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第58話 【おまけ】なんかじゃない――……

「……。えっと。……いま、なんて?」


「だから、夏休みのことです。泊まりに来て下さいって言ったんです。実家うちに」


 すでに下校して着替えたのだろう、初夏らしい薄水色のシャツに、白いジャンパースカート姿のすいちゃんは半眼でそう言って、ちいさくため息をついた。そしてカフェの窓から差し込む午後の光で輝くグラスより、オレンジジュースを吸い上げると、ストローを動かし、からん、と音を鳴らす。その()、口を開けて自分を見る俺に続けた。


「どうせうわの空で、ぜんぜん聞いてなかったと思うのでもう一度言いますけど。お父さんとお母さんに、夏休みは実家に帰れって言われてるんです。いまはずっとおばあちゃんの家だから。そういうことで、せいさんに、実家こっちに来て欲しいんですよ。勉強とか、その他あれこれで忙しいんですが、7月30日から8月2日まで、四日ほど予定を開けられそうですので。……日支尾ひしおの花火大会、覚えてますよね?」


「ああ……。確か8月1日、だったよな。水ちゃんが夏、こっちに来るたび俺に話してくれたし、……俺も一回行ったしな」


 まだ下校途中で、暑苦しい学ラン姿の俺はそう言うとグラスを持ち上げ、ささったストローを無視して直接、グラスへ口をつけてコーラを流し込む。


 かつては春、夏、冬と長期休暇のたびに、彼女はおばあちゃん……俺にとっては近所に住む坂木さかきのおばちゃん……の家に泊まりに来ていたが、夏の場合、それは決まって先の花火大会が終わってからだった。ちなみにこちらにも規模はちいさく、さらには隣の市であるが花火大会はやっているので、水ちゃんは自分のところと俺のところのふたつの花火大会へ参加するのが、毎年の(つね)となっていた。態度が変わってしまった一昨年と、来なかった去年は空白となってしまったが……。そうなる前に、俺も強引に誘われて、一度だけ向こうのそれに行ったことがあったのだ。

 

「はい。なのでちょうどこの機会に、晴さんにもまた来て欲しいんです。ほら、花火もですけど、たくさん屋台も出てて……とくにチョコバナナがすごく美味しかったでしょう? なにより景色……というか、ほんとう、雰囲気がすごく好くって、夜空がとっても広くって、心地いい時間が流れてて……!」


 いつの間にか半眼をやめて、水ちゃんはこちらに身を乗り出すようにして、いままで見に行ったときのことを、いままで何度も俺に話した内容を、俺といっしょに行ったときのことを中心に、新たに熱っぽく語り出す。まるで空白の二年間に、話しそびれたことを補うように……。俺はモンブランの残りを金色のフォークで少しずつ崩して食べながら、黙って彼女の嬉しそうな声に耳を傾けていた。


「聞いてるんですか? ……なんで笑ってるんですか! 言っておきますが、いま話していることは、前に話していたことと違うんですからね。内容は同じでも、ちいさかった私の言葉じゃ、ないんですから」


「そうだな。ほんとうに変わったなあって思う。時の流れを感じるよ……」


「……そういうのは、宗治そうじおじさんだったら許される台詞ことばですよ。あなたがおじさんと同じような歳……っていうなら、話は別ですけどね」


 再び半眼になり、呆れたように息をはくとフォークを取り、自分のモンブランの、残り半分を崩しにかかる。彼女の言葉にどきりとして、俺はごまかすように苦笑いしつつ言った。


「えーっと……、そうだな。話は分かった。花火大会に、泊まりね……。ちょっとまだ予定が分からないけど、空けるよ。じいちゃんも行けって言うだろうし、俺ももう一回、日支尾の花火見てみたいしな。でも、おじさんとおばさんは、いいって言ったの? 俺が泊まるの」


「はい。ふたりとも、晴さんのことは甥っ子みたいに思ってますし。そもそも駄目、なんて言われたら、帰らないって言うだけですから」


 ぺろり、ちいさな舌を出した。自分の意志は意地でも貫き通す、っていうところは昔からぜんぜん変わってないよなあ。青神せいごうに入学できたのも、その通学のためにおばちゃんの家で暮らすっていう希望を叶えたのも、その気持ちの強さがあってこそだしな。彼女の、求めるもののために……。


「……また、うわの空ですね。なにを考えてるんですか」


「えっ? あ、いやいや……! 水ちゃんと泊まるのって、かなり久しぶりだなあって、さ。それにキミが俺の家にとか、俺がおばちゃんの家に、っていうのはちいさいときはよくしてたけど。実家のほうは行ったことなかったから、けっこう緊張するなあ。……そういや、俺ってどこで寝るの? 客間? 居間? それともおじさんの部屋かな」


「私の部屋です」


「ふーん。……。――……はっ?」


 俺は目を見開き水ちゃんを見返す。だが彼女は平然と言い放った。


「だから、私の部屋です。初めてだし、ほかのとこだと緊張して落ち着かないでしょう? 晴さん、見かけによらず、すごく気を遣う人だから。私のとこならリラックスできると思いますし」


「いや……、冗談……だよな?」


「ほんとうですよ。なんでそんな冗談を言うんですか。ちなみに使っていた机とか本棚とか、おばあちゃんの家に持ち込んでますけど、部屋はがらがらじゃないですよ。いつでも帰れるようにって、新しいベッドとか、お父さんがいろいろ買ってくれて。前とそんなに変わってないです。レイアウトなんかは、以前晴さんに写真で見せた通りですよ」


 と、彼女はストローでジュースをかきまわす。俺は顔を引きつらせて苦笑し、固まっていた。……そりゃあ、おじさんやおばさんとも、俺が幼稚園のときからの付き合いだけども。水ちゃんは早生まれで、まだ12歳といっても中学生だし、俺も高校生なんだぞ? マジに他人じゃなくて従兄妹同士……甥っ子みたいな認識なのか?


「ああ。ちなみに、私はお母さんの部屋で寝ますから。どうぞゆっくりして下さいね」


「……――ったく!」


 俺はテーブルに突っ伏して、おおきく息を吐き出した。するとふふっ……、楽しそうな声が耳をくすぐる。俺は水ちゃんのお株を奪うような見事な半眼のまま顔を上げて、彼女をにらむ。だが水ちゃんは楽しそうな表情かおのまま、光るフォークで俺を指しながら、いたずらに口角を上げて言った。


「私のこと変わったって言いながら、扱いは昔のままだからですよ。泊まりって言ってもちっとも動揺もしないで……。でもこれでもう、目の前にいるのは、昔みたいにいっしょの布団で寝ることも、お風呂に入ることも、かんたんにはできない女子(あいて)だって、十分に理解できましたか?」


「ああ……、まいった。だから勘弁してくれよな……」


 疲れたように言って、頬杖をつく。水ちゃんはふふん、と得意げな笑みを漏らし、手に持つフォークで俺の残ったモンブランをすくい取って口の中へ。さらに俺のグラスも持ち上げて、俺と同じようにストローを無視して直接飲む。そのグラスを置くと、指で濡れた唇をぬぐい……。光る窓の外を見つめながら、つぶやいた。


「……私はいま、12歳で、あなたは17歳。十年後は22歳と27歳。二十年後は32歳と37歳。いつまで経っても歳の差は縮まりませんが、立場は、距離は……【見ているもの】は。だんだん等しくなってきます。だからいつか、あなたの見てきたものと同じものを見られたときに――。いまと同じようにお茶をして、そのときは……、対等に話ができればいいなって思います」


 窓へ向けていた顔を、俺へと向ける。おおきな目はふたつとも、まっすぐに俺を見つめていた。そのふたつの光を受け止めて、俺はちいさくうなずいた。そんな、いまでも充分に対等じゃないか、とか、対等以上さ、などとは言わずに、素直に受け止めて、『楽しみにしているよ』、と。そんな意味を込めて。そして、それが……――。


 はっきりと【未来(さき)のことを】――。どうしても言葉にできなかった俺の、……精いっぱいの返事だった。


     ◇


 そうして一時間ほど店で話したあと、俺たちは外に出て、いよいよ低くなり始めた光を浴びつつ、互いに話を続けながら自転車を押して歩いてゆく。ケーキ代は割り勘だった。「花火大会のときに奢ってもらう分を置いておいてもらわないと。あと念のために言いますが、この間の、手品師マジシャンのお兄さんから頂いたお金は駄目ですよ。あれはもっと別の機会に、ですから」という水ちゃんの言葉により。えっと……。屋台の飯とか遊びとか、どのくらいだったかな……。


「そんなに心配しなくても、私たくさん食べたりしませんよ。もうちいさいときみたいに、なんでも奢ってもらいたいとも思いませんし。……ただ、奢ってもらいたい場面っていうのがあるんです」


 国道沿いの狭い歩道を進みながら、彼女は言った。後ろを歩く俺が、「それが花火大会? いったいどういう基準なんだ……」と苦笑していると、「秘密です。……そこ、曲がりましょう。道が広いですから、並んで歩けますし」と水ちゃんは言って、俺もそれに倣い静かな住宅街へと入った。


 少し歩くと、だんだんと車の音がとおくなり、やがて屋内と同じようにちいさな声でも通るようになる。水ちゃんは速度を落とし、それで俺が隣に並ぶと、こちらを見て言った。


「そういえば、まだ冬服なんですか? 六月に入りましたけど」


「ああ、いまはいちおう自由期間だな。来週から完全に夏服。めんどいからそのときに替えようと思ってさ。水ちゃんのところは、もう夏服なの?」


「ええ。といっても、長袖でも半袖でも自由だから、ブレザーを脱ぐだけ、という感じですけどね。スカートは長さも、薄手のものにするのも自由なので。ネクタイだけは、してないと不味いですが」


 と、眉をひそめた。まあ、ネクタイとか好きじゃないだろうな。体をしめつけるような服は昔から着てなかったし。いまのジャンパースカートもゆったりしてるから、着心地で選んでいる面もあるんだろう。長さは、もう昔みたいに短いのははかないみたいだけど。


「どうしました? ……この格好、変だったりしますか?」


 自転車を停めて、片手でシャツやスカートをつまみ出す。俺はすぐにかぶりを振って返した。


「いや、よく似合ってるよ。でももう、短いスカートははかないんだなって。そういうのでも、好みが変わったんだなあってさ。昔はおばさんやおばちゃんが長いのをはかせようとしても、『暑い! 動きにくい!』って嫌がってたのに。ははっ」


「……それ、幾つくらいのことですか。口ぶりだと、小学校の低学年、くらいな感じですよね。……やっぱりまだ、私についての情報がアップデートされていないみたいですね」


 とたんにかの半眼を向けてきて、俺をにらみつける。さらに自転車の前輪は、俺のそれをさえぎって進行を阻止してきたので、俺は青ざめてかぶりを振るとまくし立てた。


「ち、違う! ただ昔はそうだったなあってだけで! いまは違うから! ちゃんと変わったことは、はっきり認識してるよ……。じゃないと寝る場所の話で、びっくりするわけないじゃないか」


「……まあ、そうですね」


 水ちゃんはあっさり、進行をさえぎっていた前輪を動かして、俺を解放した。なのでほっとして再び進もうとしたが、今度は水ちゃんが止まったまま、なにやら考えていた。……な、なに?


「……晴さんは、短いほうがいいですか? スカート」


「えっ……。それは……」


 そう、言いよどんだ瞬間、たったとこちらへ近づいてきて、自転車のスタンドを出して停めた。な、長くなるの? この話……。


「一般的には、女子のスカートは短いほうがいいに決まってますよね? 男の人は。晴さんだって例に漏れず」


「や……、別にそういうわけでも。長いスカートが可愛いなあ、きれいだなあって思うこともあるし」


 俺は土曜日に見たファレイの、夜にたたずむ美しい、薄桃色のロングスカート姿を思い出す。が、それは超能力者じみた水ちゃんの前でやるべきではなかったことを理解したのは、きょうはもう何度目か、おなじみの半眼が、俺のすぐ近くで向けられていたのに気づいてからだった。


「へー……。そうですか。いろいろと、しっかり見てるんですね女子のこと。そういえば、きょうのあの人たちと、晴さんの関係のことですけど」


「わーっ! わーっ!! あのふたりは 手 品 仲 間 だから!! て・じ・な・な・か・まっ!! そう言ったろ!? ともかく服装は、【人による】ってことだよ! ちなみに俺的には、その人らしさがよく出てる服が、好きだなあ……!」


 俺も自転車のスタンドを出して停め、身振り手振りを交えて弁解する。それで水ちゃんは余計に目を鋭くしたが、やがて俺の必死さに呆れたのか、ため息をつくと、ちゃりん、とベルを鳴らす。

 それから少しの間口をつむぐ。風が通り抜けてゆき、彼女の肩ほどの髪と、長いスカートを揺らした。その揺れが収まったとき、水ちゃんは俺を見ずに、自転車のハンドルを持ったまま、つぶやいた。


「じゃあ【私】の場合は……。いま、私が昔のような、ひらひらのミニスカートをはいたら、晴さんはどう思いますか? ……その。子供っぽいとは、思いません……か」


 一瞬だけ、横目で俺を見てさっと視線を戻す。俺はその様子にしばたたき、少し笑みを漏らしたあと、ゆっくりとかぶりを振り、言った。


「思わないよ。いまの水ちゃんがはいたら、いまの水ちゃんの魅力が伝わる姿になるさ。きっと。だから見せてくれよ、今度」


 と、呼応させるように、俺もちゃりりん、とベルを鳴らした。すると今度は水ちゃんが瞬き、同じように笑みを漏らすとこちらへ向き直り、言った。


言質(げんち)、取りましたからね。【晴さんが見たい】って。……じゃあ四日間のうちの一日は、スカートを買いに行く日、ということで」


 彼女はちいさな手の、細い人差し指を立てて俺の胸を押してくる。それでとくん……と、かすかに胸の奥が鳴り、【血ではないなにか】が全身に広がっていく感じがして、俺は思わず後ずさった。


「……? 晴さん……?」


「あ、いや……なにもない! 分かったよ、楽しみにしてるから……! ってか俺も新しい服、買おうかなあ! あんま持ってなかったし、そろそろそっちにも目覚めるべきっていうか……!」


 ごまかすようにおおきく言って笑みを浮かべた。水ちゃんはわずかにいぶかしんだが、俺の服、というところのほうが興味を惹かれたのか、「夏に買うなら、秋まで着られるほうがいいですから、薄手の長袖ですね。襟つきのほうが似合うかも」と、すでに俺のものを買うシミュレーションを始めていて、それはけっきょく、俺の家に着くまで続いた。


     ◇


 それから時間が流れて、日も落ちたころ――。


 俺は次の約束である、ファレイの家に行くための服……青のジーンズに、白の長袖シャツに着替えたのち。一階に降りて、キッチンの隣にあるじいちゃんの部屋をノックした。きょうは店が休みな上、予定もないのか、ずっと家にいたようなのだが……。これはいま、【あしたのこと】を言っておけ、ってことかもしれないな……と解釈してドアを開ける。


「おー。どっか行くのか。この時間なら晩飯なしか。で、また朝帰りかぁ?」


 俺に背を向けて机に向かい、なにやら作業しながら笑って声を投げてくるじいちゃんに、「違う! だけど遅くなるかもしれないから、飯はなしで。それと、あしたのことなんだけど……」と、切り出した。


「その……。あしたちょっと、放課後、知り合いの家に泊まることになってさ。だからあさっては、学校へは、そこから行くから。そういうことで、よろしくお願いします……」


 頭を下げて言い、上げると返事を待つ。じいちゃんは背を向けたまま、作業する手を止めないまま、「どこのだれの家とも言わない、だがごまかしも、取り繕いもしないで、【行く】と言い切ってるな。よほど行くべきなんじゃろうな、【そこ】へは」とつぶやく。俺は頭をかいて、「……まあ、遊びじゃないからさ。ちょっとうまく説明できなくて、申し訳ないんだけど」と声がちいさくなる。するとじいちゃんはお手製の椅子をまわして、老眼鏡を机に置き、こちらへ向き直った。


「……だんだんと、親に言えないことも増えていく。それはふつうだ。それをごまかすのがいいか、お前みたく馬鹿正直に『言えない』と『言う』のがいいのかは、なんとも言えん。だがこの【ふたつだけ】は言っておく。これからどんなときでも、決して【親に迷惑をかけることをためらうな】。そして、【欲望に嘘をつくな】」


 じいちゃんは立ち上がると、突っ立つ俺の、雑な着こなしをしたシャツのシワを伸ばし、襟を整え、髪の毛に軽く手を入れると「ワックスくらい使わんかい……」と呆れ顔で言ったのち、また腰をおろして続けた。


「お前はガキのころから、ひとりで抱えこむ癖があるからな。なのではっきりと伝えておく。さいしょのはワシが後悔する。ふたつめのはお前が後悔する。だから親孝行したけりゃ、両方、よく覚えておけよ。……以上。さ、さっさと行ってこい。待たせていい相手じゃ、ないんだろう? シワシワじゃが、ダチとそこらへ出るような服じゃ、ないもんなあ」


 にやにやしたのち、俺の反論を無視するように椅子をまわしてまた背を向ける。俺はため息をついて、ふとじいちゃんの手元をのぞき込むが、俺の丸い置時計を直していた。


「それ、まだ直らないのか? 難しいなら、別にもう……」


「ばーか。とっくに直してるわ。いまはスーパーパワーアップ! の最中なんだよ。もう二度と、時が止まることがないようにな……」


 そう言ったきり、もうじいちゃんは振り返ることはなかったので、俺は「……ありがとうな。行ってきます」とだけ声をかけて、部屋をあとにした。


     ◇


 家を出た俺はコンビニに寄ったのち、以前、ファレイの家に行ったときと同じように、まず神社を目指した。果たしてたどり着くと、びりっ! という魔力の刺激を感じて、以後はそこから、結界のトンネルをくぐっていけばすぐに着いた。


 直接アパートまで行くので、神社まで出迎える必要はないと、あらかじめ電話していたので、道中ファレイと会うことはなかった。……で。着いたのはいいが、【あしたのこと】を、どう話したらいいものやら。じいちゃんみたくすべてを察してくれるような感じでは、100%ないからなあ……。


 ひとりでうなりつつ、アパートの階段をのぼって、ファレイの部屋へ。日曜に鍵を入れた赤いポストを横目で見たのち、ゆっくりとチャイムを押す。するとピン、ポーン……と鳴り終わると同時に古い引き戸か開かれて、笑顔のファレイが顔を出した。


「――……お待ちしておりましたっ! さ、どうぞお上がり下さい……!」


 と、彼女は身にまとった、上品な藍色ワンピースの長めの裾をふわりと揺らすほどに頭を下げて、身を起こすや否や玄関へおりて外へ出て、そこから俺を押し入れるようにして入室を促し、さっさと引き戸に鍵をかける。その流れるような一連の動作に俺は唖然としつつも、圧に負けて部屋へ上がり、キッチンを通り抜けて居間へ。以前と同じような、きちんと整頓された六畳ほどの和室には、窓から穏やかな風が流れ込み、チェストの上に活けられた紅いサツキがかすかに揺れていた。


「すぐにお茶の支度をいたしますので、少々お待ち下さいませ……!」


 そう、キッチンから顔を出したファレイに、俺は、「これ、安いので悪いんだけど、クッキー買ってきたから。いっしょに食べよう」とビニール袋を差し出した。ファレイはぱあっ、といよいよ表情かおを明るくして、「……ありがとうございます! では、こちらもお出しいたしますね!」とそれを受け取り、歌手並みの鼻歌交じりで奥へと消えた。……ふつうにお茶請けを持ってきただけなのに、なんか頼みごとをするために差し出した、みたいになったような。ま、まあいいか……。


 やがて七時を十分ほど過ぎたころ。俺とファレイは、すっかりお茶の準備が整った座卓に向き合っていた。ファレイはさっきまでとは違ってこちこちに緊張していたが、「じゃあ、頂こうか……」と俺が口をつけて、「……うん。めちゃめちゃ美味い。前より美味い」と告げてようやく、「あっ……!! ありがとうございますっ!!!」と石化が解ける。自分もカップに口をつけ、それからきょうはどのような点に気をつけてお茶の用意をしたかを、満面の笑みで話し始めた。


 それを俺は、ファレイが上品な皿に盛りつけてくれたクッキーと、彼女のほうで用意した高級チョコレートを交互に食べながら、静かに聞いていた。ファレイの話はきょうの準備だけでなく、人間界こっちにある紅茶では、どれが美味しいか、また、お菓子はどういったものが合うのかなど、熱っぽく、多岐にわたっていたが……。十五分を過ぎたところで、俺が相槌をうつばかりでひとことも話さない様子に、とうとうなにかを感じ取って、トーンを少しずつ落としてゆく。そうして完全に静寂が訪れたとき、俺は紅茶で喉を潤してから、言った。


「きょうここへ来た用事、話っていうのは、分かってると思うけどあしたのことだ。ルイの家に泊まること。弟子としての、修行を始めるっていうことについて。たぶんもう、ルイからいろいろ言われたと思うが……」


「は、はい……。『お前は絶対に来るな。邪魔だ』と。何度も、しつこく……。し、しかしセイラル様! あの者、ほんとうに大丈夫なのでしょうか!?」


 ファレイは座卓に手をついて身を乗り出した。甘い、しかしきゅっと喉の奥がしまるような不思議な香りが鼻をくすぐる。そんな香りをさらに広げるように、彼女は長い前髪を揺らして続ける。


「セイラル様は、魔法界でひとりしかおられない【クラス0Sゼロエス】、【魔神】と呼ばれ畏怖される、最高位の魔術士なのです。いかにいま、記憶を失っているとはいえ、そんな御方に、あのようなよく分からない……なによりクラスSにも満たない魔術士が、こともあろうに指南するだなんて……! 【元のセイラル様】に戻る際への弊害とはなりませんでしょうか……!!」


 先ほどまでの、紅茶話の際とは180度違う興奮をもって、ファレイは俺へと訴える。俺はじっとこちらをのぞき込む、大人と子供が入り混じった表情かおをした彼女を、諭すように言った。


「確かに彼女とは会って日が浅く、よく理解しているわけじゃないけど、俺の感覚では悪い人とは思えない。先のロドリーとの件だって【仕事】だったわけだし。……ともあれこれは、俺には必要な【機会】なんだ。お前とはやや違う意見になるが、セイラルの記憶を取り戻すための」


 ファレイは目を見開いて、わずかに揺らしたのち、いっそうこちらをのぞき込む。俺はそのまま続ける。


「お前ももう気づいているとは思うが、俺の魔力が上がっている。まだ50ちょいらしいけど、さいしょの5に満たないときからすると10倍以上だ。たぶん、お前と会ってから魔術士との接触が増えて、戦いをも目にして、俺の奥が揺さぶられ始めているんだと思う。その証拠に、過去の夢を見ることも増えてきた。もっとも、起きたらほとんど忘れてるんだが」


「ゆ……夢とは!? 忘れている……ほとんど!? で、では少しは、覚えていらっしゃる、ということですか!?」


「ああ。だが【これ】については、まだ話す段階じゃない、と俺は思っている」


 聞いた途端、がっくりとするファレイに申し訳なさを感じながら、俺はまたカップを口につける。……俺がいまでもはっきりと覚えているのは、あの【青い髪の女】のことだけだ。しかしあの女が、俺とどういう関係なのか。まったく分からない以上はファレイに話すべきではない、と俺の直感が言っている。


 昔のファレイのことは、夢というよりも、彼女が酒で寝落ちした朝に、この部屋に隠されていた写真で見たあの幼い姿を知っているが、盗み見したわけだからな。話すわけにもいかない。ファレイのほうも、【セイラルおれ】の私的なことを【緑川晴おれ】に話すなと言われているわけだから。……いまは聞くべきじゃないだろう。


「ともかく。これから戦いの場に出くわすことも増えるだろうし、そういう意味をも含めて、【緑川晴おれ】の生活を守るためにも――魔術士の修行をすることは、避けて通れないと思っているんだ。それがいま、あの人に、というのは俺の判断になるが、間違ってはいないと思う。カンでは。もし間違いであったなら……、それはその時考えるさ」


 今度はチョコを口に放り入れる。ファレイは座卓に手をついたままうなだれていたが、チョコが溶けたころに顔を上げて、口をもごもごさせてから言った。


「わ、分かりました……。セイラル様がそう仰られるのならば、【あなたのカン】がそう伝えておられるのであれば――。修行については、もう私が申すことはなにもございません。……で、ですけれど! 【泊まり】というのはっ!! あ、あまりに不健全ではありませんでしょうかっ!!」


 さっきよりも身を乗り出し、顔を赤くして、座卓に爪を立てる。みしっ……! という嫌な音が耳を伝い、俺は座卓を見る。すると、ファレイの指先が座卓にめり込んでいた。


「おい待てっ! 机がっ! 力……っていうか魔力か!? ともかくやめろっ!! 座卓が割れる……紅茶がひっくり返るぞ!」


「いいえお聞き下さいませっ!! きょう、しつこいあの者の話をうんざりするほど聞きましたがっ!! あの女……、ルイ・ハガーはセイラル様のことを「ほんの子供だ」「興味ない」と言いながら、言葉のあとに、【いまは】【いまはな】【まあ、いまのところはな】……などと常々付け足していたのですっ!! そもそも、セイラル様に対しても直接、『お前を私のトリコにしてやる』などとふざけた路傍ろぼうのゴミ以下の戯言ざれごとをほざいていたじゃあありませんかっ!! あんな者、【ほんとうのセイラル様】であるならば、足元にも及ばぬ相手ですけれど、もしあの女が、力づくで【いまのセイラル様】へよからぬことを迫ったのならば……!!! あああああああああああ考えただけでも……――やはりいまのうちに殺しておくべきだっ!!!!」


 次の瞬間、ファレイは銀色に発光して立ち上がり、開いた窓の敷居をまたごうと脚を持ち上げたので俺はとっさにワンピースの裾をつかみ、「わーーーーーーーーーーーーーーー馬鹿っ!!! なにを考えてるんだやめろーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」と叫んで部屋の中へ引きずり戻す。ファレイは俺に羽交い絞めにされてもなお、「しっ、しかしセイラル様!! これは可能性としてはあり得ることなのですよっ!? あなたはもう少しっ!! ご自身の魅力にお気づきになるべきですっ!!」とわめいていた。……その台詞、そっくりそのまま返したいわっ!! ほんとうにコイツは、セイラルおれのことになったらとたんに……。やはり【こう】するしかないのか……。


「……いーかファレイっ! 俺は予定通り、話した通りの理由で泊まりの修行を受けるっ! お前は自宅待機でそれについてこないこと! これは【 命 令 】だっ!! ……分かったな!?」 


「あっ……!! そっ、そんな……!!」


 見るも哀れに青ざめて、だんだんと力が抜けてゆき、発光が収まってゆく。そうして軟体動物よろしくぐにゃり……俺から離れて畳に崩れ落ちて、うっ、ううっ……! と嗚咽を漏らし始めた。お、俺が悪者みたいになってる……!


「あっ、あのなあ……! お前は考えすぎだっつーの! 俺の魅力うんたらもそうだけど、ルイが俺を襲うって……。ありえなさすぎるだろ。そもそも万が一、もしそんなことになったらさすがに助けを呼ぶわ。これでお前が、俺の危機を感じたら、来てくれたらいいよ……」


 俺は力なく、胸元から十字架のネックレスを引き上げて見せる。それは前にファレイから譲り受けた、俺の内側に眠る膨大な魔力が生命いのちの危機によって高まった際に、その変化を即座にファレイに知らせるという道具……魔具まぐというものだ。かつては俺が制作し、ファレイに持たせていたというものらしいが、いまは俺のほうが、これで助けに来てもらう立場となっていた。


 果たして貞操の危機=生命の危機として、魔力がそれを伝えるのかは定かでないが……。ファレイの見方だと『確実にイコール』なんだろうし。ともかく納得さえしてくれればいいよ……。


「承知いたしました!! 飛んで参りますゆえっ!! あっ、そうだ!! 近くに寝泊まりしていたら即座に……、あの者の家はどの辺りに……」


「【自 宅 待 機】 だからな!? 近くで野宿とか絶対にやめろよ!? これも【 命 令 】 だっ!!」


「そっ、そんな……っ!!!!」


 二度目のそんな!! を発したファレイはがっくりとうなだれて、今度は軟体動物というよりも液体に近い様子で畳に崩れ落ちた。マジに魔具、そっちでも反応するのかよ。……まあ、もともとファレイ用に【セイラルおれ】が作ったのだとしたら納得もできるか。だとしたら、いつか記憶を思い出したとき。いま俺がつけているこの状況を、【未来の俺】はどう思うんだろうな……。


     ◇


「……えっ~と、まあ、説明できないがいろいろあって、なんとかファレイは説得したから。あしたの放課後すぐに行くよ。ところで家はどこにあるんだ?」


≪お前の学校からは、けっこうあるな。迎えに行くから蛍川(ほたるがわ)の駅前で待っていろ。ところで食べたいものは決まったのか?≫


「……チーズカレーかな。しいて言えばそれが好物だから、お願いできるかな。あと、一回家に帰ってから行くつもりだから、駅には夕方の五時で頼む」


≪分かった。じゃああした、その時間に駅の改札前で。だが手ぶらでいいぞ。着替えとかもいっさい不要だ。服は兄者のがあるからな。下着は新品を用意する。じゃあな≫


 こうして、ルイとの電話による打ち合わせは、ものの三分で終了した。


 しかしファレイが変なことを言うから、下着って言葉に変な想像を……。いや、ないだろ流石に。それとも人間とリフィナーは、その辺の感覚も違うものなのか……?


 ファレイのアパートから少し離れた、ちいさな公園の街灯下のベンチにて。俺はひとりぶるっと震えて腕を抱く。それから、買っておいた卵サンドとメロンパン、それにコーラを袋から取り出して、遅い夕飯を食べ始めた。


 部屋を訪れた時間的にもぴったりだったし、ファレイもそんな期待をしていたのかもしれないが、けっきょく夕飯をいっしょに食べることはせず、お茶だけに留めて俺は部屋を出た。そもそも、部屋に上がることすらはじめは考えていなかったんだからな。アイツはルイとの泊まりのことばかり警戒して、自分とのことは、まったく警戒心も、危機感もないんだから……。【セイラル様】のことで頭がいっぱいすぎて。そう、アイツの慕う、大好きな、元の、ほんとうの――……。


     ◇


――【元のセイラル様】に戻る際への弊害とはなりませんでしょうか……!! ――


――【ほんとうのセイラル様】であるならば、足元にも及ばぬ相手ですけれど――


     ◇


 ……もしいつの日か、俺の記憶が戻ったとき。

 いまの俺の記憶……【緑川晴】として生きてきた記憶は、人格は、いったいどうなるんだろうか。


 もしや、【元のセイラルおれ】の記憶、精神によってかき消されるのか?

 それが【ほんとうのセイラルおれ】に戻るということなのか?

 それとも……。混ざり合ってひとつになるのか? 混ざり合わず、元のセイラルおれを主体として加えられるのか? それとも……――。


     ◇


――そうそう。そんなふうな、いまいち頼りなさげな感じこそ【晴さん】です―― 


     ◇


 今度は胸の奥から、水ちゃんの声が響いてくる。


 俺は、彼女の細い指で突かれた箇所に手を触れて、そのままぎゅっと学ランをつかむ。……そうだ。少なくとも、いまの俺は……。情けなく、不安がり、公園でひとりメロンパンを食っているような俺は……【緑川晴】だ。


 そしてかのセイラルが、ファレイが熱く語るように、魔法界において最も偉大な魔術士で、どれほど強大な男であったとしても……。この時間もその地続きということだ。……そうさ。


「……現在(いま)の時間は、【おまけ】なんかじゃない――……」


 俺は【緑川晴(いまのじぶん)】に言い聞かせるように、【セイラル(かこのじぶん)】に届かせるように、胸をつかんだままそう言って、やがて手を離すとコーラを一気に飲み干した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 と言いますか、58話を途中まで読んではまた最初から読むという、あんまり急いで読まない進捗状態です。 水ちゃんとの会話ー夏休みに彼女の実家へ泊まりにいく計画ーから一度家…
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