第31話 コンタクト
青い空。
白い雲。
かすかに揺れる初夏の緑。
……そして。
そんな平和な景色と対照的な、緊張に満ちた教室内の。
俺の机の上にある、終わりの時が差し迫ってもいまだ空欄だらけの……。
白っぽい――紙。
「はいそこまで。後ろの人は答案用紙を集めて前へ持ってきて下さい」
いつもの淡々とした和井津先生の声が、鳴り響くチャイムの音と音の間をすり抜けるように教室中へ染みわたってゆく。
それと同時にイスの引かれる音、ため息。
伸びをしながら漏れる声、等々。
この時間のみならず、たったいまより本日分の全テストから解き放たれた安堵感、および歓喜落胆の入り混じった生徒たちの息吹が古びた教室中に広がった。
で。
もちろん、果たして、予想通り。
【きょう四枚目になる、白っぽい紙】を呆然として見つめたままテストを終えた俺は……肩を落とし。
この散々たる結果により、これから訪れることがほぼ確定した、カップ麺の日々を想像し悲しみに暮れていた。
「うわっ、また白っ! ……あーあ答案は白いのにぃー、成績表は赤くなるぅー……。……ぷっ」
不愉快な声が右耳に流れ込んでくる。
見ると、四度答案集めにやってきた横岸が、俺のそれを拾い上げて噴き出していた。それで俺が横目のままにらみつけると、
「ひっとりごと~、ひとりごとぉ~。干渉してませんよ~……っと」
などとつぶやきながら前へ。もう顧みなかった。
ちなみにいまのは、【月曜、いっしょに飯に行くまでは俺にちょっかいをかけるな】と言ったことに対しての、【それを守っていますよ(いちおう)】というアピールだ。……まだふつうにいじられたほうが腹が立たないわ。……くそ。
「テストはあしたもあります。各自気をゆるめず、体調を崩さず臨むように。――以上」
和井津先生はそう言って、すでにすべて終わったような空気をかもし出す皆へ釘を刺したのち、ふだん通りの無造作にまとめたひとくくりの髪を揺らして体をドアへ向ける。
が、そのとき一瞬、分厚い黒縁眼鏡の奥から……ちらり。
無表情のままこちらを見てきたので俺は思わず目をそらした。
……それは、
◇
――テスト勉強。……一夜漬けでもいいからしておきなさい――
◇
と、きのうの朝に言われたことが蘇り……、白っぽい答案を提出したことで、なにか目で責められたように感じたからだ。
いや、することはしたんですよ? 最低、一夜漬……は。
で、でもきょうのあさにファ……風羽さんがですね、その想像斜め上の言動で俺の心と頭と一夜の勉強の記憶をミキサーのごとくかきまわし、云々。
そう、よく分からない言い訳を脳内で始めたが、果たして彼女はその声を感知することなくさっさと出て行き、俺は再びおおきく肩を落とした。
「ねーね! 風羽さんはどうだった? さっきのテスト」
「あんたさー、んなもん聞くまでもなく余裕に決まってんじゃん。……だ、だよねー風羽さん!」
「おい。余裕っていうのはなんか失礼だろ。ふ、風羽さんはそういう感じじゃなくてだな……、何事も真面目に、一生懸命に……。……ほ、ほんとう大変だったよな! ふっ、ふふ風羽さん!」
「あのっ! ぼ、僕一年のときからいっしょのクラスなんだけど! 風羽さんって平均的にいいんだよね、いつも! だからすっごいバランス感覚があると思って……」
「うわっ。なに勝手に風羽さんの点数チェックしてるわけ? きも……。しかも一年のときもいっしょだったアピールとか超うざい。私もそうだけどそんなこといちいち言わないし。……あと近づきすぎ! 風羽さんの机に体が当たってるでしょ!」
「ちっ、違っ……! ふ、風羽さんは答案が返ってきたら、毎回しばらく机の上に置きっぱなしにしてたから……! 一年のとき同じクラスだったヤツは全員知ってること……、って! キミも知ってるはずだろ? な、なあっ!」
「必死すぎるだろストーカー君。お前はもうすっこんでろよ。……そんなことより風羽さん~! 俺、あしたのテストでいまいち分からないとこあるんだよね! よかったら教えてくれない? このあとファミレスとかでさ」
「「「「はあっ!?」」」」」「あんた」「キミ」「お前」「てめー」「「「「なに言ってん」」」」「「の!?」」「だ!?」「だよっ!!」
「あしたもテストあるんだよ!? 風羽さんの貴重な時間を奪おうとするとかマジありえない……! 見た目ペラいだけじゃなくて中身もカラなの!?」
「……ぶち殺すぞチャラ男! 調子に乗ってんじゃねえっ!! ……ふ、風羽さんっ! こ、こんないい加減な男の言うことなんて聞いたら駄目だぜっ! コイツは勉強を教えてほしいんじゃないんだよ!!」
「そ、そうだそうだ! 人にストーカーとか言って、き、き、ききキミこそそうじゃないか! 汚いよ!」
「はあ? 俺のはストーカーじゃあありませ~ん。隠れてこそこそしてないし。正当なお誘いなんだよ。情けない言い訳してるひまあったら男を磨けよ僕ちゃん」
「はっ……。男を磨けって。磨いた果てにあんたが残るの? ナンパ脳もここまで行くと頭が下がるわ……。ってか引く。こーゆー顔面の皮膚が五十センチくらいありそうなヤツがあちこちでトラブル起こしてるんだろうね~。……ねー女子のみんな~! このあと風羽さんを守りながら帰ることにしない? コイツだけじゃなくて、馴れ馴れしいナンパ男がぶんぶん飛んできそうだし」
「あんたさ~……。前から思ってたけど、そうやって仕切ろうとするのやめたら? 横っちならともかくさ。あんた程度がリーダー気どりとかマジ笑える。恥ずかしくならないの? そのアクセとかもダっサいし」
「――はあっ? あんたこそなに? いっつも風羽さんの周りをちょろちょろしてるヤンキーねずみ女が。今朝だって風羽さんがちょっと優しくしたらライン交換とか家の場所とか聞き出そうとしてたし。きんもー! そんなだから彼氏に振られるんじゃん!」
「なっ……!! てめーに関係ねーだろっ!!??? マ・ジ・ム・カ信じられない……!! ――死ねよっ!!」
瀬川はそう叫ぶと同時に、ばたばたと手足を振って……立ち上がって帰ろうとする俺の進路を妨害した。
やむなく反対側から行こうとすると、今度はそんな瀬川に対抗し、同じように暴れながらキモいコールを連発する塩田に阻まれる。
テストが終って十数分。クラスの三分の一ほどはもう教室を出ていたが……。
残りは、風羽の周りで言い争っているこの男女数人を見守るように、あるいは第一線へ交ざるチャンスをうかがって。
風羽の席周辺からやや離れ、教室内のあちこちに居残り状況を見つめていた。
そして、そんな傍観組のひとり。
入り口で数人の男女とお喋りしながら風羽周りのいざこざを眺めている、うっすら茶色のショートボブ女子――横岸は。
クラスカーストトップのイケてる生徒であり、……もとい。
風羽、それになぜか俺に関心を示している女だ。
ヤツは、極めて平静に座る風羽の周りで風羽をめぐって争い続ける、ヤンキー女の瀬川や、キンキン声・吹奏楽部の塩田などの女子、そしてガタイのいいサッカー部の小川や、ちゃらちゃらナンパ男の垣爪、真面目な稲吉などの男子たちを、友達と談笑しつつ冷たい目で見ていた。
【そんなことで風羽さんに近づけるわけないのに】と。
ため息交じりに言いたげに。
それは自分も何度かトライして(無駄だと)分かっていることと……。恐らく、俺と風羽の関係を疑いだしたことがあるのだろう。
風羽の領域に足を踏み入れるためには、別のルートを見つけなければならないと。
いまこうして。帰らずにじっと【観察】しているのも、それを探る一環であるのかもしれない。
……風羽と特別なつながりがあると踏んだ、俺から目を離していないのも。
俺は横岸の視線を感じるたびに見返すが、アイツはその瞬間にひょいとかわす。
【自分が見ていることに俺が感づいていること】は気づいているが、それが証拠に残るほど……、たとえば目が合ったとか、そんなふうにはっきりばれなければいくらでも【見てない】と言い訳が立つという。
一見おちょくっているようで、じっさいは冷静に考えて、現実的にトラブルを回避しつつ、自分の目的を達成するための合理的な行動を取っていた。
昔から、じいちゃんの幅広くちょっと変わった人付き合いに、俺も巻き込まれてそれなりに人を見てきたから分かる。
あれは人間同士のいざこざに慣れたヤツ……切り抜けてきたヤツのやり口だ。
高校生離れした異様な観察眼といい、やっぱり放置しておくのはまずい。
が、しかし……。いまはこの場――。
「あぁーもぉーっ! いい加減にしなよっ! ……風羽さんが困ってるでしょう!?」
とつぜん、おおきな声がして騒ぎが止まる。
見ると、風羽を中心とした争いの輪から少し離れたところ……黒板の前からずかずかと眼鏡の女子が歩いてきた。
クラス委員の風尾だ。
「あしたもテストがあるって忘れてる? 風羽さんに迷惑がかかってるって理解してる? ……嫌われてもいいわけ?」
その物言い……とくに最後の言葉が響いたのか。
髪の毛のつかみ合いまで始めていた瀬川と塩田は血の気が引き互いに離れ、ちゃら男の垣爪に食ってかかっていたサッカー部小川、真面目な稲吉も真っ青になり、ふたりを余裕で流していた垣爪も初めて表情が変わった。
風尾も風羽や塩田、稲吉同様、俺と一年のときから同じクラスだが……。彼女はスクールカーストという言い方を用いるならば、けっして高い位置にはいない。
が、いましたように、そんな自身の立場の力によるものではない、【客観的に皆に刺さる言葉】をたまに発動し……。基本的に真面目な性格(あとでかい声)も相まって、クラス委員という役職に一年のときから就いていて、いまもそうなっていた。
風尾は皆の態度がおとなしくなったのを見届けたあと、息をはき。
短めの髪をせかせかと整えて。
そのあとすーはーと深呼吸して、風羽に言った。
「さ、テスト勉強。あると思うし。帰っちゃって! ……またあした!」
と、さっき皆を叱りつけたときとは打って変わり。
精一杯、勇気を振り絞って話しかけた、ということが一目瞭然な態度で風羽を促した。
その打算のない純朴な様子が風羽にも伝わったのか、彼女はすぐに鞄を持って立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ……。皆ごめんなさい。お先に。さようなら」
淡々と風羽は言い、周囲の塩田らに一礼し、そのまた周りの生徒たちに頭を下げる。
その【ていねいな言葉使い】と【流れるような上品な所作】に全員そろって猛烈に頭を下げ(冷静に見ていた横岸含む)……。
ただ小さな声で「さ、さよなら~」と漏らすほかなかった。
……が。
「……み、緑川君もっ、さようなら! め、め目の下にクマができているけど、あまり無理しないでね! ……またあした!」
と。
【に・に・にここっ!】。
……とでも言うような。
極度の緊張により、さっきの風尾以上に、皆へ向けてのものとは180度変わってぎこちない言葉と、妙な笑顔を俺に向けて……。風羽は教室を出て行った。
……残された俺のことなど考えることもなく。
◇
「……。そういえば。なんかそーゆー話もあったっけ。……朝」
細い目の、黒目だけを横へスライドさせたヤンキー女・瀬川が、シャギーの入った長い茶髪を払いながら俺に言う。
「付き合い? とか。ありえない話だから私はスルーしてたけど。いまの風羽さんの態度。……やっぱ聞いとく? コイツに」
そうして、突っ立つ俺の胸を軽く押してイスへ座らせる。
そのあとドスン! と自分は俺の机に腰かけて、短いスカートなのも気にせず脚を組む。
そんな様子と、こちらに向けられた目つきから。
俺など地を這うアリのようにしか見ていないということが、ありありと(洒落ではないが)伝わった。
ほとんど接点なかったけど、マジでこの女、見たまんまかよ……。
「でもさー緑川だよ? めちゃ冴えないし。親戚……っていうこともないだろうし。ってかキモい。あらゆるつながりを考えたくない」
と、自分の腕を抱きかぶりを振る塩田。
一年のときに話した際は、ここまで嫌われてなかったような気がするが……。
あんたごときが風羽さんに! っていう感じで嫌悪感がアップしたんだろうな。
……それはこっちの連中も同じなんだろうけど。
俺はげんなりした顔のまま、女子ふたりのうしろから俺をにらみつけている男子組を見やった。
そして、たまたま目があった小川は、ずいっ! と前に出てきて。
そのでかい体で天井の光を俺へ届かせぬように立ちはだかり。
ポケットに手を突っ込んだまま舌打ちし、言った。
「……で? どうよ、じっさい。緑……川。風羽さんは【親しくお付き合いさせてもらってる】と言ってたが。……そりゃどういう意味なんだ?」
浅黒い顔を傾けて、明らかに威圧するように問いかける。
俺は頭をかきつつ、息をはき、ちいさく返した。
「……だから、【ネット友達】だよ。アイツはちょっと天然なところあるからその辺が抜け落……」
「「「「「「はあっ!!??」」」」」」
俺の声をかき消して全員が叫ぶ。
もちろん怒りの感情をにじませて。
その中には風尾も交じっていた。……あれ? 君は中立……ではないの?
「……っけんなよ緑川ぁ!! お前ごときがふふふ風羽さんを【アイツ】!? 【天然なところある】!? ……ししししし知ったふうに……っ!! ネ、ネット友達とかなんとかいって、ほんとはネットストーカーだろうが白状しろやっ!!!!」
激高した小川が俺の胸倉をつかみ、ぶんぶん振り出す。
さらに隣で瀬川が「何様!? 死ねば!!」と唾を飛ばしたり。
「きもいきもいきもい!」と連呼する機械と化した塩田。
加えて、「なーほんとうのことを言いなよ緑川ちゃん。ぶっちゃけ、なにか彼女の弱みとか握ってんだろ? 悪いようにはしないから正直にゲロしなって」と半眼ですごむ垣爪。
さらにはその垣爪に乗っかり「ま、真面目だと思ってたのに……! キミはそんなヤツだったのか!」と怒る稲吉。ドン引きして硬直する風尾……。
怒声に罵声で耳はつまり、小川の胸倉つかみの圧迫で息がつまり……。
じいちゃんに買ってもらった制服の第二ボタンがちぎれそうになったところで――。
俺は切れた。
◇
「……い・い・加・減に……しろっ!! ――……放せ馬鹿がっ!!」
俺は小川のでかい手の手首を取るとねじり上げ無理やり外す。
それに驚く小川、その他全員に対してややおおきめの声で言った。
「いいかよく聞け……! 前も言った通り俺と風羽はただの【ネット友達】だっ!! それ以上でも以下でもないっ!! アイツが俺に対してだけ態度が違うのは付き合いが長いからだっ!! それ以外にはなにもないっ!! ……おい小川ぁっ!!」
「えっ!?」
小川は呆然として言葉を漏らす。
そんなヤツに続けて言った。
「風羽と仲良くなりたいならへこへこすんのはやめろ!! いつもみたいに堂々としてふつうにしろ!! そしたらアイツもふっつーに会話してくれるわ!!」
「ま……っ、そ、それはマジなのかっ!?」
「絶対だ。そうならなかったら飯おごってやる。……それと塩田っ!!」
「!? はっ、はいっ!!」
「お前は【みんなー】とか言うのをやめろっ! 【お前個人の】好きなものとか趣味の話でもしろ!! それで相応の返事をしてくれるわ!! 確実にな!!」
「ほ、ほんとうに!? だって私なんかの……、風羽さんと釣り合うような話……」
「……それは風羽が決めることだろうがっ!! あとキモイキモイ言うなっ!! むかつく!!」
「はっ、ごっ!! ごごごごごごごめんなさいっ!!」
と、縮こまる塩田……の右。
ぽかんと口を開けて固まる瀬川に言った。
「……俺の机からおりろっ!! いつまでイス代わりにしてんだっ!!」
「――っ!!? あ、ひっ、……はははいはいはいっ!!」
ウサギのように飛び降りてざささーっと高速後ずさり。
垣爪の後ろで短いスカートを押さえながら瞬く。
垣爪はぎこちない半笑いで、どう、どう……とでも言うように俺に両手を向けて。
稲吉は真っ青な顔でのけぞっていた。
俺は三人を見まわして、それから後ろを向き、びくつく風尾の顔もいちべつしてから。
全員にはっきり伝わるように言った。
「……お前らはな、風羽のことを特別な存在として崇めてるようでいて、じっさいは腫れもの扱いしてんだよ。そんな態度でだれが心を開く? 友達になる!? ……確かにアイツは並外れた美人で、ただ者じゃない雰囲気をまとってるけど……馬鹿もやる、食い気もある、泣き笑い慌てふためくこともある……ふつうの女だ! だからほかの皆のように、ふつうに接して、ふつうに友達になればいいんだ……」
……アイツが。
人間界で、【人間の友達】というものを求めているとは思えない。
さっき、自分のことでわいわい騒ぎ興奮する皆をよそに。
まるで台風の目のごとくずっとしずかに落ち着き、みじんも気持ちを揺らすこともなく、冷静を通り越したような様子でいたことも含め。
【ファレイ】がはるかに年下の皆を、【人間】というものを……。自分とは別世界の、取るに足らぬものと捉えていることはすでに感じている。
そもそもアイツの……ファレイの、人間界にいる理由、望みはただひとつ。
セイラルのそばにいて仕えることだけだから。
……でも。それは。
【現在】だけの話だ。
まだ【未来】もそうであると決まっているわけじゃない。
もしかしたらいつか……変わるかもしれない。
人間界で生活し、皆と触れ合っていくうちに。
そして、その変化が、アイツにとっていいものになるかもしれない。
少なくとも、俺の価値観では。
友達……心を許せる存在は。
多くいたほうがいいと思うから。
とくに、セイラルしか見えてないアイツには――……。
「……以上。あしたからはふつうにし……たほうがいいと思うぜ。んじゃな」
ちいさく言って、俺は鞄を取り。
しずまり返った教室を無言で歩き出口を目指す。
そして、出口の前にほかの友達と立っていた横岸の前を通りかかると……。
「ふつうじゃないよ。やっぱ。風羽さんと、……あんたは。……私たちとは違う」
と、いう声が耳を突いた。
◇
「はいはーい! 皆これでお開きにしよーっ! あしたのテストで赤点取りたくないよね~。お小遣いとか~付き合いとか! いろいろ困ったことになるしぃ~!」
横岸は、俺が言い返そうとするのを阻むように叫びながら身を返し……。おどけた様子で手を叩きつつ教室の中心へ。
それで場の空気はいつものように戻る。
俺はしばらく口を開けて、皆と談笑する横岸の後姿を見ていたが、ヤツがいっさい振り向くことがないのを悟って、口を閉じ……。
やむなくひとり、しずかに教室を出て行った。
◇
その後――。
俺は廊下を歩き、階段をおりながら、〈遅い!〉〈まだか!〉〈時間は有限!〉等々、大量に来ていた橋花からのラインに半眼で既読をつけ、短い返事をし……。
続けて伊草からの、
〈悪ぃ、俺の教室から体操服取ってきてくんねー? きょう持って帰るつもりだったのいま思い出した〉
というメールを確認して半眼のままUターン。
ため息をつきつつ階段をのぼり切り、間違って自分の教室へ行こうとし二、三の無駄なステップを踏んでから身を返し、反対側の教室へ急いだ。
◇
「……。失礼しまーす……」
【2‐E】と書かれた札の下……にあるドアの窓をのぞいたあと。俺は恐る恐るドアを引く。
果たしてすでにだれもおらず、薄暗い中は水の底のように生気なくしずまり返っていた。
……部屋っていうのは人がいてこそなんだよな。とくにいつもわいわいやってる教室とか、空だと不気味極まりない。
さっさと済ませよう。よその教室でうろうろしてたらなんか居心地が悪いし。
だれか戻ってきたら妙な勘違いをされかねない。
俺は辺りを見まわし、追加メールで来ていた〈掃除箱の前の席にかかってる袋〉という言葉に従って、隅にある伊草の席へ。
そしてアイツがよく行く漫画ショップのロゴが入った白い袋を認めて、それを持ち上げると肩に引っかける。……が、その時。
背後でドアが引かれる音がして、慌てて振り向いた。
「……。そんなに驚かなくても。なにかやましいことでもしてたんですか?」
淡々とした声。
……を、発した見知らぬ男は――。
俺が入ってきたドアとは反対の、教室の後ろのほうのドアを開けて。
一直線に俺を見ていた。
◇
「……あ、い、……や。ちょっと頼まれて。忘れ物を取りに」
たどたどしく俺はつぶやく。
しずまり返った教室で、その返事はたどたどしさを増幅するかのように響き渡り、男に伝わった。
なにか異様な雰囲気をまとった、……その男に。
金髪碧眼。さらさらの肩ほどの髪。
細身のすらりとした体。
着ているものは、俺と同じ学ランだし、歳も同じくらいに見えるが……とても【同次元の存在】とは思えず。
まるでそのまま、少女漫画のキャラクターを具現化したような。そんな感じだ。
橋花もかなりのイケメンだが、はるかに親しみがある。
だが【これ】はなんというか……どこかの国の王子様と言われても納得してしまう。そんな市井の人間とはかけ離れたオーラがあった。
言ってはなんだが、こんな地方の公立高校のボロ校舎には似つかわしくない。
芸能人か? ……まさかほんとうにどこかの王族か。
なんでこんなところに来て……。
いったいどういう関係……。
「頼まれて。つまりはこちらの世界でいう【パシリ】ってヤツですか」
男は俺の思考を断ち切るように言い放ち、はっきりと眉をひそめてこちらへ歩いてくる。
そのあと呆然とする俺から伊草の袋を奪い取ると、……床へ落した。
「……? お、おい! なにしてんだよ!」
俺はすぐに屈んで袋を拾い、ほこりを払う。
それから身を起こすと、数センチという距離に男の表情があった。
「――っ!?」
「およしなさい。そんなことは。あなたに似つかわしくない」
俺は飛びのき、その拍子に掃除箱に激突する。
鈍い音が耳の奥を殴りつけ……思わず顔をゆがめる。
「……。はるか上の……。神のごとく存在が。ほんとうに訳が分からない。あなた、いったいなにが目的なんですか? ……」
じっと、その美しい目を細めて俺を見据える。
にらむというよりは、純粋に問いかけていた。
……。
訳が分からない?
そりゃこっちのセリフだろうが。……なんだコイツは。
伊草の袋を捨てたこともだが、よくよく考えたら【パシリ】とか……。腹の立つことを。
だいたい【こちらの世界でいう】って、なにを馬鹿……――。
次の瞬間。俺の表情は固まった。
喉の奥がからからに渇き、ヒザが、足が、釘で打ちつけられたように動かなくなり、ただ見開いた眼で男を見るほかなかった。
……。
ま、まさか……。
……イツ……。
……――コイツは――……!
「そんな表情までしてくれるんですか。僕程度に。実に光栄……と言いたいところですが、正直失望しています。理由はどうあれ、いまのあなたはただの【脆弱な人間】じゃないですか。……失望しない魔術士はだれもいないでしょうね。我が主を含めて」
男はおおきくため息をつくと、汚らわしいとでも言わんばかりに、固まる俺を避けて。
また出口へと歩いて行った。
そして、ドアに手をかけて――、
「あす。テストが終わったあとにまた。……そのときはもう少しマシな表情をできるようにしておいていただけますか。……主に申し訳ないので」
と、言い残し……。姿を消した。




