第14話 訪問者の告白は
卓上の、茶色の木目を滑るように、窓から落ちる白い陽が揺れ動く。
それは互いの濡れたグラスを、ちかちかと、時限装置のごとく光らせたり、しずかに踊る彼女の黒髪や、こちらへ向けられたおおきな目に、年齢以上の艶やかさを与えて、俺に答えを迫っていた。
「……。あの人……ってのは。夕凪のことか」
「はい」
間を置かないで返事が飛ぶ。
唾を飲み込むが、甘みが中へ落ちていかない。
先ほどまでの豊かな味わいは糊となり、喉を封じていた。
水ちゃんは、ゆっくりと立ち上がり、スカートのシワを伸ばすように、なでた。
そして再び、彼女が腰をおろしたとき、わずかにグラスが震え、メロンソーダの泡粒が幾つか弾けた。
俺はその泡を見つめながら、ぼんやりと、あの日のことを思い出していた。
◇
中学2年、最後の学期。
2年前の、2月14日――。
例年通り、その日も朝から学生たちは、なんとなくそわそわムードで、しかも例年になく、俺たちが住む県にとって数年ぶりの雪が降ったことで、ロマンティックな空気は、いよいよ強く……。目に映る景色、音、におい、温度……、触れるものすべてが、バレンタインという時間を彩っているように感じられた。
しかし当時(いまもだけど……)の俺には、そのような華やかさ、甘酸っぱさは縁のないことだったので、それを別世界のお祭りのように眺めつつ、いつものように登校し、いつものように授業を受け、昼休みには数少ない友人から、そういった話を振られつつも適当に流し、そして、下校した。
まだ日も落ちない、穏やかな時間。
もう雲は去り、青い空が広がる中。
真っ黒な長靴を、光る雪解け水へ浸して帰路につく。
そして道すがら、きゃいきゃいと騒ぐ女子の姿や、高校生らしきカップルが身を寄せ合う様子を、半眼で見ながら……。
しかし次第に頬を震わせ、ぎこちなく口の端を上げていった。
◇
――ま、そーゆー時期だから浮かんだってのもあるけど、単なる興味本位よ。……ってか、なに。キミはもらうアテ、あったりするの――
――馬鹿にすんな。毎年もらってるわ――
◇
――へーっ! 誰に誰に!! 毎年っていうことは……幼なじみかな――
――そーそー。めっちゃ可愛い幼なじみにな。あー来月が待ち遠しいな~――
◇
「…………ぶっ。……ははっ……!」
俺は笑った。笑うほかなかった。
赤ちゃんのときから知っている、あやしたり、おしめも替えたことがある女の子。
晴兄と呼んで慕ってくれる、幼い妹のような存在。
そんな子が、毎年家族や親戚、友人、そして近所の人たちにも行っていることを、クラスメイトに見栄を張るため持ち出したのだ。
あまりに自分が情けなく、阿呆らしく、人の目も構わず声を響かせた。
「……。は~あ……。こりゃ言えないわ。……秘密その3、か」
独りごち、おおきく息をはいたあと、また歩き出す。
まだ4時にもなっていなかったが、くだんの幼なじみは、前の年、すでに、おばさんの車でやって来ていて、帰宅部である俺の、日没前の帰宅に対して、「――お・そいっ!! そいそいそいっ!!!」と駄目出ししてきたので、急ぐに越したことはない。
そう思ったことと、見栄張りに持ち出してしまったことへの罪悪感もあって、俺は濡れたアスファルトを蹴って、冷たい風を割っていった。
お返し(?)のチョコは、もう買って、部屋へ置いてあった。
水ちゃんの好きなコアラをかたどった、白と黒のチョコレート。
それと、おまけ……というより、実質メインである……。
カード付きチョコ、もといチョコ付きカードの食玩――。
『魔法少女らっぴる』……を、10個。
10というのは、水ちゃんの歳に合わせてだ。
前の月に、誕生日を迎えた早生まれの姫は、祝いの席で、そんな【無言の言葉】を、俺に放っていた。
【……い、い、の、をぉ~……】【――当ててねっ!】
……と、いうふうに。
とびきりの笑顔を添えて。
なので透視能力のない俺は、神様に祈りつつ、甘いにおいと、きらきらに満ちた店内で、小学生女子から向けられる好奇の視線に耐えながら、パッケージの感じ、棚での配置……という、あてになるのかならないのか分からないものを手がかりに、1時間かけて10個選んだ。
そのように人事は尽くしたので、中身がお気に召さなければ、神様というものがいないか、いても俺に協力する気がなかったか、もしくは水ちゃんをがっかりさせて、収集熱を冷まし、その歯を守らんとする【氏】の心遣いであったか……。
そんなところだろう、と俺は思った。
◇
ぎこちない長靴歩行も、早足のかいあって、ほどなく見慣れた住宅街へ入った。
あと10メートルくらい歩いて、あの、おおきな桜の木がせり出した角を曲がり、赤い車が見えなければセーフ。
電車なら晩になるけど、あしたも学校があるだろうし、そっちはたぶんないだろう。
そう考えながら、俺は緊張しつつ、最後の道を進んでいった。
そして、角の手前で速度を落とし、曲がると……。
車はなかった。
俺は息をはき、力の抜けた足取りで、また歩き出した。……が。
安堵したせいか、つんのめった。
「……っと! っと、っと、っと……。――……とおっ!?」
たたらを踏む最中、だれかが放置した空き缶が目に入り、俺はそれを避けるため、盛大にジャンプ――……した勢いでホップ、ステップ、またジャンプと、三段跳びよろしく家まで進み……、最後は門の真正面で、まったくぶれのない、見事な着地を成功させた。
それで思わず、
「……いぇす! ジャンプマン!!」
と、ガッツポーズを決めた。
……のだが……。
「……。…………えっ……? …………なにいまの……」
「……。…………は?」
俺は、恐る恐る、門の中を見た。
すると、唖然とした顔でしゃがみ込む、見覚えのある女子……。
おかっぱ頭の、夕凪の姿が目に飛び込んできた。
◇
「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
俺の叫びに引きずられ、夕凪も絶叫し、俺たちは同時に尻餅をついた。
それから、ズボンに、パンツにまで達する嫌な感触を覚えて顔をしかめたところ……、同じようにしかめ面になっていた夕凪と目が合い、互いに口をぱくぱくさせて、無言の言い合いを始めるに至った。
恐らく、向こうは俺に対する罵詈雑言。
俺はもちろん、「……なんでお前がここにいるんだよ!!」だ。
そもそもコイツはきょう、学校に……。
「……って!! もぉおおおぉおおおお~~~~~~!!! さ・い・あ・く・っ!! このスカート、お気に入りだったんだってば!!!」
俺の思考を吹き飛ばすように、何度も指を突きつけてわめく夕凪は、斜めに下げた薄茶色のポシェットから、緑色のハンカチを取り出して、薄水色のミニスカートについた泥水を必死に払った。
俺はそんなさまを見て、頭をかいたあと、ドアをちら見して、
「…………~~っ、――ちょっと来い!」
と、ハンカチを持つヤツの手を引き、「……えっ!? ええっ!!??」と驚く声も無視して、家の中へ連れていった。
◇
30分後――。
緑川家の、夕食を食べる6畳の和室にて。
じいちゃん手作りの、流れるような木目の美しい、立派な座卓をはさみ……。
仏頂面でヒジをつく夕凪。
苦笑いしながら、温かなお茶をすする俺。……が。
着席してから3分、ストーブの暖気をかき消すような冷たい空気の中、無言で座っていた。
◇
「……。……お茶。冷めるぜ」
「……」
「……飲まないのか」
「……」
返事はなかった。
沈黙は続行らしかった。
俺は息をはいて、右手の、光が差し込むサッシ窓の奥、庭の緑に目をやった。
朝は白に染まっていた我が家の草木も、すっかり元の姿を取り戻していた。
空も青々しく、あしたは快晴だろうな……。
次の雪は、何年後になるんだろう。
高校生になったころか、もっと先か……。
……などと思っていたら、ばん、……ばん、という音とともに座卓が揺れた。
「……なんだ。やっぱお茶か? ……入れ替えようか」
俺は畳に置いた、ポットなどが載る盆を引き寄せて、注ぎ口を手前にまわすと、急須を持ち上げ近づけた。
すると、ばん! とおおきな音がして、急須を落としそうになった。
「……りえないでしょ……。――あ・り・え! ないでしょ!! ……いったいなに? なんなのこの状況は!! ……っとに、わけが分からないんだけどさ!!!!」
ようやく言葉を発した夕凪は、真っ赤な顔で、ライブでも始めんばかりの勢いでばしばし座卓を叩き、俺に詰め寄った。
俺は急須をおろし、極めて冷静に言った。
「……だってお前が、お気に入りって言ったから……。シミになったらと思ってさ。あと、おれもこけたから、汚れ具合がよく分かったっていうか」
夕凪は、おおきく口と目を開けて、わざとらしく何度も頷いた。
それから、はき捨てるように笑い、言葉を続けた。
「……それで? ご親切に、家の中へ引き入れて? シャワーを貸してくれて? スカートはおろか下着まで洗わせてくれて? 乾燥機も使わせてくれて? 乾く間、……ズボンを貸してくれて!!!」
立ち上がり、ぱふーん……! と両手でオレンジのスウェットパンツを叩いた。
夕凪は、女子としてはふつうの背丈、体格だが、それでも俺より10センチは低い。
さらに、そんな俺の服で、かつ、サイズがおおきかったので一度もはかなかったものだから……、派手な色もあって、ピエロのズボンのようになっていた。
「なんだよ。おれのせいで汚れたから、しただけなのに……。感謝はされなくても、怒られる筋合いはないと思うが。……それと引き入れて、じゃなくて、招き入れて、だ。妙な言い方はやめろ」
「いやー適切だと思うわー! だってありえないでしょ!? ……キミと私の関係ってなに!?」
「クラスメイトだよ。ただの」
引きつった笑いで、また頷く夕凪は、上は体のラインが出るほどの、薄手の白セーター、下はだぼだぼオレンジスウェットという奇抜ファッションで、俺を見おろして話す。
「そう。友達でもない。しょっちゅう話すというほどでもない。ただのクラスメイトね。私の下の名前も知らないでしょ!」
「いや、空良だろ。クラス名簿に書いてるじゃん。お前、『ゆ』で、いちばん最後だし。覚えてるよ」
「……!! ……っ!!」
夕凪は言葉に詰まったように、たじろいで、しかしすぐ……、「わ、私だってキミの知ってるし! セイでしょ、――晴れの!!」と、なぜか対抗するようにまくし立てた。
俺は半眼で、オレンジピエロを見返して、言った。
「……要するに、とくに親しくもない女子を、半ば強引に家族もいない時間の家へ入れて、シャワーや服まで貸すという行為が、気にくわないわけか。軟派野郎……、ほかの女子にも、そういうことをしてるんじゃないかっていう。……つーか洗濯したのはお前だからいいじゃんか。こっちは風呂場と乾燥機を貸しただけだし。……さすがにパンツをおれが洗」
言い終わる前に、座布団が俺の顔面に飛んできた。
そして真っ赤な顔で、ヤツは続けた。
「当たり前でしょ!!!! ってか、話の腰を折られたけど!! ふつうさ、私とキミの関係で、こういうことが、かんたんにできる? 逆の立場なら私は絶対しないし、ほかの『クラスメイト』の男子だって……100パーセントしないと思うわ。……軟派男以外! な・ん・ぱ・男――以外っ!!」
ピエロは足踏みまで始めた。
自分で貸しておいてあれだけど、ほんとうにダサい格好だよな……。
こんなのをスーパーとかで見かけたら、笑いをこらえきれる自信がない。
……などと口が裂けても言えないことを思いつつ、俺は返した。
「阿呆かっつーの。……軟派男? おれは女子となんか、お前がいちばんっていうくらい、ほとんど話さないんだからな。あんまり疑うなら、いまの格好を写真に撮ってだれかに見せるぞ」
俺はガラケーを、着替えた白パーカーのポケットから取り出して、夕凪に差し向けた。
すると一瞬で距離を詰め、ヤツはガラケーを奪い取り、ダサズボンのポケットに突っ込んだ。
もはや真っ赤な顔面で、犬歯をむき出しにし、「――オレンジ・デスキック!」と必殺技でも出しそうな勢いだったので、俺は携帯を取り返すことをひとまず諦め、預けておくことにした。
「……はあぁああぁあ……。なんでこんなことに? 朝の星座占いは2位だったのに……」
夕凪は、しゃがみ込み、艶やかな黒髪に手を入れて、額を押さえる。
俺はため息をついて、つぶやいた。
「……そんなに嫌だったんなら、断ればよかったろ。家の中には入れたけど、そこから先は強制してないし」
「……目の前に、お風呂場や乾燥機があって、お気に入りの服がピンチ、体はすごく気持ち悪い……ってなってたら選択の余地なんてないわ。……そういう『もっていきかた』の手際がよすぎるところが、怪しいって言ってんのよ……」
髪の隙間から、横目を向ける夕凪。
俺は眉をひそめて返した。
「……なんだかなー……。さっきから要領を得ないんだが。仮におれが、お前の嫌う軟派男だったとして、なんか困るわけ? ただのクラスメイトであるおれがさ」
「困る。……ってか、やだ」
即答し、ゆっくりと頭を起こし、夕凪は俺に向き直った。
それから、放置していたお茶を手に取り、一気飲みした。
「……ただのクラスメイトで、関わりが薄くても、どうでもいい相手ってわけじゃない。……だからやなの」
夕凪は、湯飲みを置くと、まっすぐに俺のほうを見た。
つよい光が、俺の目に、はっきりと飛び込んできた。
それで俺は、クラスメイトになってから初めて、その顔をじっと見据えた。
瞳の放つ輝きは、夜空に映える青い星のようで……。
雪肌に宿る唇には、野に咲く薔薇の気品があった。
俺は思わず気圧されて、少し目をそらした。
そのまま、先ほどまでの喧噪がうそのように、部屋はしずけさに包まれた。
やがて、柱時計の針がカチリと、何度目かの乾いた音を刻んだとき……。
かすかな吐息とともに、夕凪の声が響いた。
「……きょうはね。キミに用事があって来たんだよ。……思わぬことで時間が経っちゃったから、もう言うね」
俺は夕凪へ視線を戻した。
するとヤツは、瞬間、ちょっとだけ目を開き……。
きょう、会ってから初めて、唇の端をやわらかに上げた。
その後、瞬いて、わずかにうつむいたあと……。
夕凪は、笑みをたたえたまま……言った。
◇
「私……、転校するんだ」
……と。




