第28話 ああ、なんて素敵な週末なのでしょうか!
「……。あ、あの。セイラル様」
「なんだ」
「ま、誠に恐れながら……。私の、先ほどの……。かの【発言】について申し開きをさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「ああ。どうぞ」
「……っ。あ、あ、あ……れはですね。その……。あ、あまりにあのこむす……横岸明已子がセイラル様に対して馴れ馴……不遜な態度を取ったために、従者たる私としてはどうしても看過しがたく。……あのように名乗り出ることによって、将来的にも繰り返されるであろうセイラル様に対するこむ……横岸明已子の厚かま……無礼な接触を断ち切る必要があったと判断した結果でのことでした」
「……いまいち要領を得ないが、仮に1000歩譲って。【この世界での、主の立場をうっちゃるほどに、その尊厳を守ることを優先せざるを得なかった従者の行い】だと認めるとして。このあとどうするんだ? 決まっちゃったんだけど。二人三脚。俺とあんたってことで。……一位を取るってことで」
「――そ、それはもう! ばっちりです! 人間の子ど……一般的な少年少女らが何人束になろうとも! 魔神とうたわれた大魔術士・セイラル様の超魔力による【山谷を一足飛びで駆ける神の脚】! そして恐縮ながら、あなたにはるか及ばずともこの私とてクラス1Aの魔術士でありますから! 魔力値は並以上ありますゆえ! 魔力さえ用いればまばたきする暇もないうちにゴールテープを切り、人間ど……皆をあっと言わせて拍手喝采を浴びることでしょう!」
「ふーん。あっそう……。拍手喝采……。それは楽しみだな」
「はいっ! ぜひに! 私たちで皆の鼻を明かしてやりましょう!」
「そうか。鼻をね。あっはっはっは」
「ええ! ふっ……。ふふふふ!」
――ばあああんっ!!
俺は思い切り机を叩いた。
その音は放課後の、俺と風羽しかいない東棟1階・旧美術室いっぱいに響き渡り、それで目の前で土下座体制、申し開きのために顔だけ上げていたヤツの表情が一瞬で凍りつく。
俺は硬直する風羽こと忠実なる従者、ファレイ・ヴィースに、思い切り顔を引きつらせて叫ぶ。
「ふっ・ざっ・けっ・んっ・なっ!! どこのだれ~が【山谷を一足飛びで駆ける神の脚】とか持ってんだ!? 【緑川晴】は一般的な少年なんだよあんたの言うっ! ……魔力値? あんたこの間、いまの俺のそれは5以下とか言ってろ~がっ魔術は使えないって! ……分かる? 分かリル? つまり俺は【ふつうに】走るしかな~い。俺の足たいしたことな~い。一位無理デ~ス。――HAっ!」
阿呆みたいな顔で両手を上げてまくし立てた。
風羽は青ざめて、ようやく目の前にいるのが自分のよく知る【魔神】ではなく、【ただの人間】であることに思い至り、とんでもないことをしたと気づいたようだった。
「あ……、あっ……! ――わ! わっ……私はっ!! 私はなんということをっ!! こ、ここここのままではセイラル様が【大言壮語の口だけ男】としてさらし者の八つ裂きにっ!! あああああああっ!!」
頭を抱えて額を床にこすりつける。
……いやちょっと待て。大口叩いたのはあんただからな?
しかしまあ……。一位を取れなかったら、それに近いことになるだろうな。
クラスのヤツらどころか見た者全員、風羽のせいになんか絶対するわけないんだから。
……つーか、問題はそこじゃないんだよなあ……。
「……。あのな風……ファレイ。つい勢いで言っちまったけど。俺は別に、一位を取れなくて批判されてもいいんだよ。俺が言いたいのは【立場】のことだ。仮に一位を取っても困るってこと。あんたとの関係が近しいと周囲に認識されていくことが」
「……あっ……」
風羽はその言葉で、やっとさいしょの取り決め――。
【俺とは無関係を装う。接触しない】
を思い出したようだった。
「あっ……、わっ……、わ、わ、私は昼休みに続いてまた……っ! そ、それにそれのお詫びもまだっ!!? ――……もっ、もももももも申し訳ございませんっ!!」
再び土下座して額をこすりつける。
いつもならこれを止めるところなんだが……。さすがにこの【連続失言】には俺も堪えたのと、今後のことを考えて、十分反省してもらうためにそのままにしていた。
クラスの皆の前で、こけた俺に駆け寄って敬語で心配したり。
カーストトップグループの横岸に対抗するように、二人三脚で俺とパートナーを組むと宣言したりと。
接触しないどころか、客観的に見たら【深い関係】を疑われても仕方のない行動を連続して取り……。
そんな風羽に直接苦言を呈するため、放課後すぐに前も使ったこの空き教室へ呼び出したのだが……それで正解だったようだ。
この【セイラル様】への傾倒ぶりでは……。【緑川】からの電話くらいでは、本気度が伝わらないだろうしな。姿を見せてはっきり言い含めておかないと。
土下座はいつになっても慣れないが、やむを得ない。
ちょっと本気で【今後のこと】を理解してもらわないといけないから。
じっさいに、もう――。
一度目のときはスルーしていたクラスメイトたちが、二度目の風羽の言葉には反応し、それまでは俺の一方的な友達アピール、虚言とまで思われていたものが……ほんとうに仲のいい友達、ごくごくわずかではあるが一部にはそれ以上の関りを疑う者も現れ始めたし。
そして、それとははるかに違うレベルで危険な目を向け始めた横岸も、その光をいっそう強めて――。騒動のあと、からんでいたときとは違うしずかな雰囲気で俺に声をかけてきた。
それはたったひとこと、
◇
「……月曜日。ご飯。忘れないでよ」
◇
というものだったが、肩に触れた手の重さが……言葉の重みも表していた。
……さて。どうしたものか……。
俺は頭をかき、ひとまず土下座し続ける風羽に言った。
「……ファレイ。話がある。顔を上げてくれ」
「――っ!! はっ、はひはっ!!」
ぶるぶると震えながら、風羽は顔を上げた。
半泣きで、死刑宣告を待つかのような表情。
俺はため息をついて言った。
「体育祭のことはともかくとして。……俺たちの関係性についてのこと。もう、こうなってしまった以上は仕方がない。これからは俺が言いつくろった【ネット友達】として、俺たちは振る舞っていくことにする」
「えっ……。そ、それはどういう……」
「そのままだよ。【長年の付き合いがあるネット友達】。リアルでクラスメイトだったことにはさいきん気づいた。そういう関係。だれかになにか聞かれても、その線で不都合がないような返答をしてくれたらいい。俺のほうも……たぶんほとんどないだろうが。そう返すから」
「そ、それでよろしいの……ですか? ほ、ほんとうに……」
「ああ。で、俺があんたの友達ということで、ほかの連中もあんたと友達になりたいと殺到しているのが現状だが、今後は無駄な摩擦を起こさないために、できる限り申し出を……つまり皆と友達になってその付き合いを適度にして欲しい。怪しまれないためだ。……ただしひとつだけ気に留めておいて欲しいことがある」
……平穏に過ごしていきたいという気持ちもある、が……。
それ以上に、気にしなきゃならないのは――。
「俺が聞き、あんたも認めていた【ややこしいことが起こる可能性】のこと。俺たちに関わるヤツらが増えたら、【それ】に巻き込まれる人間が増える可能性も考えなければならない。……もし、俺がセイラルであるがゆえの危険なり面倒が人間界で迫ってきたら、俺以外の人間に対しても――そのカバーをしてくれ。……これは【命令】だ」
俺は強く言い放った。
風羽……ファレイはほんのわずか、じっと俺の顔を見つめたのちに……深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。万が一、魔術士がセイラル様へ害をなそうとやってきた場合。それでほかの者に累が及びそうになったときは彼らも守ります。……お言葉のままに」
しずかに言い放った。
俺はその土下座して微動だにしないファレイの様子を見ながら、ちいさく息をはく。
……さっきの弁明のとき。
ファレイはクラスメイトのことを何度か【人間】と言っていた。
それは俺が用いる【人間】という言葉とは意味が違い……。
ファレイの、俺以外の周りにいる者は、自分とは別の世界の存在であるという自意識の吐露だ。
さらには言い方から、皆に対して……どうでもいい、取るに足らない存在であるという感情も……感じ取れた。
彼女にとっては俺に仕え、俺を守ることが人間界にいる理由であり、生きる理由ですらあるように思える。
それは【俺のこと以外はどうなってもいい】……という考えを持っている、というふうにも取れる。
だから釘を刺しておいたのだ。
いままで接した限りでは、風羽が冷酷な面を持っているとは思えなかったが、根本的に価値観が違えば……、人間が傷つくこと、生き死になどになんの関心もない可能性だってある。……だとしたら一大事だからな。
俺は首をまわし、それから風羽に起きるように言った。
風羽は一礼したのち、恐る恐るそれに従い立ち上がる。
そしてスカートを払い、深呼吸をしたあと。
考え事をする俺に言った。
「あ、あの。セイラル様……! 先ほどの、【ネット友達】ということに関してですが」
「……ん? まあ別に深く考えなくてもいいよ。要はもう、ふつうに接してくれてOKということだから」
「あっ、そ、その【ふつう】というのは……! ど、どどどどどのくらいまでなら許されるのでしょうかっ!?」
俺は口を開けた。
風羽は真顔で、真剣に……。スカートを握りしめながら俺に問うていた。
「……。いや。まあ。てきとうに……。たとえばその、『おはよう緑川君』とか。『きのうのテレビ見た?』とか。そういうの」
「――ええっ!!? おっ……【おはようのあいさつ】が許されるのですかっ!?」
…………。
ああ。ないわ。
コイツが冷酷とか、やっぱりどう考えても……。
単なるセイラル命の従者だわ……。
「……許されるもなにも。友達なら、というか知り合いでも近所の人でもそれくらい言うよ。ただ、ほかの連中にもしろよ。友達になったら」
「はっ、はいっ!! 承知いたしましたっ!! あ……あのあの! ちょっといま、練習してみてもよろしいでしょうか!?」
「あ……。はい。どうぞ」
あまりの勢いに、俺は敬語でうなずいてしまう。
風羽はそれを受けた瞬間――。なぜか教室の入り口……引き戸の前まで歩いてゆき。
数秒後、いましがた登校してきたかのようにそこから歩き出す。
そうしてぎくしゃくとロボットのように、呆然と机に座る俺のそばへ寄ってきて。
隣の席にゆっくり腰かけると、こちらへ三段階で振り向き硬い笑顔で言った。
「おっ、おはよう。緑川君……っ。き、きききのうのテレビ見たっ?」
俺に言われた例の通りあいさつをする。
顔や耳はおろか首まで真っ赤になっていた。
俺はそのさまを見て頭をかき、苦笑して……。
【友達】として返した。
「……ああ。けっこう夜更かししちゃったなあ。テスト勉強もほとんどしなくてさ。お前はちゃんと勉強したんだろ? いつも成績いいもんなあ」
「ぜっ! ぜんぜんそんなことないよっ! だって目立ったら困るからふつうくらいに抑えないと――あっ!! 違いま……違う!! うん! した! いっぱいした! でも真ん中くらいの成績だしいつも! 私頭よくないしあはははは!」
……ふ、【風羽怜花】のキャラが……。
いや、これはこれで人気が倍増すると思うんだけどさ。
ほかのヤツらにもこうであるならば、だけど。
ま、まあいいか……。
「……そういう感じ。好きにしていいから。あんたはこれから大変だろうけどさ。皆の応対で」
俺は再び苦笑して言った。
風羽は俺の言葉に、「あっ……」となにかを言いかけて、それから口をつぐみうつむく。
俺がそれに訝ると、やがて彼女はばっと顔を上げて言った。
「あ、あのあのセイラル様っ! そ、その、呼び方……――にににんにん二人称のことなんですがっ!」
「……二人称? 俺の、あんたへの……、って。この【あんた】か?」
「は、はい……。そちらについてのことなのですが……」
もごもごとまたうつむきながら自分の手をいじる。
そしてほどなくして再度顔を上げ、俺に向き直り言った。
「こ、これからは学校では【友達】……として振る舞うということで! その際には【お前】……と! 私に呼び掛けることになると思いますが! で、ででででできれば皆の前以外でも……、こうしてふたりでいるときにも、そっ……! そそそちらで統一していただけたらと! ――まっ、万が一ですけれど、セイラル様に限ってそうしたことはないとは思うのですけれどっ! 皆の前で少し距離のある【あんた】を用いれば、疑いの目が向けられる可能性もなきにしもあらずというか、……そのような感じでお願いさせていただきたく思うのですっ!!」
一気にまくし立て、真っ赤な顔のまま肩で息をする。
俺は呆然として、それから返した。
「……【お前】。のほうがいいってことか? どうせ変えるなら、俺的には【君】とかのほうが……」
「いっ、いえっ!! 【お前】で! 【お前】でよろしくお願いいたしまっするっ!!」
いつか聞いたような変な言いまわしが再び飛び出した。
お前のほうがいいって……。あんまりそういう呼び方、快く思わない女子もいるんだけどな。
……。セイラルがそう呼んでいた、ってことか……。
「分かった。【友達】として振る舞うっていうか、……もう友達みたいなもんだしな。全部【お前】で統一するよ」
俺は頭をかきながら息をはく。
女子に【お前】なんて呼ぶのは……夕凪以来か。
水ちゃんは【君】だしなあ。
まあ距離が縮まった感じがして……悪くはない。
風羽は俺の言葉を聞いてすぐ、分かりやすすぎるほどに顔をほころばせ喜んでいた。
が、急に真顔になり、
「――セ、セイラル様っ! 私のことを【友達みたいなもの】などと……! 冗談でもいけません! 私はあなたの【従者】ですから! 線引きはきっちりしていただきたく存じますっ!!」
と、怒り始めた。
め、面倒くせえええ……!
「分かった、分かった! 学校での振る舞いのことな! お前、お前、……もうインプットしたから! じゃあ今回の話は終わり! 解散っ! 帰ってテスト勉強しなきゃならんからな……」
俺は手をおおきく振ってそう言った。
それに彼女は目を見開き、「……! お、思い至らずに……! ――……ししし失礼いたしました!」とまた土下座しようとしたので今度は止めた。
……いまさらだけど、土下座って魔法界でもあるんだな……。
俺は恐縮する風羽を促し、施錠されていない下の引き戸をくぐって空き教室を出る。
そのあと、彼女が出てきてその身を起こしたとき。
俺は少しためらったのち、……意を決し。
しずかに言った。
「あと、さ。土曜日のこと。テスト明けの。……料理を教えるってヤツなんだけど」
「……!! はっ……、はははははいっ!!」
気をつけの態勢で硬直し、まばたきもせず俺を見やる風羽。
俺は頬をかきながら、そんな風羽に続けた。
「……その日。実はちょっと、日中に大事な用があってな……。それを忘れてて。だからその、できれば、で、いいんだけど……。あん……、お前の家に行くのを……ば、ば、晩にしてくれたら……助かるんだけど、も」
ただたどしく言いながら俺は鼓動を早め、全身を熱くしてゆく。
この緊張は、さすがにあんなに喜んでいた風羽との約束を忘れていたとは言えないため、【前からあった用事のほうを忘れていた】とうそをついたこと……によるいたたまれなさも関係していた、が……。それ以上に。この【申し出そのもの】によるものだった。
だってふつうに考えてあり得ないからな。
ナンパ男ならともかく……。そうでないヤツが、知り合って間もないひとり暮らしの女子に、――【風羽怜花】に。
『晩に家に行っていいか?』……って。
そりゃ家に行くこと自体は風羽の提案だけども。
昼と晩ではまったく意味が違ってくる。
そんなことは百も承知、十分理解していたが……別の案が浮かばなかった。
水ちゃんと風羽の、両方の約束を守るためには。
きょうの朝。風羽と約束していたことを忘れて。
水ちゃんと同じ日に出かける約束をしてしまった阿呆の俺は……けっきょく。
思案の末、【時間をずらす】という単純なことしか思いつかなかったのだ。
水ちゃんとの外出のメインは、さいきんこの街に越してきた彼女が、これから通いそうな店をまわることで……それは朝からのほうが無理はない。映画もあるしな。
いっぽう風羽のほうは、ひとり暮らししてるって言ってたし。従者として、セイラルの命令にはほぼ従ってるから。
主の命のひとつとして、……遅い時間であっても了解してくれるのではないかと考えたのだ。
……誓って言うが、やましいきもちはない!
けど、はたから見たらナンパ的な誘いっていうか、……関係的にはもっとまずいものに映るのは分かる。
だから嫌だったんだけど……ほかに方法がなかった。
俺は居心地悪く顔を下げて、眉間を親指でかく。
その後、恐る恐る頭を起こして風羽をうかがう。
すると風羽は……。
気の抜けた顔で、ぼーっと突っ立っていた。
「……。あの……。ファ……レイ?」
「……。……えっ?」
俺の言葉に、風羽は目の玉だけを動かして反応する。
それから瞬き、ぼーっとした表情のまま言った。
「……晩。というような。言葉が。聞こえた。ような。そんな気が。したのですが。やはり空耳。でしょうか」
「……い、いや。空耳ではないな。確かに俺は言った」
苦い顔で俺は返す。
まあ、想像通りというか……ドン引きしてるよな……。
セイラルを慕っているのならなおのこと。
いままでの話を聞く限りでは、セイラルが立場を利用して風羽をどうこうしたことはないようだった。
この忠誠心はそれも関係あるかもしれないし。
それなのに緑川晴のほうが、こんな……。そう取られかねないことを……。
……や、やっぱり土下座してでも別の日にしてもらおう!
そうだよ俺は……どうかしてた! 【約束した日を守ること】に囚われすぎていた!
大事なのは、【料理を教えること】なんだから!
なにを馬鹿なことを……!!
「すっ! すすすすまん忘れてくれっ! この埋め合わせはきっとする!! からその……、今回は別の日にしてもらえないだろうかっ!! 先の用はどうしても外せないもので……ともかくごめんっ!! あっ、あん……お前の都合のいい日……」
と、必死にまくし立てたところで俺は硬直する。
風羽が……。
無言のまま、固まったまま……泣いていたからだ。
「……。あ……。ふ……」
「……すみません。……つい。お見苦しいところを」
風羽は淡々と答えて、ブレザーのポケットから白いハンカチを取り出すと流れ落ちた涙を拭う。それからハンカチをしまうと、洟を一度すすったのちにつぶやいた。
「……まさか夜にお食事をともにできるなんて。そんな機会がまた訪れるなんて思わなくて。……お恥ずかしい姿を。すみませ……」
風羽は言葉を言い終えることができず、再び泣いた。
……【緑川晴】の取り消しの言葉などかけらも耳に入らずに。
ただ喜び涙する風羽……ファレイを、俺は案山子のように見つめて……。
さっきまで頭の中でばたばたしていたことがらすべて、【緑川晴】の思いや迷いなどは、ファレイにとって――。
彼女にとっての、【セイラル】という存在の前ではどうでもいいことを……いまさらながら思い知った。
◇
その後。
ファレイが泣き止むまで数分の時間を要した。
彼女は平静を取り戻した際に、ぼーっとする俺に必死に謝りつつ涙の理由を説明した。
それは果たして、かつて【セイラル】の手料理で夕食をともにしていたことが心に蘇った、そしてそれがまた叶うことに対しての喜びからくるものだった……ということだったが、俺は黙って話を聞きながら、彼女の表情の奥にある、セイラルへの想いの強さに胸を圧されていた。
そんな俺をよそに、やがてファレイは、俺の申し出に対して正式にOKの返事をした。
「……夜、夜! 夕食をともに……! ああ、なんて素敵な週末なのでしょうか! ……私、しかとセイラル様のご期待に添えるようにこの数日、料理の練習に励む所存でございますっ!!」
……と、満面の笑みを見せて。
そして俺はそんな彼女に、しずかに……。笑みを浮かべてうなずいた。
複雑にうねる胸の内に、ひそかに唇をかみながら――。




