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第63話 約束

「……。ん……」


 頭になにか当たっている。硬い。それに手が……右腕が。腕枕にしていてしびれている。本物の枕はどこいったんだ。っていうか、ここ、ベッドじゃない。畳の上じゃないか。……床で寝落ちしたのか。


 俺は五体のあちこちから響く痛みとだるさ……寝落ち特有の心地の悪さに顔をしかめる。そして薄ぼんやりとした景色の中に、懐かしいものを見た。


 子供のころ、よく俺の部屋に出入りしては、俺の勉強机にあるじいちゃん手作りの木造イスに、ミニスカートも構わず馬乗りするすいちゃんの姿。背もたれの上で腕を組み、その上にアゴをのせて半眼でこちらを見据えて、ベッドに転がり漫画を読んだりスマホをいじる俺へ、「ねー晴兄せいにい。いつまでゴロゴロしてるの? ヒマだよー。どっか行こうよ~。……ねーったらぁ!」とぶつぶつ言って、消しゴムを投げてきたり。そんな彼女の批判めいた幼い表情かおを。……起きたつもりだったけど、まだ夢の中か。ずいぶんと懐かしい……。でもちょっと水ちゃんの髪、長くないか? それに体も、少しおおきくなってるような。服も……ブレザー? スカート……もミニじゃない、制服……? きちんとはいた白のハイソックス――。


「起きましたか? ならすぐにシャワーを浴びて下さい。きのうお風呂入ってないでしょう。汗のにおいがぷんぷんしますから」


「……。……へっ?」


 俺は間抜けに漏らしてしばたたく。それから上体を起こして、声のしたほうへ振り向こうとした矢先、手のひらに、なにやら硬い感触がして動きを止める。……なんだこれは? ……はっ? 靴? 脚? ……――。


 思わず息を止めたまま、視線を、声のしたほうではなく、ゆっくりとそばの【硬いもの】へ向けてゆく。白いブーツに華奢な脚、ひらひらの白スカート、胸の空いた白トップス、細い首の先に、美しい表情かお――。ひとくくりにした三つ編みの長い金髪、漆黒のマント。だんだんと心臓の音が早くなる。これは……。この等身大の人形は。きのう帰ってきたときに、家に着いた【贈り物】。……ソッ……、…………ソッ!!


 俺はぞっとして、汗をかきながら、今度こそ声のしたほうへ振り向く。そこにはやはり半眼で、俺の机の前で、俺のイスに馬乗りになる……。そんな昔よく見た様子でありながらも、成長した――。県内屈指の名門、青神せいごう学院中等部の制服をまとった、黒髪が肩ほどに伸びた幼馴染が目に映り……おおきく口を開けた。


「なっ……、なんでウチに? まだ朝……朝だよな? ……じ、じいちゃんは?」


「おじさんは、私が訪ねてきたときに、ふくさんの店に行くと言って、私に留守番を任せて出て行かれました。朝ごはんはそこで食べてくるそうです。……ほかには?」


 と、くだんの幼馴染……中一の水ちゃんは、おおきな目をいよいよ半眼にして、緋色ひいろのネクタイの結び目をいじったあと、わずかに首をかしげる。まるで容疑者を取り調べをするベテラン刑事のように。俺は引きつった笑みをこぼし、「なる……ほど。よく分かった。俺は寝落ちして、それに気づかず……。キミが来たことも分からず、部屋に入っても分からず。……あの、何分くらい?」と聞き返す。彼女は、イスにまたがったまま振り返ると、俺の机の上から白い置き時計を取り、数字を指さしながら言った。


「この辺りから、この辺りまでですね。まあいろいろな事態は想定していましたから、早めに来ていて。まだ充分に余裕はあります。……ほかには?」


 と、再度聞き返してくる。……その置き時計、直ったんだな。じいちゃんに持っていくように言われたの? ……と、いうことは、いま、彼女が促している質問ではないことは、寝ぼけた頭でも分かった。なので恐る恐る、わずかに横の【それ】に目を走らせてから、言った。


「あの……。この人形はね? 二年……くらい前だったかな。深夜に放送してたアニメのキャラで。えーっと……。そう! 『追憶ついおく~光と彼方へ~』……っていう作品のキャラなんだけど! それが当たったんだよな。ダチの付き添いで行った、そういうのを扱っている店の、クジで……。それがきのうの晩、届いたってわけ」


「『ヒカカナ』は知ってますよ。だからこのキャラのことも。放送してたのは受験を決めたあとでしたけど、配信なら空き時間に見られるので、それで。……そうですか、『付き添い』に『クジ』。……まあ【晴兄】はあんまりディープなアニメ好きでもなかったですしね。なにより、これほどのものを買うお金があるわけないですし。……たぶん車が買える値段ですよね、これ」


「ど……うだろう。でも高そうだよな。むちゃくちゃ、よくできてるし……」


 と、振り返って、改めて眺めようとしたところで、「――動かないで下さい」ときつい声が飛んできた。水ちゃんは立ち上がり、こちらに近づいてきて……スカートを畳んでしゃがみこむと。固まる俺の顔をちいさな白い手で挟み込み、無理やり人形と真逆の方向に向けさせた。――痛ぇ!


「先ほど。晴さんが夢の中にいる間。私も【隅から隅まで】見させてもらいましたけど。ものすごく作り込まれていると思います。作った人は天才だと思いますが……。男の人なら変態ですね。露出した胸の感じとか、女子のスカートの中を【あそこまで】リアルに作り込むとか。まあ、エッチですけど、女子的にも綺麗なラインだとも思いますから、女の人かもしれません――が!」


 俺の顔を挟み込み、至近距離でのぞき込む半眼の水ちゃんは、引きつった笑みを浮かべて、言った。


「パンツ。……見てますよね。なにせ脚の下で寝てたんですから。……正直に答えて?」


「見っ……!? てない見てない見てない見てないっ!! だっ、だって俺、寝落ちしてたんだぜ!? これを箱から出してすぐ……ほら見ろよっ!! 箱ぉ!! 転がってる!! 緩衝材もっ!! この現場こそが、俺の潔白をっ!!真実をっ!! ……如実に物語ってるじゃないかっ!!」


「『如実に物語る』とか。なんでそんな文語的な口調になってるんですか。動揺しすぎでしょう……。もういいです。男の人が【そういうこと】に興味があるのは、さいきんよく分かりましたし。クラスの男子とかも、よくそういう話をしてて。……小学校の時はそうでもなかったのに」


 はあ……。と深いため息をつく水ちゃん。俺はそれに、「は……は。青神の子でも、そっち系の話、クラスでするんだ……。でも女子の前でもやるのはちょっとなぁ。デリカシーに欠けるよ。うん。不味い」と苦笑するが、次の瞬間――水ちゃんはおおきな目を三角にして叫んだ。


「女子の【前】とか【後ろ】とか、そういう問題じゃないでしょーがっ!! ……いいですかっ!? この人形はウチで引き取りますっ!! いいですよね【付き添い】で【仕方なく】行ったお店の【クジ】で【たまたま】引き当てたものなんですからっ!! 私を部屋に行かせたということは、おじさんも【まだ】知らなかったみたいですしっ!! それが妥当なはずですっ!! ……なにか不都合なことでもっ!!??」


「えっ……!? や……!! そ、そのせめて来週まで待って!? 実はさっき言った付き添いしたダチと、もうひとりと……!! これのお披露目会的なことをする約束してさ!! それが終わるまででいいからっ!!」


「 お ・ ひ ・ ろ ・ め ・ か ・ い ……!!?? なに考えてるの馬鹿じゃないっ!? ……いいっ!? もし逆にっ!! 私が女子の友達を呼んで、【等身大】の【イケメン男キャラ】の【半裸人形の鑑賞会】を開くって言ったら……!! 晴兄はどう思うのっ!?」


「……ええっ!? ……すっ、すごいイケイケだなぁ……、って。さいきんの女子は肉食系が増えてるのかもしれないし、ないことはないんじゃない、か。……あと半裸じゃないよ、比較するなら。確かに露出は多いけどさ。ミニスカと胸の開いたトップスだろ? 男なら……短パンとタンクトップくらいじゃないの? まあ想像したら笑けてくるけど。イケメンがどんなシチュエーションでそんな格好するんだよ。……ははっ」


「……せ ・ い ・ に ・ い ~~~~~~~~~~~~っ!!!!」


 真っ赤になった水ちゃんは、畳に落ちていた緩衝材の発泡スチロールを拾い上げると、俺の頭をばしこーん! と殴りつける。痛くはないが、わ……わりと衝撃がっ!! れ、連打はきついっ!! キツイって!!


 こうして怒り狂った水ちゃんの、小学生の時以来の攻撃がしばらく続き、俺が防いだり逃げまわったりすること五分。とうとう息を切らした彼女は発泡スチロールを投げ捨てると、ベッドのタオルケットをつかんでソーシャにかぶせたあと、「シャワーっ!! 私が先に使わせてもらいますっ!! あときょうの朝ごはんはやっぱり晴兄が作って!! ……分かった!?」と怒鳴りつけて、思い切りふすまを開けて部屋を出て、どすどす階段を降りてゆく。……完全に、昔の態度に戻ってたな。とすると、いまもそっちが素なのかな。……なんて考えてる場合じゃない。せめてお詫びに、水ちゃんの好きなものを、作るか……。


 俺はぼんやりと、朝日に照らされた、タオルケットをかぶったソーシャを見てため息をつく。それから、開けられたままの襖を通って部屋を出て、しずかに下へ降りた。


     ◇


 その30分くらいのち。シャワーを浴びたあと、俺のドライヤーで髪を乾かし、俺の黒い長袖シャツと灰色スウェットパンツに着替えた、ダボダボファッションの水ちゃんが、果たして不機嫌な面持ちのまま、ダイニングのテーブルに腰をおろしていた。

 いっぽう、同じくそのにシャワーを浴びた、上はTシャツ、下はすでに制服のズボンをはいた俺は、そばで卵を焼いていた。ジュウジュウと卵の焼ける好い音とにおいが、朝日の差し込む六畳ほどの部屋に広がっていた。

 ああ、時折飛んでくる視線が痛い。まあ仕方ないよな……。


 朝訪ねてきたら、五歳も上の幼馴染の男が、等身大・精巧美少女フィギュアの下で寝ていて。それに怒り狂ったせいで登校前に要らぬ汗をかいて、シャワーを浴びるはめになって。制服の襟シャツと下着まで洗濯することになって、その乾燥を待つ間に……男物のサイズの合わないダサい部屋着を着ている。これで不機嫌にならないほうがおかしいだろう。

 ただ、このキツイ視線とシチュエーション。なんか既視感があるんだよな。……なんだっけ。同じようなことが、過去にもあったような……。

 ……まあいいか。なんとか精いっぱいの手料理で、機嫌を直してもらうことにしよう。


「……よしっ、と。うまくできたぞ。……ほら水ちゃん。これはなかなかイケてるだろ~」


 ほどなくして、俺は皿に盛りつけた卵焼きを、水ちゃんの前に置く。その瞬間、ずっと半眼だった水ちゃんの目が、おおきく開いた。……そう、これは昔からの、彼女にも馴染み深い俺の一品。自作の型に流し込んで焼いた、熊の形の卵焼き。通称【くまタマ】だ。疎遠になって以来だから、ふるまうのはおよそ二年ぶりとなる。

 ちなみに。実はこれ、熊ではなく犬だったのだが、ちいさかった水ちゃんに初めて作って見せたとき、「あっ! ……くま!」と言われたので、「そうだよ。熊だよ……」と、そのまま通していまに至る。【くまタマ】という名前も、俺がその流れでつけた。じいちゃんは笑ってたから、犬であることを見抜いたのだろうけど……。


 そんなことを思い出しながら、俺はトマトとレタスのサラダ、牛乳やトーストもふたり分出して、彼女の隣に腰をおろす。そして「いただきま~す」とひとり手を合わせて、トーストにバターを塗ろうとしたが、いつの間にかまた半眼に戻った彼女を見て、手を止めた。


「あの……。いちおう言っておくけど。これは子ども扱いしてる、ってことじゃないからね? 俺なりの、キミに対する心のこもった【おもてなし】さ。昔からそうだったろ? キミがウチに来たときには……」


「【おもてなし】というか、【ご機嫌取り】という感じでしたけどね、いちばんさいしょに作ってもらったときから。……でも、いいです。冷めたら、久しぶりの……、せっかくのくまが可哀そうですから。……いただきます」


 そう言って、『これはくまのためなんです。仕方のないことなんです』といった表情(かお)を、あくまで崩さないまま、彼女は、温かな黄色いそれを箸で切り分けて口に運ぶ。するとひと口、ふた口、三口みくちと食べるにつれ、だんだんと彼女はふだんの表情かおに、そして目がおおきく明るくなってゆき、やがてにこやかな、彼女の愛らしい表情かおを取り戻す。そのさまを、俺がにこにこ見ていると、気づいた彼女が「……っ」と気まずそうに唇を固く閉じ、それからほんの少し、耳を赤くして言った。


「……単純、って思ったでしょう……。でもこれは晴に……、晴さんが悪いんですからね。こんな美味しい……、前よりも美味しいものを作るから……」


 と、恥ずかしそうに言い終えると、今度は俺からバターを引ったくり、ぺたぺたとトーストに塗り始める。俺はほっとして、自分の【くまタマ】にも口をつけた。……うむ。久々ながら、ばっちり。まあ相変わらず、じいちゃんの卵焼きには遠く及ばないけどさ。なぜかこの【くまタマ】だけは、水ちゃんには、じいちゃんの卵焼きよりと同じくらい褒められるんだよな。料理は見た目が大事なのも分かるけど。……ま、いまも喜んでくれるようでホッとした。


「……ありがとう。ところで今朝は、どうしたの? なにか用事があったとか。それとも、さっき部屋で『【やっぱり】晴兄が作って!』って言ってたから、前みたく、朝ごはんを作りに来てくれたのかな」


「はい。後者ですね。でも仰るとおり、その意欲がなくなっちゃいましたので。結果的に、久しぶりの【くまタマ】を頂けたので好かったですけど。作れなかった料理は、また。……そうですね。今度は晩に作りに来ようかな。泊まりで。……だれかさんが外泊してない日に」


「――ぶほっ!!」


 俺は口に含んだトーストをはき出した。果たして水ちゃんが、「ちょっ……!! なにしてるんですかっ!! 私の【くまタマ】にかかったらどうするんですかっ!!」と自分の皿を非難させ、また俺に半眼を向ける。さ、作者の心配より、作品のほう……? まあ牛乳じゃなくてよかったよ……。


「い、や……。じいちゃんから聞いたの? そりゃその通りだけど、別にやましいようなことはなにも……。いわば合宿みたいなものだから」


 俺はテーブルを拭きつつそう言った。水ちゃんはいぶかしげに俺を見つめると、そのままミルクをひと口飲み、ちいさな唇をひとなめしてから言った。


「トレジャーハンター【的な】なにか、になるための? 友達とのお泊りなら、おじさんにも、私にも、正直にそう言うでしょうし。……お風呂にも入れないでバタンしてたんだから、よっぽど大変だったんですね」


 水ちゃんは俺から目を離し、トーストをかじる。……トレジャーハンター【的】な、というのは、以前、彼女と将来の話になったとき、魔術士としての自身のこと、【その立場からの将来のこと】――を具体的に説明できずに、【探しもの】があるということ以外、心情的な説明に終始した俺のさまを見て、彼女が推測した俺の【進路】だ。否定はしていないので、いまも彼女にとっては、俺はそういうよく分からないものを目指しているということになっているようだった。


「……ま、まあそっち関係のこと。で、ってわけでもないんなんだけど……。今後もたぶん、それで家を空けることが多くなると思う。とくに休みの日……。もちろん、今度の花火大会の日とかは空けておくけど。もしかしたら、これから、なかなかいっしょの時間は取れないかも、しれない……」


 声がちいさくなる。それはただ単に、予定が合わなくなるかもしれない、ということでじゃない。自分の置かれた立場が、だんだん彼女と遠くなってきている気がしたからだ。よりにもよって、彼女がこっちに住むようになってからとは……。俺はため息をつくと、心臓の上辺りを、ひっかいた。


 水ちゃんは食事の手を止めて、こちらを見ていた。おおきな目を、まばたきもせずに……。それからしばらくのち、目を伏せると、しずかに言った。


「一生懸命、なにかを目指すということは……、そういうことですから。仕方のないことですよ。私もそんなに時間が取れるわけじゃありませんし。サボったら、すぐついていけなくなっちゃいますからね」


 かすかに笑う。よく遊ぶ、勉強があまり好きではない、ふつうの小学生だった彼女は、とてつもない努力をして、県内屈指の進学校に入った。そのために、俺への態度を変え、一年間は接触をも絶った。だから俺の言っていることが、彼女なりによく分かるのだろう。その理解は、俺に改めて、自身の望み――【セイラル・マーリィの過去を得て、それを超えること】――を叶えるための困難……確かな覚悟を思い起こさせ、思わず身震いした。


「なにを目指しているかは、相変わらずはっきりしませんけど、本気なのは分かりましたし、安心しました。……でもひとつだけ。晴さんは【晴さん】のままでいて下さいね。……ずっと。いい加減で、おっちょこちょいで、すぐ動揺して、五歳も年上なのに、とてもそうは見えないときが幾度もあって、……でも、やっぱり年上らしくて、おおきくて、……あたたかい。……そんなあなたのままで」


 水ちゃんは両手の小指を立てて、腕をクロスして俺の前に出す。……昔から、絶対に破らない約束をするときに、俺に促した【絶対指切り】。彼女に迫られて、その信用を得るために、俺が考えたものだ。両手をクロスして、お互いの右と右、左と左で指切りをする。俺は、水ちゃんのちいさな二本の小指に、自分のそれらを絡めた。


「「指切りげ~んまん、嘘ついたらゆーるさないっ、ぜ~ったいに! 1・2・3……どーんっ!」」


 ふたり同時に歌って、指を離すと同時にバンザイして、ハイタッチ。そのまま、ゆっくりと両手をお互いにおろす間、俺たちは見つめ合っていて……。最後に水ちゃんが言った。


「破ったら。どこまでも追いかけて、思い出させますから。……私もトレジャーハンター【的】なものになって。忘れないで下さいよ。……晴さん」


「……分かった。心に刻んでおくよ。……どんなになっても」


 俺はそう返して、うなずいた。水ちゃんはそれを見届けたあと、「……じゃ、食事の続きをしましょう。……ところであの人形の件ですけど。今晩にでも、私の部屋に運んでもらえますか?」と、笑顔で言い出して、俺は必死に、「いっ……!? や、ちょっと、さすがに今晩っていうのは……!!」と抵抗する。すると彼女は、「そうですよね。きのう寝落ちしたのなら、今夜はじっくり見たいですもんね。パンツ」と、また話を蒸し返し……。そんなふうに久方ぶりの、昔と同じ香りの時間ときは、騒々しいままあっという間に過ぎていった。


     ◇


 こうして。まったく余裕のなくなった俺たちは、飛び出すように表に出て、「電気、すべて消しましたか? ガスも止めましたか? 水道は?」「オールオッケー! 鍵もある! 水ちゃんも忘れ物ない? 鞄は……持ってるか」「はい。制服もちゃんと。シャツも着て、ネクタイもして。もちろん……下着も。上下ともに」と彼女が半眼で飛ばしてきた視線を、俺がかわしたりして、互いの確認チェック完了。そして俺は愛車ママチャリを引っ張り出し、「……じゃあまた! 気をつけてね」と言葉をかけ、彼女も、「ええ。晴さんも。信号をきちんと守って。美味しい朝ご飯、ありがとうございました。……また」と徒歩で、それぞれの学校へとダッシュした。


 そのままひとり、俺は愛車で軽やかに住宅街を抜けてゆき、いつもの国道まで出て、車道の端を走っているところで、ようやく思い出した。過去にあった、きょうと似たシチュエーションのことを。その相手が【だれ】であったのかを。……夕凪ゆうなぎだ。


 中学二年の冬。雪の降ったバレンタインの夕方。【ただのクラスメイトの女子だった】アイツは転校することを俺に告げるため、そして【大事なものを預けに来るために】、俺の家の前で待ち構えていて……。そんなヤツにびっくりして大声をあげた俺に、向こうもびっくりして、ふたりで雪解けの水たまりに尻もちをついて。アイツは、スカートはおろか下着まで、ウチで洗濯するはめになったんだよな。それできょうの水ちゃんみたく、それらの乾燥を待つ間に、俺のダサい部屋着を着て……。けっきょくその服は、アイツは引っ越し先に……――。


     ◇


――……『えん』は――……。自分でつなぐものでもあるんだよ――


――送るんじゃなくて、いつか、直接返す。……そしたら、キミも、私の言うこと、……帰ってくるっていうこと。信じられるでしょ――


     ◇


 ……確か、こっちの大学を受けると言ってたっけ。その前に、高校生になったらバイトで金を貯めて、夏休みとかに、服を……と。だとしたら、もしかしたら、この夏にでも――。


 そんなことを考えているうちに、赤信号が目に入って俺は急ブレーキを踏む。そして、かつて遠い【未来さき】だと思っていたことが【現在いま】となっていること、小学生だった水ちゃんが、あの時の俺や夕凪と同じような中学生たちばとなっていて、さらには彼女と、夕凪と過ごした時と同じような時間を過ごしている……ということに、なぜか胸の奥が騒いで息を呑む。その瞬間、信号が青に変わった。


 すぐに俺と同じような高校生や、サラリーマンなどが渡ってゆく。俺は愛車ママチャリにまたがったまま、しばらく動けずにいたが、やがて信号が点滅し始めて、ほかの人間たちと同じように向こう側へ渡った。


 ハンドルを片手で持ち、空いた手で、心臓の上辺りに爪を立てながら――。


     ◇


≪はい。そこでクラスごとに一列になって。……手早く。乱れない! さっさとするー!≫


 午後。真っ青な空が広がるもとで、朝礼台の上から中年男性の体育教師、佐々岡ささおかが、太い腕で持った拡声器で叫ぶ。その指示を受けてのろのろと、喋り合いながら各クラスの生徒たちが、グラウンドの所定の位置に列をなす。


 見ての通り、たいしてやる気はないが、先の体育のそれを始め、教師たち全員も、立場上叱っているという感じで、とくにこの『だらけ』を強くとがめたりはしていない。小学校や中学校のときは、こんなふうな感じではまったくなく、そもそも本番前に何度も練習をさせられたものだ。

 だがいまは……、ほかの高校は知らないが、菜ノ川ここに関して言えば、体育祭前日のきょう、五時間目と六時間目を使って、当日の流れをリハーサルするだけだった。とうぜん、競技の練習もないから、そっちはぶっつけ本番だ。


≪よーし次! 各部活動は実行委員の指示に従って整列! あとの生徒はしずかに待つように! それと……≫


 引き続き佐々岡が指示を出し、部活対抗リレーに出場する者たち以外は、待機のためにトラックの外に出る。そのひとりである俺は、おおきなあくびをしながら、クラスメイトたちから離れ、グラウンドの端のフェンスにもたれかかり、地面に腰をおろした。……さすがに疲れがきたな。きのうの朝までボコボコにされたのは、回復術で治されて、眠気も吸い取られたとはいえ……。精神的な疲れが取れるわけではないので、それがまた、肉体的な疲れへと戻された感じだ。しかしもうあした本番か……。


 体育祭のことは、じいちゃんには言っていない。さすがに高校生にもなって親を呼ぶのはない、と思って去年から伝えてないのだが、それでもじいちゃんは勝手に、坂木さかきのおばちゃんまで連れて来たからな。今年もたぶん、言わなくても来るんだろう。おばちゃんにも伝えている、ということは、水ちゃんにも伝わってるのかな。……あえて言わなかったけど。彼女にはあんまり、見られたくないんだけどなぁ……。とくに今回は。


 俺はぼんやりと、クラスメイトたちが集まっている中心に目を向ける。そこには周囲のあちこちから、あしたのことや、それとは関係ないふだんのことや、さまざまな質問や会話を投げかけられては、それに嫌がる顔ひとつ見せず、ていねいに応対している風羽怜花ふわれいか、もといファレイの姿が見える。


 左胸にちいさく緑色の学校名の入った刺繍がほどこされた、白い半そで体操服に、膝丈の黒パンツ。併せて、くるぶしほどの白い靴下に白い運動靴といった、至極ふつうの体育の装い。だがしかし、スタイル抜群、美しい切れ長の瞳に輝く上品な唇、つややかな黒髪ショートの【ガラスのバラ】は、ほかの同じような、そして派手にお洒落しているだれよりも、特別なオーラを放っていた。……俺の従者であり、あしたの本番の……二人三脚のパートナーは。


「……練習、ちょっとはしたの。それとも諦めて、打ち上げで皆につるし上げられる覚悟を決めたの」


 ぼそりと声がする。俺はゆっくりと顔を上げた。茶色のボブヘアの横岸が、腰に手を当てて俺を見おろしていた。俺は頭をかいて、顔をそむけた。


「……まさか。打ち上げに来ないつもりなんじゃ、ないでしょーね。そんなことしたら、月曜日にあんたの席、なくなってるかもよ?」


「高校生にもなっていじめとか。ありえねぇだろ……。それと行くと言ったろ? 俺はできるだけ、約束は守る主義なんだよ」


「できるだけ、ねぇ……。いい言葉よね、それ。【都合の】」


 嫌味を言ってきて、それに俺が鼻で笑うと、横岸は隣に腰をおろした。そのままいっしょに、クラス一、学年一の隠れアイドルを取り巻く様子を見やる。


「風羽さんが、『打ち上げに行く』って言ったら、あれよ。いつもよりひどいよねぇ。この分だと、体育祭はウチのクラスの連中、けっこーやるかもね。じゃないと打ち上げで好い恰好できないもん。……あと、告白する男とか、出るかも」


 俺はまた、鼻で笑った。それに横岸は、「100パーセント、振られる……って表情かおだ。ほんとう、あんたって風羽さんのことよく分かってるよね」と言って、腕を指で弾いてきた。俺はそのかすかな痛みに眉をひそめると、返す。


「だれがどう考えたって、振られるに決まってるだろ? よく分かってるとか関係ねーよ。そもそも告白するヤツらだって、大半はそれを分かってる。そして風羽を神格化してるから、アイツが傷つけるフリ方をしないことも信じ込んで。……つまりは、ほとんどが【安全なる、美しき想い出作り】ってヤツさ。……そんなものは……――」


 俺は朝の水ちゃんとの朝食や、かつての夕凪とのことへ想いをせる。自分にとって心に残るすべてのことは、どれも作った、作られたものじゃない。自然に生まれたものだ。……もし告白するのなら、想い出作りとかじゃなく、フラれると分かってやるのじゃなく、無心で、本気でやれ――。俺は地面に指を立てて、わずかに表情かおをしかめた。


「……ま。それには同意するわ。いつか、あとで思い出すのって、そーゆーんじゃないと思うし。痛いことも、楽しいことも、全部――。【自分が想定してなかったことだけ】よね。たぶん。……ずっと残るのは」


 横岸は前を向く。クラスメイトたちではなく、ただ(くう)を見ていた。その目には、いつもの輝きはなく(かげ)が落ちている。前に見たものと同じだった。俺がそれを訝しんだ時――、わっと風が吹き、木の葉がさざめいた。


 拡声器やなまの、教師たちの叫び声や、生徒たちの騒がしい、楽しそうな声や文句。それらすべてが高い空に吸い込まれて、混ざり、また落ちてくる。俺はしばらくそんな音海おんかいに身をひたしていたが、いつの間にか輝きの戻った目で、横岸がまっすぐ俺を見つめていたことに気づき、我に返った。


「……なんだよ。なにか俺の顔についてるか?」


「べっつに~。ただ、【強さ】を吸収してるだけ。うむ。きょうのもまぁまあだったかな」


 ぽんぽん、と笑顔で俺の肩を叩いてくる。またそれか……。ほんとう、コイツはなにを目指してるんだよ。それに俺は……【いまの俺】は。強くなんかねぇ。……【強くならなきゃ】いけないんだ――。


「おっ。いまのも好い表情かおだった。それよそれ。私の目指している【強さ】っていうのは――」


「……うるせー。いい加減にしねーと、打ち上げでお前に告白するぞ。【安全なる、美しき想い出作り】のためにな」


 俺は半眼で言い放つ。すると横岸は、一瞬ぽかんとしたあと、わなわなと震えて、真っ赤になり……。俺を何度も指差して怒鳴った。


「ふっ……!! ふ、ふふふふふふざけん・なぁーーーーーーーーーーーーーっ!! そっ……、そそそそんなことしたら絶対っ!! 絶対許さないんだからぁーーーーーーーーーーーーっ!!! ……ってか殺すっ!! 八 つ 裂 き に す る っ !!」


 拳をぶんぶん振りまわしてきたので俺は立ち上がり、逃げる。それで後ろからは、「いいっ!? 絶対に打ち上げ来なさいよっ!? ……んでさっきのことは 絶 対 や・め・ろっ!!」と追いの怒鳴りがあり、前方からは、「ちょっとあんたらっ!! なにを騒いでるのっ!!」と、教師が駆けつけてくる。俺は棒読みで、「すいませーん。横岸さんがうるさくしてましたー」と答えて、さらにうるさくなった横岸へ先生が向かうのを見届けてから、風羽を取り巻く生徒たちに交ざった。


     ◇


 放課後になってすぐ、俺は横岸に絡まれないために、脱兎だっとのごとく教室を出て、それから昇降口で靴を履き替え、外に出た。……はあ~疲れた。ってか横岸のヤツ、あそこまで怒るか? そりぁあ嫌味も入ってたけども。その場で流すジョークだろうに。アイツのことが、よく分からん……。いちおういまは友達で、夕凪以来の、距離の近い学校の女子ではあるんだけどな。……【人間では】。そういや二人三脚、練習……、どうすっかなぁ。


 俺は立ち止まり、下り坂の先に見える校門を眺める。ファレイのことだから、呼んだら来るだろうけど。問題は【どこで】練習それをやるかだ。無難なのは夜の公園か。それ以外なら……人目を避けるなら、たぶん【これ】が使えるとは思うんだけど。


 俺は鞄から、ちいさなサイコロのような、青い四角いものを取り出して見る。これは泊まりで修行したあと、駅前での別れ際に、俺の魔術士の師匠となったルイが、【自主練】のために貸してくれたものだ。


 いま、俺がずっと首からぶら下げているネックレスと同じ【魔具まぐ】と呼ばれる、魔力で創られた特殊な道具。平たく言うと、ルイのマンションの一室にあった、あのどでかい修行場、あるいは前にバーガーショップで案内された、だだっ広い廊下に部屋――と同じく、次元の違う空間を発生させる装置だ。

 これをふつうの部屋や、押し入れなんかに放り込むと、たちまちそれが発生するらしく、そうしてでき上がった中は、完全に人間界とは遮断されていて、かのルイの修業場と同じく音も衝撃も漏れない、とのことだった(ちなみに、解除には合言葉がある。もし元の空間が、引き出しや箱などの、俺が収まらないほど狭いところだと、俺は強制的に外へ押し出される)。


 俺に貸してくれたこれは、発生後の広さは教室くらいと、先のふたつに比べたらちいさいものの、二人三脚の足並みをそろえる練習くらいなら十分だろう。……が。


「……なんてな」


 俺はひとりつぶやいて、苦笑する。そんなことがルイにバレたら、「お前……。魔術士の修行をなめてるのか?」と、なにをされるか分からない。そもそもファレイには、どんな修行をするかは言わないつもりだしな。だから修行に関わる魔具これを見せるなんてことはありえない。なにより体育祭で二人三脚をするのは、セイラルとファレイじゃない。【緑川みどりかわ晴】と【風羽怜花】だ。……やっぱり夜に、どこかの公園にでも呼び出すか。


「おう。晴じゃんか。きょうは部活には出ないのか? ま、あしたは体育祭だしな。ワタシもきょうは取材でオフる……、って。なに突っ立ってんの」


 声がして顔を上げると、前方から、白い折り畳み自転車を押して、金髪ポニーテールのグラマラスな女子が近づいてくる姿に気づく。この顔、見覚えが……って。シンリか。


「……ん? なんだその青いヤツ。なんかのガチャか?」


「えっ? いやいやいや! これはそういうんじゃないよ! はははは……!」


 俺は慌てて、のぞき込んできたシンリから離れ、魔具を鞄に隠した。びっくりしたぁ……。よく考えたら、これも落としたらことだな。なにかキーホルダー的な形にして、財布にでもつけとかないと。家に置いておく度胸は、いまの俺にはないし。……ってちょっと待て。ガチャ? 部活? な、なんかそのふたつのキーワードに、ものすごーく引っかかりを覚えるんだけど…………――って、あっ!!


「あ……のっ! シンリっ!! きょう楠田くすだ先輩って、部活に来てる……よな!? やっぱり!?」


「はぁ? そりゃ来てるんじゃねーの。皆勤賞って自慢してるくらいだし。……つーかなあ、言っておくけど。ワタシはあんたと同じ学年で、アイツはあれでも先輩だから、んな動向なんて逐一把握してねーよ。そもそもかんたんに把握できるような、おとなしい存在じゃねーし、アイツは。学校休んでんのに部活には来てたこともあるんだぜ? ……んで? 来てたら不味いのか」


「……きのう、帰りの電車で、星ガチャのダブりをあげるって約束して。天王星とか、いろいろ。それを持ってきてない、から。怒るよ……な」


「えーっ! んな面倒くさいことしでかしたのかよ……。アイツ星ガチャ大好きなのに。髪の毛引き抜かれるレベルだぞ、そりゃ……。そもそも約束破んなよ。好きなものが関係するなら、ワタシでも怒るわ」


 同情するどころか、冷徹なる女子の意見を言い放たれて、俺は愕然とする。……だいたい、部活へ行くことすら忘れていたわけだしな。弁解の余地もない。下手をすりゃ、「……みーどーりーかーわーせーいっ!! よっくも僕をダマしたなぁーーーーーーっ!!」ってな感じで……。明日の体育祭に、抜け毛ヒリヒリ坊主頭で出ることになるのか……。


 死にそうな表情かおをしてうなだれる。するとシンリが、「あんたさぁ……。そんなにビビるんなら、もっとちゃんとしとけよ。きのうあんなに真剣な表情かおしてたくせに、抜けまくってんなあ。……しゃーねー。ちょっと付き合えよ」


 と、言って。自転車を押して歩き出す。俺が訝しげに、少し遅れてついて行くと、「すぐ近くに駄菓子屋あんだろ? あそこにも星ガチャあるんだよ」と続けた。……えっ? どういうこと? ま、まさか……。


「【ない】なら【当てる】しかねーだろーが。どうにもならなくなるまでは、まだ約束は【破ってねえ】。……あんたいま幾ら持ってる? 足りない分はワタシが貸しといてやるよ」


 シンリは、こともなげにそう言って、今度は自転車にまたがって門へ向かう。俺は、「いや……。ちょっと! それは……!」と言うが、返事のないまま揺れるポニーテールがどんどん離れていき、その毛先が門を出たところで、俺は頭をかいて駆け出した。

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