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第25話 ほころび


 かっ、かっ、――かっ。

 白いチョークが規則的に音を刻んで粉を落とし、緑のボードを埋めてゆく。


 きちん等間隔、ゆがむことも傾くこともなく整然と縦に並んだその言葉たちは、間近に迫った試験の内容へ的確にリンクするもので――。極端に言えば授業に出なくとも、この板書のコピーさえあれば……それを頭に叩き込んでさえすれば、平均点は確実に取れるという優れた参考書だった。


 もちろん、きちんと出席して彼女の話を理解したならその効果は倍増だ。

 板書のみならず、口頭での説明もよどみなく流暢で要点をついているので、真面目に受けさえすれば生徒の能力差をとくにハンデとせず高得点を狙えるだろう。

 しかしおそらく、だれも彼女の、このような教師として優れた能力には気づいていない。


 その証拠に、いままで三回クラスで実施された小テストの平均点は低かった。

 皆、真面目に授業を受けていないからだ。

 だがそれは、別に授業中に大騒ぎしたりサボっているわけではなく……ほんとうの意味で【真面目に受けていない】のだ。

 以前から分かっていたことだったが、彼女を……和井津わいつ先生を軽く見ている、なめているというより、その存在感があまりに希薄すぎて流してしまう。そんな感じだった。


 俺だって、いつものようにただ五十分、ぼーっと座ってやり過ごすはずだった。

 しかし今回は【真面目に受けざるをえなかった】。

 彼女の存在に気づいてしまったから。

 ほんとうの、彼女の存在なかみに。


     ◇


 いつもは分厚い黒縁眼鏡や、前髪の重みでぼんやりとしているその両眼は。

 実は太陽の輝きを持った、人並み外れた強さと美しさを兼ね備えたものだった。

 ただ単に美人だとか、そういう造形的な側面を超えた、心臓が激しく打つほどの異様な迫力。

 それを数時間前――登校直後に、わずかに話しかけられた際……。

 彼女の【眼】を、まともに見つめたことで感じ取ったのだ。

 そのことで、はじめて俺は、【和井津】という人間を正面から見つめようという気になった。


 なので四時間目の現在。こうして彼女の授業を真面目に受け……。

 その板書する指の動き、話し方、声。

 移動する足運び、髪をかき上げる等のちょっとした仕草に至るまでまともに見た。

 結果、ふたつの【事実】に気づいた。


 ひとつは、彼女は【勉学を教えるという意味での、教師】として、とてつもなく優れているということ。

 そしてもうひとつは、その優秀さの根拠となっているものだったが……。

 彼女の、【すべての言動は無駄がなさ過ぎる】ということだった。


 まるで【勤続100年】のごとく――。

 長い年月の果てに残り得た最善の振る舞いを、若々しい肉体で行っているような……そんな感じだった。


     ◇


「……はい。きょうはここまで。あしたからテストです。各自、体調を調えてベストの状態で受けられるように」


 終わりの鐘とともに淡々と告げて、和井津先生は無造作にまとめた髪をわずかに揺らし教室を出る。

 その歩く軌道もまるで線路を進む電車のようにぶれがなかった。


 おそらく、俺がじっと見ていたことは……気づいたはずだ。

 なんの反応も示さないから、つい終わりまでそうしてしまったけど。

 ……しかし。


 俺はもう一度、授業中の彼女の姿を思い浮かべる。

 よどみのない動きと話し方。

 わずかな無駄もない洗練された授業。

 いっぽういつも適当な服装で、常に化粧っ気のまったくない年齢不詳のビジュアル。

 存在感が希薄で、男子にも女子にも、異性としても同性としても……人間としても。

 だれからも興味を惹かれることが皆無だった彼女は――その実。

 透明な衣をまとい、【興味を惹かれないように尽くしてきた賢者】のように……いまは感じる。

 そして、その姿勢は……。

 どこかで――。


 俺は唾を飲み込み、ゆっくりと……。

 横目で、まだ隣に座ったままの風羽を見る。


 まさか……。

 ……いや。……――いや。

 もし【そう】なら、風羽が……ファレイが、なにかしら言うだろう。

 だけど『ラ・ブーム』の店長のときは……。店を利用するというきっかけで話したわけで。

 そういうことがなければ、黙っていたかもしれない。

 風羽が知らない、もしくは気づいていない相手?

 いったい、彼女は……。


「……んだお前、おにぎり一個かよ。わびしー飯だなぁ」


「うっせーなぁ、きょうは金欠なんだよ! ……ってかそのパンよこせ!」


 近くから、クラスメイトのじゃれ合う声が聞こえてきた。

 それで現実へ引き戻された俺はかぶりを振り、思考を打ち消すように机を二度、手で拭いた。

 ……。やめよう。

 ぜんぶ妄想に近い推測だ。

 たぶん、ただちょっと変わった人なんだろう。――きっとそうさ。


 そんな人は、どこにだっている――。


     ◇


 ちいさく息をはき、我ながら、なにをやってるんだ……と頭をかく。

 もしかして、これも一種の現実逃避なのだろうかとも。

 そんなことを、騒がしさを増した昼休みの教室で思いながら……。

 いつものように、ひとり。

 だらんとイスへ身を預けたまま苦笑した。


 そして再度。朝から頭と心を悩ませている案件のひとつ。

 我がクラス、いや、我が校随一の高嶺の花。

 隣の席に凛と咲く【ガラスのバラ】。

【ポーカーフェイス・ビューティ】こと風羽怜花ふわれいかの姿を確認する。


 とつぜんの和井津先生の接触で、しばらく忘れていたが……。

 俺には今日中に……できればこの昼休みに、風羽へ土曜の約束の件を断るという仕事があった。

 

 正直なところ、やはり言いたくない。

 風羽は――ファレイ・ヴィースは……。セイラルおれとの時間を心待ちにしていたから。

 子供のように目をきらきらさせて。

 俺だってガキのころ、じいちゃんに遊園地へ連れて行ってもらう約束が、急な仕事でパーになったときショックで泣いたから。

 高校生の、というか実年齢87の風羽をガキの時分の俺と比べるのはどうかと思うが、おそらくその感情はシンクロしている。


 風羽は……ファレイは。セイラルヤツの前では。

 ちいさな子供同然だったから。


     ◇


 俺は唾を飲み込み、だらんと下げたままの手を握りしめる。

 そして意を決して首を横へまわした。

 風羽はぴんと背筋を伸ばし、なぜかやはり、いまだ着席したまま動かないでいる。

 いつもなら終わりの鐘と同時に立ち上がり、さっさと出て行くはずなのに。

 なにやら表情かおも、ふだんの【教室内での】クールさがわずかに崩れて、ぎこちない面持ちだった。

 ……なんだ?


「風羽さーん! ごめんねお待たせしちゃって!」


 と、クリアな声で風羽のそばへやってくる女生徒がひとり。

 明らかに短くしたスカートに、襟もとのリボンは外してシャツのボタンはふたつ開けている。

 しかし、目の輝きや心地よい声がそうさせるのか。

 だらしないという印象はなく、明るい茶色に染めたショートボブも含めて、なぜかすべての【優等生からの外し要素】は、彼女の健全な活発さを際立たせているという感じだ。


 確か名前は……横岸よこぎしだったか。

 クラスで友達もなく、ほぼだれとも関わらない俺でも、その人柄はなんとなく知っている。

 二年になって二ヶ月足らずで、すでにこのクラスの中心人物、ムードメーカー的存在になっている明るくフレンドリーな女子だ。


「で、朝の話なんだけど。……考えてくれたかな?」


 にこり、首を傾け風羽へ言う横岸。

 正面に立つ彼女と着席したままの風羽との距離は、ちょうど机ひとつ分。

 それがそのまま精神的な隔たりともなっていた。


 横岸は、さいしょは俺にすら絡んでいたような女子で……。

 とうぜん風羽にもちょっかいを出していた。

 しかし風羽は横岸のみならず、クラスのだれとも必要最低限の接触しかせず、結果同じクラスになって1週間足らずで彼女の干渉はやんだ。

 それでも風羽の(自分では自覚のない)圧倒的な美貌や存在感を無視するには、人間は煩悩が強すぎるらしく……。

 クラス内外から、ちょくちょくと男女問わず色々な人間がさまざまな距離感で立ち替わり入れ替わり、なんとかお近づきになりたいとアピールしてきた。

 たぶん今回の横岸も、それの【再開】だろう。

 ちょっと久しぶりではあったが。


 風羽は『朝の話』という横岸の言葉に、ぴくんと頭を動かした。

 いつもならまったく動じずに「ごめんなさい。(以下お断りの言葉)」告げて教室を出て行くのに。

 きょうは姿勢こそ崩していないが、動こうとはしなかった。

 その異変は俺だけでなく、クラスの皆も気づいたようで……。

 いつの間にかわらわらと、少し離れてではあるが、風羽と横岸(と俺。風羽と席の近いほかの生徒はもういなかった)を囲むように男女が集まってきた。


 横岸は、ふだんと違う風羽の様子にこらえきれないように顔をほころばせる。

 そしていけると踏んだのか、無意識か。

 いつの間にか、かなり控えめではあるが風羽の机の端に指を置いていた。

 それはいままでだれもしなかった、【できなかった】ことで……。

「おお~……」「はぁ……~」というような声が、まわりから上がった。


「……ほら、さ。このクラスになって、初めてのテスト明けなわけじゃん? 朝もちょこっと言ったけど、いい機会だし皆で盛り上がりたいっていうか。ボーリングでもカラオケでも、ご飯食べるだけでもいいんだけどー。たぶん皆、風羽さんとお出かけしたいなーって、そう思ってると――思うんだ!」


 笑顔のまま、ずいっ! と距離を詰めてくる。

 おそらくだれにも尻込みしたことがないだろう、さすがの横岸も、かなりびびりながら顔を近づけた。

 ……あんたのその反応は正しいよ。横岸。

 風羽はただの美人じゃなくて……実年齢はあんたの五倍以上で。

【別の世界の住人】だから。


 そして、俺が触れたのはまだわずかだが、きっと――。

 人知を超えた力を膨大に備えた……。


     ◇


 たぶん本能で【自分よりなにかが圧倒的に上】ということを感じ取っているのだろう。

 まわりの皆も、クラスの中心人物である横岸の気後れぶりに落胆したり、小馬鹿にするどころか、『さすがの横岸』と、その勇気をたたえる面持ちだった。

 が、しかし……。


「いえ……。悪いけど、やっぱり……」


 風羽は表情姿勢は変えぬまま、歯切れの悪い返事をする。

 ……おかしい。やっぱりおかしい。

 誘いを断っているのは毎度の反応なのだが、どうにも切れ味が悪い。

 これでは、これまでとの差から、【ちょっと脈あり】みたいに取られかねない。

 それどころか、風羽と遊びに行きたくて仕方ない連中に、『もっと攻めていいよ(そしたら心変わりするかも)』と言っているようにも……。


 果たして横岸は、風羽の机の端に置いた指をとことこ動かして、【風羽エリア】へさらに侵攻、上半身もそれに合わせるように前のめりになった。


「ふ、風羽さんも休日は忙しいのは分かってるんだ! けど、なんていうかさ……。このままだとずるずる遊ばないでいっちゃいそうで! だから初テストの打ち上げ的な今回を機に、んで次からはもっと気軽にっていうかね! ……そういう感じにしたいなって!」


 顔も赤らめ息も荒く、なにかの勧誘よろしくまくし立てる横岸。

 期待を込めて見つめる皆。

 いっぽう硬い表情かおのまま動かない風羽。


 ……いったいなにを迷っているんだ?

 まさか横岸と遊びに行きたくなったとか。

 ……いや、それはない。絶対に。

 どう考えても風羽に……【セイラルに仕えること一色】のファレイに、そんな欲求があるわけがない。

 じゃあなんですっぱり断らないんだ。


 俺は身振り手振りを交えてまくし立てる横岸の声を流しつつ、唇をかみ思考する。

 テスト明けの休みに遊びに行く……。テスト明けの休み……。

 ……。…………ん?

 あれ? ……ちょっと待てよ。


 ……テスト明け?


     ◇


「あの……。……その。実はその日は……。約束があって」


 風羽は、もごもごと答える。

 俺はその【もごもご】が鼓膜を刺激した刹那、背中に冷たい汗が流れ――。

 なんとなく、きょうの風羽の歯切れの悪さ。

 いつもと違う様子の理由わけ――。

【答え】にたどり着いて、顔をしかめる。


 ……横岸の言ってる【テスト明けの休み】ってのは、【土曜日】で。

 それで風羽は……。たぶん、だけど。

 俺との約束を思い出して、朝も……いまなんかとくに。

 近くに俺がいるから意識して、動揺して……――。


 俺は唇に押しつけていた歯を離し、舌打ちする。

 そんな俺のことなど眼中にない横岸は、うんうんとうなずき、言葉を放った。


「分かってる! そりゃ風羽さんの休日がフリーなわけないもん! だから全日じゃなくていいんだ! ちょこーっとだけ、いっしょに過ごせたらなーって。……二時間、ううん一時間だけでも! お相手さんもそのくらいは許してくれるんじゃないかな? ……時間はいつでもいいよ! 夜でも九時までなら大丈夫だし!」


 いよいよ調子を上げる横岸は、「ねーっ!」とまわりの友達らしい男女に声をかける。

 彼彼女らはとまどいながらも、「お、おう」「そ、そうね」と同意する。


 しかし風羽は、――……次の瞬間。

 いままでの歯切れの悪さを吹き飛とばし――。

 まっすぐ、真顔で横岸を見つめて言い放った。


「ごめんなさい。その日は一秒たりともほかの予定を入れたくないの。とても大切な人との約束だから」


     ◇


 教室が水を打ったようにしずまり返る。

 横岸から表情が消えた。


 いっぽう俺は……。

 同じクラスになって、二年間ではじめて。

 おおきく目を開けて、まわりの目をいっさい気にせずに……――。


 はっきりと風羽の顔を見つめた。


     ◇


 音が消えた教室に、外から騒がしい声が流れ込んでくる。

 ほどなく、購買等でパンを買って戻ってきたクラスメイトの何人かがドア口から姿を見せ、異様なしずけさをたたえた教室の様子に驚き、「え……?」「……なにこれ?」と口々に言い合い、ほどなくその原因である人だかりに気づき、自分たちもそれに同化した。


「……あ……。……の。……それって、もしかして……。風羽さんの彼氏さん……とか?」


 横岸が、まったくの無表情でつぶやいた。

 まわりの男女も固唾を呑んで見守っているが無理もない。

 高嶺の花、ガラスのバラ。

 ポーカーフェイス・ビューティ。

 そう形容される風羽怜花には、浮いた噂はひとつもなかったのだから。

 なのでこれはおおげさではなく、密かに憧れるスターにお相手がいたような、そんなニュースを目の当たりにしたようなものだった。

 じっさいは【風羽怜花】ではなく【ファレイ・ヴィース】として。

【彼氏】とかじゃなく、【あるじ】に対しての発言だった、が……。

 そんな常識外の関係など知るよしもない皆は、風羽の発言から読み取れる【相手】に、最もふさわしい単語を想像したのだった。


     ◇


 風羽は、横岸の問いに対してかぶりを振る。

 その反応で横岸以下、皆は呪いが解けたようにため息をついた。

 そしてぼそぼそと「なんだ……」「びっくりした~……」と言い合って、ぎこちない笑顔を浮かべていた。

 風羽ほどの美人。とうぜん彼氏くらいいるだろうと皆は思ってはいるものの……。

 やはり隠れスター的な風羽にそういう生々しい存在がいることは、心情的には認めにくいようで、横岸だけでなく全員安堵の面持ちを隠すことなくあらわにしていた。


「そ、そっかあ……。じゃ、じゃあ身内の方とかかな。それか恩師の方とか。……それだとちょっと、誘いにくくなっっちゃうね。うん……」


 横岸は息をはき、肩を落とした。

 誘いにくくなったことで落胆してはいるが、彼氏がいなかったことの安堵感のほうがおおきかったようで……。なにやらもう、強引に迫るような気迫は消えていた。

 周囲も同じように、どことなく解散のゆるい雰囲気が漂い始める。

 逆に俺は、この解散の【あと】のことを考えて、覚悟を固めていた。


 ……やっぱり駄目だ。

 いかにあれが、セイラルに対してのものであっても。

 緑川おれへの気持ちでないにしても――。

 あれほどの言葉を聞いて断ることなどできない。


 そうなると、バッティングしてしまったすいちゃんとの約束のほうを断ることになるが……。

 それも駄目だ。

 万が一ごまかしきれずに、水ちゃんに風羽とのことを感づかれたら、彼女と風羽ファレイとの距離が近づき――。

 それはそのまま水ちゃんが、【非日常の世界】へ足を踏み入れることになるかもしれないから。

 それだけは断じて避けなければならない。


 なら取るべき行動はひとつしかない。……かなり無茶だけど。

 風羽のほうが、それを受け入れてくれるかという問題もあるし。

 もし断られたら、なんとか頭を下げて別の日にしてもらうが、ともかくいまはそれを伝えることを俺は決めて、解散を待つことにした。


 ……のだが。


     ◇


「家族じゃないの。恩師と呼ぶことすらおこがましい。彼は、私の人生でたったひとつの――。かけがえのない……光」


 風羽の澄んだ声が、緊張の解けた教室に響き渡り――。

 刹那、ブリザードに吹かれたように空間が凍てついた。

 横岸は雪祭りの氷像のように表情かおだけでなく全身が硬直している。

 俺は引きつった顔のまま、風羽の顔を二度見した。


「……あ……。……え……。…………えっ? かれ……。…………えっ?」


 固まった唇を無理やり動かし、ぎこちなく言葉を発するロボット横岸。

 ざわつく周囲。

 自分の席でうつむく俺。

 混沌の最中、心臓が、和井津先生のときとは違う意味で……。

 悪い意味でばくばくと胸を打っていた。


 そんなまわりとは対照的に、風羽はすっかりいつもの落ち着きを……いつも以上の冷静さを、もとい自分を取り戻し、どちらかというと【風羽怜花】というよりも【ファレイ・ヴィース】となっていて、堂々とした面持ちで座っていた。


 横岸は頭を押さえつつ、なんとかひねり出したように再び言った。


「……ちょっと聞きたいんだけど。その大切な人……、【彼】、というのは。……どういう関係?」


 恐れよりも混乱した頭を整理したいという欲求の強まった横岸は、躊躇することなく尋ねた。

 皆もじっとファレイを見つめている。

 俺はロックバンドのドラム演奏よろしくばこばこばこばこ! めちゃめちゃに心臓が打ち鳴らされていた。

 ……ま、まさか主とかなんとか、【こっち】で意味の通じない説明を正直にするんじゃないだろうな……。 

 いや、さすがにそれは……。けど、もしかしたら、もしかする可能性がある。

 セイラルに関してだけは、ファレイは……。適当なことは絶対にしないから。

 現にいまだって、横岸の言葉に合わせれば済む話だったのに……。


 ……。ど、どうする……? ――なにかするか?

 咳払いとか? ……それで伝わるか?

 教室を出てメールするか? ……間に合うのか?

 ……――ええいもう面倒くさい! 思考より行動が先だ!!


 俺は教室を出てメールする案を採択し、立ち上がった。

 が、まわりをよく見ていなかったために歩き出したとたん――。


「……っ!」


 と、近くに立って野次馬を決め込んでいた男子生徒に衝突、俺はすっ転ぶ。

 く、くそ……!

 なんて間抜けなんだ……。早く立ってここから――。


「――!!?? セ、セイラル様っ!! だ、大丈夫でございますかっ!!??」


 次の瞬間――。ファレイが叫び、すぐさま俺に駆け寄って抱き起こす。

 そして呆然とする俺や周囲をガン無視して俺の体をチェックして無事を確認、それからほこりをていねいにはたき落として、おおきく息をはいた。


 いっぽう、頭が真っ白になった俺、は……。

 ふる、ふる……。ちいさな子犬のように、わずかな力を振り絞って、かぶりを振る。

 それでファレイは真っ青になり……。


 自分がなにをしでかしたかを悟った。


     ◇


「…………あ…………。…………あ…………、………………あっ………………」


 ファレイの、全身の震えが伝わってくる。

 俺は数秒間、その震えとともに流れ込むファレイの恐怖の感情を無言で受け止めたのち……。

 脱力した体で、もはや幽霊のような身のこなしでファレイから離れ、そのまま教室を出て行こうとする。

 が、果たして、案の定、予想通り――……。

 後ろから手や肩を六名ほどに、男女の区別なく押さえつけられて、その行動は阻止された。


「……ちょっと待てよ。……緑川。だっけ?」


 肩をつかむ男子が、後ろからつぶやく。

 この野太い声はサッカー部の小川おがわ……だったか。

 初めて話しかけられた、な……。


「……そうだけど。それがなにか?」


 俺は淡々と答えた。

 やけくそというか……。もう好きにしたら? という、そんな感情から発せられた声。

 小川はそんな俺の言い方が気にくわなかったのか、舌打ちしてから続けた。


「お前、風羽さんとどういう関係なんだよ。……い、いまの風羽さんの態度。まさか、さっき彼女が言ってた大切な人っていうの……。……おっ、お前じゃないだろうな……?」


 お前だったら許さねえぞ……、という気迫を肩に伝えてくる小川。

 そんなこと言われても知らんがな……、という俺。

 もはや怒りも悲しみもなく、ただただこの場を離れたかったのだ……。


「ちょっと! ちゃんと答えてよっ!! さっきのセイラルってなに!!?? 意味不明なんだけど!!」


 右腕をつかんでいる別の女子が叫ぶ。

 このきんきん声は吹奏楽部の塩田しおたか。

 一年のとき同じクラスだったから、話したこともある。

 たぶん半年ぶりだな。

 久しぶりに話しかけられたが、むっちゃ怒ってるよ……。


「……あー……。それな。……それはハンドルネームだ」


 俺は力なく返した。

 別になにか策を講じたわけでなく、ほんとうのことだったから。

 疲れた口からぽろりと出た。


 さいきんは……っていうか。俺の別名が【セイラル】と判明したあの日以降から、セイラル名義のネット活動はやっていない。

 このぐうぜんとは言いがたい名前の一致は、風羽の言うことを信じざるを得なくなったわずかな要因にもなった。

 なんとなく格好良いと思ってつけた過去の俺を殴りたいが、無意識だとしたら怒りよりも絶望のほうおおきい。


 塩田は「はあ? なにそれ!? ますます意味不明だしっ!」と怒りを強める。

 たぶんハンドルネームの意味が不明なんじゃなくて、それがファレイ……風羽と関係あるのかってことのだろう。


 俺はぼんやりと風羽を見る。

 人に囲まれ、床に座り込む風羽はもはや心ここにあらずで……。

 いまにも倒れそうなのを、なんとかこれ以上騒ぎをおおきくしないために、気力のみでこらえているような。……そんな感じだ。


     ◇


――そいつは甘ったれで泣き虫で――


――どうしようもないガキだが――


     ◇


 きのう、ファレイと接していたときと同じように、セイラルヤツの声が蘇る。

 そして、きのうよりもこの言葉の意味が……身の内側からしみ出てきて、緑川晴おれを直接叩いてくる。

 ほんとうにどうしようもないよ。……お前は。


 セイラルおれに関してだけは。


     ◇


――その日は一秒たりともほかの予定を入れたくないの――


――とても大切な人との約束だから――


     ◇


――彼は、私の人生でたったひとつの――――


――かけがえのない……光――


     ◇


「……ふ。……ふ……っ。……――はっ」

 

 俺は笑みをこぼし、自分を押さえつける男女の手を振りほどいた。

 そしてくるりと方向転換、皆へ向き直り……。

 おおげさにため息をついて、口角を上げたまま全員を見まわした。

 その反応に、クラスメイトたちは怪訝な顔をする。


「……は? なにがおかしいんだよ」


「こわ……。なんなのコイツ……」


 その他、似たような侮蔑、困惑の言葉がぼそりぼそりと辺りを埋める。

 それでへたり込むファレイの目にだんだんと怒りの火が灯り始めたので、俺はわざとおおきな声を上げて話し始めた。


「……なにがって、これが笑わずにいられるかよ。『セ、セイラル様っ!! だ、大丈夫でございますかっ!!??』――だぜ? どこの時代劇だっつ-の。……確かに罰ゲームの内容にはかなってるけど」


「…………罰ゲーム?」


 小川が眉をひそめて言う。

 俺はうなずき、自分と、呆然とこちらを見つめるファレイを指して言った。


「そう。風羽と俺はネット上の知り合いでな。リアルで同じ学校……どころか同じクラスの隣の席だと知ったのはさいきんなんだけど。それまではけっこう長い付き合いがあったんだよ。……んで、ふだんネットのゲームとかで負けたりしたときに、罰ゲームを実行することが、俺たちの【ならわし】で。この間トランプで負けた風羽が、【なにか突飛なことをやって俺をびっくりさせる】っていうことになった。俺、あんまびびらないからな。難易度高いぞとは言ったけど。……さすがに予想斜め上過ぎたわ」


 一気にまくし立て、笑う。

 怒りや驚きがまぜこぜになったクラスメイトたちは、ただ立ち尽くし、口と目をおおきく開けていた。

 座り込むファレイも……。

 俺は固まる皆を改めて見まわしたのちに、ファレイを見て続けた。


「つーことで、マジびっくりしたから。今回のゲームのヤツも、もうお前の勝ちでいいよ。……あと大切な人との用事? あるみたいだから、週末はネットのほうはいいわ。……んじゃな」


 そう言って、俺は自分の机にかけた帆布はんぷ鞄から青の弁当包みを取り出し、カカシ状態のクラスメイトを避けつつすたすたと出口へ向かう。

 そんな俺を尻目に、背後では少しずつ声が上がり始め……。だれかの、


「風羽さんって、SNSとかやってるの……?」


 という遠慮がちの声を契機にどっと沸き――。

 風羽を遠巻きに取り囲んでいたクラスメイトたちは、いっせいに一歩踏み出すと、「ツイッター!? インスタ!?」「まさかのお絵かき系とか!」「あたしは絶対インスタだと思う!」「ってか風羽さん風羽さん、俺のアカウントはさ~っ!!」等々、いままでの恐る恐るが木っ端みじんに消え失せたように、風羽へ矢継ぎ早に質問を浴びせまくっていた。


 ……。いかにリアルの付き合いではなかったとはいえ、【俺程度】が関わりを持っていたということで……。

 風羽への恐れが薄れ、それで【近づきたい】という煩悩が一気に噴き出し――。

 結果、極端に風羽へアクセスするハードルが下がったようだった。

 ……悪いがこれはどうしようもないな。まあ、風羽ならうまく対処するだろう。

 セイラル以外のことなら、な――。


 俺は弁当包みを持たないほうの手で、ポケットからスマホを取り出す。

 果たして橋花はしはなの《遅い!》コールでライン画面が埋め尽くされていた。

《オタクがオタオタうるせえから早く来い》という伊草のひと言も。

 ……こっちはこっちで、話があったんだった。

 風羽はいまあれだし、土曜の件は放課後だ。

 もしかしたら、いま以上に近づきにくくなっている可能性もあるが……。

 そしたらまた、『ラ・ヴーム』で落ち合うことを頼んでみるか。


 俺はスマホの角で頭をかいて、教室の外へ出る。

 が、そのとき――。


「……!?」


 弁当包みが後方へ引き戻され、俺はよろける。

 振り返ると、包みの結び目を持つ俺の手をわしづかみにし、目を見開いて俺を見つめる……。


 横岸の顔がそこにあった。


     ◇


「……。なに?」


「………………」


 俺の問いかけには答えず、無言で顔をのぞき込み見つめてくる。

 歯を食いしばっているが、あまり怒りの感情は感じない。

 なにか言葉にしたいができないという様子だった。


「……あんた。風羽を誘いたいんだろ? 早くしないと先を越されるぞ」


 そう投げやりに言葉を放ると、横岸は、「……んなんいまどうでもいい……」とぼそり漏らし、俺が訝ると目を開いて言った。


「あんた……。緑川……、……――なんだった?」


「……。なんだったって、なに」


 俺の返事に、横岸は舌打ちした。

 鈍いなすぐ分かれよ、というふうに。

 ……名前のことか。


「……さっき聞いただろ? セイラルだよ。【緑川セイラル】。……思い出したか?」


 横目で見て返す。

 その言葉に、横岸はぽかんと口を開けて……。

 間もなくぶるぶると全身を震わせる。

 そしてあっという間に、白い頬が真っ赤になった。


「……――なっ……! あっ……、ふ、ふざけてんなっ! こっちは真剣に……!!」


「ふざけてねえよ。こっちだって真剣だ。あんたに言ったって分からないだろうが。……んじゃ、急いでるから」


 そう言って、俺は弁当包みを強く引き……。

 背中で「――ちょっ、ちょっと待ちなよ……!」と言った横岸の叫び声を聞きながらも――。


 もう振り返らずに、さっさと廊下を歩いて行った。

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