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第21話 隠された想い、表れた想い

 俺の一日に、音のない空間じかん――は、ほとんどない。


 じいちゃんお手製目覚ましの、けたたましいベルによって一日が始まり、身を起こせばベッドのきしむ音、伸びの声にあくびの声、窓からは朝の声。パジャマを脱ぎ捨てる音、制服へ袖を通す音、ドアを開ける音、階段をおりる音……。


 そしてキッチンに入れば、じいちゃんの「おはよう」。

 俺の「おはよー」。


 その後もたわいのない会話、テレビの音、トースターの音、皿の音――。要するに、途切れることなく、音というものは、俺の生活に密着しており、たとえ部屋でひとりしずかに寝っ転がり、目を閉じていても呼吸音が、というふうに、好む好まないにかかわらず、切り離せないものとなっている。


 しかしいま――ときおり。

 まったくの無音になる瞬間じかんがあった。


「……」


「……」


 しずかに向き合う、俺と風羽ふわ

 注文したメロンソーダは、すでにテーブルの上、双方の前に置かれていた。

 風羽も俺の言葉に従って、同じLサイズ。

 俺がひと口飲んだあと、うながすと、彼女は細い指で紙コップを持ち上げて、一度だけ口をつけた。


 けど、それからは……。

 風羽は、言葉を発することはおろか、身動き一つすることなく、まっすぐに背筋を伸ばし、きちんと揃えたヒザの上に白い手を置いて、なにかを考えるように、くうを見ていた。

 呼吸すらしていないように見える。


 そんな風羽の様子と、この部屋――。

 どこにでもありそうな、リビングルーム……に見えて、その実、外界とつながっている気配がほとんどない異空間――にいるせいで、俺の緊張はいよいよ高まり、息をするのも最低限となり、……結果、鼓膜を刺激しない瞬間が、何度か訪れることとなった。


 また、さきほど店長がジュースを持ってきたとき、彼はやはり、にこやかな態度を崩してはいなかったが、部屋を出る際に、一瞬だけ俺たちを真顔で見たことも、俺の緊張を高める原因となっていた。


 干渉しないといっても、多少、気にはしているのだと。

 そしてそれは、フレンドリーでひょうきんな、馴染みの店の店長……という日常から外れた素顔かおで、魔法界というもの、非日常というものが、俺の日常に浸食してきているというあかしにもなっていて、俺にとっての日常の代名詞である【音】が【喰われる】という状況につながっていた。


 だが……。それもようやく――。


     ◇


「……。あの……、……セイラル様」


「……。ああ……」


 どのくらいぶりだろうか、の音。

 返事とともに、顔を上げると、黒曜石がふたつ、こちらへ輝きを放っていた。


 俺は、その光を内側へ吸い込むように、一度おおきくまばたきし、開いた。

 風羽は、まばたきしないまま、再び口を開いた。


「……今回、お渡ししたいものがあると。そうお伝えして、こちらへ来ていただいたのですが……。正確には、【お返しする】、ということになります。そして実は、ほんらいは、そうするべきではない……、というふうに、私は考えています」


 丁寧に言葉をつむぎ、風羽は言い終えた。

 俺は無言で、しばたたく。


「元々、それは私がセイラル様から頂いたもので……。あの日――。こちらの時間でいうと75年前に相当するその日から、肌身離さず身につけていたものなのです。……もはや私の体の一部と言ってもいいほどに」


 風羽は胸を押さえた。

 オレンジの、リボンの下で重なる白い手が、制服をつかむよう、わずかに動いた。


「……。それくらい大事なものだから、返すべきじゃ……、手放すべきじゃないって、考えてるのか?」


「……いえ。もちろんそれもありますが……。それとはまた、別の……」


 風羽は、ちいさく答えた。

 目は、こちらへ向いてはいなかった。

 俺は頭をかき、ため息をつくと、続ける。


「……。その……、【別の理由】ってのがあって、返すべきじゃないと考えているのに、いまこうして返そうとしてるってことは……。よほどの事情ことがあるっていうふうに、取ることになるが。……そういうことなのか」


「……――はい」


 風羽は、ゆっくり、そう返したのちに、ふたつの白い手を首筋へまわして、リボンを外し、テーブルへ置いた。

 そのあと、襟シャツの第一ボタンに指を触れると……。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……、無言で外し始めた。


「……!? ――ちょっ……――」


 思わず漏らした俺の声を無視して、風羽は指を下へおろしてゆく。

 それからほどなく、シャツの無機質な白とは違う、あたたかな白がゆっくりとのぞき始め……、ボタンが四つ、外されて、彼女の指が離れたときに、はだけたシャツから、花柄の白いレースに包まれた、豊かな膨らみがあらわになる。

 そして、その上には、銀色の……よく見ると、内側は、うっすら緑色を帯びている……ちいさな十字架が輝いていた。


 風羽は、言葉を失い硬直する俺をよそに、再び首筋へ手をまわし、目をこらせばようやく視認できるほどの細い鎖を外し、しゃらり、かた……と音を立て、そのネックレスを、リボンの向こう側――俺の眼前へ置いた。


「こちらは魔具まぐと言って、魔術士があつかう、魔力をそなえた道具です」


「……。ま、ぐ……?」


 俺の阿呆のようなつぶやきに、風羽は、うなずいた。

 そして淡々と、話し続ける。


「魔具には主に、戦いに関するものと、それ以外、生活の利便性を高めることを目的としたもののふたつがあり、こちらは、どちらかといえば前者に相当する品で……。セイラル様が、私のために創ってくださった、世界にひとつしかないものです」


 風羽の声が、少しだけうわずる。

 瞳は俺をまっすぐに捉えていて、なにかを訴えているようでもあった。


 創った……。

 俺が……。


「……。手に、とってもいいか」


「あ……っ、――はっ、はい!」


 風羽は慌てて答え、俺はその声に合わせ、ゆっくりと鎖を持ち上げた。


 俺の目前でまわる、きらきらした十字架は、一見どこにでもありそうなアクセサリーだった。

 しかし、その二色――外側の銀、内側の緑――は、間近で見つめれば、俺がよく見慣れたそれらの色とは異なり、――この世の色で例えるなら、緑と銀だよ――とでも言いたげな、未知の光を放っていた。


「……我々魔術士は、皆、魔力を有しているのですが、その質はそれぞれ異なっており……、それを端的に表すのが、魔色ましきと呼ばれる、魔力の色です」


「……色?」


「はい。基本の【赤】【青】【黄】【緑】【紫】【黒】【白】……のほかに、特殊な魔色として、【金】【銀】【水色】【黄緑】【オレンジ】。……その、十字架の外側が放っている【銀】は、私の魔色。そして、内側の【緑】が、……セイラル様の魔色です」


 風羽は、指で示しつつ、話した。

 そのあと、俺が空いた手で、十字架をじかにつかみ、見つめると、続けた。


「セイラル様は、私の魔力と、ご自身の魔力を、特別な術式によって物質化されたのち、十字架として合成され……、その銀の鎖によって押し固めました」


「押し固める? ……くっつけたってこと?」


「魔具として成立させるための、鍵をかけた、ということです。なのでその鎖がちぎれたりして十字架から離れると、一定時間を過ぎれば術式が解除され、十字架は形をなくし、元の魔力体へと戻り、私やセイラル様へ吸収されます」


 丁寧に、風羽は説明した。

 ……よく分からないが、鎖が切れたらパーになる、ってことか。

 そんな丈夫そうな鎖には見えないけど。


「ちなみに、その鎖は銀色ですが、私の魔力からなるものではなく、金属の色です。よく見れば、輝きが違うので、お分かりになると思います。……なので、セイラル様が身につけられても、影響はありません」


「……。あんたの魔力でできてたら、影響があるのか?」


「質が違う魔力に、長い時間に渡ってじかに触れ続けると、なんらかの変化が、自身の有する魔力に現れます。それは良い変化の場合も、そうでない場合も、さまざまですが、私がセイラル様からお聞きした……教わったのは、【やめておけ】……、というものでした」


 風羽は、やや声を落としてつぶやく。

 俺は、そんな彼女の様子と、十字架を交互に見ていたが、はたと気づいて、言った。


「いや、ちょっと待て。この内側の緑は……、【セイラルおれ】の魔力でできてるんじゃないのか? あんた、ずっと身につけてたって言ってたけど……。大丈夫なのか。それに、俺がこれを持つとしたら、外側の、銀のヤツは……」


 しばたたき、言葉を投げる。

 風羽は、落ち着いたまま、言葉を返した。


「それは、セイラル様の魔力と、私の魔力を有していますが、外層がいそうには、身につけている者の魔力に引かれて、同質のそれが表出します。私が身につけていれば、私の魔力が、セイラル様の場合は、セイラル様の魔力が、というふうに」


 そう言って、十字架へ指を差す。


「いまは外した直後なので、銀が外になっていますが、セイラル様が身につけられたら……、おそらく丸一日ほどで、緑が外へ移動すると思います。内側の魔力体は、外側のそれによって、完全に遮断されますので。……大丈夫です」


「そう、なんだ……」


 俺は、唖然として、鎖を、テーブルにゆっくりおろした。

 ……なんか話を聞いてると、すごいものに感じるんだけど……。

 ほ、ほんとうに大丈夫か?


 青ざめて、俺が再び、細い鎖をつまんだり離したりしていると、なにかを察したのか、風羽がちいさく、声をかけた。


「その鎖は、魔法界あちらで1、2を争う硬い金属を、セイラル様が加工して創られたものですから。めったなことでは切れることはありません」


「……。【セイラルおれ】は、魔術士じゃないのかよ。なんかいろいろできるんだな……」


「セイラル様は、魔術の創術者、魔具の開発、製作者としても高名こうめいな方ですから。……私の保有する術式も、セイラル様が創られたものがほとんどです」


 風羽は、ヒザに置いていた手を重ね、指をつかんだ。

 目は、その交わった白い指を、じっと見つめていた。


 俺は、鎖をいじりつつ、ぼんやりと風羽へ視線を向ける。

 が、ほどなくして、鎖をつまんでいた指を離し、音が鳴ると、それに合わせるように、風羽が言った。


「……今回、そちらをお渡し……お返しする、と決めた理由として。ひとつは、以前ご説明差し上げた、『ややこしいことが起こる可能性』を考えた結果、……ということがあります」


 俺は、目をおおきく開いた。

 そんな俺に視線を合わせて、風羽は続けた。


「その品は、【アヴィクート】と呼ばれる、魔力を感知する魔具の一種ですが、セイラル様が創られたそれは、どんな魔力でも探知できるわけではなく、私と、セイラル様の魔力を探知することに特化したものなのです」


 風羽は、「失礼いたします」と言って、鎖へ手を伸ばし、持ち上げ、自分の手のひらへ十字架を置いた。

 そのあと、目を閉じた。


「いまから、少し強めに魔力を放出します。なにかを感じたら、仰って下さい」


「……わ、分かった」


 とつぜんの言葉に、やや動揺しつつ、俺はうなずいた。

 そして唾を飲み込み、唇をひとなめした瞬間――。


「……。――……うっ!」


 突如、腰から背中にかけて電流のようなものが駆け上がり、後頭部の髪の毛を引っ張られたような感覚に襲われ、思わず振り向いた。

 しかしうしろにはだれもおらず、白い壁だけが目に映っていた。


「……なんだいまの。……もしかして、マジで、さっき言ってた、あんたの……」


「はい。……現在のセイラル様は、以前ほどの探知能力はないと思われますので、やや強めに出させていただきましたが……、大丈夫なようですね」


 どこかほっとしたように、にこやかな笑みを浮かべて、十字架を置いた。

 い、いや……。別の意味で大丈夫じゃないんだけど。

 魔力を感じたってことだろ? ……俺があんたの。

 それは要するに、やっぱり、いまさらだけど、俺のことが、与太話ではないということで……。


 頭で理解【する】ことと、体で実感【させられる】こととの差を、改めて感じ……、俺は再び異様な部屋を見まわしたのち、ため息をついた。


「いま感じられたように、この【アヴィクート】を用いれば……、自身の魔力を高める、あるいは高まった際に、私が身につけていればセイラル様へ、セイラル様なら私へ、その所在地を伝えることができます」


 俺の引きつった顔を尻目に、風羽は説明を続けた。


「セイラル様の魔力は、外へ解放されている分は、現在は5以下……ほぼないに等しい数値と思われますが、内側へは、おそらく元のそれが消えずに封印されているのが妥当だと考えます。なのでセイラル様の身に、生命の危機を感じるほどの、なんらかのことが起こった際、その内側の魔力が呼応して高まり……【アヴィクート】へ伝わって、……私へも伝わるのではないかと考えています」


 風羽は、十字架へ目を落とす。

 俺は、その銀色の、不思議な輝きと、黒曜石のそれを交互に見た。


「その際は、すぐさま駆けつけます。なるべく目立つようにはしないつもりですが、魔術を発動すれば、人間では叶わぬ時間で到着できますから」


 真顔で言った。

 俺は下唇をかんだのち、息をはこうとして、ふと尋ねた。


「……。月曜きのうの朝、俺が電話したら、チャリで飛んできたけどさ。あれはどうやって場所が分かったんだ? これがなくても、なんか分かる方法でもあるのか」


「当時の時間、ご自宅の場所、背後から漏れる音からセイラル様の所在地を推測し、複数点を割り出したのちに、それらの地点へ、あなたの魔力に反応する、私の魔力の粒子を飛ばして探し……。判明後、魔術をほどこした自転車にて、という次第でした。……この方法だと時間がかかってしまう上、セイラル様がお電話等で、情報を発信できぬ場合には、役に立たないので、……こちらを」


 風羽は、十字架を見やった。

 ……魔力の粒子云云はともかくとして。時間帯とか、背後から漏れる音とか……。

 推理ものに出てくる探偵かよ。


 ……っていうか、あの爆走チャリは、魔術ブーストだったのか。

 あれで目立たないように押さえてたって……。

 人目を気にしなけりゃ、屋根伝いに走るとか、空飛ぶとかできるってことか? ……。


 引きつった顔で、息をはき……。俺は十字架を見つめたのち、また手にとって、砂を流すように、鎖を手のひらへ落とす。

 それから、軽く握った。


「……ひとつは、って言ったよな。いまのが。これを返す理由わけの。……俺の危険を探知する以外の理由は?」


「……。それは……」


 風羽はしばたたき、口ごもる。

 俺は、黙ってその様子を見ていたが、やがて息をはいた。


「……分かった。これも言いにくいなら、別に言わなくて……」


「い、いえっ! そういうわけには! ……し、しかし……」


 風羽は、俺の言葉を遮って声を出すが、そのあと、唇をかんで、ヒザの上で手を握りしめる。

 表情かおは、子供が親に怒られることを恐れるような、そんなふうだった。


「……やっぱいいよ。なんか事情わけがあるみたいだし。いまのだけで充分、必要性は分かったから」


「……あ……っ、――あの!! セイラル様!! 実は、私は……!!」


「――ファレイ・ヴィース」


「……!? は……、――はっ!!」


 風羽……もといファレイは、ソファをおり、俺の側へ寄るとひざまづいた。

 俺は頭をかきつつ、言葉を放った。


「あんたが【セイラルおれ】のことを、従者として、すごく心配している気持ちは分かっている。たぶんそれは、俺の想像をはるかに超えるものだとも。そんなあんたが、【セイラルおれ】の身を守るためのものを、すぐに渡さずに、いままで迷っていた……っていう時点で、並々ならぬ事情があるってことくらい理解できる。いくら従者だからといって、なんでもかんでも馬鹿正直に話す必要はない」


 風羽は眉を下げて、金魚のように口をぱくぱくさせていたが、俺が、「……これは命令だ」と告げると、すぐに真顔に戻り、「――はっ!!」と頭を下げた。

 ……どんだけやられても、これは慣れる気がしないな……。


「……んじゃーこの話は終わりな。……ほかにはなにかあるのか?」


「あ……、い、いえ……。そちらをお渡しすることと、その説明のために来ていただいたの……で」


 風羽は、頭を下げたまま、答える。

 表情かおは見えなかったが、ひざまずくその体からは、どこか申し訳なさそうな空気が漂っていた。


     ◇


――そいつは甘ったれで――


――泣き虫で――


――どうしようもないガキだが――


     ◇


 ……いまでも。


セイラルアイツ】が、ファレイに対して言ったことには、腹が立っている。

 ……が。


 きょうまで三日、ファレイと接してきて、【セイラルヤツ】の言うことも……。

 少なくとも、【セイラルヤツ】がどういうふうにファレイを見てきたか、感じてきたか、ということは、ちょっとだけ分かったような気がした。


 そして、……いや。【だから】。

 もし、いま、ここに【緑川晴おれ】でなく、【セイラルアイツ】が立っていたのなら……。

 たぶん、こんなことをするんじゃないか、ということも。


     ◇


「……ファレイ。ちょっといいか」


「……! は、はい! なんでしょ……、――!!」


 俺は、顔を上げたファレイの、両方の頬をつかみ、ぐいーん、ぐいーん……と横に引っ張る。

 美しい顔が、見るも無慈悲に崩れ去り、……おおきく見開いた目がくるくる動き、七変化――。ディフォルメのきいた漫画キャラのような、愛くるしい表情かおとなっていた。


「? ? ????? ふぉ、へひはふはは!!!? はひほ……!!!???」


「……なに言ってるか分かんねー・よっ! ははは! やっぱりどんな美人でも、これやったらこうなるわな」


 いたずらに笑い、俺は、たてたてよこよこまるかいてちょん、と遊び……、しばらくのち、混乱しつつもなすがままになっているファレイから、手を離すと言った。


「死ぬな、以外にもうひとつ命令だ。……あんまり俺を甘く見るな。【お前】が俺に、その実なにを隠していようが、こっそりなにを思おうが、行動しようが……、俺をどうこうできるわけないんだからな。だって主なんだろう? 魔神と呼ばれるほどのさ。超えられる道理があるかよ。――以上! なにか反論はあるか!」


 ファレイは、呆然として、俺を見つめた。

 だが、やがて、ひとかけら、瞳に光が戻ると……。

 またたく間に、その輝きは顔いっぱいに広がって、ファレイは何度もおおきく口を動かすと、言った。


「……――いっ……、――いえっ!! いえいえいえいえいえいえいえ!!!! とっ、とうぜん至極にございます!! その通りですっ!! セイラル様は世界一の、――いえ、宇宙一の……!! 私のあるじなのですから!!!」


 身を乗り出し、目をきらきらさせて、引かれたせいで赤くなった頬を、さらに真っ赤に染め上げて……。ちいさな子が、はじめてたんぽぽを見つけたときのように、輝いた表情かおを俺へ見せる。

 俺は、そんなファレイにつられるように、笑みをこぼした。

 ……やっぱり、こっちのがしっくりくるな。俺には。

 クールビューティよりは……さ。


「……さて、と。用事が終わったのなら、帰るとするか。……なにかあればまた連絡してくれ」


「――はい! 仰せのままに!!」


 満面の笑みで、さらに従者然として答えるファレイ……もとい、風羽は、素早く立ち上がると、ソファの横へ置いていた自分の革鞄を開けて、ハンカチを取り出して……。俺の黒い帆布はんぷ鞄のほこりを、丁寧に払い始める。

 俺は苦笑しつつ、息をはいた。


「……ってか、いま何時だ。けっこう経ったような気もするんだが……」


 手首をまくる前に、なんとなく辺りを見まわすが、果たして四方を取り囲む白い壁には、時計などかかっておらず……。

 すみの木製チェストにも、一輪挿しがあるのみで、置き時計はなかった。

 ……ここはきちんと時間が流れているのか。

 外に出たら、浦島太郎……なんてことは、ないよな……。


 唾を飲み、そんな不安を打ち消すように、左の手首を持ち上げて、銀時計を確認する。

 4時44分だった。


 ……あんまり経っていない……のか?

 それより、なんちゅう不吉ベタな数字だよ。

 俺、きょうの運勢どうだったっけな……。


 時計を隠すように腕を振り、それから立ち上がる。

 すると目の前に……、ではなく目の下に。

 ひざまずいた風羽が、俺の鞄を持ち、待機していた。


 俺は、「あ、ありがとう……」とぎこちなく言って、風羽へ手を伸ばした。

 風羽は先ほどまでの子供顔はもう消して、いつもの、従者然とした態度で、俺へ鞄を差し出した。

 俺は両手でそれを受け取り、おおきく息をはいて、肩へ引っかけて斜めがけする。

 ……が、そのとき――。


「……。……あの……。ちょっといいか」


「……はっ! なんなりと!」


「少し……、というか、かなり言いにくいことなんだけど……。どうか落ち着いて聞いて欲しい」


「……はっ! ご心配なく! なにであろうと、セイラル様のお言葉はお守りしますゆえ!!」


 はきはきと、堂々とした声が返ってきた。

 俺は、なんとかそれを支えにして……。

 あちこち視線を泳がせつつ、やむなく言葉を続けた。


「……。……。………………ふ、く。……のこと、なんだけど、……さ」


「……? ふく……、ですか。……それは、衣服のことでしょうか」


「うん。……お……、あんたの。……服のことなんだけど」


「……は。……私の……。ですか」


 風羽は、しばたたく。

 俺は耐えきれなくなって、完全に横を向いて、……言った。


「……魔具を外してから……。ボタン開いたまま……」


「……。………。……………………」


 沈黙が、耳をえぐり始めた。

 風羽がいま、どんな表情かおをしているのかは、知らない。

 知りたくもなかった。


「…………っ、…………っっ、………………いっ……、の……」


「……。俺は……、いま、気づいたから。……ぜんぜん、その……、見……て、は……い」


「う………、っ……、っぐっ………、………ぐぐっ……!」


 ……心なしか、空気が揺れている気がする。

 地面も。

 っていうか、心なしじゃない。

 だってメロンソーダがあふれ始めてるもん……。


 俺は、恐る恐る……体はそのままに、視線を戻した。

 風羽は、ひざまずいたまま、真っ赤な顔で、ひとつ、またひとつ……上からボタンを止めようとしていた。

 しかし手が、尋常じゃなく震えていて、いつ零れてもおかしくないほど目には涙、そして、耳も首も、いまだのぞく肌も、トマトのように真っ赤に燃え上がり……、指は空振りが続き、作業は遅々として進んでいなかった。


「……わっ……っ、……セイ……、はし……、なんと……、し……、おろ……」


「……あの……。俺、向こうに行ってるから。……終わったら呼んでね」


 優しく言って、なるべく音を立てずに早足で隅へ行った。

 そして神に懺悔ざんげするように、ごん、ごん……と壁に頭を打ちつけていたが、ガゴッ! ガゴゴゴ! ……といった、テーブルが床へ激しく衝突するような音が、遠くから聞こえてきた。

 ……部屋全体が揺れていた。

 まずいのかもと思って残ったが……、やっぱり外へ出たほうが、よかったのかもしれない……。


 ……っていうか、さいしょ、なんにも動じずに、ボタン外してたのは、なんなんだよ!

 魔具を渡すときのあれこれがおおきすぎて、そんなことは、どこかへ飛んでたってことか?

 まあ俺も、話してるうちに、そうなっちゃったけどさ……。

 …………よく考えたら、いまさらだけど。

 風羽怜花れいかの、あんな姿を……。


 急に心臓が、ばこばこと、荒れ狂ったリズムを刻み始めた。

 絶っっ対に、だれにも言えない……(言ったら男女かまわず誰かにられる)。

 ……どえらいことをしてしまったような気が、する……。


 ……と、いうような。

 そんなこんなを考えて――。約10分後。


「……ラるさマ」


 ……という、か細い声が耳に届き……。

 俺は深呼吸して鼓動を確認したのち、後ろ向きのまま、テーブルへと戻った。

 目の端に、ソファが映ったのを確認してから、ゆっくりと、振り向き、風羽の様子をのぞき見る。


 テーブルの前で、いまだ赤い顔のまま、目に涙をためたまま、うつむき、正座していた。

 シャツのボタンはとめられていたが、……一段ずれている。

 唇は閉じられたまま波打っており、いまにもなにかはき出しそうなのをこらえているようだった。


 俺は、テーブルに置かれた濡れたハンカチと、そばの、メロンソーダが入っていたはずの、ふたつの、重ねられた紙コップを見やったのち、なんとか平静をよそおって、風羽の前に立つ。


 風羽は、俺の影に覆われたあと……、ぎ、ご、ぎ、……油の切れた古いロボットのように顔を上げ、口を開いた。


「……。……あ……の……。セイラル……しゃ……、しゃま」


「……なんだ」


 なるべくあるじ然としてこたえた。

 なんかそれがいたわりのような気がしたからだ。

 

「……。……わ……、わたしゅい、の、このしっちゃい……、について、でしゅが」


「……どうした」


「……ふらちゅいの、せきゅいん、を、とり……。この、身ぅい、を……、塵と化しゅる……こ、ちょ、わ……」


「――――絶対に駄目だ」


 俺は、はっきりと告げた。

 正直、なに言ってるかよく分からなかったが……。

 そう言わなければヤバいと思ったからだった。


「……。そう、でちゅ、か……。そ、うでしゅよ、ね……。……そう言われ、ま、しゅた……もの……」


 風羽は、何度もうなずきながら、腰を上げ……。ヒザを立てたところで、また何度もうなずいて……。

 そこから立ち上がろうとした――ところで、ズガゴーン!! と音を立ててテーブルに突っ込んですっ転び……、――撃沈した。


「……!!!?? お、おいーーーーーーっ!! しっ、しっかりしろーーーーーーっ!!! ……きゅ、救急……じゃなくて、――人っ!!!!」


 俺は慌てて床に落ちたボタンを拾い、16連射と言わんばかりに連打して……、店長へ助けを求めた。


 そうして、新たな注文が入ったと上機嫌、「……んひほるほれ~♪ ありがとーございまーっす!!」と、鼻歌まじりにやって来た彼は、ひっくり返ったテーブル、転がる紙コップ、そして泡を吹いて倒れる風羽――を目の当たりにすることとなり――、


「――なっ!! なにがあったんですかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」


 と、青い顔で俺に叫んでから、必死に風羽へ呼びかけたり、どこかへ電話したりし始めた。


     ◇


 けっきょく……その後。


 幸い、風羽はすぐに目を覚ましたが……。

 それから店長に土下座百連発、俺に千連発をかまし始め、しばらく、俺はソファから動けなくなり……。


 店を出たのは、六時をまわってからだった。

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