第17話 ……そう呼んでも、いいですか?
カーテンの水色が、ふわりと揺れて窓辺に戻る。
空は、わずかにくすみ始めていた。
俺は水ちゃんへ、再び目を向ける。
彼女は、しずかに喉を潤していた。
俺は、瞬き、視線を落とし……。
そして手元の、緑色の甘い液体の中を動きまわる泡粒を見つめたのち、顔を上げた。
「……。……気には、なる。……な。……正直。――……けど、その前に」
俺はグラスを持ち上げ、おおきく傾ける。
からりと音が鳴り、氷が唇に触れた。
「水ちゃんが、そんなふうに聞くってことは……。夕凪があのとき、俺に、水ちゃんとの会話を話していないと見当をつけたか、それを知っているからだろ」
「……はい」
短い言葉が、耳を伝う。
俺はグラスの水滴をのばしながら、続けた。
「……アイツはさ、水ちゃんと話したことは、いつか水ちゃん自身が俺に話すだろうから、自分からは言わない、って言ったんだ。……大分先のことになると思う、……とも、言ってたけど」
水ちゃんは無表情に、こちらを見ている。
そして、視線を動かさぬまま、手の中にあった濡れた透明の器を、座卓へおろした。
「……で、俺は……。その大分先になる、ってことは、よく分からなかった。すぐに聞いてくると思ったんだ。いつもそうだったから。……でもそうはならなかった。……どころか、前とはいろいろ変わってしまった」
器の端をじっと見る、彼女の上下の唇は……。
元からつながっているように、閉じられていた。
「敬語になったことや、……疎遠になったこと。なんでだろうと思ってた。……でも、水ちゃんが敬語を話し始めたときに言ってたように、高学年になったからとか。……けっこうふつうの、自然のなりゆきかもしれない、というふうにも思った。……そもそも俺たちは、親戚でもない、歳の離れた、たまに会う幼なじみだし。そういうものなのかもなって。……というか、そう言い聞かせた」
水ちゃんは、顔を上げた。
俺は、ぬぐい、水気の消えたグラスを、手の中でゆっくりと転がす。
「春、夏、冬の休みと、バレンタイン……、に、……俺の誕生日。日数にしたら、たいしたことはないかもしれないけれど、子供のころから、ずっと、そうして会ってきた、過ごしてきたんだから。そうでも思わないと凹むよ、それは。……だからいま、こうしてまた、会えて、話して、いっしょにお菓子を食べたりできるようになったことを、嬉しく思ってる」
「……。ほんとう……、……に?」
「もちろん。……ってか、俺、そんなドライに見えるかなぁ……」
苦笑して、グラスをおろす。
水ちゃんは、瞬き、うつむいて、かぶりを振った。
「……あの。……私。……いままでのこと……」
「……。なにか、理由があるんだろ」
水ちゃんは、目を落としたまま、自らの指を、反対の指で包んで、かすかにうなずいた。
俺は、グラスから手を離し、息をはいた。
「ただ気持ちが離れていった、あるいは嫌いになったのなら、また、こうして会って、ケーキを作ってくれることもなかったろうしね。……そっか。……ちょっと落ち着いたよ」
そう言って、首筋をなでる。
水ちゃんは、なにかを考えるように、じっと、手元を見つめていた。
と、そのとき――。
《うぉっぽぅ! うぉっぽぅ! うぉっぽぅ!》
「……――!?」
上のほうから、奇妙な鳴き声が響き出し、俺は肩を震わせた。
例の、鳩に見えない鳩時計だ。
……もう、5時になったのか。
何度聞いても、耳に慣れない声で鳴き続ける鳩時計を、ぼんやり見上げていると、水ちゃんが頭を起こし、同じように時計を見上げた。
そしてそのまま、ぽつりと彼女は言った。
「……けさ。緑川さんは家に来てくれましたけど。……宗治おじさんに言われて、ですか」
「……。うん。ちょっとおばちゃんに用事がさ。たいしたことじゃないんだけど」
俺はちいさく返す。
水ちゃんは、落ち着きを取り戻した表情で、淡々と続けた。
「……それ、たぶん建前です。おじさんは、あなたを私に会わせようとしたんだと思います」
「……。……えっ?」
思わず振り向き、水ちゃんを見る。
彼女は俺の視線を受け止めて、言った。
「……私がここにいるっていうことは、おじさんには伝えていましたから。……だから、あなたをびっくりさせたかったのだと。……たぶん、私も」
しずかになった部屋に、澄んだ声が響く。
俺は頭をかいた。
「じいちゃんには言ってたって……。俺、じいちゃんから、なにも聞いてないけど。ひどい話だなあ……」
苦笑して、ため息をついた。
……まあ、じいちゃん、サプライズとか大好きだから。
そういうことなんだろう。
しかし、そうだとすると……。けさのいろいろ、たいへんなことの責任の一端は、じいちゃんにあるわけか。……これは晩飯のとき、文句のひとつでも言わないと。
チーズカレーだけじゃ、割に合わないぞ。
「……おじさんはひどくないですよ。私が頼んでたんです。自分で伝えるから、言わないでほしいって」
俺は瞬いた。
水ちゃんは、また鳩時計を見上げた。
「……夢子おばあちゃんにも。口止めしていました。だからおじさんがあなたに、家へ来るように言わなければ、あと少し……遅くなっていたと。……でも、そうならなくてよかったと、けさ思いました」
彼女は、俺へ視線を戻した。
その射貫くような輝きに、俺は思わず唾を呑む。
そんな俺の様子を確かめるように、彼女は少しの間、光を放ったあと、立ち上がり……。
すたすた歩いて、俺の背後にまわり込んだ。
「……? どうし……、……――っ!?」
振り返ると、水ちゃんは……。
ロングスカートを畳に脱ぎ捨て、長袖シャツにも手をかけていた。
◇
「ちょっ……! ――おい!! なにしてんだよ!!」
「下は、はいてます。上もタンクトップ。……勘違いして慌てないで下さい」
半眼の彼女は、冷たく言った。
確かに、下はショートパンツだったし、上も……。
けれど敬語になって以来、見たこともないような薄着だった。
それに、なにより、とつぜん目の前で服を脱ぎ、着替え出すという、ちいさいときならともかく、いまではあり得ぬ行為に、俺は唖然としたまま、動けないでいたが、それもすぐに過ぎ去って――。
気がついたときには、彼女は再び、会ったときの制服姿になっていた。
「……。制……服……? どこから……」
「あなたのうしろに。ずっとかけていましたよ。それに着替えただけです」
そう言って、壁につけられたラックと、そこにかかったハンガーを指した。
……寝て、起きてからは、こっち側は見ずに座ってたのか。
間抜けな顔をさらす俺を尻目に、彼女はスカートと長袖シャツを拾い上げ、制服がかかっていたというハンガーへ通すと、壁にかける。
それから、スカートを揺らめかせて、元の位置……俺の正面へ立った。
「緑川さん。この制服がどこのものか、分かりますか?」
「……。いや……。見たことはあると、思うんだけど……」
青いブレザー。白い襟シャツ。
緋色のネクタイ。
膝丈のチェックスカート。
上品なデザインのそれには、よく見ると、ブレザーの胸ポケットに、アルファベットがふたつ……SGと、刺繍されていた。
エス、ジー……。さ、……し、……せ……。せいが、……せいご……。
……。せい、ごう?
「青神学院……か?」
「はい」
うなずき、すぐに返事が来た。
はい……って。
……いや。うそだろ……。
青神学院って、中高一貫の名門私立だぞ?
全国でも名前が通ってるし。
うちの県だったら、難関大への進学実績ナンバー3には入って……。
「……。……ちょっと待って。……青神? うちの県……ってか、この近くにある?」
「はい」
「……。水ちゃんち、隣の県だろ? けっこう遠いと思うんだけど。どうやって通うの。寮とかあった?」
「ないですね。家からだと、時間もお金もかかりすぎますし。だからここからです」
「はっ?」
「この、夢子おばあちゃんの家から、通うんです。……というか、きょう、もう登校してきました」
俺は、阿呆のように口を開き、彼女を見上げた。
水ちゃんは、腰に手を当て、やや眉をひそめると、窓の外へ目をやった。
「……ほんとうは、四月の始業式からのつもりだったんですけど。おかあ……母の許しが得られなくて。いろいろ準備もあるし、少し慣れてからのほうがいいと。……夏休み明けにしろ、それまでは家から通えって。そもそも母は受験に反対で……、押し切って受験して、合格後も、延々信じられないことをがみがみ言うから大げんかしてましたよ、ずっと。……で、いまごろに」
ため息をついて、しかめ面で、とおくの空を見ていた。
俺は混乱する頭をかきながら、彼女と同じように窓の外を見たあと、その右の勉強机、左の本棚へ視線を動かし……。脳内で、パズルのピースのように散らかっていた情報が、かち、かちと正しい形へはめ込まれていった。
「えっ……と。 ……って、いうことは……。……ここに住む?」
「はい」
「この部屋は、水ちゃんの部屋ってこと? 卒業まで使う……。たまにじゃなく」
「そうです」
「……俺、きのう、ここの部屋に、荷物を運び込んだんだけど……」
「ありがとうございました」
淡々とした言葉と、お辞儀が返ってきた。
もはや、変な顔で笑うしかなかった。
「……さっき言いましたけど、おじさんにも、おばあちゃんにも黙っていてもらって、……今週末あたりに、直接伝えるつもりでした。……でもけさ、おじさんに。……たぶん、おじさんは直感で分かっていたのかも。のろのろしてる場合じゃないって」
彼女は視線を、俺に戻した。
そして、一瞬、ふわりとスカートを浮かせ、正座した。
「……去年、1年間。こっちへ帰ってくることがなかったのは、受験勉強で忙しかったからです。……ほんらいの、私の学力では、受かるはずのないところでしたから」
ぴんと伸ばした背筋の奥から、高い声が響いてくる。
俺は、彼女の胸ポケットの刺繍を見たのち、緋色のネクタイへ視線を移した。
「……。もしかして……。敬語を使い始めたのも、受験と関係あるのか」
「気持ちの切り替え的な意味でなら。ふだんの言動から変えないと、無理なレベルでしたし。……でも、それがすべてではないです」
水ちゃんは、深呼吸する。
そして、俺の前に置かれた皿へ目を落とし、続けた。
「……。緑川さん……と、私は……。幼なじみですよね」
「……。そうだな」
俺は、淡々と返した。
水ちゃんは、皿を見つめたまま、続ける。
「主に春、夏、冬の長期休暇に、いとこ同士が祖父母の家に集まるような……。ふだんは近所に住んでいるわけでもないっていう、他人。……だからたぶん、ほかの幼なじみと、少し感覚が違うんですよ。……少なくとも、私には」
彼女は、視線を上げる。
俺はちいさく唾を飲み込んだ。
「……それがはっきり分かったのは、あの日――。2年前、……あなたではなく、あの人に会ったから……。自分の中にあるものに、気づくことができたんです」
◇
時を刻む音が、しずかに空気を叩く。
窓から、ゆるやかな風が吹き込んで、彼女の黒髪を揺らした。
「……あの日。2年前のバレンタインは、午前で学校が終わる日で。父も母もいないので、ひとりで電車で来てたんです。……で、3時前には、あなたの家に着いて」
「……」
「おじさんもいなかったので、家にも入れなくて。……おじさんの古書店のほうに顔を出してもよかったんですけど、その間に、あなたが帰ってきたらと思って。……驚かせたかったから。門の前で待つことにしたんです」
水ちゃんは、体を軽くさすった。
当時は朝、雪が降ったし、ずっと寒かったから、そのことを思い出したのだと思う。
俺は、申し訳なさから、口を開こうとしたら、それを察したように、彼女はかぶりを振って、続けた。
「……で、10分くらい経ったころ。だれかがきょろきょろしながら近づいてきて……。私と目が合ったんです。それがあの人で。……あなたの家を聞かれたので、ここだと教えました」
水ちゃんは、瞬く。
手を、卓上に置いて、重ねる。
「それからあの人は、私にあなたの妹なのと聞いたり、幼なじみだと答えたら、『私にもいるよ!』と話をふくらませてきたり……。そのまま世間話を始めました。……私は、そんなあの人にいらいらして、いったい、晴兄になんの用事で来たのと問い詰めました。そしたら、『クラスメイトに義理チョコを渡しに来たんだよ』って。……私はすぐに『うそだ!』と言いました」
俺は、唇をわずかに動かす。
彼女の重ねた指が、少し震えた。
「まだあなたの学校が終わる時間じゃないのに、あの人は私服だったし、その服もすごくお洒落で……。明らかに学校をサボって来ていたんです。……ありえないと思いました。そんなことをしてまで、あの人いわく、ただのクラスメイトに義理チョコを渡しに来るために、雪が降るような寒い日に、家の前で待っているなんて。……そんなのありえないと。……いま喋ったことを、そのままぜんぶ、ぶつけました。……そしたら、なんて言われたと思いますか?」
俺は無言で、首を振った。
彼女は、眉をひそめて、はき出した。
「『あなたには、分からないことだよ。そして、悪いけど説明する気もない』と。……腹が立って仕方ありませんでした。だから一方的に文句をまくし立てて……。私は帰ろうとしました。……でも、呼び止められて。振り返ったら、真顔で、こう言われました」
水ちゃんは、俺の目を見る。
そして言った。
「『あなたは、なぜ怒ってるの? その理由が自分では分かる?』……って。……それに、私は……――。……なにも答えられませんでした」
彼女は、下唇を、ぎゅっとかんだ。
おおきな目は、長いまつげが、深くかぶさっていた。
「『分かったら……。それをきちんと、自分の中で言葉にできたら、いつかまた、会いましょう』と。あの人はそう言って、もう私のことを顧みませんでした。……それで、私は……。走ってその場から離れました。……頭はぐちゃぐちゃで、……どうしようもなかったから。…………それで、あの人との話は終わりです」
水ちゃんは、息をはいた。
いつのまにか、卓上の手は、両方とも握られていた。
「家に帰ってからも、その次の日も、また次の日も……。私の頭の中はぐちゃぐちゃなまま、けれどずっと、あの人の言葉だけは鮮明なまま、在り続けました。……そして次第に、それを中心にして、私の気持ちも整理されてきて……。ひとつの言葉が浮かび上がって。……それが、『このままじゃいけない』というものでした」
俺は、水ちゃんを見た。
彼女は、その視線を受け止めて、まっすぐに言った。
「私は、あの人にいろいろ言われて、逃げ出した。あの人は、私がなにを言おうが、いっさい無視し、あなたを待ち続けた。それはたぶん、あの人には芯があり、私には、なかったからだと。そう思ったんです。……確固とした、気持ちの、行動の、揺らぎのない芯が。……だからそれを得たいと思いました」
水ちゃんは、握られた自分の手を、少しだけ見やる。
「……青神を受験しようと決めたのは、その次の日です。理由は、当時の私の学力では合格が不可能で、受かるためには血のにじむ努力が必要だったから。……そこに受かるほど、自分を追い込めば、私にも芯を立てうる土台が築けると思いました。それになにより、合格すれば、通うために……、おばあちゃんの家に住むことを、許してもらえる。住むことが、……そばにいることができれば、あなたとの関係が、……兄妹でも、いとこでも、近所に住む幼なじみでもなかった、私のあなたの関係の、私にとっての真実が――。はっきりすると。そう思ったんです」
おおきなふたつの輝きは、俺をはっきりと捉えている。
見返し、瞬くと、、長いまつげが、一度、同じように瞬きをした。
彼女の、俺に対する【感じ】は、昔のままだった。
しかしその輝きを宿した、こちらへ向けられた表情は……。
もう、俺の自転車のうしろに、きゃいきゃい騒ぎながら乗ったり、背中におぶさったりしていた……。
【ちいさな子】ではなくなっていた
◇
「……【あなたは私のお兄ちゃんじゃない】。それは昔から分かっていたことでした。なのに『晴兄』と呼んで妹のようにくっつき、自分は妹と呼ばれると不愉快だった。……いいとこどりの甘えん坊だったんです。……だから、それを捨てるために、距離を取ろうと思いました。……名字呼びや、敬語も……。……それで」
水ちゃんは、うつむいた。
そして、そのまま、俺に向けて、……もう一段、頭を下げた。
「……そうして、いま。私は青神に受かりました。けれど、まだあの人の『宿題』は解けていません。それは、これから……。――……だから緑川さん。その『宿題』を解くために、ひとつ、お願いしていいですか」
水ちゃんは、再び俺の目を見据える。
俺がうなずくと……。
彼女は、しずかに――。
……しかし、力強い声で、言った。
「あなたのこと、これからは……――。……晴さん、……って。……そう呼んでも、いいですか?」
◇
水ちゃんは、卓上の両手を、さらにつよく握り込んだ。
瞳の輝きが、白い光で水面のように揺れていた。
俺は、そんなふたつの瞬く光を、しばらく見つめたあと……。
そのまま、そらすことなく、受け止めて言った。
「ああ。……もちろん。嬉しいよ。……ありがとう」
話しながら、俺の顔から笑みがこぼれた。
水ちゃんの、固く閉じられていた手が、花が開くように、ゆっくり広げられてゆく。
そして、その表情には――。
昔と同じ、無邪気で明るい水ちゃんの……。
ひときわおおきな、ひまわりが咲いていた。




