第7話 魔術士の証明と、人の涙
空気がなだれて音が鳴る。
天地の声が体中をかきまわす。
俺はまぶたを押さえ、鼻と口の上を滑らせた手で、第2ボタンを乱暴に外し、再び目を開いて空をにらんだ。
――秘術、転元の術式を、いちおう完成させた――
――それを用いて、俺は258年分、肉体を若返らせたわけだ――
――……お前の人生は、そこから始まっている――
◇
「……ふざけるなよ。……――ふざけるな」
腹の底から、喉を痛めつけるようにうなる。
なにが俺はお前だ。
そんなことが、この世にあるわけないだろう。
タイムマシンだって、現実には存在しないし、これから先、実現しうることもないんだ。
ああいう類は、古今東西の気休めだ。
過去に対して未練や後悔があり、やり直したいと甘く願う人間のな。
秘術で肉体を若返らせた?
それで人生をやり直す?
こっちとかそっちとか……。
いかにもな風体で、いかにもな台詞……。
ファレイ? ……そいつは風羽だ!
……なにがファレイに……――。
俺は、重くなる頭を無理やりに動かす。
相変わらず、俺へ正対し、ひざまずいたままの女がいる。
夜のようにしずかだった。
しかし、体に反し、顔だけは男がいなくなった場所を見つめて……。
目は赤く潤み、唇は震えていた。
◇
「……。――っ!」
俺の視線に気づいたか。
彼女は瞬き、自らの呪縛を解いた。
それから平静さを湛えた面持ちで、体と同じように、俺へ顔を向けた。
「……セイラル様」
「俺はセイラルじゃない。緑川晴だ」
視線をそらし、苦々しく言葉を返す。
しかし、先ほどまでの、胸をえぐられるようないら立ちはない。
不愉快ながら、冷静になっていた。
……風羽の表情を見てからは。
「……。では、晴様とお呼びします。今後のことを」
淡々と、論点の外れたくそ真面目な声が返ってくる。
俺はため息をついて言った。
「……いいか。『今後』は絶対に、セイラルとも晴様とも言うな。あんたと俺は、ただのクラスメイトで、まったく接点もない。――これがすべてだ。俺にとっての現実はな。……きょうも、あしたも、あさっても!」
唾が飛び、ひざまずく風羽の白い脚を汚す。
しかし彼女は微動だにしない。
ただまっすぐ、俺の顔を見つめていた。
「あなたは……。それで構わないのですか?」
俺は眉をひそめる。
風羽は、手鏡をヒザの上に置いて、続けた。
「私は、……人間界のことを。あなたがいなくなってから、いろいろと勉強しました。正直、理解しがたいことも多く、まだ分からないことがたくさんありますが。自分の、身の上のことについて無関心ではいられない、というのは……、我々と変わらないと思いました」
「……なにが言いたいんだよ」
「ご自身の秘密をなかったことにして、日常へ帰られるのは難しいと思います」
俺は身を屈め、風羽から手鏡を奪い取ると、のぞき込む。
いつもの俺の、……いつにも増した間抜け面が、しっかりと映っていた。
「見ろ! なにが魔術だ、258歳だ! ……魔力!? ……俺はどこにでもいる、ありふれた、ただの人間だ! 俺の手から火が出たり、空を飛べたりするってのか? ――そしたら少しは信じてやる!」
鏡を見せつけ、まくし立てる。
風羽は、ちいさく返した。
「いまのあなたは……記憶が戻っていません。なので魔力はあっても、術式はすべて、使えないと思います」
「おーおーずいぶん都合のいい言い訳を思いついたな。それで俺は、いつ思い出して、漫画やアニメや、――ライトノベルの主人公よろしく! たいくつな日常から抜け出して、悪の組織と戦ったり、幾人ものヒロインと恋に落ちたり! 『俺』ご希望のありえない現実を始めるんだ!? ……100年後か、200年後か! ……いい加減なことを言うんじゃねえよ!!」
いつの間にか、背中に汗がにじんでいた。
反して涼しい顔のまま、彼女は立ち上がる。
そして、ベンチに置いてある鞄から、なにかを取り出して、俺へ見せた。
「……なんだこれは」
「鉛筆です。HBの」
「……」
新品の、とがれていない、棒状の鉛筆を、風羽は俺に差し出している。
俺はそれと、風羽を訝しげに見ていたが、ほどなく鉛筆は……。
ぐにゃりと曲がった。
◇
「見えましたか。いまの変化が」
「……曲がった。けど」
漏らしてすぐ、俺は唇をかみ、言葉を放った。
「……! だ、だからどうしたこんなもん! ただの手品じゃねえか!」
はき捨てた俺を無視して、風羽は、曲がった鉛筆を頭上に掲げた。
すると、もとのようにまっすぐになったのち……。
どんどん空へ伸びてゆく。
「……あ……。……ぐ……っ!」
やがて鉛筆は、ぶるぶると震えながら、横へ広がり、薄くなり……。
まだらの光をいくつも湛えた細く長い海――。
銀の剣へ姿を変えた。
◇
風羽は、空気を切り裂くように刃をおろす。
そして、柄の部分を俺へ差し向けた。
俺は、背中のみならず、わきの下にも気持ち悪さを感じながら、動かずに柄を凝視する。
刃の中心を貫くような、重々しい銀の棒だ。
無遠慮な輝きが、ぎらぎらと辺りを圧していた。
「これは、いまのあなたは魔術が使えませんが、私は使えます……ということと。あなたも魔術士であるという証明になります」
「……な……、なんでだよ……」
風羽は、俺の手を取って、柄を握らせる。
手のひらからヒジの奥まで、無機質な冷たさが駆け上がった。
「魔術は、人間には見えないからです」
思わず手を離そうとしたが、風羽の白く柔らかい手に包まれて、力を抜かれる。
冷気と温気にはさまれ続け、汗の量が増してゆく。
「もしここに、誰かが通りかかっても……。その者は、私たちが鉛筆を握り合っているふうにしか、認識できないのです。ご納得いただけないのであれば、この剣を持ったまま、教室へ戻っても構いませんが。……どうします」
風羽は、じっと俺を見上げた。
鼓動が、どくん――とおおきく胸を打つ。
俺は無理やり手を解いて、飛びのいた。
「……ばっ……! 馬鹿にするな! 見えるとか見えないとか、口裏合わせりゃどうとでもなる! ……い、いま見えてるそれだって、さっきの映像と同じで、なにか仕掛けがあるに決まってるんだ! ……とにかくもう、俺に関わるなよ!」
そのまま、鞄も取らずに駆け出した。
◇
砂利を蹴り、坂をおり、フェンスの門を乱暴に押し開けて、裏山から逃れる。
東棟の横を突っ切り、すれ違った教師の声も無視して走る。
靴も替えずに学校を出た。
……ふざけるな!
……ふざけるなっ!
……――ふざけるなっ!!
鉛筆が剣になったからどうした!! それが見えたらなんだ!?
そんなことで、俺が人間じゃなく、258年生きて、人間のふりをして……!
じいちゃんの息子のふりをして――!
「くそ、くそくそくそ……! ――くそ!!」
悪態をつきながら長い坂道を走って下り――。
駅前の横断歩道でクラクションを鳴らされ、ようやく止まった。
そして息を切らして座り込み、信号が変わると……。
青の音にまぎれて俺は泣いた。