第72話 ……【もと】はそうだったんだっ!!
「らかられしゅねぇ……、あのももはひはぁ、ぜ~んへん! へいはふはまのほとをぉ、わかっえへーんへふよ……!」
「いや……、それはお前から見たら、……お前は俺がセイラルだって知ってるから。クラスの連中にとっては、俺は【緑川晴】っていう、まあ、これまでは……とくに交流もなかった、教室の隅にいた、ただの一生徒に過ぎなかったわけだから……」
「――ひはうんへしゅ! へいはふはまのことをひはらふへもっ! ほのへんほうのはひははひはら! な~ひほはんじてはいんれふよ! ほれがわはひはふまんはんへふ!」
「それは無理だろ……。それに、お前がそれを言うには、俺のことを知り過ぎてるよ。よく知らないヤツが、お前が言うように、俺からなにか感じた、ってなら話は別だけど。……そんなヤツはいないだろうし」
「ひましゅ!! へっはいひましゅ!! ははらはいほーは、まひがっへるんへしゅ!!」
ドン! と酒の入ったグラスをファレイは勢いよく置き、その反動で、空になった食器たちも音を立てる。俺は座卓が破壊されるんじゃないかと焦ったが、ふつうの人間が乱暴にした様子と変わりなくて息をつく。
全身から銀の光……ファレイの魔力が漏れ出ていたが、それを帯びれば人間の持ちうる筋力をはるかに超えるというのに、人間界にあるふつうのグラスや木造の座卓が耐えているということは、ここの食器や家具やらは、もしかしてなにか、特別な処置が施されているのかもしれない。
ちなみに、さっきからこの【酔っ払い】がぐだをまいているのは、クラスの人間たちのほとんどが、俺のことをなにも理解していないという愚痴である。皆からアイドルのごとく扱われている自分に比べて、きょうの体育祭や打ち上げでも変わらずに、とてつもなく軽く扱われていることに我慢ならず、俺の命令でクラスメイトの前では抑えていた感情が、いま自宅で俺とふたりきりになり、酒が入ったことで爆発しているという感じだ。
無論、コイツが怒っているのは、【セイラル・マーリィ】という存在の凄さを、という意味合いなのだが、そりゃ正体を知らんのだから無理だろ……としか返しようがない。しかしそれに対しても、そんなことはありません! 【なにか】は感じるはずですっ! と言い返してきた。相変わらず、セイラルに関することになると、冷静な思考力や態度がどこかへ飛んでいくというか……。もし感じられたとしたら、それがただの人間なら、そいつは超能力者かなんかだろ。魔術士がいるなら、超能力者がいてもおかしくはないしな(個人的には、これ以上ややこしいことを考えたくないので、いて欲しくはないが)。
現在まで俺に対して、少し違った反応を見せているヤツといえば横岸がいるが、アイツはただの人間だし、超能力者とも思えない。確かに感覚は鋭いものの、それはアイツの人生観というか、【アイツにとっての強さ】という、固有極まる特殊な価値観に引っかかる要素を持っていたのが俺だったというに過ぎず、それで俺を過剰に持ち上げているわけでもなく、扱いだって皆と同じくぞんざいだ。あくまで認める部分が一部ある、というだけで。
それに、その認めた部分に関しても、たとえそれがセイラル由来の【におい】をかぎつけた所以だったとしても、根本に迫っているわけではないし、今後も魔術が見えない、魔力が感じられないふつうの人間であるアイツに……迫れるわけもない。要するに、ちょっと変わった【クラスメイト】、緑川晴に関心を持っているのだ、アイツは。【魔術士】セイラル・マーリィじゃなくて。
そんな横岸に対し、ファレイは、きょうのクラスの打ち上げで、ヤツが自分よりも俺のほうが【強い】と示唆したことには大満足の様子だったが、ファレイからすると、もっと皆も横岸みたく……、いや、最低限が【それ】で、自分みたくセイラル様~! という温度で、緑川君~! と接して欲しいのだろう。……んなこと無理だっつーの。
「へいはふはまっ! へいはふはまもほほっへふははいっ! あなははっ! わはひの……ひへっ! せはいはいひょうのまふふひはんへふはらっ……」
酒臭い息をまきちらし、今度は俺に対しても半眼で、「もっと怒って下さいっ!」と文句を言ってきた。あなたは世界最強の魔術士なのだから……と。いっぽう俺は、それをてきとうにいなしつつ、修行を始めたばかりの緑川晴の現状とヤツの言葉を比較して、実に複雑な気分で酒を飲んでいたが、しばらくのち――まるでとつぜん電池が切れたおもちゃのように、ファレイは後ろにぶっ倒れた。……って、おい!
「……っ、ふほーっ……、はー……、ほー……」
慌ててそばへ寄り、のぞき込むが……、いま文句を並べ立てていたときと同じように、眉間にシワを寄せて、俺に不服そうな表情を見せつけたまま寝息を立て始めていた。……大丈夫そうか。倒れ方は派手でも、音は大したことなかったし、部屋は畳敷きだしな。
まあそもそも、リフィナーであり魔術士であるファレイが、こんなことで傷を負うわけがないんだが……っていうか、これじゃあ前と同じじゃねーか! 酒を馬鹿飲みして、急に酔いつぶれて。じいちゃんの酒飲み仲間のおっちゃんたちが酒でつぶれたのは何度も見たことがあるが、これはそんな【大人】の情けない感じというよりも、ちいさい子供が遊んでるうちに、おもちゃを手にしたまま寝る……、というのと印象が近いのがコイツらしいというか……。
俺は苦笑して、ほとんど空になった食器群の中で、二枚だけ残った生ハムを載せた皿を引き寄せて、一枚つまんでから、またグラスを傾ける。じいちゃんのストックからくすねてきた高級焼酎『一切合切』は、そんな俺の持参分と、ファレイの用意した分の二本とも、空き瓶となって座卓のそばに立っているが、じいちゃんが保管するだけあり、そしてファレイがどこかで仕入れてきた知識に違わず、人間界で指折りの銘酒だった。……と、きょうは思った。
ガキのころからじいちゃんが家で開いた飲み会に交ぜられて、大人たちに酒を飲まされてきて、ぜんぜん嫌がりもせず苦いとも言わず、くいくい飲む俺の姿に皆は驚いてたけど。確かに飲めるのは飲めるが、美味いと思ったことはないんだよな。それがきょう初めて、美味さを感じた。
「……ふっ。……んとうに……」
ファレイの、よだれを垂らす寝顔を見て、また苦笑う。……ガキのころ、じいちゃんや大人たちが酒の席によく俺を呼んだのも、半分は【肴】だったんじゃないかと思えてきた。ガキの俺の姿に自分たちの過去と、比較しての現在の自分たちの姿を、そしてその若さに映る未来へ想いを馳せて、より酒を美味く味わうための。たぶん酒というのは、単にアルコールで気分がよくなるために飲むものじゃないのだと思う。それだったら、愛好家御用達の飲料にとどまって、いまのように広く深く、世界的に愛される、文化と呼ばれるほどのものにはなっていないだろう。
そう。きっと生きるほどに、否が応でも積み重ねてゆく、その生の苦しみを、喜びを――【自分の人生そのものを】より深く知るために、酒を求める……。そう考えると、長生きなリフィナーに酒好きが多いのも納得できるんだけどな。
少しの間、唇に残った香りを楽しんだあと、俺は立ち上がり、前にしたようにファレイを抱きかかえる。そして隣の部屋と隔てる襖を静かに開けて、ベッドに寝かせると掛け布団をかけた。
「……すーっ……、……すー……」
心なしか寝息が穏やかになり、表情も落ち着いて、眉間のシワがなくなっていた。俺は息をついて、音を立てずにベッドから離れ、灯りの漏れる居間へ戻ろうとしたが……。ちらりと、黄色い花の映える一輪挿しが視界の端に入って足を止める。そして、それが置かれたちいさなチェストをじっと見た。
もし前のままなら、あのチェストの裏には、俺が来ることを想定して、いつもは机の上にでも飾られているだろう、想い出の写真が隠されているはずだ。かつてのセイラルと、そんな俺の屋敷のメイドか、前の従者であろう、長い緑髪をひとくくりにした丸眼鏡の女性と、そしてちいさなころの、俺にまったく懐いていないファレイの、三人の【家族写真】が。それをもう一度見たかったのだけど、やはりこそこそと、わざわざ隠しているものを盗み見するのはよくないよな。……かと言って、見せてくれと頼むわけにもいかないんだけど。隠している、というのは【そういうこと】だから。
ファレイは過去のセイラルに、もし未来のセイラルが記憶を失っていたら、それを取り戻すための手助けをしてはならない、と命じられているらしく、その手がかり、きっかけとなるほどの詳細な、かつてのセイラルにまつわる話をしようとはしないのだ。あの写真も、そういうことで隠していたのは明らかだった。
前に見たときは、けっきょくなにかを思い出すことはなかったんだが、二度目、三度目では違うかもしれないしな。……と考えると後ろ髪を引かれるものの、うーん……。
そんなふうに、数十秒、立ち止まって考えた結果、……俺は部屋から出て襖を閉めた。記憶は取り戻したい、取り戻さなければならないが、やり方がなんでもいいわけじゃない。前のときはぐうぜんだったわけだし。だいたいきょうは、……たぶん昼に、じいちゃんの激美味弁当でショックを受けていたから、それに対抗するためだとは思うが……、せっかくファレイが腕によりをかけて、めちゃくちゃ美味しいごちそうを作ってくれて、出迎えてくれたんだ。そういう好意を裏切ることになる。……考えるまでもなかったな。
俺はかぶりを振り、座卓の前に腰をおろすと、残った一枚の生ハムと、グラス半分の『一切合切』で晩酌を再開した。……魔が差したせいで、酒がさっきより不味くなってる。失敗した。
ため息をつき、ちびり、ちびりとグラスを傾けていると、ぶーっ、ぶーっ、とポケットの中のスマホが揺れる。取り出して見ると、『ルイ』の文字が表示されていた。
「……はい。なんでしょ……、どうしたんだ? なにか用でも……」
≪用はあるが、用がなければかけちゃいけないのか? ……確かに敬語は使うなと言った。しかし、敬意を払うなと言った覚えはないぞ。だいたいお前は女の気持ちというものがまるで分かってない。いまは小僧とはいえ……、まったく、記憶を失う前のお前とは、いったいどんな男だったん……≫
「はい、はい! すみませんでしたぁ~っ!! ちょっといま、酒をね!? 飲んでたもんで、頭がぼーっとしていて……! あはははは、は!」
思い切り誤魔化し笑いをして、話の方向性を変えようと試みる。するとルイから、≪酒? お前は高校生の身分のくせに、そんなものを飲んでいるのか? ……なんて生意気なヤツだっ!≫と予想斜め上の言葉が返ってきた。ええ~っ!? あなた、そんなことを気にするタイプなの!? 教職のロドリーでも言わないような、……まあ彼女は俺がセイラルだって知ってるからだけど。いや、ルイの場合は、高校生云々じゃなくて【未熟な弟子の緑川晴】が酒を飲むなんて! ってことか? ……余計なこと言わなきゃよかった。
≪……ふん。酒飲みの不良なら、とくに遠慮することもなかったな。お前、ちょっと出てこい。いまどこにいるか知らんが、こんな時間に酒飲んでるんだから、別に構わないだろう?≫
「え……、や……、申し訳ないんだけど、それは難しいかな……。いま、打ち上げで、ファ――」
と言いかけて俺は慌てて口を閉じる。……あ、あぶねーっ!! 思わず言うところだったっ!! やっぱり酔ってるな……。これは書き置きして、ここからも早々に退散するほうがいいかもしれん。
ファレイが、もしかしたら俺になにか話したいことが、愚痴以外にもあったのかもしれないと思って、起きるまでしばらく居ようと思ったけど……。そもそも前のように、朝まで起きない可能性のほうが高いし。無理やり起こすのも忍びないしなあ。
≪………………ふーん。なるほど。ファレイ・ヴィースと酒盛りか。お前らの見た目で外で飲めるわけがないから、どちらかの家、ということになるが……なにせこの時間だからな。お前の家なら宗治氏が不在で、アイツの家なら、アイツはひとりで暮らしてるだろうから、どのみちふたりきりで部屋で、と。ははっ。……いよいよ結構なご身分だなぁお前は修行もせずにっ!! ……――よし気が変わった。私がそっちに行く。一分以内に居場所を言え。――はいスタート≫
最後に、恐ろしいほど冷ややかな声で言い放って、なにやらちっちっちっ……と音が聞こえる。計ってるの!? ウソでしょーっ!? ――ってヤバいヤバいヤバいっ!! おもくそバレてるじゃねーかっ!! あ~も~どうすりゃいいんだこういう場合はっ!! 考えろ考えろ!! ここには来させられないし、かといってウチには……、ルイがいまどこにいるのか分からんが、呼び出すくらいだからたぶん学校の近くだろうし、ならダッシュで帰宅したって間に合うとは思えない。……正直に言うか? その上で、なんとかこっちに来させないで、ファレイに会わせないで済む方法を……。
「……いっ……、いまはファレイの部屋にいるけど、ファレイが酔いつぶれて寝てる……から、住所を教えるわけにはいかない。アイツが【魔術士として、人間界での住処をここへ定めていることを考えた場合に】。……だから言えない」
≪……。そりゃあ、そうだ。……なかなか冷静な判断だな≫
少し驚いたように、しずかな声が伝わってきた。とっさに出た言葉だったが、これでよかった……のか?
≪現時点で、アイツと私は【仲間】というわけではなく、私がお前の師匠であり、アイツがお前の従者である、という関わりに過ぎないから、安全のため、そしてアイツの考える人間界での活動のために隠すのは妥当だろう。……いつも落ち着きなく頼りないくせして、ここぞというときには……、ほんとうに腹が立つヤツだな≫
ぶつぶつと文句が聞こえてくる。俺は苦笑して頭をかくが、≪ところでなんの酒だ? 美味いのか。私にも教えろ≫≪ワインだったらパスだ。どうもアレは口に合わない。舌に残るというか……≫≪兄者は好きなんだが。ただ、そもそも兄者に酒の区別はないからな……≫等々酒談義が始まって、それになんとか答えていると、最後にルイはため息をついて言った。
≪……ともかく、やめだ。気がそがれたから、用は別の機会にする。だいたい、男と酒盛りして早々に寝るような女と、そんな女を守ろうとしている男の飲み会なんかに、首を突っ込むほど馬鹿らしいものはない。……面倒を見てやれよ。【保護者】としてな≫
それで俺の返事を待たずに通話は切れた。……な、なんか知らんが助かった。用事の内容は想像つかないけど、修行云々とか言ってたから、そっち関係だったのかな。まさかルイまで飲み会のつもりだった……なんてことはないだろうし。
俺はおおきくため息をついて、グラスに残った『一切合切』を飲み切った。そして最後の一切れとなった生ハムをも口に放り込んで、少しのつもりで横になる。だが、クラスの打ち上げの時点で、すでに身体も心も限界が来ていたことをすっかり忘れていて、そのままぼんやり考えごとをしているうちに、酒が奥まで沁み込んで、……俺の意識は途絶えた。
◇
◇
「……ル様。……イラ……様。……――セイラル様」
「……聞こえてるよ。いちおう、耳はふたつ残ってる。聴力にも自信はあるからな……」
「では頭のほうはどのような具合なのでしょう? 幾度も戦場を駆け抜けられたせいで、形だけを残して中身のほうは、激しく損傷されて使い物にならないとか。……私の言葉を聞くこと限定で。もう 1 2 回 、呼びかけているのですが」
「……分かった。悪かった。起きるよ。いますぐに……」
俺はそう言って、ゆっくりと目を開けて、朝日で丸眼鏡を光らせた……その奥の目は鋭く俺に向けられている……第一従者、ハーティ・グランベルの表情を捉える。そうして半身を起こし、掛けていた白い寝具がずり落ちるも、半裸が見える間もなくすぐにローブが飛んできた。いつも通り、みっともない姿を見せるな、着ろ、ということだ。
「……で、朝っぱらからなんの用だ。きょうは急ぎの用事はなかったはずだが……」
あくびをし、袖を通しながら尋ねる。するとハーティは、おおきくため息をつくと、呆れたように言った。
「やはり頭に損傷があるようですね、我が主は。きょうはファレイを【ヤートの森】に連れていく、と仰っていたことをお忘れですか?」
「……。きょうだったか?」
「ええ。『あした、連れてゆく』とお食事中に話されて、その後、新酒をお召し上がりになり、そのままテーブルに突っ伏してお眠りになられたのが昨夜ですからね。日取りに間違いはないかと」
半眼で話しながら、ハーティは寝具を整え始めて、それから俺のぼさぼさ頭に櫛を入れ始めた。……そういえば、したな。そんな話を。あの酒、かなりやっかいだな……。美味かったことは美味かったが。大事な話の前後で飲むべきものじゃない。
俺はハーティに髪をいじられながら、思い出す。そうだ。確かアイツが……、ファレイがいつまで経っても敬意というものを理解しようとしない……、というか、そのおおもとの原因は、いまだ【前の生活】を引きずっているせいだと判断した。なのでそれとの決別のために、あえてその元の生活区域、五歳の時に捨てられてから五年間、過ごした魔獣の巣窟たる【ヤートの森】に連れて行くと。そんなふうだったか。
「……思い出したが。お前はその話に反対しなかったのか? どういう反応だったかは忘れてしまった」
「すぐに同意しました。あの子は……、ファレイは捨てられたことを、我が身の不幸を恨み、世を憎んでいるくせに、【そうしてひどい扱いを受けたことを矜持としている節がある】と、私も感じておりましたから。その下らない自負心を、まず捨て去るには丁度良いかと」
淡々と返し、俺の髪を整え続ける。俺はちいさくうなずき、やがてとき終わったハーティの手から櫛を奪い取ると、それで自分好みに前髪をとかしつけてから、漏らす。
「分かった。……しかし、なんとも面倒くさいことを言ったもんだな、きのうの俺は……。これはひと仕事終えたら、きょうも好い酒を飲まないとな。……ただし、きのうのアレ以外だ」
「きのうのアレ以外も、お控え下さい。あすも大事な用事がありますので」
そう言うと、ハーティは俺から櫛を奪い返して、自分の前髪を軽くとかしたのち、櫛に軽く口付けをすると、俺へ流し目で釘を刺してから、部屋を出て行った。
◇
曇天、というのは、魔術士にとっては【好い天気】である。
なぜなら晴天ならば、天地の精霊が浮かれすぎて、魔術士の言い分をあまり聞いてくれず、うまく魔術が扱えないからだ。
もっとも、その差がはっきり分かる、影響があるのは一流の魔術士に限る。二流や下手くそは、術式の構成が粗雑なので、あまり違いはない。……で、俺やハーティは影響がある組なので、【きょうは】助かった、ということだ。……アイツに初めて、まともに、戦いにおいての魔術を見せるためにも。
「……好い天気ですね。ほんとうに。【ヤートの森】の禍々しさ、【気】の悪さがいっそう際立って」
ぐじゅ、ぐじゅる……、泥地をメロラの革靴(※メロラは草食魔獣の一種。その皮は頑丈でいて柔らかいので靴や防具に向く)で踏みしめて、まともな光も差し込まない鬱蒼とした森の中で、ハーティが悪態をつく。服装も、屋敷でのひらひらメイド服と違って、身体のラインがぴったり出る、黒のツナギの戦闘服で、魔術加工が施された、ヤツの魔色と同じ紫色のマントを羽織っている。いつものひとくくりにした長い緑髪は、三つ編みにして頭に巻きつけていた。丸眼鏡はそのままだが、いわゆる戦闘態勢ということだ。
武器は、魔力によって伸縮する杖。いまは太ももに装着したホルスターへ縮めて差していた。魔術士は、魔術が使えない代わりに武器や素手の格闘術に特化した魔剣士らほどの、格闘の腕前はないが、詠唱のタイムラグを埋めるために、ほとんどの魔術士がそれなりの技を身に着けている。圧倒的強者であっても、……いや、そうした者ほど格闘術を軽視してはいない。それが生死を分ける機会も多いからだ。
そういうことで、我が弟子たるハーティにも、その辺りはみっちり仕込んである。武器の選択は、幼いころのハーティに委ねたのだが、それもひととおり教えた上でだ。【斬れない】ことが気に入ったらしい。
「確かに生き生きとはしてるな、森が。……好い【修行】になりそうではある」
そう、俺はハーティに応えて、自身の装備を見返した。こちらはヤツとは違って、いつもの緑の、詰襟のある一般的な戦闘服(というか作業服に近い)に、レレの革靴(※レレは、レレ・ボウゥという肉食動物の一種。皮は頑丈さよりも柔らかさに特化していて動きやすい)。これは別になめているわけではなく、俺の場合、並の相手からではほとんどダメージは通らない。ゆえにそれを受ける心配よりも、機動力を重視した方が理に適っているからだ。
マントは紺の、バリィの実(※ぶどうに近い果実)をつぶして染めた、これもいつものもので、魔術の加工はなく、しかし【着心地がいい】もの。選択の理由はさっきと近しく、精神的に、ベストのコンディションでいられる装いが大事である、ということからだ。ちなみに武器はない。素手の格闘術が、最も自身の魔術補佐として【セイラル・マーリィの場合】合っていると判断している。
「……い、……――おいっ!! ちょっと待てっ!! 止……まれクソどもがっ!! お前ら……っ、はあっ、はあっ……!!」
はるか後方から、怒鳴り声が飛んでくる。ハーティと同時に振り向くと、泥地に足を取られ、息を切らし、死にそうになりながら必死についてくる、……白いひらひらドレスをところどころ破り、赤い子供靴とともに汚しまくった、ピンクのカチューシャをはめた場違いな短髪の子供が叫ぶ。それでやむなく、追いつくまで俺たちは待つことにした。
「く……そ……っ!! 卑怯だ……ぞっ!! お前ら……こんな……!! 私だけこんなふざけた服を着せて、……脱ぐことも許さない……で!! はあっ!!」
落ちた枝を仇のように踏み折って、行く手をふさぐ堅い草木を、銀の光を帯びたちいさな手で折りまくり、やっとのことで追いついた死に表情のファレイは。果たして自らに科せられた枷に文句を垂れる。それに俺は、淡々と答えた。
「きょうはお前に、【ここはお前の居場所じゃない】ということを教えるための【ピクニック】だからな。場違い極まりない恰好にさせたのは、そういうことをよく分からせるためだ。ついでに言うと、死にそうになっているのは、お前自身のせいだ。お前はこんなところで耐えられるように、元々できてないんだよ」
どこもかしこも泥地。生える樹々、草花は美しさの欠片もなく、放たれるにおいは甘いものも、刺激臭も、どれも胸の悪くなるものばかりで、まともに呼吸もできない。曇天に限らずに、常に太陽の恵みをことごとく拒絶する、魔獣の住処であり、一部の殺し好きな下級魔術士の遊び場。そんな掃きだめのようなところが【ヤートの森】だ。
ファレイの最後の養父母が、こんな場所に、当時たった五歳のコイツを捨てたということは、とどのつまり、コイツが二度と戻ってこないように……殺すつもりだったということだ。天才ならともかく、そのとき魔力が5、6千程度だったろう、並の子供にはここで生き延びるほどの素養はない、と。その目は【ある意味】正しい。ファレイにこんなところは似つかわしくないからな。……――だが。
「ふっ……ざけるなっ!! これはさいきん……たまたま!! お前の屋敷なんかでなまけていたからっ……!! ぬるい生活を送ってたからっ……!! それにこんな服っ……!! だからなんだよっ!! さあいますぐ裸にさせろっ!! ……【もと】はそうだったんだっ!!」
目を赤くして、怒鳴り散らす。自分は魔獣の子と主張している。……久しぶりに戻ってきて、いよいよ自負心がうずいたか。こりゃあ骨が折れそうだな。逆効果にならなきゃいいが……。俺の見込みにかけるしかない、か。
「……まったく。なにが【もと】か。……それとその服は、セイラル様にお願いして、特殊な魔術加工を施していただいた、市場に出せば10万ブールは下らない一品よ。もちろん私の縫製技術も値段に貢献している。それを捨てて裸になる、というなら、あなたに10万の現金か、同様の価値のものを差し出してもらうほかないのだけれど。……できるの?」
ハーティが冷ややかに言い放つ。それでいよいよ顔を真っ赤にしてファレイは怒り、ハーティに思い切り指を突き出して叫ぶ。
「ぐっ……!! こっ……このくそわっか金の亡者ババぁっ!! 勝手に着せてなに言ってやがるんだくそがっ!! ……だいたいどこに向かってるんだよっ!! もうずっと歩き続けてるじゃないかっ!!」
「創術者はセイラル・マーリィ。執行者はハーティ・グランベル。――静止せよ。ゲルダ」
瞬間、わめいていたファレイは硬直し、そのままばちゅん! と泥地に倒れ込む。ぎりぎり顔が埋まっていないからいいものの、下手すりゃ窒息死するところだぞ……。
「……っ! が……っ! ……そ、ぐ……!!」
ハーティに文句を言うというよりも、なんとか固まって動かない体に抵抗し、泥に顔が沈まないように必死にこらえているという感じだった。そんなヤツを見て、ハーティはため息をついてずかずか歩み寄り、ひょいと片手で持ち上げると脇に抱える。
「このまま行きましょう。どうせもうすぐですし。……そこで、ほんとうに自分が【森の子】か、嫌でも思い知ることになるでしょう」
「……。そうだな。馬鹿じゃ、なけりゃあな……」
俺は魔術に抵抗してなお、口を動かし、手足を動かそうとするファレイを見やって、おおきく息をはく。それから手ぬぐいを取り出して、泥にまみれたヤツの顔をていねいに拭く。そのさまに、ハーティは半眼になり、ファレイを俺に押しつけた。
「甘やかしが過ぎるようなのでお任せいたします。いっそメリーヌ(※お姫様抱っこ)でもしたらどうですか? ……少し急ぎますよ。あしたに差し支えますから」
ハーティは、そう言うや否や、紫の光をまとい、泥土を蹴って飛び出すと、マントをなびかせ、あっという間に姿が見えなくなる。……ったく、アイツはいつまで経っても……。だが、まあ、俺のせいとも言えなくもない、か……。
ハーティはファレイと違って、幼いころから魔術に限らず、すぐに、なんでも【出来過ぎていた】から、特別に手をかけるようなことはなかった。説教すらほぼした記憶がない。……そんなアイツの才能に寄りかかって、充分には、与えるべきものを与えられなかったのかもしれない。過去のアイツが欲していたものを……。かと言って、いまごろガキ扱いなどできようもない。アイツはもう大人で、あと二年もしないうちに俺のもとを離れて、魔術士としても対等になるのだから。
せめて大人として、どこかへ連れ出すか、またなにか買ってやるか。よくよく考えれば、ファレイが来てから、そういう時間も減ったような気もするしな。
「……ぎっ……! ぐ……っ!」
「……コイツはコイツで、大人になったら、ハーティとは別方向の文句を言いそうなんだよなぁ。……盛大に」
俺はいまだ手の中でもがく、ファレイの現実感丸出しの声を耳に入れてから、遠い未来へ想いを馳せる。それからきちんと、現在のチビすけを抱え直すと、緑光をまとって泥土を蹴り、一瞬で飛び出した。




