第15話 ……それが、キミとの時間(せかい)だった
とおくから響いてきた子供の声が近くなり、楽しげな放課後の様子が一瞬、耳をにぎわしたあと、またちいさくなって静寂に解けた。
俺は唾を飲み込み、下唇を軽くかんだ。
夕凪は笑みをたたえたまま、ときおり瞬いて、俺の反応を、淡々とした様子で受け止めていた。
俺は、そんなヤツを見て、何度か息を吸い、はいたのち……。
咳払いをして言った。
「……転校、……って。どこに。……いや。……いつ」
「街を離れるのは土曜。場所は、ここからずっと、とおいところ。たぶんあした、皆に話があって……。金曜に、お別れのあいさつとかすると思う」
落ち着いた笑みを残して、しずかに話した。
視線は、窓のほうへ向けられていた。
俺は少し黙っていたが、夕凪が髪をかき上げて、耳と、白い首筋が見えたときに言葉を発した。
「……家の都合とか、か。急な話だな。……そういうもんか」
ちいさく言って、ため息をついた。
すると夕凪はこちらを向いて、目を丸くしたのち、笑い声を漏らした。
「……なんか、意外にショック受けてる? 私って、けっこうキミの中で存在感あったんだねえ。日に1、2回話す程度だったのに。……それもあいさつとか、学校の用事がほとんどで」
「……それでも、よく考えたら、毎日話してるってことになる。そんな女子はお前以外にいない」
「……。女子との関わり、なさすぎ」
夕凪は呆れた顔で、お茶を含んだ。
俺が頭をかき、半眼になると、夕凪は楽しそうに笑みを見せ……。
それから、なにかを考えるように空を見たあと、喋り出した。
「私は男友達もけっこういたし、ふつうに毎日話してたけど、……あんまり会話の内容思い出せないなあ。テレビのこととか、ネットのこととか、遊びのこととか……っていう、漠然とした感じ。でもキミと話したことは、覚えてるよ。……なんでかな」
「少ないから、印象に残ってるんだろ。ちなみに、おれは覚えていない」
「えぇ……。そんなだからモテないんだよー。……あ、そうそう。最後だから教えてあげるけど、キミ、けっきょくただの一度も、女子の話題にのぼらなかったよ。同じクラスだった1年近く。ちーん」
そう言い、手を合わせて目を閉じた。
俺は顔をしかめて、座卓を指で叩いた。
「……そのモ・テ・な・く・て! 親しくもないおれに、なんでわざわざ知らせに来たんだ。……あと学校。サボってんじゃねーよ」
「あれ、バレてた? ……やっぱ制服着てくるべきだったかー」
しらじらしく、首を傾げ、頬をかいた。
俺は息をはき、言葉を投げた。
「同じクラスだろうが阿呆。朝の先生の様子だと、仮病の連絡もしてねえな。……転校前にサボるか、ふつう……」
「なーに言ってんの。転校前『だから』だよ。私、一度もサボったことなかったから、ちょっとしてみたかったんだよね。……あと、きょうの放課後までに……、……やりたかったことがあったのさ」
夕凪は、再び窓へ目を向け、とおくの空を見た。
その横顔を見つめたまま、俺は尋ねた。
「……で。おれんちに来たのは……、……まあここに来てるってことは、もうダチ連中に報告はしてるんだろうけど。――……って、まさか。クラス全員の家にかよ」
「はあ? 冗談!! ……っていうかねえ、転校のことを教えたのは、キミがさいしょなんだよ」
俺は口を開けた。
夕凪は唇を尖らせて、まるですねた子供のように、また横を向いた。
俺は眉をひそめた。
「なんだそれ……。じゃああの、いつもいっしょにいる、ダブル横縛りの……」
「もしかして、りーちゃんのこと言ってる? ツーサイドアップなんだけど……。キミの言語感覚どうなってんのよジャンプマン」
頬をひきつらせ、頭を振った。
そしてため息をつくと、続けた。
「りーちゃんにも、あっちゃんにも、すーちゃんにも横下さんにも、言ってない。もちろん、よっき君にも、田辺っちにも、明日川君にもね。……あした先生が来る前に、朝いちで、まとめて言うつもり」
「……そういうのって、いいのか? 仲いいヤツなら、怒るんじゃないの」
「怒るね。キミにだけ言ったなんて言ったら、さらに怒る……っていうか、勘ぐられる」
「……。なにを」
「だから、あれだよ。……実はキミのこと、……私が好きだったとか」
何度目か、横を向いて、ヒジをつき、言った。
俺は刹那、言葉をなくした。
夕凪は、口を尖らせた表情のまま、目だけちらりとこちらへ向け、また戻した。
「……なんでもかんでも恋愛に結びつける人、多いからねー。我が親愛なる友人らも例に漏れず。いま挙げた、男友達のことも、いじられまくったもん。ぜんぜんありえないし。友達は友達だってーの」
まるで苦いものを食べたように、舌を出した。
俺は、そんな表情をぼんやり見ながら、心臓の鼓動が、わずかに速まっていることに、動揺した。
すると夕凪の目が、するりとこちらへ移動した。
「……なに赤くなってんの。……おーい。違いますからねー」
「あ、赤くなんかなってねえだろ! ちょっとびっくりしただけだっつーの!」
「びっくりしたんだ。……ふーんー……」
「……!!」
見事かまかけに引っかかり、歯ぎしりしたとき、夕凪はヒジをついたまま、噴き出した。
それれから口角を上げ、白い歯を見せて身を乗り出し、俺の肩をぱんぱん叩いてきた。
俺がそれを振り払うと、両手をちいさく上げて、身を引き……。
音もなく座卓に手をおろしたときには、落ち着いた顔に戻っていた。
そして、俺の高ぶりが収まるのを見計らったかのように、淡々と言葉を口にした。
「……きょう。ここに来る前……。つまり、お叱りを受けたサボりの時間ね。……なにしてたと思う?」
「……。ヒトカラ。本屋ぶらぶら。……ゲーセン?」
「……それ、自分がやりそうなことでしょ? 最後とかありえないし。……想像力ないな~」
夕凪は失笑し、俺に再考をうながした。
しかし、コイツの私生活なことなど、まるで知らないのだから、思いつくはずもなく……。
ほどなくそれを察した夕凪から、「ぶっぶー。……あなたの解答権はなくなりました」と、ばってんを作った指を突きつけられた。
「……答えは、『散歩』。街を歩いてたんだよ。住んでたところを」
「……」
言葉に詰まった俺を見て、夕凪は、かすかに笑った。
「……それ、サボってまでやることか? みたいな顔だ。……ま、ふつうはそう思うだろうね」
夕凪は、ゆっくりと息をはいて、体をうしろに倒し、両手で支えた。
そんなだらしない姿勢のまま、顔を俺へ向けて、続けた。
「いまの家がある街は、私の生まれ育った場所なんだよ。だから最後に、よく見て、聞いて、におって、触れて。味わって。……体に刻んでおきたかったって、そういう話。……で、それは無事にできました」
夕凪は、支えていた片ほうの手を、ゆっくりと胸に当てた。
そしてわずかの間、目を閉じて……、開けると、俺の目をまっすぐに見た。
「街を離れる……、転校するのは、かんたんに言うと離婚でさ。お父さんが若い女の人のとこに逃げて」
俺はぎょっとして、口を開けた。
夕凪は、表情を変えなかった。
「まあ、はた目には100パーセント、お父さんが悪いってことになるけど。原因はお母さんにも、あるっちゃ、あるんだよ。お父さんとお母さんの、価値観の相違? ……ってヤツが、ながーいこと続いてて。どっちも仕事人で、ふたりにとって、家は帰って寝るところだったんだよね。お母さんがまともな料理してるとこ、見たことないし。とうぜん、お父さんなんか言うまでもない」
「……じゃあ、いつもだれが飯作って……」
と、思わず口にして、「あ、いや……」と呑み込むが、夕凪はなにも気にすることなく、自分を指さした。
「出来合いと外食に飽き飽きした、小学2年の夏。目玉焼きからのキャリアスタート。……私の料理、美味しいよ~」
にやりとし、俺の表情を見てから、また目を閉じた。
そして、しずかに言った。
「……ま、そんなふうにして夫婦の生活は終わって。いざそうなると、仕事人間のお母さんも、『なんか疲れた』とか言い出して。……結果、私はお母さんと、しばらくその実家に行くことになった。雪ばっかりのところ。……きょう、何年ぶりかに見たのにねえ……」
目を閉じたまま、少しだけ、頭が下がった。
俺は下唇をかんだ。
「いままで住んでいた街は、お父さんとお母さんが結婚したあと、何度目かに移り住んだとこで。ふたりとも、とくに思い入れはないんだよ。ただの数ある居住地のひとつ。……でも、私はそうじゃない」
夕凪は、目を開けて、視線を湯飲みへ向けた。
「あの街は、私にとって……――。スタート地点で、たくさんの想い出がつまった、大事な場所なの。だからいつか、また……、きっと戻ってくる。自分の足で。……そう決めたんだ」
気がつくと、夕凪の放つ瞳の光は、俺の目へと向けられていた。
俺は、きらきらとしながら、しかしすぐにでも瞳の黒に沈み込みそうな……、そんなつよさとよわさが混ざった輝きを、ただじっと見つめ返していた。
やがて夕凪は、体を起こし、おおきく伸びをした。
そして、首を2、3回ひねり、息をはくと、笑みを見せて、言った。
「……と、いうのが、私の、転校の経緯で……。ここからが、キミの質問に対する答えになるんだけど」
夕凪は、座卓の下に手を入れて、さっとポシェットを引っ張り出した。
そして中をまさぐって……。
手のひらに載るくらいの、ちいさな箱を取り出し、俺の前に置いた。
「……。これは……?」
「チョコだよ。きょうはバレンタインでしょ? ……もちろん、義理だけどね」
俺は、目の前の、糸と呼べそうなほど細い、白い紐に縛られた、黒い箱を再度見た。
ハートマークがあるわけでもない。
メッセージカードが添えられているわけでもない。
白と黒。義理以前に、贈り物とさえ言えないほどの――。
ひかえめで簡素なパッケージだった。
「……。確か前……、……先月。掃除の時間、聞いてきたときは、おれにはやらないって……」
「……ぶっ! 第一声がそれ? ……キミって案外、根に持つタイプなんだね~」
けらけらと、楽しそうな声を上げた。
俺は舌打ちして、「ちっ……! そういうことじゃねえよ! どういう風の吹きまわしだって言ってんの!」と、赤い顔で反論した。
夕凪は、くすくすと笑い、返した。
「風の吹きまわしっていうか、嘘ついたから。さいしょから、あげるつもりで聞いたんだよ。あげるって言わなかったのは、……あのとき。まだ転校が、確定してなかったからね」
俺は表情を戻した。
そして箱と夕凪を交互に見た。
「……なんだよそれは。転校しなかったら、くれなかったってことか」
「……そんなに欲しかったの? いやー……、きょうはキミの新たな面がいろいろ見られてほくほくだわ」
夕凪は、また笑った。
俺は耳まで熱くして、必死にまくし立てた。
「……――ちっがうわ!!! 転校するしないと、チョコを渡す渡さないが、どういう関係かっていう意味だよ!!!!」
「転校しなかったら、渡す必要がないから。……これはただの義理チョコじゃなくて、お代なの」
夕凪は、ゆっくりと、白い手を動かして、その手のひらを俺に見えるようにして、箱を示した。
訝しげに見る俺に、低い声で、続けた。
「……きょう、この話を聞いてもらったお代。……聞いてもらうために、私の得意な料理で、せめてものお返しとして、チョコをあげることを思いついた。……バレンタインっていうのは、そのために利用した機会っていうのかな。……そういうこと」
夕凪は、示した手のひらを、しずかに握りしめていく。
そして、そのちいさな拳を、自分の胸に寄せて、膨らんだそれを、叩いた。
無音のはずなのに、俺の耳の奥には、地下道で、ボールが跳ねたような音が響いていた。
俺は、そのさびしい音が鳴り止んだとき……。
幾度もかんで痛くなった唇を動かして、言った。
「……なんでおれなんだよ。ほかにいるだろ。……そんな面倒くさいことしなくていいヤツらが」
「……親友も、幼馴染みも、仲のいい友達も、……あの街で生まれて、育って、できたものだから。近ければ近いほど、未練が深まって、悲しい気持ちがわいてきて、後ろ向きになる。……逆に、とおい人には話せないし。……だからキミ以外に話すことはないよ」
「おれはとおいだろ。一日ひとこと、ふたことだけの関わりだ」
「……関わりは薄いけど、とおくはない」
夕凪は、胸に当てていた拳を、再び開き、指を一本立てると、自分を指した。
それから、その指をゆっくり、座卓の上を滑らせてゆき……。
俺の胸に向けた。
「ふだんはお互いに、違うところを見ているけど、たまに目が合う。合ったら、大声を出さなくても、無理をしなくても自然に話ができる。そんな距離。……さっきの、ひとこと、ふたことでも、よく考えたら毎日話してたってヤツ」
指を折り、座卓へおろした。
「実は知ってたの。っていうか、あるときから、気づいた。いつもいる、親しいグループと、それほどでもないけど、盛り上がることもあるグループと、ほとんど関わらないグループと……。それ以外、もうひとつの居場所があったなあって。……それが、キミとの時間だった」
夕凪の目が、俺の目と合った。
時を刻む音が、胸の奥を駆け巡り、内側から叩いた。
「春でも夏でも秋冬でもない。いつも在る空気のような手触りを持っていて、話題のことなんて、タイミングなんて、仲を保つには、だなんて考える必要のない、私がほんとうの私のまま、自然でいられる世界。そのことに気づいたとき……。もし、なにかあったときには、……そこを頼ろうと思った」
夕凪は、目をそらさなかった。
俺は、その瞬く光を受け止めたあと、黒い箱へ目を落とし……。
重くなった唇を動かした。
「……お前の言う、『ただのクラスメイト』ってのは、ずいぶんとたいそうなもんなんだな。……変わってるよ」
目を細めて、呆れたように息をはいた。
夕凪は、同じように目を細めて、紅い唇を尖らせた。
「とつぜんやってきて、こんな話をしてるのに、てきとうにしないで……、真面目に接するキミのほうが、よっぽどだと思うけどね。……ま、そんなに親しくないクラスメイトの女子を、家に『招き入れ』て、おせっかいしたりする人だから、それくらいふつうか……」
夕凪は、ちいさく笑った。
そして、俺の前にある。黒い箱へ一瞬、視線を走らせて……。
姿勢を正し――言った。
「……これから、前を向いて、未来へ進んでいくために――。私の大事なものを、あなたに預かっていて欲しいんです。……いつか取りに来られるまで。……どうかお願いします」
夕凪は、まっすぐ頭を下げた。
卓に触れた黒髪と、華奢な肩は……。
ほんのわずか、震えていた。
「……。……分かった。だれにも言わないで、胸にしまっておく。……それでいいんだな」
「……うん。……ありがとう……」
そんな、途切れそうな細い声が耳に触れ、胸の奥へ解けたあと……。
俺は、目の前にぽつんと在る、ちいさな箱を持ち上げた。
そのシンプルで素っ気ない、とあるクラスメイトからの贈り物は……――。
とても軽く、重かった。




