第49話 日曜の朝に、二回
口の中がねばつく。唾が喉におりていかない。俺は咳をして目を開けた。
薄暗い視界にはちいさなチェスト、その上に置かれた青い花瓶、1輪の白い花というふうに、見慣れないものが映っていた。
俺は瞬きしたのち、いよいよ目を見開いて、それでも変わらぬ薄暗さと、消えずにいる家具や花から、いま自分が夢の中ではなく、灯りが消えた部屋にいることを理解した。
そして、さっきまで座ったまま寝ていたことも。
背中の痛みに顔をしかめて振り返るとベッドがあった。どうもここへもたれたまま寝落ちしたようだ。これなら床で寝たほうがマシだったんじゃないだろうか、とため息をつくが、ふとそのまま、白い掛布団のふくらみに気づいて思わず声を漏らす。それはかすかな呼吸音とともに上下していた。
「……マジ、か……」
その声が虚空へ呑まれてから、ようやく俺は、昨晩酔いつぶれたファレイをここへ運んで寝かせたことを思い出した。
「……う、ううん……」
寝返りを打ったファレイの口の端から、よだれが垂れていた。そんなクールビューティのかけらもない、小学生のような寝顔を見ながら、俺は寝落ちする前のことを考えるが、霧がかかったように思い出せない。というより、思い出そうとすると頭が痛くなる。まるで『ここへは入るな』と言わんばかりに。俺はまたベッドにもたれかかった。
たぶん昨晩も、セイラルに関することをなにか思い出したんだろう。そして例のごとく忘れ去った。毎度のこれが、自分のことを思い出させないようにするための、過去のセイラルの【処置】なのか、それとも緑川晴が緑川晴でいるための、セイラルの記憶に浸食されないための【抵抗】なのか。そのどちらもか。いずれにせよ、【セイラルの記憶を取り戻したい俺】にとっては邪魔でしかない。思い出す回数も増えてきたことだし、そろそろ対策しないといけないな。たとえばどこかに書き記すとか。
俺はスマホを取り出しメモ帳を開き、『セイラルに関すること』とタイトルをつけて保存する。そのあとに、過去に思い出したことで唯一、消えずにとどめたものを書き込んだ。【藍のマントをまとった、長い青髪の女】と。
もしかしたら、これもまた昨晩思い出したのかもしれない。それは覚えていないが、以前はきそうになりながらもこの手につかみ、いまもたったひとつだけ忘れずにいる【これ】は――。きっと【セイラル】と【緑川晴】を結ぶ鍵となるはずだ。……念のため、紙にも書いておくか。
そう思い、メモ紙でも探そうとスマホから目を離した瞬間、着信があったことに気づいて顔がゆがむ。そういえば寝落ちしたため、家になにも連絡していなかった……。
果たして電話はじいちゃんからのもので、昨晩の23時2分に一回。きのうは仕事関連の用事があって遅くなると言っていたので、その時間に帰ってすぐ、だれもいない家を見て……という感じか。
いちおう俺も外で飯を食うとは伝えていたが、よもや夜の11時を過ぎても帰っていないとは思ってなかっただろうし、そのまま俺の帰宅も、連絡もないのにもかかわらず、着信がこの一回だけというのが気になる。
俺はいままで無断外泊などしたことはないし、昼夜問わずじいちゃんからの電話やメールを無視したこともない。もう高校二年にもなったのだから、そういうこともあるさ、ということなのかもしれないが。ともあれもう朝の6時。すぐには帰れないし、連絡しないわけにはいかないよな……。
俺は額を押さえて言い訳を考えるが、間もなくスマホは音楽を響かせた。奏者はとうぜんのようにじいちゃんで、やむなく俺は断頭台に向かう罪人の面持ちで、咳払いをしてから電話に出る。
「……。はい。俺です」
《おー、わしです。いま、どんな塩梅だ?》
いつもの、軽やかなイケ渋ボイスに怒りはない。俺はゆっくりと息をはいてから答えた。
「えーっと。ちょうど起きたとこ。ちょっと事情があって連絡が遅れました。ごめん……」
《おう。まあ無事ならいい。次からはちゃんと連絡入れろよ。もう帰ってくるのか?》
「え、えーっと……。もうちょっと、かかる、かな。いろいろやることがあるというか……」
俺はファレイに目を向ける。彼女はむにゃむにゃ口を動かしたあと、「……ひへっ」と笑い、また寝息を立て始めた。起こすと土下座百連発とか、100%ややこしいことになるから黙って出て行くのが賢明だが、問題はどうやって出るかだ。鍵をかけなきゃ不味いしな……。
《そうか。朝は食ってくるのか?》
「あ、いや……。帰って食うけど、先に食べてて。あ、俺の分は自分で作るから……」
と返しながら、俺はなにやら居心地の悪さを感じて、かすかにテレビの音が聞こえるスマホに向かって続けた。
「あのさ。なんか、ないの? その……。『なんで帰ってこなかったんだ』……みたいな」
一瞬の沈黙で、テレビの音が高まったように感じた。しかしコーヒーをすする音がしたあと、鼻で笑う声が耳を突いた。
《なんだ~? もしかして自慢したいのかぁ? 『か、帰れなかったのは、ちょっと野暮用で……さ』みたいな。このわしに【そんなもん】を垂れるようになるたぁ、お前も偉くなったもんじゃのう。はっはっは》
「はっ……!? ち、ちがーーーーーーーーーーーーーうっ!! 【そっち系】の話じゃねーーーーーーーーーーー!! いろいろ!! いろいろあったんだよ!! 想定外のことがっ!!」
俺は必死にまくし立て、誤解を解こうとする。こ、これじゃまるで、初めての朝帰りをイキる阿呆みたいじゃねーーーーーーーかっ!! しかも若い時からいまに至るまで、モテ男と名高いじいちゃん相手に……っ!! や、やめろぉーーーーーーーーーーーーーーっ!!!
と、全身が羞恥で爆発するような心の声を多分に含んだ弁明を繰り広げること2分。じいちゃんは心底うるさそうに分かった! 分かった! と言ってから、《しかしお前、ガールフレンドのひとりくらいは、マジにそろそろ作れや。彼女、とはいかなくとも、お茶でも飯でも誘えるような。楽しいもんだぞ》といつものからかい声で刺してきた。それで俺は必死に、「おっ、めっ……! 俺だっていっしょに飯を食う女子くらいいるわーーーーーーーーーーーーっ!!」と反論する。そもそもじっさい、昨晩ファレイと飲み食いしてるし! 和井津せ……ロドリーにも飲みに誘われたし! それ以外だって……えっとそう……あした! 月曜に横岸と! それにしばらく先だが、ルイさ……、ルイともっ!!
ま、まあファレイとロドリーはセイラルの従者で、横岸は友達どころかまったく親しくない、カーストトップという別世界の人間で、ルイはきょ……きのう会ったばかりの、異世界の魔術士だが。と、友達ではなくとも、皆女子で、いちおういっしょに食べたり、飲みや飯の約束をしたことには変わりは……。
と、その関係性が、どう考えてもじいちゃん言う『女友達』とはかけ離れている事実に気づかされ、俺は沈黙する。じいちゃんはそんな様子に、やれやれ……とおおきく息をはいたのち、続けた。
《……ま。【成長することばかりが、いいことでもない】ってことかの。いつまでもそういうわけにもいかんのだろうが。わしは、お前の変わらぬガキっぷりに感謝するよ。……神にな》
「……はあ? なに言ってんだ、無神論者のくせに……。あ、あと俺だっていつまでもガキじゃねーんだからなっ!」
《おうおう。早くガールフレンドを紹介しろよ、いっしょに暮せている間に。……それと、理由をきかないのはな、お前の声が【まとも】だったからだよ。なんか隠してはいるが、やましい感じじゃないし、なによりそれは【わしが心配するようなもの】じゃなかった。それだけさ》
「……? よく分かんないけど、信用されてるってことか? 俺……」
「ばーか。わしができた【親】ってことだよ。まーだわしの偉大さが理解できてないようじゃなぁ、この馬鹿息子は……」
じいちゃんはそう言って、コーヒーをすすった。俺は思わず文句のひとつでも言い返そうとしたが、やめた。《せ~いのせの字はどう書くの~♪》などと、晴の替え歌を口ずさみ始めたからだ。……不味い。ここで半端な反論をすれば、俺の幼少期からの黒歴史を持ち出されるパターンに……! こ、これ以上の被害は冗談じゃねーっつーの!
「あーもーいいや! そういうこ・と・で! ……じゃああれなんだな! 電話を一回しかしなかったのも、【できた親】だったってことで!」
《ん? ああ……。それは【できた親じゃなかった】からじゃな》
「……はっ?」
《『まー大丈夫じゃろ。もうチビでもなし』って。そのまま寝た。昨夜は疲れてたからなあ。ははっ》
「……こっ……!! このぉく・そ・じじぃーーーーーーーーーーがっ!! ももももーし今後っ!! 俺が拉致監禁されてゴートゥーヘヴンしたら真っ先に神様に名前を出してやるからなーーーーーーーーー無論悪い意味でっ!! 覚悟しとけっ!!」
《おー、するする。……あっ、パンが焼けた。じゃあな、拉致監禁されなかったラッキー息子よ。帰りにアイス買ってきてなー。『ガリゴリすぺしゃる君』。んちゅ❤》
電話が切れた。俺はわなわなと震える手でスマホをしばらく見つめていたが、「セイラル……! しゃまあ……」という声で正気に返る。しまっ……! つい大声を……! お、起きた……のか?
恐々(こわごわ)と振り返り、ファレイの顔をのぞきこむが、相変わらずよだれを垂らしたまま目を閉じている。セ、セーフ……。よ、よし。のろのろしてたらほんとうに起きる。その前になんとかして、鍵を探さないと……!
俺はスマホをしまい寝室を見まわした。ちいさなチェストの右隣り、ぼんやりと明るむ窓際に勉強机がひとつあった。きれいに整頓されており、卓上には本棚とペン立てのみで、鍵らしきものは見当たらない。だが引き出しにはあるかもしれない。急がば回れ。まずチェストを見て、次にこれ。……順にひとつずつ見ていくか。
どうも家捜しみたい……というかそのもので申し訳ないのだが、もう事態がややこしくなる云々以前に、こんな幸せそうな表情をしているのを見ると、そのままにしてあげたくなったのだ。起こしたら、真っ青になるに決まってるのだから。鍵をみつけたら、ささっとおにぎりと卵焼きでも作ってその詫びとさせてもらおう。
俺はさっそくチェストへ近づくと、すぐ一段目の引き出しを開ける。が、白やピンクの下着らしきものが目に映り即閉めた。……寝室のチェストってそうだよねーふつうに考えてっ!! 馬鹿だよねえー俺っ!! 馬鹿なだけで、家捜し変態野郎じゃないよなー!! なっ!? 俺っ……。
己の阿呆さに心で泣きながら、勉強机へ。手早く引き出しを開け、ノート類や本や文房具、小物等は確認したがここにもない。……居間を見てみるか。
そう息をついて寝室を出ようとする際、チェストの上に置かれた花瓶の裏に、きらりと光るものが見えた。のぞき込むと、胴の真ん中あたりが一部フックのようになっていて、そこに鍵がかかっていた。……まさかこんなところにあるとは。たぶんこれが家の鍵だよな。ほかのをこんな隠すようにかけないだろうし。よ、よかった……。
俺は鍵に手を伸ばす。が、そのとき――。今度はチェストの裏に、なにか貼りつけてあることに気づいた。白い、紙のような……。なんだこれは。
端をつまんでひっぱると、かんたんにはがれた。短いセロテープで一辺のみとめられていたその硬めの紙は真っ白で、なにも書かれていない。俺は訝り、なんとはなしにひっくり返す。するとそこに、人の姿が写っていた。
どこかの、緑あふれた庭が広がる、おおきな屋敷の前で。
にこやかな笑みを浮かべる、凄みのある男と。
呆れ顔の、丸い眼鏡をかけたメイド服の女性と。
そのふたりの間に、いやいやとでもいうふうに……。
ふてくされて横を向く、メイド服を【着せられた】感丸出しの――。
……髪の短い、ちいさな女の子が。
俺は目を見開いたまま、数秒それを凝視した。男に見覚えがあったからだ。
俺のように硬そうな、俺より長めの黒髪。
俺と同じく主張しない鼻、端の少し上がった口。同様にやや垂れた目と、そんな目の右側には、泣きぼくろがふたつ。
そして俺とはかけ離れた、戦場を幾つもくぐり抜けてきたような、痛みと、陰と、生の深みがあふれた男の面構え。
忘れようにも忘れられない、一週間ほど前の、俺の誕生日に【出会った】――……。
緑川晴の過去――【魔神セイラル・マーリィ】そのものだった。
◇
目玉と指が震えて写真がぶれる。俺は瞬きと深呼吸と、反対の手で手首を押さえることで、それらを制止した。
そしていま一度、写真をじっくりのぞき込む。
写真の中のセイラルは、その笑顔のまま、とてもリラックスしていた。
いっしょに映っている丸眼鏡の女性は、艶やかな緑の長髪をひとつに束ねて、セイラルとは少し間を空け、やはり呆れたように、美しい切れ長の目を半眼にして、ぶつくさ文句でも言いたげな表情で突っ立っていた。
その格好のまま屋敷のメイドか、もしくはファレイと同じく【従者】なのか。態度は不遜であるし、セイラルを主としているかどうかは分からないが、ふたりの間に流れている温かな空気から、彼女がセイラルと親しい間柄であることは伝わってきた。……そして――。
俺の目は自然に、ふたりの間にいるちびっ子にスライドする。……間違いない。面影がある。雰囲気はぜんぜん違うけれど……。この子は昔のファレイだ。
手のつけられない悪ガキの表情。いまとは異なりセイラルに対して一ミリも敬意がなく、なついていないのがありありと伝わってくるものの、幼いながらすでに整いつつある目鼻立ちのバランスと、存在感の強さが同じだった。この子がのちのち、なぜ『セイラル様っ!』になったのかは皆目見当つかないが……。
俺はセイラルに目を戻す。その微笑は、悪ガキだったろうちいさなファレイと、同じく不遜な態度を見せる眼鏡女性のふたりを、とても大事そうに包んでいた。……だから分かった。これは【家族写真】なのだと。過去のセイラルにとって。たぶん眼鏡女性にとっても。このときはそうではないだろうが、……いまのファレイにとっても。
おそらく人間界へ来たファレイには――なにより俺が記憶を失っている現状を目の当たりにしている彼女にとっては――これはいっそう大切な一枚で、いつもは額にでも入れて机やチェストに飾っているものなのだろう。だけど俺が来ることになって、俺の記憶に関することを過去のセイラルの命で話せない彼女は、いっとき隠すことにした。鍵を隠しているところとほぼ同じ場所にしているのは、ここがファレイにとって、最も安心できる隠し場所ということか……。
俺は目に焼きつけるように写真を見つめたあと、もとのように貼り直した。そして足音を立てずに寝室を出て襖をしめると、さっさとキッチンへ赴いて炊飯器のフタを開け、お詫びの朝食作りに取りかかった。
いまの【俺】の手で。せめて、とびきり美味しいものを……と。
◇
20分後。俺が部屋の外に出たときには、もう辺りの屋根屋根がまぶしく輝いていた。
幸い俺が料理を終えて、書き置きするまでファレイは夢の世界にいたままだった。よっぽど久々の酒がきいたのだろうか、ともあれ助かった。のだが……。
「……。えぇ……」
顔をしかめて漏らす。なんとアパートの古い引き戸にはドアポストがなく、鍵をかけたあとに、それを部屋の中へ放り入れる手段がないことに、いまさらながら気づいたのだ。
こうなった以上、鍵は郵便ポストに入れるしかないが、どうも心もとない。だれでも開けられるヤツだし、まだ植木鉢の下とかのほうがマシに思える。しかしそういうものはひとつもなかった。
……かわいそうだけど、もう起こしたほうがいいのかな。ドアポストがある体で書き置きしてたから、それを直すために、また部屋へ戻らないとならないし。ファレイのきょうの予定は知らないけど、あのままだと、昼過ぎまで寝てる可能性も……。
――ちゃらちゃらちゃらちゃら、ちゃん・ちゃん・ちゃん♪
「……うおっ!」
急にポケットから音楽が鳴り、俺はぎょっとする。もしかしてじいちゃんか? アイスやっぱ別にしてくれ~みたいな。……これはもう、起こせっていうことのような気がしてきた。電話している間に起きるかもしれないしな。
と、ため息をつきスマホを取り出すが、表示されているのは番号だけだった。……営業電話か? まだ朝の七時だぞ。ったくどこから番号が漏れるのか……。だーれが出るかっつーの!
眉をひそめて目を離すも、すぐにわずかな違和感を覚えて視線を戻す。……この番号、どこかで見たことがあるような……。さいきん、なにかの紙で。紙……?
俺は反対のポケットから財布を取り出した。そして差し込んでいる多数のカードに触れてゆき、最後に図書館の貸し出しカードの下に入れていた、ある一枚の紙を抜き出した。女子のイラスト入りの、薄水色の硬い紙。クラスメイトの横岸明已子からもらった名刺だ。果たしてそこには、いまスマホに表示されている番号と、そっくり同じものが明記されていた。
「……はい。緑川です」
《出るの遅いっ! ……あんたもしかして、番号の登録、まだしてないんじゃないでしょーね。ラインのほうもしてないし!》
四月に同じクラスになって六月のいまに至るまで、計一時間も話したことのないクラスメイトは、朝早くの電話でぎゃんぎゃんと、まるで十年来の友達のようにまくし立ててくる。俺はげんなりして言葉を返した。
「約束はあしただろ? それまでには登録しておくよ。……で、なんの用だ。いま取り込み中だから早くしてくれ」
《取り込み中~? こんな朝早くから? 彼女もいなくて、友達少なそうなあんたが、日曜の朝にいったいなんの【取り込み中】なのよぉー、YО!》
楽しそうに失礼な言葉を投げてくる。……決めた。さっさと追い払おう。
「うるせーな、鍵が入れられねーんだよ、鍵が! ドアポストがなくてな! とくに用がないなら切るぞ!」
《はっ? なにそれ……って。――もしかして、あんた朝帰りするトコなの!?》
俺は絶句した。なっ……、なぜいまのだけで分かる!? コイツもしかして経験者か!? 同じような状況の……。ふつうとっさに連想しないだろ。
リア充リア充とは思ってたが、とんでもねーな。やっぱり『お友達』にはなりたくねー……。
《ねえそれって、大分古いアパートとか? 植木鉢はないの》
「……ない。郵便ポストにも入れたくない。鍵がなくて、だれでも開けられるヤツだからな」
《ふーん……。相手はいないか、起こしたくないわけだよね。その相手の家に、公共料金の請求書ある? 封筒の。できれば未開封のヤツ》
「はあ? いや、分からないけど……」
そう言いながら、俺は郵便ポストを開ける。ちょうど中には、ガス代の請求書が入っていた。
「ポスト見たらあった。けど、これがどうしたんだ? さすがに勝手に開けられねーぞ」
《カッターでぎりぎり鍵が入るくらいのちいさい切れ目を入れて、そこから鍵を入れてポストに戻すの。裸でポストに入れるより安全だから。10回以上したことあるけど、一度も問題なかったし》
自信満々に言った。……10回以上したことあるって。いまさらだけど、そういうことができる相手は、実家住まいじゃなくて、ひとり暮らししてるよな。……やめた。なにも考えるな。ここはありがたく助言だけ受け取って、借りはあしたの、飯代を出すことで返そう……。
◇
その後。いったん電話を切ってから俺は部屋へ忍び足で戻り、家捜し(にやむなくなった行為)していたときに、勉強机の引き出しで見つけたカッターで、横岸の言う通り切れ目を入れたのち、書き置きを改めてから再び外へ。しずかに鍵をかけて鍵入り請求書をポスト内へ置き、無事アパートをあとにした。
そうして、ファレイが結界を張っている住宅街の狭い通りと神社を抜けて、心なしか解放感を感じたところで、また電話が鳴った。今度は『クラスメイトの横岸明已子』とはっきり名前が表示されていた。
《だ・か・らぁー、遅いってーのっ! あんた、絶対終わってすぐかける気なかったでしょ! なんなのほんんとう……。ちゃんと人と交際する気、あるーっ!?》
「さあな。あんたの交際術は、そりゃあけっこうなもんなんだろうが、俺はこれで、ちゃんと親友はできたんだよ、ふたりもな。とにかく助かった。ありがとよ」
歩きながら伝えた。すると、《……ふーん。ちゃんとお礼は言えるんだ、嫌ってる相手でも。そーゆーところは格好いいと思うわよ》と嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。嫌われてることをはっきり自覚してるのか。それでも風羽かなにかのためとはいえ、俺にちょっかいをかけて……。コイツにとっての人間関係は、好き嫌いで完結するものじゃないってことか。……まるでビジネスマンだな。
そんなことを考えつつ、俺は横岸の《あっ! そーいえばだれと一夜を過ごしたの。どーせその親友とかとだろうけど、決めつけはよくないから、いじってあげる。……だれ!》という、実に楽しそうな野次馬ボイスを必死にかわすうちに住宅街を抜ける。そして車道沿いに出て、じいちゃんのアイスを買うために、近くのコンビニを目指し始めたところで、強制的に【話題】を終わらせた。
「……はい終わりっ! しゅ~りょ~っ!! もういいからさっさと用を言えっ! じゃないとマジで切るからな! ……あしたの放課後のことか?」
《まー、そうね。っていうか、あんたいまヒマ? これから》
「帰って朝飯を食うからヒマじゃないな」
《……あんた、どんだけ私のこと嫌ってるの。そこまで嫌われてると、逆に私は、あんたへのムカつき度が少し下がってきたわ》
くっ、くっ、くっ……、今度はおかしそうに笑う。いっぽう俺は眉をひそめて、ほんとうに電話を切ろうとしたが、ちょうどそのとき、
「……あ」
「《……! あーっ!》」
という感じに、車道を挟んで向こう側のコンビニ前、駐車場からこちらを指差す女子の姿が目に入る。それはカーキのサロペットと薄水色の七分袖という、俺には見慣れぬ私服姿でスマホを握る横岸だった。加えて、
「《ぐうぜんすぎるじゃ~ん! ねえ緑川ぁ~! このままいっしょに朝ご飯! 行こーよっ! じゃないとあんたが朝帰りしたこと、うっかりクラス中に広めちゃう人が現れるかもよ~不本意ながらっ!》」
と、耳もとと道路の向こうから、同時にふざけた大声を叩き込まれて俺は硬直する。しかし通りすがりの犬を連れたおばさんに「あらまぁ、まぁ……」と笑われたことで時を取り戻し、耳まで真っ赤にして、
「……あん……――おいお前ぇーーーーーーーーーっ!! ――そこを動くな、もう喋るなあーーーーーーーーーーーーっ!!」
と叫びつつ通話を切り、10メートルほど先の横断歩道まで全速力で駆け出した。




