによりも、まずはじめに聞いておきたいことがあったんだ。……でも、ふたりじゃないと聞けなかったから」


 口をとがらせる。俺はため息をつき、掛布団から出て、その上であぐらをかいた。


「どういう話か、さっぱり見当もつかんが……。まあ、精霊を感知できたお祝いだ。可能な限り、答えてやるぞ」


「……――なんで私を拾った。前に聞いたとき、はぐらかしたろ。……【いまの私】には聞く資格がある。聞かせてくれよ。……なんでお前は……あんたは。あんたは私なんかを拾ったんだ……」


     ◇


――……おいクソ垂れ目。お前はなんで私を拾ったんだ? ……お前にとって、なにか得があることだったのか。答えろよ――


――ふっ……。その様子じゃ、【まだ】言っても意味がないな。いつかお前が、自分を……、世界を。きちんと見つめれるようになったら、教えてやるよ――


     ◇


 とつぜんの問いかけに、俺は、まだ精霊を感知する前のファレイに投げかけられた言葉、返した言葉を思い出した。ファレイはいま、その履行を迫っていたのだ――。


 蝋燭の火でぼんやりと照らされたファレイの表情かおは、真剣ではあったが、どこか怯えを含んでいた。それは10歳という年相応のものであり、また、精霊を感知し、余計な目くらましを剥ぎ取り、真実を見たがゆえの、わめいていた以前とは違う、……正しい感性まなざしにもとづいた、恐れと不安の色だった。


 俺はチェストの引き出しを開けて、葉巻のケースと灰皿を取り出すと、ファレイに、「……これ、吸ってもいいか?」と尋ねる。ファレイはうなずいた。


「……あんたでも、葉巻とか吸うんだな。嫌いかと思った」


「まあ、めったに吸わないな。ハーティが大嫌いだから、においを消すのが面倒なのもあるが……。心を落ち着けたいときは吸う」


 端を落とし、蝋燭に近づけて火をつける。そうしてゆっくり、煙を味わいながら、煙をないものとして、ただ俺だけを見据えるファレイに、言った。


「まず、お前は【世界真会ローレア】っていう、魔術士のお偉方えらがたがやってる組織が排除命令を出していてな。それを聞いて、排除される前に連れ帰ろうと思った」


「……なんで。そのときは私のことなんて、知らなかったんだろ?」


「ああ、知らんな。排除命令で聞いたのがさいしょだから。……ただ気にくわなかったんだよ」


 俺は煙をはき出した。ファレイは眉をひそめて、俺の表情かおを確かめるために煙を払う。俺はファレイに半眼の表情かおを見せて、葉巻をまわしながら続ける。


「【世界真会アイツら】は、アイツらの考える【世界の安定】とやらのために、毎日熱心に働き続けている。つまり【ヤートの森】で五年も生き抜いている、幼いお前という存在は、のちに脅威となると踏んだ、ということさ。いつの日か、【世界の安定アイツらのへいわ】を脅かすことになると判断したと。……お前、これを聞いておかしいと思わないか?」


「……いや。別に。要するに、よく分からないヤツが【敵】として育つかもしれないから殺す、というだけだろ。むしろ分かりやすいけど。……というか、あんたのほうが絶対おかしいからな? ただ好奇心とかいうもののためだけに、あの気色悪すぎる【ゾーヴ】に出入りしてる変態だし」


「……。俺がおかしいと思うのは、まあいい。ともかく俺の価値観では、あり得ない話だったんだよ。捨てられたガキを殺しにいく、なんてことがな。助けにいくほうが先だろうが。【世界の安定】っていうなら。ガキは育ち世界を創るんだ。壊すのはいつも【育ち損ねた】大人だろう? ガキは真っ白なんだからな。……あの阿呆どもはなにも分かっちゃいないのさ」


 思い出したら腹が立ってきて、雑に煙をはき出した。煙の中で、ファレイは、ははあ……と、なにやら得心したように、鼻で笑い言った。


「あんた、そいつらが嫌いなんだ。それもめちゃめちゃ。……ははっ。あはははっ!」


 すぐに大笑いに変わり、俺を指差した。まるで同い年のガキにするように。なのでご期待に添うように、俺は幼稚に思い切り煙をはき出しファレイにかける。果たして、「ごほっ!? ごほっ! このっ……! なにすんだやめろっ!!」とばたばた手を振るが、「ブチ殺すぞ!」「死ね!」「クソ垂れ目!」も、なにも出てこない。ほんとうに変わったんだな……。


 感慨に浸っていると、涙目のファレイに葉巻を奪われて、灰皿に押しつけられ……、ヤツは俺をにらみつけてきた。「お戯れもほどほどになさいませ」とハーティがするように。俺は頭をかいて、続けた。


「まあ……、それが【森】に入った経緯ではある。それでお前とじっさいに出会い、連れ帰ったわけだが……。いちおう言っておく。俺はただ、【世界真会ローレア】が気にくわないから、当てつけでお前を連れ帰ったわけじゃないぞ」


「……じゃあ、なんで……?」


 ファレイが布団をつかみ、俺を見つめた。わずかに瞳が震えている。俺はそんな瞳を見つめ返したまま、言った。


「間違っている。そう思ったからだ」


 ファレイは、ぽかんと口を開ける。そして真顔のままの俺を見返して、苦笑して返した。


「間違ってる? ……だ、だからそれは、【世界真会ローレア】が私を殺そうとしてるのが、っていうことがだろ? あんたにとっては……」


「それもあるが、そうじゃない。【ヤートの森あそこ】はお前のいるべき場所じゃない、生きるべき世界じゃない、ということだ。見た瞬間に思ったよ。『コイツはなんの冗談だ』……ってな」


 ファレイは、表情かおをゆがめていた。納得がいかない、というふうに手を握りしめ、布団のシワを深く作っていた。


「要するに、同情……ってヤツだろ? 別にあんたは、【私】じゃなくても、そう思ったんだ。ぼろぼろの子供がいたから。……そういうことだろ」


「それなら『救助』後に【非魔術協会アウタラー】に引き渡すさ。そういう、行き場のない子供を保護する団体――そこはそれもしている、ということだが――にな。そのほうが、少なくとも俺に、魔術士として育てられるよりは幸せになる。傷つくことも、死ぬことも遠くなるだろうし。……だがお前は、俺が魔術士として育てたいと思って引き取った」


「……だからっ、なんでだよっ! なんでそれが私……――」


「隣を歩く存在が欲しかった。いつか、俺と対等になるような――。それがお前だった。まだ、分からんがな。……俺の直感ではそうだったということだ」


 ファレイは目を見開き、布団を握りしめるのをやめた。シワがゆっくりとなくなってゆく。俺はそんな様子を見たあとに、チェストの下段の扉に手を伸ばし、酒ビンとグラスを取り出し、注いだ。


「要は同情心でも親切心でも、ましてや立派な大人の務めとやらでもなく、ただのエゴだよ。俺の直感に引っかかったお前は、いわば被害者というような……」


 そこまで言いかけて、俺は言葉を止めた。ファレイが、目を見開いたまま、布団に手をついたまま、まるで脱力したような姿勢で、耳や首まで真っ赤になっていたからだ。俺は訝り、酒ビンをチェストの上に置いて、グラスを傾けつつ、続ける。


「匂いで酔ったのか? これはそんなに強い酒じゃないぞ。……お前、酒に向いてないな」


「……――ちっ、違うわっ!! あ、あ、ああああああんたっ!! あんたいまっ!! 自分がなに言ったか、分かってるのかっ!?」


「はあ? 『お前、酒に向いてないな』……」


「戻れぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!! もっと前に、戻れぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!」


 思い切り指を動かして、叫ぶ。俺はますます訝しがり、眉をひそめたが……。息を乱して真っ赤になるファレイを見て、ようやく思い至り、噴き出した。


「ぶはっ! お前……! おい、まさか……。俺が愛の告白でもしたと思ったのか? あっはっはっはっは……! これはいい……! まあ、そう取れなくもないから、俺が悪いのか……」


 ファレイはかあああ……! と顔の赤みが極限まで高まり、ぼすん! ぼすん! とベッドを叩き、「ふざっ!! ふざふざふざけんなぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」と叫んだ。そのあとも両手両足を惜しげもなく使い、とうとう銀光をも放ちながらベッドを攻撃し続ける。魔術加工を施している、特別製だからよかったものの、そうでなきゃまっぷたつだったろうな……。


「いや、悪いな……。これは別に、お前を子供だからと侮っているわけではない。隣を歩く存在というのは、そういう意味ではないんだよ。相棒、とか、親友、という意味のほうが……これもちょっと違うが、まあそういう感じだ。だからいま、お前が大人の女であろうが同じだよ。……愛している女は、ただひとり、もうすでにいるからな」


 ファレイはベッドを叩くのをやめた。そして潮が引くように、赤みが消えてゆく。完全にもとに戻ったあと、今度はがばっ! と前に飛び出してきて、鼻がくっつきそうな距離まで顔を寄せてまくし立てる。


「だ、だれだよっ!? ……ハーティさんかっ!? それとも前、屋敷に来た女の貴族かっ!?」


「違う。それと貴族って、まさかサカーシャのことじゃないだろうな。……勘弁してくれ。あの女だけは天地がひっくり返ってもありえない。【ヤートの森】で結婚相手を探したほうがマシだ」


 俺はげんなりして舌を出す。だがファレイは、そんな俺のブラックジョークをもガン無視して、「じゃあだれだよっ!? 言えよっ!! あんたみたくおかしなリフィナーが、そんな気持ちを持つなんて……! きっと相当な相手だろう!?」と唾を飛ばしまくる。コイツ……、完全に俺に対する見方がひどすぎるだろ。おかしいと言われるのは慣れてるが、好きになる気持ちは、そこまでおかしなものじゃない……。だれとも同じだ。


「いーから離れろっ! お前の知らんリフィナーだよっ! これから知ることもないっ!! ……ともかくそういうことだ! ……これでいいか?」


 ファレイは、俺に押されて下が……らずに、頬をつぶされながら、また近寄ってくる。そして、「な、ん、で、好、き、な、の、に、い、っ、し、ょ、に、い、な、い、ん、だ、よっ。……相手にされてないのか? そうだろうな、仕方ないよなあ……」と憐れむように言ってくる。……コイツ、なんでそんなに食いついてくるんだ? ガキでもませてるヤツはいるが、コイツはそんなものに興味がない感じだったのに。いつかカミヤがアプローチしても無視してたじゃないか。……もしや俺の知らないところで、ハーティからそういう、リフィナーたちの色恋話でも聞かされて、関心がわいたのか……?


「よ・け・い・な・お・せ・わ・だっ!! もーいいからさっさと寝ろっ!! あしたからは、本格的に術式を教えるんだからな……。精霊を感知できた以上、お前は魔術士としての修行を受ける資格を得たんだ。いままでみたいに、ぬるいことはないぞ。毎日腕が飛ぶことくらい、覚悟しておけよ――」


 少し強めに言い放つ。それでようやく、ファレイは身を引き、唾を飲み込んだ。そのあとベッドからおり立つと、乱れた髪と寝間着とゆっくり直してゆき……、どちらもじゅうぶんに整い、来る前よりもきちんとした姿になると、ファレイは俺へと向き直り、言葉を放った。


「……私の疑問への、あんたの答えには納得したよ。でも、それは無理だと思う。隣、とか、対等に、っていうのは。……だってあんた、世界一の魔術士だろう? ハーティさんもすごいけど、ほかにもいるんだろうけど……。その世界中にいる、すごい魔術士たちに会わなくても分かる。あんたのあの魔力には、いまも、この先も、ずっと――……きっとだれも届かない」


 ファレイは俺を真顔で見返した。俺はそれに答えない。ファレイは一度目を閉じて、数秒後、再び目を開けると、言った。


「でも……。やるだけはやるよ。あんたは【可哀そうな子供】じゃなくて、【私】を拾ってくれた。世界で初めて、私を見てくれたリフィナーだ。だから……。……ありがとう、セイラル【さん】。……おやすみなさい」


 ファレイは少し首を傾げて微笑むと、俺に背を向けて、部屋を出て行った。


     ◇


     ◇


「……。……――っ……」


 目を開けると、部屋が横向きだった。おまけに枕にしていた右腕がしびれて感覚がない。どのくらい寝ていたのかと、しびれに顔をしかめつつ、なんとか左手で畳を押して起き上がり、壁の時計を見る。4時35分。……もちろん朝の。ファレイと飲み会をして、つぶれたファレイを隣の部屋のベッドに運んで、それから自分もこの居間で……。あのとき何時くらいだったかはよく覚えていないが、そんなことはどうでもいい。現在、最も重要で、はっきりしているのは、【また】朝帰りになる、ということだ。しかも、じいちゃん秘蔵の高級酒をかっぱらった日に……。


 俺は引きつりつつ、スマホを取り出して見る。果たしてじいちゃんからの着信が一度。幸か不幸か、以前と同じパターンだし、体育祭の打ち上げでハメを外した、ということも、酒のことから分かるだろうから、なにか俺に悪いことがあった、とは、たぶん思っていないだろう。そこは安心できる。が、電話をする勇気はない……ってか、できるかぁっ! いくらじいちゃんが遊びに理解があるといっても、それなりの酒を無断で持ち出し、無断で外泊し、前に『今度は連絡しろよ』と言ってたのに、してないわけだからな。こりゃ、罰で店の手伝いをするだけじゃ終わらんだろう。ああ~……、なんか、頭が痛くなってきた。酒、いまこそ酒、飲みたい気分だけど、……空ビンがふたつ、転がってるもんなぁ……。


 俺は頭をかいて立ち上がると、おおきく伸びをして、座卓にあるグラスを持って、隣のキッチンへ。流しの蛇口をひねり、水を入れると一気飲みした。……うまい。なまの水道水とか、久しぶりに飲んだな。いつもはお茶だし。


 グラスのふちを歯でかち、かちとやりながら、流しの隣に置かれた、青色の、背の低い二ドア冷蔵庫を見やった。ミネラルウォーターとか、お茶とか、もしかしたら中にあるかもだけど、勝手に開けるのも気が引けるし、ファレイを起こすのはそれ以上にしたくない。絶対、土下座しまくるからな……。あるじを残して酔いつぶれて云々! とか。毎度おなじみの態度で。ほんとう、アイツは……。


 俺は苦笑して、グラスを口から離した。それから流しの正面にある窓から漏れる、ぼんやりとしたあかりを受けて光るグラスを見つめながら、すでに忘れ去って欠片も残っていない、さっきまで見てたであろう、いつもの夢のことを考える。例のごとくだが、感触だけはあるのだ。たぶん好い夢だったように思う。もしかしたら、ファレイも出てきたのかもしれないな。昔の。……そう、あの写真のときみたいな、ちいさなころくらいの、昔……――。


「……。…………あ、………の……」


「……えっ?」


 声がして振り向くと、居間から……、俺が開けっ放しにしたドアから顔を出したファレイが、薄暗い中でも分かるほどに青ざめた表情かおをして、こちらを焦点の合わぬ目で見ていた。……あー……。起こしてしまったのね。そしてヤバいヤツですわ、これは……。


「……お、あ……、わ、悪いなっ。うるさくしちゃったか? でもまだ四時半だからっ! 起きるには、ちょっと早いんじゃないかなあ……。あとで起こしてやるから、また寝て……」


「……。セイラル様が、起きておられ……まっする……」


「……おっ……、お、俺もさっきまで寝てたんだよっ!? けど、なんか喉、渇いて……! 水を飲ませてもらっただけ! でもそれで目が覚めたから、もう寝るのはいいんだよ。六時になったら、帰ろうと思ってるし。だからそれまで……」


「……。セイラル様は、どこで寝てらした……の、……でするか?」


「えっ? ……あの、居間」


「居間には布団がありませぬ……。つまり、畳の上で、ということになりまする。……私はどこで寝ていたか、ご存知でしょうか」


「あ、ああ……。隣の寝室」


「の、ベッドの上。でございます。……が、私には記憶がありませぬ」


「……え……、っと。俺が運んだから、ね。起こすのもアレかなぁ……、って」


 次の瞬間――ファレイはドアをバァン! と思い切り開くとこちらへ飛び込んできて、ドッサアァ……!! とジャンピング土下座を決めて、頭をゴスゴス叩きつけながら、泣きながらまくし立てた。


「主が床でっ!!? 私がベッドでっ!!? 私がベッドで主が床でっ!!?? ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああしかもベッドに運んでいただいてぇえええええええええええええええええええええ!!!!!!!!! 私はぁ……!!! この酒カスゴミクソ女はぁあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」


「おーーーーーーーーーーーーーーーーーちつけ落ち着けっ!!! お前はなにも悪くねーーーーーーーーーーーーーーーーからっ!! んなこと当たり前のことだーーーーーーーーーーーーーからっ!! きのうは打ち上げ!! ハメ外すのなんて当たり前っ!! 俺は男っ!! お前は女っ!! ベッドに運ぶのは至極当然男のたしなみYOっ!! YOっ!! どぅ、ゆぅ、あんだすたぁーーーーーーーーーん!!??」


 訳の分からないエセラップ調で必死にまくし立て、泣きじゃくりつつ頭蓋骨を粉砕せんとする勢いの従者を、俺の持ちうる全魔力を以って阻止する。いえーいルイ師匠見てるぅーーーーーっ!? 魔力役立ってるぅーーーーーーーーーーっ!!


 そうして――。なんとか必死になだめてから。俺はファレイに水道水を与えて、自分も二杯目を飲み干した。……このアパートって、あんまり人入ってないのかな。こんな時間に、これ……。怒鳴り込まれても、なにも弁解できないぞ。ともあれ、た、助かった……。


 涙でくしゃくしゃになって、子供のようにグラスを両手で持ち女の子座りするファレイに、俺は息をはいてから言った。


「……あのな。もうたぶん、これからもこんなことが何度もあると思うから言うけど。俺がお前の主で、お前が従者なのは、もはや充分よく分かってるけどさ。いまは同い年の同級生でもある、……ということも、少しは俺たちの関係性に加えておいて欲しいんだよ。人間たちの前での振り、とかじゃなく。素の態度でも」


「そっ……! そう仰られても……! お、恐れ多く……!!」


 グラスを両手で持ったまま、ぶおんぶおんと高速首振り人形と化すファレイ。俺は半眼になり、ファレイに指を突きつけて、言い放った。


「ダメだ。……じゃないとお前のことを、これから『ファレイさん』って呼ぶぞ」


「……――えっ!!?? そ、おっ……、おおおおおやめ下さいそのようなっ!! 私などにっ!! そ、それになによりっ! そんな、まるで遠い者であるような……!!」


「ほらみろ。無礼ってだけじゃなくて、いきなり俺がそんなふうに言ったら、よそよそしくて嫌だろ? 俺だって同じだよ。別に気やすくなれとは言わないが、近づきがたい、神のごとく扱われ続けられたら、お前をとおくに感じるんだよ。……だから、できればもっと近くに、いつかは対等に……――」


 そこまで言って、俺は言葉を止める。なんだ……? いまの言葉、感情は……。なんか既視感があるような……。


「……。……?」


 いつの間にかファレイが目を見開き、俺を凝視していた。俺はそんなファレイの様子に、思考を打ち切って、「おい……。どうした? なにか変なこと言ったか……」と声をかける。すると、ファレイはその言葉で我に返り、唾を飲み込んだあと、グラスを置いて……、意を決したように言葉を放った。


「い、いえ……! そ、それよりいまの件ですが、分かりました……。す、少し、ほんの少しだけですがっ! セイラル様への接し方に、……【緑川みどりかわ君】へのそれを加えさせていただきますっ!」


 ファレイは立ち上がると、俺の手をつかみ――引き上げて、「外へ出ましょう!」と玄関へ。俺は訳の分からないまま、言われるままに靴をはき、ファレイはつっかけをはいて外へ出る。すると、アパートの廊下から見渡せる屋根屋根の奥に、少しだけ欠けた月が、まばゆい光を放ち、低い空にかかる様子が目に飛び込んできた。


「…………。低い月って、なんか好きなんだよな。近くに感じるっていうか……」


「……私も好きです。でも、雲の上で見る月が、いちばん好きです。……だれよりも近くに感じられたから――」


 そんな言葉が聞こえて振り向くと、ファレイが俺をまっすぐ見て、微笑んでいた。ぼんやりとした月あかりに照らされたその笑顔は、嬉しさに満ちたいっぽうで、いちばん言いたいことが言えない――、そうしたさみしさがにじみ出ていて、俺の胸を打つ。心臓と、【魔芯ワズ】のが同時に高鳴った。


「雲の上、か……。それってやっぱり、飛んでるんだよな。俺も強くなって、いつかそんな術式が使えるようになったら、見てみたいもんだ。……まあ、もし過去に見ていたのなら、もう一度、ということになるけど。……そのときは付き合ってくれよ。いまみたいなお前の感想を、もっと聞いてみたいからさ」


 俺はファレイに笑顔を向けて、再び月を見つめた。するとほどなく、俺の左耳を貫くようなおおきな声で、ファレイは、


「……――はぁいっ! どうか、どうかきっとお誘い下さいませっ!! ……めいっぱいのお洒落をして、必ずやお供させていただきますゆえっ!!」


 と、叫び――。果たして向かいに建つ一戸建ての電気がパチパチついた。俺は目を見開き、「ばっ……! 隠れるぞっ!」と小声で怒鳴ってファレイの手を引き部屋へ戻る。けれどそのとき、ファレイはいつもみたく謝らず、俺の手を強く握り返していた。


 月よりもまばゆく、ただ、満面の笑みを浮かべて――。

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