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第38話 ……私は、あなたの従者で好かったと。


「【外法者ミッター】……、ですか」


 まだ日が昇り切らぬ時。長く広い廊下の最奥さいおうにある、俺の部屋の前で――。

 ハーティはいつものように長い緑髪をひとくくりにし、仕事着である丈夫な布地の、黒いロングスカートのワンピースに白のエプロンをまとった姿でそうつぶやいて。ドアの横の壁にかけていた額をおろすと音もたてずに床へ置く。

 そして俺の問いについて考えているのかいないのか、それきり無言のまま……。額のかかっていた、ほんのわずか周囲と色の違う壁を、用意していた布で拭き出し掃除しごとを始める。


 いっぽう俺は起き抜けの体に紺のズボン、そして簡素なシャツを素肌に引っかけただけの出で立ちで開けたドアへもたれたまま、催促するよう続ける。


「そうだ。お前はいままで大小の戦場で、それ以外でも幾度か接しているだろう。忌憚きたんのない意見を聞きたい。……どう思う」


 ヤツは俺のだらしのない姿にため息をつきながらも、仕方なくというふうに……こちらを見ずに答えた。


「嫌いですね。どれほどの強さであろうと尊敬できない。積極的に差別しようとは思いませんが、できれば関わりたくない存在です。……多くが思うのと同じく」


 ハーティは布を水の張ったおけへつけて、軽く揉み洗う。

 それから絞ると、それを広げて桶の持ち手へ引っかけて、白いエプロンのポケットから刺繍の入った手拭きを取り出して濡れた手をぬぐう。

 その、俺が視線を床へ落とし、無言のまま裸足でぺた、ぺたと床を踏んでいると言葉を投げてきた。


「……なぜいまごろ、改まってそんなことを? 私見については幾度か漏らしたこともあるので耳にされていると思いますし。そもそも私などよりも、よほどあなたは関わってきたでしょう。戦場で。日常で。【外法者ミッター】とは。さらには彼彼女らの存在、その魔力の特殊性に関しては、旧来よりあなたの魔術研究のテーマのひとつであったはず。いまさら一般論など……。……なにかあったのですか」


 半眼になり、丸眼鏡をくいっ……と直してこちらへ寄る。なのでやむなく、俺はぼさぼさの頭をかいて答えた。


「実は今朝、久しぶりに夢を見てな。昔の夢を。……【レミア大戦】を覚えているか?」


「……。ええ。もちろん。四十三年前、『この屋敷を守れ』と命じて私を置き去りにし、おひとりで参戦した上に一年もお戻りにならなかったあのクソいくさですね。一通の手紙すらなく、生き死にすら不明だったのにお帰りの際にはまったくふつうの表情かおで、「よう。久しぶり。腹減った飯くれ」と。……思い出すだけではらわたが煮えくり返りますが。……それがなにか?」


 半眼の度合いが強くなる。丸眼鏡はそんな目をおおうことなくずり落ちていたが、ヤツはそれをまるでないもののように無視していた。

 俺は気まずくなって顔をそむけたが、横面よこつらを針のように突き刺してくる視線に耐えかねて息をはき振り返ると、その怒りに満ちた双眸そうぼうへ丸眼鏡をかけ直してやり、続けた。


「……その大戦で、俺はある【外法者ミッター】と戦場をともにしたんだが。夢で、そいつの言葉をひとつ思い出したんだ。『私たちが生まれ来ることは、多くのリフィナーにとっては作物を食らう害虫のごとくこざかしく忌々(いまいま)しい災いでしかない』というものを。……それで改めて、お前の言う【一般的な意見】とやらを聞いてみたかったのさ。……で、どうだ。たとえばいまの言葉を聞いて、認識に変化などは」


「ありませんね。むしろ言い得て妙。そう思いました。……とくだん私は差別主義者ではないですが、先の言葉は自虐ではなく正しい自己認識だと。おそらくほとんどのリフィナーや魔術士が同様に答えると考えます」


 ハーティは、ドアをつかんでいた手を離すと桶にかけていた布を拾い上げ、額の周りの壁を拭き出して……表情かおはすっかり平静に戻っていた。

 だが逆に俺は眉をひそめて、首筋をなでるとヤツの横顔へ言った。


「……それが分からん。なぜだ。そこまで皆々が忌避きひ嫌悪する理由は? ……精霊の意志に反しているからというが、魔術士だってあまさず信心者というわけでもないだろう。半分くらいは術式を得るためにこうべを垂れているにすぎん」


「……。博識怜悧れいり、なにより師でありあるじであるあなたに【一般論】を説くのは気が引けますが。どうもその一般的な感覚を、いつまで経っても身に着けようとなさらないので恐れながら。……彼彼女らは、ありていに言って存在そのものが太陽や星に弓を引くようなものなのですよ。【精霊の意志を無視できてしまう】ということそれ自体が。ふつうそんなことは、意思があったとしても不可能でしょう? ……要は得体のしれない悪魔の使いと。そう感じてしまうのです。本能的に。魔術士ならなおのこと、自らの根源でありつつ決して届かぬ上位の精霊そんざいをあざむくようなやからには、尊敬以前に一片の親しみすら持ちようがありません」


「とどのつまりは未知への恐怖か。研究者や理解者が少ないのも、とば口にすら【立ちたくない】ということだな。お前の反応を改めて見ても、優れた魔術士ほど嫌悪感がおおきいとみえる。……やはりそれから変えるべきだろうな」


 俺は半分開いたドアへ裸足の足を差し入れる。……が、ドアを濡れた布越しにつかまれて入室を阻まれる。俺はいぶかり、障害となった弟子を見やると、ヤツは丸眼鏡を外し俺を見据えて言った。


「お待ちを。【変えるべき】とは? あなたが皆々に【外法者ミッター】への差別をやめよと啓蒙してまわるわけはなし。おそらくもっと確実性のある……――【とんでもないこと】を。……なにを考えておられるのかは分かりませんが、おやめ下さい。いかに魔神とはいえ、照らし得ぬ闇がこの世にはあるはずです。……深淵あなへ落ちますよ」


「……ハーティ。お前、ほんとうに【外法者ミッター】が精霊の意志に反していると思うか?」


「……――はっ?」


 ハーティは真顔を崩して目を見開く。

 それからしばたたき、苦笑したのちつぶやいた。


「どうやら昨夜。あの子……ファレイを従者としたことで。そのお疲れが抜けておられないようですね。……【外法者ミッター】の、あの異様な術式。己の魔力レベルをはるかに超えた恐るべき威力。あり得ぬ魔術の組み合わせ。どれを取ってもふつうの魔術士にはなし得ないことばかりです。上位の者となれば魔神あなたですら持ち得ぬ術式ものを使っているのですよ。……根拠はそれだけで十分過ぎると思いますが」


「ふつうでは持ち得ない術式を扱う。だからヤツらは生まれ持った【呪われた力】で、恐れ多くも神のごとく存在である精霊に歯向かい力を得ている。……なんていうのは実に短絡的で非論理的だ。物事には必ず根拠があり、筋の通った理屈がある。少なくとも俺の見ている世界ではな。……ゆえに俺は、【外法者ミッター】に対してある仮説を持っている。残念ながらまだそれを実証できはしないが、仮説の確信はしたよ。……お前の【一般的】な反応を見て、なおのこと」


 俺は呆然とするハーティの手から丸眼鏡を取り、再びヤツへかけ直した。

 そしてハーティの焦点が合ったところで俺は言った。


「【外法者ミッター】は精霊の意志を無視などしていない。ヤツらは【精霊そのもの】だ。なんらかの理由で太古の昔、リフィナーへと身をやつした精霊の子孫であると。俺はそう考えている。だからほかの精霊に干渉でき、我々の理解を超えた力を得ている。それを証明できれば……。それはそれで新たな問題は出てくるだろうが、少なくともいまのような扱いにはならんはずだ」


 ハーティは言葉を失い、手はドアから滑り落ちていた。俺はそんなハーティの肩を押し、ゆっくりと部屋へ入ると、シャツのボタンをとめてゆく。ほどなくして後ろからハーティが言った。


「……その突飛な発想の根底にあるものは、真実への探求心ですか。魔術研究者としての。それとも同情心ですか。リフィナーとしての。あるいは世の無知へのいら立ち? ……優しさですか。あなた個人としての。……もしくはそれらすべてか。どいうものにせよ、私には理解できないでしょうが。……聞いてもよろしいでしょうか」


 ハーティの視線が背中を叩く。

 俺はボタンをとめ終わると、ヤツに振り向き言った。


「優れた者に限らず、この世に生まれ来るすべての存在は、自らの生に屈辱を背負うべきではない。ただそう思っているだけだ。願わくば、いつの日か――それが当たり前になっているようにとな。ゆえに恐怖で目を曇らせるつもりはない。それが俺の魔術士としての、リフィナーとしての、……セイラル・マーリィとしての。……――誇りだ」


「……。……貴方は……。出会ったころからほんとうに、なにも変わらず……。おそらく、いえ、きっとこれからも――……。御意。我が生涯において、ただひとりのあるじよ……――」


 と、ハーティは一礼したのち、ほんのわずか、ちいさく苦笑いして……ドアを閉じた。


     ◇


     ◇


 紫の輝きが、ふたつ――。俺の目を照らしている。


 はるか遠くの星が、懐かしい光りを届けるように……。テーブルを挟み、こちらをずっと見つめる双眸そうぼうを見返すうちに、俺の奥で幾多の映像が流れては消える。

 それはひとつもつかむことはできずに、かすかな香りを残すのみだったが、それが先生の……、ロドリー・ワイツィのまなざしから目をそらせぬ理由となっていた。


 だが次の瞬間――。めりっ……と木の裂ける音がして俺は横を向く。

 見ると隣のファレイの指が銀の光を帯びてテーブルにめり込んでいた。


「……【秘めた目的のため】とはどういうことですか? あ、あなたはセイラル様が人間界こちらへ来られた理由わけを……、もしかして直接、なにか――なにか聞いているのですか!?」


 目を見開き立ち上がり、動揺したままロドリーへと前のめりになる。

 彼女はそれで俺から視線を外し……息をはくと黒縁眼鏡を拾いかけ直して、紫の点滅を消す。

 そして真っ赤になったファレイを見上げて返した。


「いいえ。聞いてないわね。……いま話した通り、セイラルとは昔の大戦でともに戦い、別れたきり交わりはない。だけどそう考えるほかないというだけのことよ。数日前、あなたが【セイラルからの伝言】と緑川君へ話していた、セイラルが人間界こっちで人間的な青春を過ごすため云々とかいう……例の【与太話】からするとね」


「……!? な……っ……!!」


 ファレイは顔をゆがめ、歯をかちかちと鳴らす。テーブルにめり込む指は第二関節まで達していた。

 それで俺は慌てて、ロドリー……和井津わいつ先生へ尋ねた。


「……ちょっ、ちょっと待って下さい! いまの言葉だと、あの裏山での俺たちの話を聞……見ていていたということですか? セイ……過去の俺の映像も見……」


「ええ。学校中に結界を張り巡らせているからね。そりゃあおかしな魔力反応があれば注意するわよ。それであなたが……くだんの映像のことを含めてセイラルであることを確信したわけ。まあ、風羽ふわさんがファレイ・ヴィースであることは入学した時から知っていたけどね。この子が私を認識したのはきょうが初めてでしょうけど。魔力を消していたから」


 先生はファレイを見返す。

 ファレイはわなわなと震えて下唇をかむと、テーブルから指を引き抜いて拳をにぎり……。彼女へ言った。


「盗み見、盗み聞きとは……ずいぶんと教師らしからぬ行為ですね。ですがいまの私は【風羽怜花れいか】よりも【ファレイ・ヴィース】の意識が勝っているのでそちらはどうとでも。……ただし、セイラル様が残された言葉を【与太話】などと言い放ったことは……――、それなりの根拠を示していただかないと看過できませぬ!」


 怒鳴り、にらみつけて再び迫った。

 先生はわずかに目を細めて頭をかくと、淡々とファレイへ言った。


「逆に聞くけど。あなたは魔神と呼ばれたほどの男が、ほんとうにそんな理由でなにもかも捨てると思う? 私の知る限りでも、確かに地位にも名誉にも関心がない男だったけれど……【生】には。自身の生きざまには強い矜持きょうじがあった。……私も人間界こっちの生活が長いから、別に娯楽本へ憧れたり人間界で生きることを下に見たりはしないけど、それでもあの男が第二の人生を選ぶ理由としては遠いにもほどがある。あなただって従者としてやむなくという想いが第一で、完全に信じたわけじゃないでしょうに。……と、いうよりも、呆れて怒り狂ったんじゃないの、当初は」


「……っ!! ……そ、それは……!! ――ですがセイラル様がうそをつくなどは!! そんなことは……!!」


 半ば涙を浮かべながらうつむいた。先生は息をはくと再び俺を少し見て、それからファレイへ目を戻して言った。


「まあ待ちなさい。私もあの言葉が【完全にうそ】とは思っていないわ。【与太話】ではあるけれど、少しの真実もないとは。そもそも隠したければ黙って出て行けばいいだけだしね。でもそうはせず、なんらかの言葉を残し、じっさい転生についてはその通りで、さらにはあなたに人間界こっちでのサポートを命じているということは……。それなりの考えがあってのことだと思うわ。どのみち手掛かりはあの与太ば……【建前話】にしかないから。本意を探りたければアレに乗っかるしかないでしょう」


「……。乗っかる……? ……とは……」


 ファレイは目をこすり、涙をぬぐうと訝し気に先生をのぞき込んだ。

 先生はそんなファレイに、まさに互いの外面がいめん通り、教師が生徒へ優しく話すように続けた。


「つまりセイラルの言葉のまま彼に、……緑川君に。人間らしい青春を、物語にえがかれているような素敵な恋物語へ出会わせてあげればいいんじゃないってこと。幸いにしていまの私は教師という学校関係者で、ある部活動の顧問もしているから。そうしたことの生じやすい場の提供と、多少の手助けもできるしね。とりあえずうちへ入ってみたらどうかしら。……いまどこにも所属していないわよね?」


 先生はファレイから俺へ顔を向けて聞く。俺はしばたたき、「あっ……。は、はい、それは……」とだけ反射的に答える。彼女はちいさくうなずいた。


「結構。ならそうして、新たな場で新たな友人を作り、異性と触れ合う機会を増やして……楽しい時間せいしゅんを過ごしてみるしかないんじゃない? それが【セイラル】へつながる道という確証はないけれど、いまはほかに手はないし。駄目だったらまた別の方法を考えるわ。たとえ緑川君あなたが私へ助力を求めなくともね。【セイラル】のために。……そう決めたから」


 先生は俺を……俺の奥のセイラルを見据えてそう言った。

 もう光り点滅こそしていないものの、さっきとたがわぬ強いまなざしに俺は思わずつばを飲み、テーブルに置いた手を握りしめてゆく。

 だが、そんなこちらの緊張を突き崩すように、一転明るく軽い調子で彼女は続けた。


「……ああ、ちなみにだけど。うちの部にいる男の子たちはフレンドリーだし、女の子たちはわりと可愛いから。友情なり恋情なり芽生える可能性は高いんじゃないかしら。……まあ皆、ちょっと変わっているといえば変わってるけど正真正銘しょうめいふつうの人間だから。どこかの僕ちゃんやお嬢ちゃんみたく、『悪く思わないで下さいよ』とか言って半殺しにしてきたり、『お前などセイラルではない!』とかわめいて殺しにかかってきたりしないから安心よ」


 そう言って笑う。……もしかして冗談のつもりだったのかもしれないが、ついさっきの惨状を思い出した俺には一ミリも笑うことなどできず、ただ引きっつった顔を作るほかなかった。……それに――……。


「……なにを馬鹿な。馬鹿な…………馬鹿な馬鹿な馬鹿なっ!! ……――そんなことっ!! そんな勝手に……!!」


 ……と。隣でその美しい顔を極限まで崩してテーブルへと指を立て、再びめりりっ!! と鈍い音とともに五つの穴を作り出したファレイに、背中に流れる汗の量が増え、混乱が増してゆく。

 いっぽう先生は平然としたまま、真っ赤になったファレイへ言った。


「【そんなこと】とは? 私の提案が馬鹿げているということかしら。なら対案を出さないとね。【勝手に】とも言い、【あるじ】を立て【関係者】を強調するならばなおのこと。……あなただってセイラルの記憶が戻らないままでいい、彼の本意が分からないままでいいとは思わないでしょう? 私なんかより、ずっとそばにいたんだから。……もし私があなたの立場なら馬鹿げた空論だろうと、だれの提案だろうとなんだとうと、一ミリでも可能性があるのならしがみついて、セイラルかれの奥へ近づこうと思うわ。……私ならね」


「……――っ!! ……くっ……!! ううっ……――!!」


 ファレイの顔のゆがみが強くなり、無理やり地面へ引き込まれるようにうつむき……。テーブルへめり込む指は震えていた。


 ……数日前。ファレイといっしょにセイラルの残した映像を見た時に、彼女は怒りや呆れの含んだ表情かおを見せていた。

 つまりは先生の言うように、従者としてはあるじの言葉を尊重し、それに従ってはいるが、本心では……。【与太話】とまではいかなくとも、完全に承諾しかねる気持ちがあったに違いない。セイラルヤツが冗談のような言葉を残して消えてしまったことに。……あれほどセイラルヤツを慕い、心酔していたのだから。


 ただ、先生はファレイが忌避する【外法者ミッター】という魔術士で、彼女的には信用が置けない存在であることと、それ以上にずっと自分が従者として仕えてきた自負が……、セイラルの過去の関係者とはいえ、従者ではない先生の言葉をすんなりとは受け入れられない理由となっているのだと思う。なら、俺のやるべきことは……――。


 もはやテーブルにつく手は力なく、ファレイは長い前髪を垂らし表情かおを隠していた。

 先生は黙ったままそんなファレイを見ていたが、やがて俺へと目を向けた。

 俺は先生の、変わらぬまっすぐな視線を受け止めたのちに目を閉じて、ちいさく息を吸い、はくと……。彼女へ向かって言った。


「……いまの話。受けようと思います。そしてあなたを従者にも。……どうやればいいんですか。契約というのは」


 隣のファレイがひゅっ……! と鋭く息を吸いこんだ。正面の先生も、平然とした表情かおを若干崩し……低く言った。


「……早い決断には感謝するけれど。いいの? 部活のことはともかく、契約のほうは。……主とはいえ、一度してしまえば……かんたんに解除できるものではないわよ」


 先生は、俺の奥を……、今度はセイラルではなく緑川晴みどりかわせいの奥をのぞき込むようにまなざしを向けてくる。

 それで俺は深呼吸して、彼女の眼鏡の奥にある瞳へ向けて言った。


「さっきまでの、あなたの話してくれたことは……。正直よく分かっていません。いまの俺はただの人間で、まったく【セイラル】として、魔術士として生きた記憶もなにもありませんから。ただ、【緑川晴】として生きた経験では――……。……あなたが過去のセイラルおれに対して、強く、真摯な想いを持っていることは分かりましたから。それにうそはないと思いました」


「……そう。まあ、【セイラル】はともかく。【緑川君】には【外法者ミッター】のことは、感覚的にも分からないからね。私としては助かるけれど。少し悪い気もするわね。……その辺りにつけ込んでいる気がして」


 と、タバコを取り出して口へ含む。

 だが俺はかぶりを振って、彼女へ続けた。


「いえ。セイラルの記憶が戻る前に、さまざまな経験を経ることで……たとえ【外法者ミッター】というものが、のちのち【緑川晴】としても、どういう存在ものであるか分かったとしても。俺はあなたへの態度を変えたりはしませんし後悔もしません。……――それは恥ですから」


 先生はくわえたタバコを外す。それから苦笑して言った。


「恥とは? 格好つけたのに、害が及ぶと分かったとたん引っ込めるのは格好悪いってことかしら。……別にそんなこと気にしなくていいわよ。私はなんとも思わないし、人間界こっちのあなたの関係者だって、理解できないことなんだか……」


「……背筋を伸ばし、真摯な想いを話してくれた相手を裏切る行為は、俺だけでなく、俺を育ててくれた父の恥ともなります。それはいっさいできません。……それに、俺を主と慕ってくれているファレイにも恥をかかせることとなりますから」


 はっきりと言い放つ。先生は目を見開き、手の中のタバコを少し折り曲げる。

 ファレイは子供のように口を開けて……まぶたを震わせていた。


「……出会って数日。記憶もまったく戻らずに、ただただ一方的に主だ従者だと言っているだけの子に対して、ずいぶんと頼もしいことを言えるのね。……ちょっと意地悪したくなっちゃったな。――……あなた。そこまで言うなら態度をひるがえしたら……私の目の前で死んでくれる?」


 先生はタバコに火をつけて、瞬時に火のともるほうを俺へと差し向ける。

 俺は動こうとしたファレイを制し……、はっきりと言った。


「はい。それが俺の誇りですから。……それを汚してまで生きるつもりはありません」


 先生の、タバコを持つ手が震えて灰が落ちる。

 俺を見据える双眸そうぼうの中には、かすかに紫の光が飛び散っていた。


 やがて彼女は目を閉じると、差し向けたタバコを――火がついたまま握りつぶした。


「…………。――……ふっ。……ははっ! ……そうだった。そういえば、こういう男だったわ……。記憶喪失なんて、そんなものであの男が……。――馬鹿だった! ははははっ……!」


 おおきく笑い、しばたたく俺へタバコのハコを放り投げる。

 そして、慌てて受け止めた俺を尻目に、呆然とするファレイへ先生は言った。


「……さて。あなたはどうしたい? いちおう主の許諾は取ったけど……。従者としては先輩だし改めて。もし私が仕えることで従者をやめたいというのなら、主を説得する協力をしてあげてもいいわよ。たぶん、この男はそんなことを許すわけがないから」


 笑みを浮かべて俺を指差し、再びファレイを見る。

 ファレイはその視線を受け止めたあと深く目を閉じ……、目を開けると同時にちいさく鼻で笑い、しずかに言った。


「……やめる? 冗談はやめていただけますか。私は……――私の生きる意味はセイラル様へ仕えることのみ。それはお伝えしたはずです。あなたがなにを考えていようと、どうしようと想いも行為も変わりません。そう、いままで通り、生涯、死する瞬間まで変わることなく――……」


 言い終えて、俺へと向き直る。そのあとテーブルから離れるとヒザをつきこうべを垂れた。

 それから立ち上がると、俺の手を取って自分の胸に当てる。

 とつぜんのことに動揺する俺へ、ファレイは……微笑んで唇を動かした。


「……私は、あなたの従者で好かったと。いま改めて、心から思います。……これからなにがあっても、ずっと。それだけはどうか、お心の隅に留めておいていただけたらと。……お願いいたします」


 俺の手を両手で包み、ファレイは頭を下げる。

 俺は彼女のぬくもりと、そこから伝わる想いの強さを体の奥で受け止めて……。「分かった」と返した。


 それでファレイは、ゆっくりと顔を上げて……。花が咲くように俺を包んだ手を開き、しずかに俺から離れる。そして言った。


「……契約は。いまのように主が手を、従者とする者の胸に当てて思うだけです。【なんじ、ただ我がものとなれ】と。成功すれば、互いの魔色ましきが手と胸の間から発光します。……気持ちを落ち着けていれば失敗することはありませんので、……どうかそのように」


 ファレイはじっと俺を見て、かすかに笑みを浮かべた。

 俺はうなずいて、同じように微笑み返したのちに、先生――ロドリー・ワイツィへと向き直った。


 ロドリーは俺と目が合うと立ち上がり、一歩前へと出る。

 それから息をはくと、淡々と言った。


「……最後に。従者となったあとのことだけど。あの子のように敬語で話したほうがいい? それともいまのままのほうが。……あなたは偉ぶるような感じじゃないから、いちおうね。やりやすいほうでいいわ」


「……では、いまのままで。そのほうがあなたの奥へ近づける気がしますし。……近づきたいので」


「……。……ふっ。あなたは、ほんとうに――……」


 呆れたように笑みをこぼしたのち、ロドリーは俺の手を取った。

 そして、自身の胸へ埋め込むように強く当て……その瞬間。俺の手と彼女の胸の間から……――。


 緑と紫の光が混じり合い飛び出して――空まで届いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新&2章終了、お疲れ様です。 読んでいて、プロローグの終了を思い出したり和井津先生と丸眼鏡の慇懃無礼なメイドさん(すいません名前覚えなくて)は全くの別人なんだなと再認識しました。まだ38…
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