第29話 彼は【知っている】
《だからその喧嘩のときにヒートアップして。言っちゃったわけですよ。『お前があたしのなにを知ってるんだ?』って。彼氏に。お前呼ばわりですよ。初めて。だってずーっと、あんまり知ったかして決めつけてくるから。もー無理で。限界がきて》
《ああ~。分かるっちゃあ分かるけども。でも終わりですよね。それは》
《うん。終わった。終わりました。でも後悔はしていませんね~。我慢してたらそのままですから。そいつの想像を一歩も出ないっていう。その男の中ではあたしは自分以下だっていうね。それは耐えられなかったですよ》
《それは対等でいたかったってことですか。上になりたいとかじゃなく》
《というか【想定内が嫌】ってことですね。その男の。まさに【お前がなにを知ってるんだ?】、ですよ。たかだか一年くらいの……、一年半? まあどっちでもいいや。友達以下じゃんって。ちょっと惚れた腫れたがあったからってね。……まあこの辺はちょっと痛いんですけど(苦笑)。長さ深さ的にはさ、その程度の付き合いのくせに、そんなヤツに、あたしという人間を規定されたくなかったっていうか。ほかはどうでもいいけどそれは無理でした。……でも、そのあとからですかね~。彼氏できなくなったのは(笑)》
《現在のMINKAさんを形作ったのはそこからだと! いや~貴重なお話が聞けましたね。貴重な悲しいお話が(笑)》
《悲しくない! 悲しくない!(笑) あたしは幸せよ? ただすこーし……。彼氏募集してまーす(爆笑)》
《(爆笑)だ、そうです!(笑) ……それでは次の曲! 彼氏募集さんの『愛哀』! ……できすぎてるな~(笑)……》
騒がしさから一転、ラジオからしっとりとしたメロディーが流れてくる。
俺は苦笑いしたのち息をはいて、手の中のシャーペンをくるりとまわす。
テスト前日の、もう21時をまわったところ……ながら。
机に向かう姿は形だけで、じっさいは広げた問題集もほとんど白紙、教科書もノートの中身も目が滑り頭に入らず、ただぼんやりと座っているだけだった。
夕方に帰宅後は、放課後の風羽との話が頭の中をぐるぐるまわって勉強など手につかず、夕食のあとようやく落ち着いたと思ったら、今度は橋花や伊草との、あした出かけるための打ち合わせラインが始まって……。果たして話はさまざまな方向へ脱線し一時間をゆうに超え、ようやくそれを終えたのがさっき。
なのでいい加減、気分を切り替えようと久々にラジオなどをつけてみたのだが……。
どうも人間というのは、無意識に【自分の現在抱えているもの】と近しいことを引き寄せるものらしい。
もっとも俺は、ある者の話によるとじっさいは別の世界の住人で。
人間じゃないらしいのだ、が……。
俺はそのまま、しばらくぼんやりと音楽を聴くうちに、橋花らのとラインでなんとか奥へやっていた、きょうの放課後の、風羽の涙をまた思い出し……。
そして必然、その涙の……想いの向けられた相手である【セイラル】に思いを馳せるはめになる。
過去に収めた立体映像という特殊な形ではあるものの。
あの、ヤツの……。
セイラル・なんとか(名字不明)という男の――。
俺と同じ顔でいて、俺とまったく違う人生を歩んできただろう、堂々とした表情。
魔術師だなんだという、ぶっ飛んだ話を聞かなくとも、ただ者ではないということくらいひと目で理解できる佇まい。
風羽が……ファレイが心酔しているのもなんとなく分かるというものだ。
……だが。
◇
――……お前は、俺だ。俺が秘術を使って、0歳まで若返り、17年生きたのが――今のお前だ――
◇
「……けるな。お前がなにを知っている。緑川晴の生きた17年の、なにを――」
よみがえった、あのときヤツが言い放った言葉に、思わずひとりごち舌を打つ。
……おそらく、とつけるまでもなく。
【緑川晴】をはるかに上まわる経験値、能力を持つ【セイラル】の。
すべてを見越したように、【出会ってもいない緑川晴】のことをさもすべて知ったふうに残したメッセージは――。
改めて思い出しても不愉快極まりなかった。
◇
そもそも。はっきり言って。
【俺たち】には、顔の造形以外なにも接点はない。
俺には【セイラル】の記憶は皆無だし、魔術が使えるわけでもない。
ゆえに、【緑川晴=セイラル・なんとか】という【式】がかろうじて俺の中で成り立っているのは、ここ数日の、幾つかの非常識な体験と、俺が風羽を……――ファレイを信じる気持ちに拠っているにすぎない。
アイツの涙、笑顔、セイラルに対する一生懸命さ。そういうものが嘘でないことだけは100パーセント確信している。だから信じている。それだけだった。
けれど……。
◇
――――ええっ!!? おっ……【おはようのあいさつ】が許されるのですかっ!? ――
◇
――……まさか夜にお食事をともにできるなんて。そんな機会がまた訪れるなんて思わなくて――
◇
――……私、しかとセイラル様のご期待に添えるようにこの数日、料理の練習に励む所存でございますっ!! ――
◇
ファレイの、セイラルに対する絶対的な忠誠心。
そしてそれを……従者としての気持ちを明らかに超えた、ただの主従関係からくるものとは思えぬ強い想い。
そんなファレイ……風羽が、俺に対して徹頭徹尾【主・セイラル】として接し、心から慕う姿を……。
すなわち【緑川晴】を素通りして、ヤツに対する思慕の気持ちを示したり行動する姿を、こうも見せ続けられると……。
なんというか、こう……。
多少のいらだちを覚えるというか。
はっきり言って、ムカ……。
「……。……は?」
俺は思わず声をもらした。
そして眉をひそめ、いましがた自分が思ったことを反芻する。
……ムカ……ってなんだよ。
んなわけないだろ……。馬鹿か俺は?
それじゃまるで、俺が……。
まんま、セイラルに嫉妬しているということになるじゃないか。
……つまりそれは。俺がファレイに、風羽に対して……。
特別な気持ちがあるというこ……――。
「―-……違う! 絶対に違う!」
今度はおおきく声に出す。
それだけでなく、空白のままだった問題集の解答欄に【違う!】と書き殴っていた。
俺は呆然とし、ほどなくしてその汚い字を慌てて消す。
それから、問題とはなんの関係もない否定の言葉がうっすら残る解答欄を見ながら、おおきくかぶりを振った。
……そりゃあな。あんな美人から。
たとえ自分に自覚がなかったとしても。
主人として扱われ、高嶺の花だった女子から様づけされて慕われたら……。不可解で居心地は悪くとも。悪い気もしないさ。
けどそれはそれ。好きとかそういうのじゃない。
だれにでもある、好意を向けられた際にわき上がる感情だ。
とくに魅力的な存在にそうしたものを向けられたなら、【それ】がいっそう強まるのも一般的な反応だろう。
そんな嬉しい気持ちや、あるいは友情的に、家族愛的に好ましく思うのとは違うんだ。
ここでいう、【好き】って気持ちは。
そうさ、【好き】っていうのは。なんというかもっとこう……。
こう、もっと別の……。
「……。あれ?」
はたと俺は瞬く。
そして消しカスが残る空欄ばかりの問題集やシャーペン、消しゴム、それらを照らす卓上ライトの光などを見まわして……。
もう一度瞬くと唾をのみ込んだ。
それから固まった表情のまま立ち上がると、ゆらりそばの本棚の前に立ち、ゆっくりとしゃがみ……。
棚の一番下にある、引き出しとなっている部分を開ける。
その後がさごそやったあと、アルバムを二冊取り出した。
ひとつは小学校のときのもの。
もうひとつは中学のときの。……卒業アルバムだ。
床の上であぐらをかき、まず中学のほうをさっさとめくる。
集合写真に収められた、当時の、自分の阿呆面を軽く目の端に入れたのち。
少し懐かしいクラスメイトの男子たち、友達らを見て、それから……。
いっしょに映るクラスの女子たちの姿をざっと見る。
次に別のページをめくり、かつて関りがあった、あるいはルックス等から少し気になって遠巻きに見ていた別クラスの女子なども見返したが……。
クラスの女子たちと同じように、……懐かしい以外の気持ちはない。
俺は見ていた学芸祭の様子を収めたページを開いたまま、今度は小学校のアルバムを開いてみる。
そこにはやはり、中学のときよりも輪をかけて阿呆な、なにも考えていない幼い俺の顔が映っていて。
それにため息をついたあと、さっきと同じように当時の男友達を確認後、仲のよかった女子たち……。
少し気にかかっていた女の子たちを見返したが……胸は微動だにしなかった。
【いまは】、ではなく。
当時のことを思い出しても――。
美人だったなあ、可愛かったなあ、魅力的だったなあ……という、人に軽く話せる程度の気持ちは思い出せても。
ひそかに思う、もっと近づきたい、仲よくなりたいという強い気持ち。
ただの反射、いっときのものではない、ずっと続くようなドキドキ。胸の奥の高鳴り。
ほかの男子に嫉妬したり、情けない自分に嫌悪したり。胸が苦しくなるような想い……。
そういうものが、ひとつも思い出せなかった。
忘れているのではなく。
そういう気持ちを、俺は――……。
いままで出会った女子たちに抱いた記憶が皆無だった。
◇
俺は、いつの間にか脱力して、ページすら重く感じていた指をアルバムから離す。
それからその指で口を押さえ……唇をかんだ。
恋愛的な意味で、【だれも好きになったことがない】。
そんなことを言うヤツも、いるにはいた。
でもそれは、そのほとんどが強がりだったり、あるいはそのときまさに意中の相手がいて、ごまかすために出たうそだ。
少なくとも俺は、ほんとうにだれも好きになったことがない人間などいないと思う。
そんな確信があるのに……いや、あるからこそ。
自分も、ちょっと気になった子、テレビのアイドル的に可愛いなあと思っていただけの子のことを……。【好き】だと錯覚していたのだ。
……それがふつうのことだという思い込みで。
なぜなら。そうすれば……。
とどこおりなく、摩擦なく。……穏やかに。
【かつて抱いた強烈な気持ち】を抑え込み、【ここでの生活】を……。
俺は【緑川晴】としての生活を、来るべきときまで……――。
◇
「……。なんだと……? いま、俺は……なにを――」
そう自問した次の瞬間、
――どくん!
と強烈に胸が鳴り、俺の視界は真っ白になり……。
真っ白なまま、一回、二回、三回、ぐるぐる頭がかきまわされて、座ってすらいられなくなり倒れた。
そして倒れてもなお、頭のみならず胸の中までかきまわされ続け、はきそうになった刹那。
視界が急に明るく輝き……広大に開けて。
どこかの青空の下……森の中。
長い長い青髪と、藍のマントを風になびかせて――。
堂々とした笑みを浮かべる女の顔が……浮かび上がった。
◇
「……ぃ。…………か? …………て、……くな……!!」
俺はその女に手を伸ばし、必死で這う。
だが少しも彼女に近づくことはできず、再び視界はぼやけて。
すべての景色は花火のように吹き飛んだ。
「……っ! ……はあ……! はあ……! ……はあ………っ!」
大きく息を乱し、全身から噴き出た汗のぬめりを感じ、……体を起こすと。
目の前に広がっていたのは、いつもの部屋。
俺は呆然としたあと、ゆっくりとかぶりを振り……。
肺の中のすべてを出し切ろうとするほどに……息をはいた。
…………。
…………セイラル。……なんとか。……を。
現在の俺にとって。……俺自身と。
同一人物とする根拠は、ほぼすべて、風羽への信頼があってのこと。
……【だけ】、だったんだが、な――……。
俺は髪をかき上げて、なでつける。
それから部屋の隅にある姿見で、乱れた自分の姿を映す。
【緑川晴】の姿を。
そして……その奥に映る。
まだ俺には見えていない、けれど、見えかけた……。
【セイラル・なんとか】の視界の欠片を……――。
ただひとり、必死に捉えようと……鈍く光る銀の幕を凝視し続けた。




