第6話 せいぜい楽しく、生きてくれ
呆けた声が、喉の奥から漏れる。
俺はずるり、背もたれを滑って、風羽の隣へ落ちた。
手もとで光るちいさな水面は、妖しいさまはからりと抜けて――。
ただ俺の間抜け面と、透けた空を湛えていた。
《……これが再生されたということは、やはり、俺の記憶は戻らなかった、ということか》
男が喋った。
俺はベンチにしがみつくようにして、のけぞる。
風羽の体へ、自らを押しつける格好になっていたが、構いもしなかった。
な、……な……、――なんだコイツは!
《なら、どうせ馬鹿みたいな顔をして、わめいていることだろうな。17年後でも、人間界のレベルでは、たいして進歩していまい。……ファレイ、説明してやれ》
風羽は、俺からすっと身を離し、立ち上がる。
そして小石を拾い、男に投げた。
石は……、男を通り抜けた。
「見ての通り、立体映像です。過去にあ、……セイラル様が、魔術によって収められたものです」
気づけば彼女は、そばにひざまずいていた。
従者といわんばかりの態度が、ますますひどくなっている。
しかし、そんな様子になにかを言う余裕は、もはやない。
ただ赤ん坊のごとく、口を開けて男を見ていた。
紺のマントと、長めの黒髪がしずかに揺れる。
まだらの輝きが、ちらりと見えた厚手の青装束や、はき込んだブーツのさまを明らかにする。
俺たちと変わらずに、風と光に認められ――。
男はそこへ立っていた。
「……私も、この記録に関しては、見るのは初めてです。先ほど申しました通り、あなたの魔力でしか、これは再現できませんから。……よく、見て、聞いておいてください。終わったら消えます」
澄んだ声で、よどみなく話す風羽。
コイツ……、映像……こんなものは、当たり前のことだと思ってるんじゃ、ないのか?
つまり、それは、風羽が……。
風羽の言っていたことが……。
瞬間、さっきまでの風羽のたわごとが、ぐにゃりと形を変え――、真実という文字に変換しかけたので、慌ててかぶりをふった。
《……もういいか? これはけっこう、魔力を使うんだ。疲れるから手短に言う。……お前は、俺だ。俺が秘術を使って、0歳まで若返り、17年生きたのが――今のお前だ。ここまではいいな?》
「……まったく、よくねーよ……」
ぼそりと漏らす。
ぴくぴく頬が震える。
喉から水分がなくなった。
……馬鹿じゃねーの。いや……、馬鹿だろ!
誰が誰だって? だいたい顔だって……。
やや垂れた、黒い目。
右に泣きぼくろがふたつ。
主張しない鼻。
口の端が、ちょっと上がっている。
……なんかどこかで見たことある……鏡とかでよく見たことのある顔だが!!
コイツのほうが老けてるし! 髪長いし! なんか異様な凄みがあるし!
俺がこんな、戦場をいくつもくぐり抜けてきたような面してるわけ、ねーだろ!
《ちなみに俺は、当年とって258歳、人間界でいったら見た目25、6歳ってとこだ。……あと、詳しく言ったら、ガキのお前はひっくり返るから言わねーが、それなりの生き方をしてきたからな。顔つきは違うぞ。造作だけ見ろ。ぞうさく。……ここまでもオーケー?》
「――……オーケーじゃ、ねーよ!」
俺は立ち上がり、転がる石を思い切り蹴飛ばした。
だがさっきと同じように、男を通り抜けていく。
……くそがあ~!!
《……よし。じゃあ本題に入るか。俺が若返って、そっちの世界で生き直そうと思ったのはな……。理由があるんだ。……それはこれだ》
男は、マントをごそごそまさぐって、なにやら取り出した。
文庫本……のように見えるけど。
《これは、ライトノベルといって、小説の一種なんだが……まだあるよな? あるとして、あると強く願って話をする。……俺はこれを、人間界に行ったとき、たまたま読んだんだよ》
「……」
俺は眉をひそめた。
なんでそんな、どうでもいい……。
手短に話すんじゃなかったのかよ。
いらいらしながら、男を見やる。
いっぽう男は、手にしたラノベをさすり、さすり……。
笑みを浮かべて続けた。
《いや~、それが……。めちゃめちゃ面白くてな! 世の中にこんな面白いものが、あるのかと……。深く深く、感動したわけなのさ》
「……。……なに言ってんの?」
思わず、真顔で風羽へ尋ねた。
怒りはない。
意味が分からなかったので、聞いたのだ。
「あとで補足をすることになっています。今は過去の、セイラル様の話をどうか……」
心なしか、彼女の顔は引きつっていた。
この、なんでも言うことを聞く、という従者ぶりを示す風羽が、腹の立つようなことなのか。
コイツが話しているのは……。
《……で、だ。感動した俺は、人間界にいる間中、ライトノベルを読んで、読んで、読みまくった。今まで知らなかったのは、人生の損失だ! と言い切れるほどに、夢中になったんだ。とくに気に入ったのが、この本でな。……それで魔法界に帰ったあと、ふと、あることを思いついた》
男は、手に持っていたラノベを指差し、にやりと口角を上げて……、言った。
《この本に書かれてある内容と、同じことをしてみたい、と。人間界で生まれて、学校とやらに通って、恋をする。……もちろんハッピーエンドのな。俺の残りの人生は、そうして過ごしたいと。そう決めたんだ》
「……。……はっ?」
俺は瞬き、再び風羽を見た。
彼女は、うつむいたまま反応しない。
視界が左右に震える。
おい……。いま。
……なんて言った?
《……それから、俺は研究室にこもり……。五年の歳月をかけて、秘術、転元の術式を、いちおう完成させた。それを用いて、俺は258年分、肉体を若返らせたわけだ。……お前の人生は、そこから始まっている》
動けない俺をよそに、男は滑らかに本をしまう。
ほどなく、男の言葉によって押し出された、俺の意識と感情と、思考能力は――。
手鏡を落とした際の鈍い音と……。
それを拾い、砂を払う風羽の所作が目の端に入ったことで――。
ようやく戻ってきた。
そっちで生まれて……。
この本に書かれてある……。
……残りの人生……。
……ばっ……。
……ば……っ!
――……馬鹿なのか、コイツは!!?
《人間界にも、魔法界の者はいるからな。信頼できるヤツに、俺を、この本の舞台となった日本の、どこかの人間の家へ預けてもらうように頼んでおいた。これを見ているということは、まあ、無事に育ったということになる。……ほんらいならば、17歳の誕生日に、魔力と記憶が復活するはずだったのだが……仕方ない。まだ転元は不完全な術式だからな。あらかじめ覚悟はしていた》
男は、指をまっすぐに突き出して――。
その指と視線は俺の心臓を貫いた。
《俺は、魂は肉体にあると思っている。天やら、神やらの授かりものとして、肉体へ宿ったものじゃなく、肉体そのものが、生まれた瞬間から魂を持っているとな。……俺の思い描いていた理想の時間……。セイシュンというヤツは、お前が心から味わってくれたら、それで俺の肉体――魂が味わえることになるから、記憶がないことは大した問題じゃない。……だからな、俺よ》
ピストルを撃つかのように、男は、くいと指を動かした。
《せいぜい楽しく、生きてくれ。美しい日々を。――以上だ。……あとは、ファレイに聞いたらいい。そいつは甘ったれで泣き虫で、どうしようもないガキだが、……今の俺よりは、役に立つ。じゃあな》
そうして、最後の言葉が耳へ届いて、すぐ――。
男の姿は宙へ解けた。