第39話 ふたつの魂が動き出す
髪の毛。いつものボサボサ頭をきれいにとかし、真ん中で分けておでこを見せた。
イケてるかはさておき、清潔感があるという意味で、よし。
服装。黒のパンツに白の襟シャツ。コーデは無難、というか俺の持っているヤツ&着こなしだと一歩間違えれば制服みたいだが、ともあれきちんとしているという意味で、よし。
二日間のテストが明けて、土曜――休日の朝。
俺は自室の姿見の前で、何度も身だしなみを確認したのちに、窓際にあるじいちゃん作・木造りの勉強机へと歩いて、上に置いていた鞄を持ち上げる。
持ち物。だれかとの外出用の、くたびれていない紺のワンショルダーよし。中身。財布よし。お金よし。携帯よし。そしてティッシュ、ハンカチよし。
最後のふたつは、俺的には別にいらないんだけど、たぶんきょう過ごす【ひとりめ】の子には、トイレとか、それらを使う場面になったら、「持っていますか? ……持ってないんですか?」と半眼で迫られるから。なので確認は欠かせない。
「さて、と……」
俺はひとりごち、勉強机に置かれた、こちらもじいちゃん作・丸い置き時計をちら見する。八時半か。
約束は九時、しかも家から徒歩五分の場所なのでじゅうぶん間に合う。きょうは早めに起きたからな。朝飯も余裕で食って、こうして準備も念入りにできた。うむ。……オールよし!
すべてのチェックを完璧に終えたのち、満足げに笑みを浮かべた俺はそばのベッドへ倒れ込む。そしてごろんと一回転し、天井を見上げ……、これから会う水ちゃんのことと、その後、晩に会う【彼女】のことを思い出した。
自分の間抜けが発端であるけれど、ともあれ一日に別々のふたりと予定を組む、なんてことは初めてで。しかも、あとの彼女は学校一の高嶺の花、ポーカーフェイス・ビューティと呼ばれる美少女、風羽怜花だ。
以前の俺、ただの一生徒である【緑川晴】なら考えられないことだったが、いまの俺はそうでなく、【かの花】が持つ別の表情――ファレイ・ヴィース――も知っているから。予定がかぶったのは予想外だったものの、おそらくこうしたことはこれからもあるのだろうと思う。……踏み込んでいけば、行くほどに。
俺は右手をかざして手を広げ、次に左を同じようにして並べる。晴とセイラル。いまはまだ、こうして同じように見える別物も、いつか重なり合うことがあるのだろうか。その時、俺はどうなっているのだろう。俺の見えているものは……――。
傷ひとつないふたつの手を空で握り、ゆっくりおろすと目を閉じる。きのう、あんなことがあったのに、きょうは遊びに出かけるなんて。……ファレイのほうはどうなのだろう。切り替えの早さは知ってるし、自分でも問題ないとはっきり言ってたけど、きょうのことは楽しみにしていたからな。ほんとうになにも【問題がない】のだろうか。きのう先生との【契約】を終えた直後の様子と、若干引っかかるあの表情を思い出すと少し気になる……。
◇
◇
「……おい。大丈夫か」
「……。……――えっ?」
和井津先生――ロドリー・ワイツィとの主従契約を終え、彼女と幾つかの話をして別れたあと。
上靴のままだった俺とファレイは昇降口へ戻り、靴を履き替えることにしたのだが、そのように告げあともファレイは動こうとはせずに、ぼーっと空を見つめていて。まるで俺の声によって耳栓を抜かれたかのように目を見開いた。
それから俺の足もとと自身のそれを見比べて、「……あっ! すっ、すすすすすみませんいますぐにっ!!」と駆けだそうとするが、慌てて止まり……。その後、いかにも取り作ったかのような笑みを浮かべ、「セ、セイラル様からお先に! お帰り下さい! 私は少し遅れてから学校を離れますゆえ!」と一歩下がり頭を下げる。【風羽怜花】と【緑川晴】がいっしょに帰っているところを見られると面倒ごとが増える、ということを思いめぐらすほどには、冷静になっているのか。でもいちおう、これは確認しておいたほうがいいよな……。
「あの、さ。魔術士が攻めてきたりとか、急に【契約】とか。いろいろあったあとであれなんだけど。あしたのこと。……どうする? やっぱ、さすがにそんな気分じゃ……」
その刹那――ファレイは再び目を、今度は口といっしょにおおきく開けて一度固まると、ぶんぶんとでんでん太鼓のようにかぶりを振り、はっきりと言い放った。
「――いっっ! いえいえいえいえいえいええいえっ!!!! とっ、とんでもございませんっ!! 私のほうはなにもっ!! ぜひっ!! ぜひによろしくお願いいたしますっ!! ……あっ!! もっ、もちろんセイラル様のお体の調子、ご気分が優れないのならばおやめになって下さっても……――って、ああっ!! やはり不味いですよね!? ふつうであるわけがなく……!! あああああ私はなんて身勝手なことを!! 申し訳ございませんっ!! あすのことはまた、いつの日か……」
一気にまくし立て、真っ赤な顔から真っ青な顔へ大転換、だれが見ても分かるほどにがくーっ! と肩を落としふらついた。なので俺は必死になって言葉を返す。
「……いっ、いや! 落ち着けっ! 別になにも問題ない! 俺のほうは大丈夫だからっ!! お前さえよければいいんだ……。なら予定通り、あしたの晩に。……時間は七時でいいか?」
「……!? えっ? あ、は、はいっ! で、でもあのっ……! ほ、ほんとうに……!? セ、セイラル様は……。どこも、なにも……。【ふつうなのですか】?」
顔を上げ、瞬くファレイに、俺は訝りつつ言った。
「……? いや……。俺のほうは別に。傷は治してもらったし、いつも通りだよ。じゃあ七時にな。なにかあれば連絡してくれ」
「……。は、はい……。承知いたしました。ではあすの晩に。……お待ちしております」
若干不可解な表情を見せたのち、ファレイは深々と頭を下げる。
俺はそのさまをとまどいつつ見たのち、「……またな」と言って先に食堂前から離れた。
◇
◇
いったい俺のなにを気にしていたのか、いまだに分からない。まあ聞いても答えないだろうし、問いただすのもな。そんなことよりも料理を教えることになってるんだから、そっちを気にすべきだろう。じいちゃんに教わったことはあっても、だれかに教えたことなんてないからなあ。果たしてうまくできるかどうか。
あと、晩に……か。【高嶺の花の女子】じゃなくて【従者】だと考えても、改めて思い浮かべると……なにも気にしていないというのは。……うそだ。
俺は盛大なため息をついたのち、思い切り足を振り上げ、邪念を断ち切るように反動で飛び起きる。それから、「従者、従者、アイツは従者……」と自分に言い聞かせ、前髪を両手でかき上げて頬を叩くとベッドから降りた。……とにかく、まずは水ちゃんとの外出だ。疎遠になってから初めての、昔のような時間が持てたのだから。絶対楽しいものにしないとな。
俺は深呼吸すると、勉強机の上にある置時計を持ち上げて再度盤面をのぞき込む。八時半か。よし、まだぜんぜん余裕だな。さっき見たときも八時半だっ……。
「……。……へっ?」
裏返った間抜けな声を出し、思わず盤面を二度見する。……同じ? 俺、けっこうベッドに寝転がってし、いくらなんでも、最低五分か十分は……――!
俺は目をこらして三度時計を見て、全身の血の気が引き固まった。……秒針が、まったく動いていなかったからだ。
「……――うっ!! そっ!! だろお~っ!!? んなこと前にもあったような……っ!!」
思い切り顔を引きつらせて左の袖口をまくる。しかしそこにはなにもなく、慌てて丸時計を机に置くと引き出しを開け、ペンやらクリップやら小銭やら、そのほかよく分からない小物類をかき分けて、ようやく奥から一週間ほど前――今年の誕生日に譲り受けた銀の腕時計を引っ張り出して見る。時刻は九時ジャスト。さすがに三十分も寝転がってたわけないから、これは、さいしょにちら見した時、すでに……。丸時計の秒針は止まっ……!! ――おー、まい、がぁーーーーーーーーーっ!!
そうして引き出しを閉める間もなく、ドアも開け放したまま部屋を飛び出し階段を駆け下り俺は玄関へ。靴へ足を突っ込んで必死にドアを開けようとするが、そこでパシン、と後ろ頭を叩かれる。振り向くと、眉をひそめたじいちゃんが靴ベラで俺の足を指し示した。
「……落ち着け阿呆! そんな泥だらけの靴で出かけるつもりか? それより急ぐならまず電話せんか!」
その言葉で俺は我に返り、はきかけていたのが登校用の白靴であることに気づき、わたわたして下駄箱へ手を伸ばす。そして外出用の青いスエードシューズを引っ張り出しはき替えると、ワンショルダーから携帯を抜き取って電話をかけたら……ワンコールで相手は出た。
《はい。寝坊ですか? あと何分くらいかかります?》
淡々とした声。簡潔な問いかけに俺は弁解の余地なく、ただただ短い謝罪と事実のみを伝えることにする。
「ご、ごめん。や、もう出るところだから五分後には。……じゃあまた」
《分かりました。慌てて事故を起こさないように気をつけて下さいね。側溝に落ちるとか。……では》
どっと汗が流れ出て、インナーのシャツが背中にはりついてゆく。
俺はゆっくり下駄箱を閉めて、それから白靴をきれいに並べて置いてため息をつくと、歯ぎしりしたのちに振り向いた。
「……な・ん・で。声をかけてくれなかったんですかねえ……。遅れた俺が言うのもなんだけどっ!」
半泣きする俺の逆切れに、果たして半眼になったじいちゃんは、靴ベラをくるり一回転させて肩を叩きつつ返した。
「まさに遅れたお前が言うことじゃなかろうが。そもそもいい年こいて、女の子と出かけるのにあれこれ世話を焼いて欲しいのか? ……なら次からそうしてやるがの」
「――逆切れしてっ!! 誠に申・し・訳・ございませんでした~っ! それは絶・対・なしの方向でっ! どっ、どうかよろしくお願いいたします……!」
俺は深々と頭を下げて、親からもっとも干渉されたくないことがらへの撤回をお願いする。するとまた頭を軽く叩かれて、顔を上げるとドアを示された。
「早う行け。女の子は待たせるもんじゃない。きょうはいろいろ教えてもらうんじゃな。まだ歳や見た目は幼いが、もうあの子は、【お前が面倒を見ていたちいさな子】ではない。ずっと先へと進んでおる。……おいて行かれないようにな」
そう言って、ニヤリ笑うと今度は尻をペシン! と叩かれ、俺はたたらを踏む。
それで苦笑して頭をかき、楽しそうな笑顔を向けるじいちゃんに深呼吸してから言葉を返した。
「……分かってるよ、それは。俺がいちばん。……じゃあ行ってきます」
◇
待ち合わせの半中公園は俺の家から歩いて五分、いまのように走ってなら二、三分で着くので、もう公園の入り口が見えていた。
俺は速度を落とすと早歩きになり、乱れた息を整える。そしてなんとか側溝に落ちることもなく、無事に公園名が刻まれた、地面に打ち立てられた丸太の前に来るとそれを軽くなでて公園へ入り、すぐに奥のベンチで脚をきちんと揃えて腰かける水ちゃんと目が合った。
俺は苦笑いしながら、膝丈の白いワンピース姿の彼女へ手を上げて、ちいさな砂場をよけて近づいてゆく。そうして目前へとたどり着くと一度息をはき出してから言った。
「お待たせ。……ってかごめんな。なんというか、早起きして準備してたんだけど、部屋の時計が止まってて、それで……」
「あの丸時計ですか? ……確か前も止まったとか。朝に」
水ちゃんは瞬き、少し横へずれると俺に隣を勧めた。
俺はうなずいて、彼女が空けてくれた場所へ腰をおろす。それからもたれようとしたが、水ちゃんは俺の背へ手を伸ばし、ワンショルダーをぐいと引くと俺の前へ持ってきた。
「鞄。ぺちゃんこになります。スマホにも負荷がかかりますし。……いつもやってそうですけど」
と、相変わらずの半眼を向けてくる。俺は頭をかくほかなく、あはは……とごまかすように笑ってから話題を戻した。
「えー……っと、それ、その時計ね! そうそう前も止まったんだよ。いちおうじいちゃんに言って直してもらったんだけどなあ。ガキのころから使ってるから、もしかして寿命なのかも……」
俺の部屋にあるものは、勉強机を始めとしてほとんどじいちゃんに作ってもらったものだ。
いまあちこちで、ふつうに趣味として行われているDIYのように、便利な電気工具はあまり用いずに、のこぎりで木を切り、金槌で釘を打ち……。大昔にいたような腕のいい職人よろしく精巧美麗なものを作り上げてゆく。その範囲は家具にとどまらず、先の時計のようなものや文房具なども作っていた。
ちなみにじいちゃんの本職は古書店の経営者で、過去に家具等の職人だったということも話を聞く限りはない。ほんとうに純粋な趣味らしい。……料理と同じく、もはや趣味の域を超えていると思うのだが、ともあれそんなスーパー趣味人が作り上げた見事なものも、時と使用による摩耗には耐えられないのか近頃不調が続いていた。
「寿命というなら、それを早めたのは晴さんが乱暴に扱ったからじゃないですか。昔、投げたりしたのを何度か見ましたよ。朝。目覚ましの音がうるさくて。きっといまもたまに……」
「い、いや! そんなには……! ほんとうたまにだよ!? それにだいたいベッドにだし! あれで傷んだなんてことは……」
冷や汗をかいて、右に座る水ちゃんを見やる。
彼女はやはり半眼で、「やっぱり。まだやってるんですね……。ものは大切にして下さい。とくにおじさんが作ってくれたものは、世界にひとつだけなんですから」とため息をつき、ヒザに置いていた水色のリュックから、同色カバー付きのスマホを取り出すと、なにやら操作して俺に見せる。
映し出されたのは、おそらく水ちゃんの手と……机に置かれた竹の物差しだ。三十センチの。映っている手のおおきさを見るに、これはさいきんの写真だろう。と、いうことは、この物差しの変色具合からすると、もしかして……。
「じいちゃんが作ったヤツ? これ。水ちゃんが小学校に入った時に。……まだ使ってたの?」
「はい。いまも現役ですよ。売っているものよりずっといいです。……ほんとうにおじさんはすごいです」
そう言って、一度スマホを俺から隠すと、少ししてまた見せる。
今度映っていたのは、物差しをもらって喜ぶちいさな水ちゃんと、彼女の祖母であり、俺がガキのころからお世話になっている坂木のおばちゃん(※少し若い)との、笑顔のツーショット。それをスライドさせると、次はちょっと若いじいちゃんと……小学生の時の俺。手には水ちゃんと同じ竹の三十センチ物差しを二本、二刀流のようにして構えていて、そんな俺を笑って見ているじいちゃんという構図の写真。端っこにちらっとさっきの水ちゃんが見切れてるから、同じ時のだろうな。……ということは、俺は五年か。……そういえば覚えがある。
「懐かしいなあ。これ、おばちゃんのカメラに保存してたヤツだろ? スマホに入れてるんだな」
「ええ。主にパソコンへ入れてもらったんですけど、お気に入りなのはこっちにも。……ところで、この写真で晴さんが持っている物差し二本。いまどうなりましたか?」
「……。た……ぶん、家のどこかで冬眠を……。なくしてはいない、と、思う……」
目をそらして返す。果たしておおきなため息が聞こえ、ぱたん、とスマホカバーを閉じる音が耳を突いた。俺は苦笑しながら頬を指でかき、ゆっくりと水ちゃんへと視線を戻すが、その時。ふわっ……と甘い香りが鼻をくすぐった。
「……水ちゃん。もしかして香水とかつけてる?」
「……。オーデコロンを少しだけ。……分かるんですね」
と、今度は水ちゃんが照れたように目をそらす。彼女の肩ほどまで垂れたさらさら髪は耳にかけられていて、風に吹かれて白い首をのぞかせていた。そこからふわり、苺の香りがほのかに漂っていた。
昔、香りつきのシールなんかを集めていたのは知ってたけど、香水か……。
見た目は少し背が伸びたくらいだけど、やっぱり中身はもうぜんぜん違っていて。どんどん前に進んでいってるんだろうな。まだ、化粧はしてないみたいだけど。それもきっといつか……。
「『……昔。香りつきのシールを集めてたあの子供が、いまは香水なんてつけてる』。みたいな表情してますね」
「……――えっ!?」
俺はびっくりして声を出し、それからぶんぶんかぶりを振ったが時すでに遅し。思い切り半眼になった水ちゃんは、「言っておきますけど、中一ならこれくらいふつうです。晴さんは女の子事情とか知らないでしょうから背伸びに見えるかもしれませんが。……だから、きょっ、きょうのためにわざわざつけたわけでもないですからねっ!」とまくし立て、ふいっと横を向く。耳は赤くなっていた。
……確かに、女の子事情なんてまったくの無知だが、この反応は……。水ちゃんのことに関してはわりと理解しているから、香水はともかく、【この香り】を選んだのはきょうのためで。それで俺の親のような反応で怒っているのは……はっきりと分かった。じ、じいちゃんの呆れた表情が浮かんでくる……。
俺は自身の失態に頭をかいたのち、いまやるべきことをやるために……。横を向いたままの、赤い耳と首筋をこちらへ見せたままの……十年来の幼馴染へと声をかけた。
「あー……、の。好い香りだね。可愛いと思う」
「……香りに『可愛い』っておかしいです。言う子もいないではないですけど、男の人がそういうの……」
「い、いや。水ちゃんのことだよ……。きょうは服も素敵だし、その甘い香りで、可愛さがいっそう増していると思うよ」
「……。ちょっと具体性に欠けます。もっとはっきり言って」
「……えー……っ、と。そ、その白いワンピースはカジュアルだけど、ふわっと好い感じに広がってるからさ。花模様も上品で……甘い香りと合わさって、髪が風に吹かれた時なんて、まるでどこかのお姫様みたいだ。……うん。いつも以上に可愛いし、とっても綺麗だよ」
「……お世辞の言い方まで、昔のなだめ方といっしょ。ほんとう、ぜんぜん変わらないんですね、晴さんは……」
ゆっくりとこちらへ向いて、苦笑いして俺を見る。いっぽう俺は、「えっ!? や、そ、そんなつもりは……! これはマジにお世辞じゃなく……!」とまくし立てるが、「はいはい。ありがとうございます。すごく嬉しいです」といなされる。……うっ……。ま、まあ表情は笑顔になったから、大丈夫……かな。しかしやっぱり、【俺のほうは】成長がないんだな。おいて行かれないように、か……。
「――晴さん。ちょっと動かないで」
と、声がした瞬間――パシャリ! とシャッター音が耳をついた。
そして瞬く俺の目前に彼女のスマホが……、ぽかんと口を開いて間抜けな表情をした俺と、とびきりの笑顔を見せる水ちゃんのツーショットが映し出されていた。
「……ぷっ! ひどい表情ですね……! いくら不意打ちとはいえひどいです。……これは人に見せられませんから、私だけで楽しむことにします」
そう言って嬉しそうに画面を見つめたのちに、彼女は優しく、音もたてずにカバーを閉じる。
俺は苦笑して、「……ずりぃ~よ。自分だけばっちり決めちゃってさ。俺だってもうちょっとくらいはましな顔、できるんだぜ」と息をはく。しかし水ちゃんはかぶりを振って、「たいして変わりませんよ。残念ながら」と言い放つ。……言い返したいけど、昔からあらゆる姿を知られていて、スペックを読み切られているから反論できない……! ――い、いやっ! 人間の可能性は無限……とまではいかなくとも多少はあるはず! 俺だっていまからでも、髪形とかいじったり、服とかで少しは……!
「……格好良くなんてならなくても、格好いいんだから。そのままでいいんです。……晴さんは」
「……へっ? それはどういう……」
「――……さ、そろそろ行きましょうか! まずはあなたの行きつけのスーパーですね。私も晴さんとおじさんみたいに、夢子おばあちゃんと交代で料理しますから、いろいろ知っておかないと。……だから、映画の時間までたくさん、私といっしょにいた時のあの景色も、また……。そして私が離れていた間の、あなたの見ていたものを――【あなたの世界】を私に教えて下さいね!」
俺の声へかぶせるようにまくし立て、ふわりとスカートを浮かせてベンチから離れる。そして少し頬を赤らめた彼女は笑みを見せた。……無邪気なそれは、昔と少しも変わらなくて、俺の胸の奥を温かくした。
「……【俺の世界】は、おばちゃんには怒られるヤツが多いんだけど。俺が教えたってことは内緒にしてくれよな」
そう返して、俺は彼女へ微笑み返して同じようにベンチから離れる。水ちゃんは人差し指を唇に当てて、「了解です。ふたりだけの秘密ですね」とウインクしたのち、くるりと背を向けて出口へと駆け出した。昔の元気いっぱいだった時の、あの水ちゃんのまま。俺はその姿を目の奥へ留めるようにまぶたを閉じた。
……と、その時――。
「……あっ。ごめん電話だ! ちょっと待ってて!」
すでに公園を出かかっていた水ちゃんに、俺はおおきめの声で伝える。彼女は両手を頭の上に上げて輪っかを作りそれに応える。その様子に俺は微笑を浮かべたままスマホを取り出し画面を見たが……【ロドリー】と示された文字を見て表情が変わった。
「……はい。どうしたんですか。……な、なにかありましたか……?」
少し緊張して俺は言う。きのう、和井津先生と……ロドリー・ワイツィとの【契約】を終えたあと。彼女とは【なにかあった時のために】番号を交換していたからだ。表向きは【教師と生徒】だし、しかもきのうのきょうで、いきなり世間話やらたわいないことで電話をかけてくるわけがないので、つまりはほんとうに【なにかあったのか】と。そう思い俺は身構える。
《……なにかあったと言うか、念のためにね。あなた、昨夜はちゃんとご飯は食べれた?》
淡々とした声で、先生は尋ねてくる。俺は訝しげに返した。
「はあ……。まあ。いつも通りでしたけど」
《そう。じゃあ睡眠は? 朝ご飯は? そっちもいつも通りに?》
「……ええ。そりゃあ、ぐっすりというほどではないですが、ふつうに。朝もきちんと食べました」
反応がない。俺はいよいよ訝って、ややスマホを耳から遠ざけた。……なんなんだ。飯食ったとか、よく寝たとか。心配されているというよりは、なにやら事実確認のような……。
というかこの感じは、確かきのうの別れ際のアイツ……。ファレイもだったような。【ふつうなのですか?】とか……。いったいどういうつもりでそんな……。
《やっぱり。電話しておいてよかったわ。……自覚がまったくないようだから教えておいてあげるけど。あなた。感覚がおかしくなってるわよ》
「……えっ……」
俺は喉の奥からかすれた声を漏らす。
だが先生は、ロドリーはやはり淡々と言葉を続けた。
《きのうの戦闘を見て。こっちの世界ではお目にかかれないあれを見て。……自分も死に近づくほどに痛めつけられて。なにも感じないなんてありえないのよ。【ふつうの人間は】。……血が大量に飛び、おおきく傷つき。私はあなたの目の前でお嬢ちゃんたちの体を切断した。【魔法界】では日常茶飯事だけど、【人間界】ではそんな場面に、ふつうの人間が出くわしたら、一日二日では立ち直れない。……要するに、もうすでに、あなたの魔術士としての記憶――セイラルの記憶が感覚から戻りつつあるということよ》
◇
――で、でもあのっ……! ほ、ほんとうに……!? セ、セイラル様は……――
――どこも、なにも……。【ふつうなのですか】? ――
◇
どくん! と心臓がおおきく鳴り、呼吸が早くなる。
俺は何度も唾を飲み込み、なんとか口を動かして言った。
「そ……れは。俺は……。どうしたら……」
《いえ、別に。ただ自覚はあったほうがいいと思うから伝えたの。いちおう私も【人間界】の生活が長いから。ある程度人間としての常識は身についているからね。魔術士の感覚が前に出ると、あなたの【緑川晴】としての生活に支障をきたす可能性もあるから。それは【緑川君】としては不味いでしょう? それだけよ。……では好い休日を。……――我が主》
それでぷつり、通話は切れて。俺はゆっくりとスマホを耳から離した。
そして俺は重くなった頭を上げ、公園の外へ視線をやると……。
こちらを見守っていた水ちゃんと目が合い、彼女が笑顔で手を振るのに合わせて――。笑顔を作り手を振り返した。
表向きは穏やかに、内心は必死に。いままで意識したことのないような想いで……精いっぱい。
【ふつうの人間】らしく、見えるように――……。




