第16話 空白を飛び越えて
そうして――。
◇
俺は受け取ったチョコを、ゆっくりと手の中で動かして、シンプルな包みを眺めていたが、その白い紐に指を伸ばした瞬間、
「……じゃ、そろそろ帰るね。スカートも乾いてるだろうし」
という、淡々とした声と、俺の向けた視線をわずかに受け止めたあと、笑みをたたえた夕凪の顔を見たとたん……、紐をつかんだ指の力を抜いて、包みを卓上へおろした。
夕凪は、無言の俺をよそに立ち上がり、壁にかけていたジャケットを腕へ落とした。
俺はそれをきっかけにチョコから手を放し、先導するようにヤツの横を通り過ぎ、ゆっくりと畳の上を歩いて部屋を出た。
◇
「……うん。ぜんぜん残ってない。シワシワなのは……、家までのことだし、いいか」
脱衣所で、乾燥機から取りだしたスカートを、裏、表と確認したのち……。
ほんの少し、口を尖らせた夕凪は、自分に言い聞かせるように、傾げた首のまま、うなずいた。
なので俺は、
「……アイロンかけるか? あるけど」
と、脱衣所の外を指さした。
しかし夕凪は、「ずいぶん長居しちゃったから」と、かぶりを振った。
「シミにならなかっただけで大感謝だよ。……まあでも、そうなりそうだった原因はキミだしねえ。……『大』はいらないか」
ふふっと笑い、俺を見る。
そしておおきく息をはき、ぱん、ぱん! と手を叩くと、
「はいはーい! お着替えタイムの始まりですよー! 命が惜しくばまわれ右してくださいね~」
そう言って、持っていたジャケットとポシェットを俺に押しつけ、空いた両方の指でほい、ほい、と出口を示した。
俺はため息をつきながら、のろのろと脱衣所をあとにした。
◇
着替え終わり、外へ出て、古びた門を開けたとき、隣の家に隠れていた赤い光がさっと降りてきて、俺や夕凪の体を照らした。
夕凪はまぶしそうに手をかかげ、冷たい風を受けながら、しばらく空を見ていた。
俺は、夕暮れの冬風が揺らす夕凪の髪や、すらりとした体を包む、くすんだ緑のミリタリージャケット、そして陽で濃い赤みを帯びた茶色のブーツを見つめながら、ふと、雪の多いところへ移り住むというヤツの言葉を思い出し、ふいに、
「……似合ってるんじゃないか。雪国も」
と、漏らしてしまった。
なので慌てて、
「あ、いや……! いまのはないよな……、転校するっていうのに。――すまん、忘れてくれ!」
と、顔を引きつらせ、おおきく手を振った。
夕凪は、そうした俺のそぶりをじっと見ていたが、やがて何度かうなずき、
「……実は私も、そう思ってた。寒い場所とのぴったり感。祖先とか、雪国の人なんじゃないかなーって」
と、言った。
俺はぎこちない笑みを浮かべて、息をはいた。
「そ、そうか……。ならいいんだけど。……よかった」
「いや、うそだけどね」
半眼で、俺を見る。……俺は血の気が引いた。
「あぐっ……! いや、その、深い意味はないっていうか……! ……ほんとにすまん!!」
何度も頭を下げ、平謝りした。
そして恐る恐る顔を上げると、苦笑いのような、噴き出しているような、何とも言えない表情で俺を見つめていた。
「……っとに。あれだけ私の故郷愛を聞いたあとでさ、その言葉が出る? 隣に私の友達とかいたら、路地裏に連れ込まれるんじゃないの」
感情の入り混じった不思議な笑みは、だんだんと、純粋に楽しそうなものへ変わっていった。
逆に俺は、ヤツの友達たちから罵詈雑言、あるいはパンチやキックが飛んでくるさまも想像してしまい、青ざめた。
「……ぶっ、ふふっ……。キミ、好きな女の子とかできたら、よく考えて、発言したほうがいいよ。たぶんその言語感覚、私以外には許容できないから」
夕凪は、俺の肩をぽんぽん叩いた。
俺はなにも言えず、気まずそうに頭をかいた。
「でも、やっぱり……。来て正解だった。友達に話しても、絶対に言ってくれない言葉だもん。慰めの言葉じゃ、……飛び越えられないものもあるからね」
夕凪は、目の前の、きらきら光る水たまりを、軽くまたいだ。
そのあと、くるりとこちらへ向き直り――……。
ジャンプして水たまりを飛び越えた。
「……いぇす、ジャンプマン! ……ふむ。意外と悪くないね。これ」
息がかかるほどの距離で、陰になった笑みを俺に向けた。
俺が苦笑いしていると、やはり楽しそうに、指で肩をつついてきた。
◇
「……さて。行くとしますか。……って。――あ。そうだ。言い忘れてたけど」
夕凪は、風で顔にかかった髪をかき上げながら、言った。
「例のあれ。『可愛い幼なじみ』ちゃんに会ったよ。家の前にいたから」
「……。……――えっ!?」
俺は口を開け、呆然とする。
夕凪は表情を変えずに、そんな俺の様子を見ながら、続けた。
「ここにはクラス名簿の住所を見て来たんだけど、近くで、ちょっとだけ迷ったんだよね。そしたらちいさい女の子が立ってたから、聞いてみようかな~って寄ったらさ。それ」
そう話し、じいちゃんお手製の、小洒落た木の表札を指し示した。
……俺の想定した以上に早く来て、待っていた……ってことか……。
後日、怒り狂って詰め寄ってくるだろう、水ちゃんの様子を思い浮かべながら、「あ……、そ……、そ……う」と、油の切れたロボットのような声を出し、なんとか応じた。
夕凪は、そんな様子に首を傾げつつ、続けた。
「……で。私その子に、『ここの家に、緑川晴君って住んでる? 中学生の』って。聞いたら、うなずいたからよかった~って。……でも小学生とは思わなかったなー」
「……? な、なにが……?」
「だから『可愛い幼なじみ』っていうのが。毎年チョコくれてるっていう。3、4年生くらい? あの子」
「……。…………――――あがっ!!!」
俺は口を開けて硬直し、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
そんな俺を、にやにやしながら、「いいってことよ。……いいってことさ」と、ぽん、ぽん、心なしか、優しい手つきで腕を叩いてきた。
「いや、でも、ほんとうに可愛かったよ。おっきな、ぱっちりした目で。たぶんよそ行きだと思うけど、ブラウスも、ミニスカートもよく似合っていたし。あれは将来有望だと思うな~」
ひとり、うなずき、思い出しているのか、とおくの道の見た。
俺は焦点の定まらない目で赤い空を見ながら、口を開いた。
「……そ、それで……、……なんか言ってた?」
「え? ……ああ。『あなたは緑川の妹さん?』って聞いたら、『……は? 違うけど!』とか言われて睨まれちゃった。そのあと話して、幼なじみだって。……いちおう、謝ったけど。……謝っておいてね」
片手を顔の前に立てて、頭を少し下げた。
俺は、背中の汗の量が増えていくのを感じつつ、言葉をつむいだ。
「……。妹って言われたら、怒るんだよ……。おれはあの子から、晴兄って呼ばれてるんだけどな」
肩を下げ、おおきく息をはいた。
夕凪は、「ふーん……」と漏らして、それからくすりと笑った。
「……ほかにもいろいろ言われた……聞かれたんだけど、言うのはやめとくよ。そのうち、あの子からキミに伝わるだろうしね。……ま、大分先のことになると思うけど」
夕凪は、さっきまで見ていた道の先を再び見やり、奥の茜空を見つめた。
そのあと、おおきく伸びをして、一歩踏み出した。
「……では帰りまーす! あと少しだけど、学校でもよろしくね」
「……ああ。たぶん囲まれて、ひとこと、ふたことも無理だろうけどな」
つぶやくと、夕凪はかぶりを振って、指も振った。
「いやいや。せっかくの『記録』なんだから、最後まで続けてよね。……こっちも続けるつもりだしさ」
「じゃあ待ってたらいいってこと? なら大丈夫だな」
「大丈夫じゃなーい! ……『縁』は――……。自分でつなぐものでもあるんだよ」
そう言って、夕凪は手にしていた紙の袋を突き出して、俺に示す。
中には、俺が貸したオレンジの、スウェットパンツが入っていた。
ヤツが、『洗って返すから』と言って、無理矢理持ち出したものだ。
「……なんだ。やっぱり置いていくのか。おれもそっちのほうがいいと思う……」
と、つかもうとしたら、さっと袋を引っ込められた。
俺が怪訝な顔をしていると、夕凪は、しずかに言った。
「これ。しばらく預かっておく。……別に、急ぎじゃないでしょ?」
俺は、袋とヤツを交互に見たのち……。
苦笑して言った。
「……まさか、向こうに持っていくってこと? 転校前のばたばたしてるときだから、面倒とは思うけど……。送料かかるじゃん。……ってか、もう返……」
夕凪は、言葉をさえぎるように首を振った。
そして、はっきりした声で言った。
「送るんじゃなくて、いつか、直接返す。……そしたら、キミも、私の言うこと、……帰ってくるっていうこと。信じられるでしょ」
白い袋が、ふらり、左右に揺れていた。
俺は瞬き、何度か唇を動かしたが、声が出なかった。
「……いまはさ。中学生だし。どうにもならないけど。……大学はこっちを希望するつもり。それに高校生になったら、バイトしてお金貯めて……。夏休みとかに、旅行がてら戻ってくるのも、考えてる。もしそうしたら、そのときにこれ、返して……。その後の計画も話すよ」
夕凪は、袋を下げて、笑みを見せる。
それはやわらかでいて、揺らぎのない表情だった。
「……そうか。……じゃあ、待ってるよ」
「……ん。……待ってて」
夕凪は、足を後ろへ引いた。
そして、俺の家を見やると、しずかに言った。
「……。ここって、緑川が生まれた家……?」
俺は、わずかに目をおおきくし、唾を飲み込んだ。
それから、息をはいて、ゆっくりかぶりを振った。
「……でも、……長いからな。俺は、ここで生まれたと思ってる」
夕凪の顔を見据えて、はっきりと言葉をつむいだ。
夕凪が、ちいさくうなずき、髪が揺れた。
「そっか。じゃあお隣さんだね。となり街だから。……いつか街自慢し合おうか」
「やめとくよ。しょーもない争いが起こりそうだし。『うちの行きつけだった駄菓子屋さんのほうが美味しい!』とかさ」
「しょーもなくないじゃん! あー決めた決めた! ぜったいやるから! ……いきなり引っ越さないように!」
「……大丈夫だよ。待ってるから」
俺は呆れたように笑い、「ほらお母さんが心配してるぞ。サボり魔」と手を振った。
夕凪は、「あ! ……そうだヤバい! 約束の時間が!!」と腕時計を見て、慌てて離れた。
「……じゃあね緑川。……また」
「……ああ。……またな」
そう言い合って、今度こそ夕凪は駆け出して、振り返ることはなく、夕暮れに包まれた道の奥へ消えた。
そのときには、もう、風はやんでいた。
◇
翌日。
俺が教室へ入ると、人だかりができていた。
俺は黙って、その集まりのそばを通り過ぎ、着席すると、1時間目の用意をした。
やがてチャイムが鳴って、先生が入室すると、いつもの、かすれた声で淡々と出欠を取り始めた。
その後、黒い帳簿を音もなく教卓へおろしたのち――。
出欠を取るときと同じ調子で……。
先生は、夕凪が転校する旨を告げた。
◇
そして金曜日のHRには、お別れ会が設けられた。
皆から夕凪へ寄せ書きや、個人的な手紙、花束などが贈られて……。
最後には、誰かが持ち込んだプレーヤーで流した音楽をバックに、合唱が始まって、それまでずっとにこやかにしていた夕凪も、膝を抱えて泣き出した。
俺はそんな夕凪の姿を、会が終わるまで、離れた席から見ていた。
夕凪が友達に囲まれて、教室を出て行くときも、言葉を交わすことはなかった。
最後に交わしたのは、ひとりずつ、夕凪へ向けてお別れの言葉を贈ったときのもの――。
――そっちでは、雪が多いから、不用意にジャンプとかして滑らないように。気をつけてな――
――……。了解。じゃあ滑らないように、じゅうぶん注意して、ジャンプしまーす――
だった。
夕凪の、飛び跳ねながらの返答は、皆の笑いを誘った。
◇
けっきょく、それ以来。
俺は夕凪と連絡を取っていない。
いま、ヤツが、どこの街に住んでいるかも知らない。
転校してしばらくのち、夕凪の友達らが、ときおり、手紙や電話のやり取りをしているらしいことを、学校で耳にしたくらいだった。
そしてそのまま、残された1年間の中学校生活はあっという間に過ぎ去って、俺は自分の偏差値に見合った公立高校へ進学する。
ガラケーはスマホへ。
登録者数は減った。
けれど、中学時代よりも、つよいつながりはできた。
夕凪との、他人に説明できない、変わった関係を除けばの話だが。
ヤツいわく、【薄いけど、とおくはない】という。
存在位置の違う世界と世界が、細い糸で結ばれて、交錯していたような、不思議な関わり。
いまも……。
【糸】はつながっているのだろうか。
あのとき、素っ気ない贈り物を簡素に結んでいた、白い紐のような、細い糸は――。
◇
「――……く、ないんですか」
耳の奥を震わせる、澄んだ声。
俺は、深い湖の底から上がってくるように、ゆっくりと頭を起こす。
目の前には、窓からの、白い光に包まれて――。
やわらかな黒髪を肩に垂らす、年下の幼馴染みが座っていた。
おおきな瞳は、まっすぐにこちらを捉えている。
「……先ほどから、ずいぶん考えているみたいですけど。……言いたくないんですか」
彼女は、俺が聞き逃したと思ったのか、同じ言葉を口にする。
俺はグラスを持ち上げて、メロンソーダで喉を濡らした。
「……言いたくないっていうのは……、少し違う」
俺はグラスを卓上へ戻して、水気を帯びた指を、手の腹でぬぐう。
水ちゃんは、まばたきをせぬまま、言葉を待っていた。
「言えないんだよ。それは。……比較できるものじゃないから」
俺は、黒や白のクリームがついた、上品な小皿に目を落とす。
水ちゃんは、唇を吸い、ちいさな音を立てたあと、ややつよい声で言葉を放った。
「……食べ物の……、美味しい、美味しくないというのは、優劣のつけがたいときはあります。でもいまの返答は……。そういう意味じゃないですよね」
「ああ」
短く、はっきりと返す。
再び顔を上げて、彼女を見返すと、長いまつげが、そのおおきな目を包むように、少し下がっていた。
◇
――……きょう、私が作ったこのケーキと……、……どっちが、美味しかったですか――
――……2年前、あの人が作った、バレンタインのチョコと。……どっちが――
◇
水ちゃんは、2年前のバレンタインに、夕凪と会っている。
それは夕凪から聞いて知っていた。
そして水ちゃんも、詳細はともかく、夕凪が俺に、手作りのバレンタインのチョコを渡すために、家へやって来たこと――じっさいに渡したこと――は……。先の発言から、知っている。
だが、いままでに、これに関する話を、俺が水ちゃんに尋ねたことはなかったし、彼女が持ち出したこともなかった。
俺が聞かなかったのは、聞かれると思ったから。
いつものように。
俺の帰宅が遅れたことに怒りつつ、ヤツの持ってきたチョコと、その意味……訪問の理由を。
純粋な好奇心や、ある種の嫉妬――昔からよくあった、自分の知らない、俺の交友関係に対しての――などから。
すぐに電話や、あるいはとつぜん訪ねてきて、必ず触れてくると思った。
もちろん、もしそうされても……。
俺には、夕凪との約束から、話すことはできなかったので、『クラスメイトから義理チョコをもらっただけ』としか説明しようがなかったけど……。
心づもりはしていた。
……が、しかし。
予想に反して、当時、水ちゃんからの働きかけはいっさいなく……。
それどころか、あの冬休み以来。
春休みに会うまで、電話すらなかった。
しかも、いざ会うと、かつての人懐っこい、明るい雰囲気は消え失せて――。
話す言葉は、他人行儀の敬語になっていた。
そのインパクトがつよすぎて、彼女と夕凪が会ってなにを話したのかとか、とおくに消えてしまった。
それに関わり自体、疎遠になっていったから、触れる機会もなくなった。
けれどきょう、1年ぶりに会って、彼女は夕凪のことを口にした。
予想外の角度から。
それで俺は、ひとつ思い出すことができた。
◇
――じゃあね、晴兄! また、○%×△……ね!!――
◇
いままで忘れていた、2年前の、冬休みの別れ際。
駅の改札で水ちゃんが放った言葉は……。
◇
――じゃあね、晴兄! また、バレンタインにね!!――
◇
……だったのだ。
じっさいには、会えなかったからか。
彼女の変貌に対するショックからか。
俺の中より、言葉は消え去ってしまっていた。
そして目の前に置かれていた、2種類のケーキ。
それは、俺にしか分からない、俺好みのチョコレートの、形を変えた姿だった。
失われた2年前の、バレンタインの、……チョコの。
水ちゃんの質問から、それ以外にはありえなかった。
2年前、彼女が夕凪と交わした会話は分からない。
ゆえに、そのときの感情、考え……がどのようなものかは……。
2年間の沈黙と、いま、ここで発した彼女の言葉から、推察するしかなかった。
しかし俺には、水ちゃんのような直感力も観察眼もない。
分かるのは、水ちゃんの言葉が、冗談でも、軽い気持ちでもないことだけだった。
だから俺は……。
だからこそ俺は――……。
こう答えるほかなかった。
◇
「……アイツが俺に渡したチョコは、いちクラスメイトに対する義理チョコなんだけど、それだけではない意味があるんだ。恋愛とかそういうのではない、別の」
「……」
「……でもそれを、水ちゃんも含めて、誰にも話すことはできない。……味のことも。……ごめん」
俺は頭を下げた。
水ちゃんは黙って、動くこともしない。
そのまま、時計の音だけが、響き続けた。……が。
「……っ?」
俺が姿勢を戻し、息を吸い込んだたとき――。
急にそばへ、おおきなふたつの輝きが寄っていた。
「……なっ、……――なに?」
「チョコ。口についてます。……動かないで」
そう言って、手にしていた紙ナフキンで、俺の口もとを優しくぬぐい……、そのまま吐息をわずかに漏らしながら、じっと、俺の開いた唇を、その動きを見逃さぬように見つめていた。
「……取れました。……もういいですよ」
身を離した水ちゃんは、汚れたナフキンを畳んで、自分のそばへ置いた。
俺は、唾を飲み込んで、息をはいたあと、苦笑しながら言った。
「言ってくれたら、自分で拭いたのに……。ちょっと恥ずかしかったよ」
俺が、彼女の口を拭いていたほうだったからな……。
なんか世話される側になってしまったような……、妙な感情がわき上がった。
「……私は、その恥ずかしい思いをけっこうしてきましたよ。ずいぶんと、お子様扱いされてきましたからね。……だから、お返しです」
水ちゃんは、俺を横目で見る。
それで、俺が頭をかいていると、続けた。
「あと、先ほどの言葉にうそがないかどうか、確かめさせてもらいました。……どうやら、ほんとうのようですので、……いいです」
彼女は、しずかに目を閉じた。
……俺の唇の動きを観察して、ということか。
「……水ちゃんには、うそついったってばれるしさ」
その相変わらずの、人並み外れた感覚に、俺は手を上げる。
水ちゃんは目を開けて、頷いた。
「ええ。……けど、『本人が、うそと思っていないうそ』の場合もありますから。……そこまでは分かりませんでしたけど、……でも、もう、答えとして……、満足はしました」
「……聞かないのか。俺が、話せない理由とか」
「話せないと言っているのに、聞いても仕方ないですし。やましい理由でごまかしているのではないのは分かりましたから。……それと、……大事なことも」
水ちゃんは、しずかに麦茶を飲んだ。
それから、しばらくグラスを手の中で動かしていた。
そんな様子を、黙って見ていると……。
ふいに彼女は手を止めて、俺を見返した。
「……。あなたのほうは、どうですか?」
「……えっ?」
水ちゃんは、瞬く俺を見つめながら……。
ちいさな唇を、赤く光らせて、
「私とあの人が、あの日、なにを話したか。……気になりませんか」
……と、言った。




