第11話 それは、できかねます
足取りが重いのは、坂道をのぼっているからではなかった。
◇
最寄りの駅から学校までは、長い長い坂が続く。
電車通学の生徒だけでなく、自転車通学の者たちも、この坂を避けてゆくことはできない。
通称――『壁』。
さいしょはそれほどでもないが、進むにつれ勾配は増し、校門へ至る直前100メートルは、まさにその通称にふさわしい「壁ぶり」だった。
ゆえに自転車でのぼり切ることができた者は少なく、俺も例に漏れず、一度として完走したことはない。
それどころか、きょうは坂のさいしょから、一度も自転車へまたがることなく、手押しのままのぼっていた。
「……きのうの『イキ恋』でさあ~。あの、アイツいるじゃん? あのぱっとしない俳優! 誰だっけ」
「三好啓太? ……やばかったよね~。あの顔で二股とか……」
かん高い声が、左右の耳を震わせて、風のように通りすぎていく。
そしてまた、野球の話やら、友達の話やら……。横から、前から、背中から、きらきらした光とともにつついてきた。
とりとめのない会話。
俺も同じように、ダチとしているだろう朝のやりとり。
それが耳へ入るたび、足の重さが増していく。
なじみある日常の音が、数日前より俺の中に生まれた非日常音と不協和音を奏で出し、不快の牙を体へ食い込ませ、地面へと引きずりおろそうとした。
「……。――……くそ……」
食いしばっていた上下の歯が、ようやく離れたあとに出た、低く短いちいさな音。
ゆるんだ唇に反して、ハンドルを握る手の力はつよまった。
風羽怜花と美浜水。
接点のなかった高嶺の花、と……。
疎遠になっていた幼なじみ。
会うはずのないふたりが、……会ってはいけないふたりが、会ってしまった。
……最悪の形で。
ひずみを……生じて。
◇
水ちゃんは、昔から警戒心がつよい。
わけの分からない状況、怪しいことがら、不審人物――は、徹底的に嫌う子だった。
彼女が6歳のとき。俺が手を引いて、駅前の市場の中にある雑貨屋へ連れていったことがあるが、そこで知らないおじさんから、飴玉を買ってあげるよと言われた。
俺はすぐ、「ほんとう? ありがとう!」と喜色満面、売っていた色とりどりの飴から、どれにしようかな、どれにしようかな……と選んでいたら、水ちゃんが即、おじさんの前に出て、
「しらないひとだから、いい!」
……とかぶりを振って、俺の服を引っ張って店を出た。
数週間後、新聞でその人の写真と、「誘拐犯逮捕」という文字を目にし、血の気が引いたのを憶えている。
また、じいちゃんや、おばちゃんおじちゃん、皆で遊園地に行ったときも、昼に園内のレストランで頼んだ、その店一番人気の野菜スープを、水ちゃんひとりだけが、「やだ!」と飲まなかった。
結果、帰り道、彼女以外の全員が、駅のトイレのお世話になった。
そのほか、おばちゃんちに滞在している際にかかってきた勧誘の電話、やってきた訪問販売なんかに対応することになっても、いっさい受けつけず、一秒も迷うことなく「いらない!」と拒否。
言葉遣いが、いまのようになってからも同じだった。
あらゆることを疑ってかかっている……というより、直感力が優れていて、なにか彼女だけが感じられる違和感みたいなものを弾いているのだと思う。
そして、その力は、いまも衰えていなかった。
呼び出しは十中八九、風羽について。
聞かれる内容は、俺との関係。
……おそらく、いや確実に。詳細に。
念入り……、に。
こう追及されるだろう。
「あの人は、あなたにとってどういう人なんですか?」
……と。
◇
うそとは、存在しないこと。
ほんとうとは、存在していること。
そんなふたつをつなげると、どうしても歪みができる。
いわゆる詐欺師と言われる輩は、その接着面の亀裂を、巧みな話術、周到な準備によって、限りなく見えなくすることに長けた者たちなのだろう。
俺にはそういう才が1パーセントもない。
風羽怜花と緑川晴は、クラスメイトである。
それ以上でも、以下でもない。
友達でも、恋人でもない。
なので朝、電話で呼び出し呼び出され、猛スピードの自転車で駆けつけられるような間柄では、決してない。
そういった結びつきは、このふたりにはないのだ。
けたたましい自転車のブレーキ音、舞い上がる砂埃、こすれたタイヤのにおい。
これらは、すべて――。
ファレイ・ヴィースと……。
【セイラル】。
【彼ら】の主従関係によって現れたものだ。
まだ、【緑川晴】の知らない、それによって。
だから、だ……。
つまりは、今後の俺の、問題点は……。
さしあたって、放課後――。
やらなければならないことは……。
……。
……――。
――……どうやって、ごまかす?
◇
〔え? 風羽? いや~、アイツってば俺の熱烈なファンでさ~。ちょっと俺が電話でね、調子悪いことを漏らしたら、大慌てで駆けつけてきたってわけ!〕
〔ファン? なにの。ルックス……はありえないですし。あなた、特技とか、なにか秀でたものはありましたか?〕
……ぐっ……。
駄目だ。話が続かない……。
ならば……、これらならどうだ!
〔実はさいきん、悩みがあって……。アイツクラス委員で、よく人の世話を焼くんだよ。今朝の電話でも、話を聞いてもらってたんだけど、ついね、重いことを口走っちゃって。そしたら、急いで来てくれてさ……〕
〔よく食べて、よく遊び、よくごろごろしているあなたの顔のままに見えますが。仮にその奥に、悩みを抱えていたとしても、クラス委員程度の関わりでしかない相手に、ひとりで抱え込むくせのあるあなたが頼ることはありえません。……私をなめていますか?〕
……よく考えたら、疎遠になっていたとはいえ、じいちゃんとおばちゃんの次に、俺のことを知っている相手だった……。これも無理か……。
……ならもう、いっそのこと!
〔アイツ? ああ俺の彼女だよ。しかもべた惚れでね~。会いたくなったら電話一本で即! よ! ……ってことで、彼女いない歴イコール年齢男、緑川晴! 見事卒業を果たしました~!〕
〔あんな美人が、なぜあなたの彼女になるんですか。冗談は顔だけにして下さい〕
……。ほんと、ね……。
冗談であってほしいよ……。
くそ……。
なんでこんな……。
「……おいコラ。通行の邪魔だろうが。まがまがしいオーラ垂れ流してんじゃねーよ」
ふいに、ドスの利いた声に背中を押され、俺は足を止める。
振り返ると、曇る心に殴り込みをかけてくるような、真っ赤な髪をなびかせる、いかつい男が立っていた。
「……。通行の邪魔してるのは、どっちかっつーと、お前のほうだと思うけどな……」
薄い黒鞄を脇にはさみ、ポケットに片手を入れて突っ立つ伊草の周囲を、俺は半眼で見やる。
生徒たちは、ヤツを避けるように、怯えながら小走りに通り過ぎていた。
伊草は少しだけ辺りを見まわし、舌打ちする。
そしてバツが悪そうに頭をかき、鞄を俺のカゴに放り込んできた。
「……髪。いい加減、黒に戻せよ。それとも実は、人間嫌いか、マゾの気があるのか?」
俺は、その明らかに、なにも入っていなさそうな黒鞄を、落ちないように入れ直しつつ、ため息をつく。
ヤツは、「はっ……」と鼻で笑うと、自分を避けゆく周囲にガンを飛ばしたのち、言葉を放った。
「他人に気に入られるために、自分の信念を曲げるような男には、俺はなりたくねぇんだよ。むしろせいせいするわ。……前よりはっきりしてな!」
声をおおきくして、両手を上げる。
それにより、登校する生徒たちの波の中、俺たちの周りにだけ広場ができた。
歩きやすいのは、いいのかな……。
「信念ねえ……。1ヶ月前に読んだ、漫画の影響で? ……まあそういうことにしとくわ」
俺は何度かうなずいて、歩き出す。
伊草は、「時間は関係ねぇ!」だの、「漫画を馬鹿にするなコラ!」だのカニ歩きでまくし立て、ますます人を遠ざけて、朝の波を割っていた。
◇
俺の、ふたりめの友人。――伊草響也。
身長173センチ、体重64キロ。
趣味は漫画を読むことと、ツーリング。
クラブは無所属。
週に4日、学校からふた駅ほどの中華料理屋で、皿洗いのバイトをしている。
性格は、基本的におおざっぱ。口もあまりよくない。
さらに喧嘩っ早い面もあり、言動に馬鹿なところが目立つ。
しかし情に厚く、からっとしていて気さくであり……。
筋を通すところは通すという男気を持っていた。
……というのが、俺の、ヤツに対する印象、プロフィールだが……。
それを、会ったことのないだれかへ話したとする。
それぞれの人たちが、示す反応は?
趣味や生活スタイルが似た人の中には、「会ってみたい」「遊んでみたい」という人もいるだろう。
性格が合いそうな人ならば、「友達になってみたい」、女子なら異性として関心を持つ人も、もしかしたらいるかもしれない。
そう、とくに問題はないのだ。
……中身には。
◇
伊草は、よく見ると上品な口もと、通った鼻筋……と、なかなかの男前で、引き締まった体と併せれば、イケメンの部類に入るのではないかと思う。
ドスの利いた声も、聞きようによっては、渋いともいえる。
先に述べたように性格だっていいし、ましてや不良では決してない。
しかし総じて、他人がヤツに抱く第一印象は、【即、撤退すべし】――というものだった。
同じクラスだった1年の4月。まだ仲よくなる前。
なかなか友達ができず、教室で孤立していたのは互いに同じだったが、ありふれた存在感で、意識されずにそうなっている俺と違い、伊草は当初より、周りの注目を集めていた。
黙って座っていても。授業で声を発しても。無視できないオーラをつねに放っていて、その黒い光はクラスメイトの恐怖心を呼び起こし……。結果、ヤツの周りにはいつも空間ができていた。
違うクラスになったいまでも、そうであるらしい。
ゆえに彼女はおろか、友達も、俺と橋花しかいない。
バイト先の店長には、可愛がられているらしいが……。そのほかには距離を置かれ、年上の人ですら、敬語を使われ、へこんでいた。
うちの高校は校則がゆるかったけれど、それでも赤い髪というのは無視されるものではない。
にもかかわらず、染め直してこい! と指導がつよく入らないのは、教師ですらびびっていたからだ。
そんなヤツと俺が友達なのは、互いに性格が合ったからではあるのだが、そのように【中身】と触れ合う前に、なぜほかの人のように【外見】で躊躇せず、距離を縮められたのか。
それはそのまま、単純極まりないことで――。
俺がヤツを、まったく怖がらないからだった。
◇
俺は見た目や雰囲気で、人を怖いと思ったことがない。
顔の広いじいちゃんには、知り合いや友人に、なかなかの風貌の人もいたが、彼らがやってきても、ちいさなころからまったくふつうに接していたので、「コイツはたいした胆力だ!」「将来大物になるぞ!」と喜ばれたりしたが……。別に器がおおきいわけでも、びびらないわけでもない。
犬に吠えられてびくつくし、ゴキブリと遭遇すれば青ざめて逃亡、ホラー映画だって超苦手だ。
しかし現実の人間に関しては、いかついとか、つよそうとか、危なそうとか……そういうことで、あとずさりすることはなかった。理由は分からない。
ただ、【ここ数日の出来事】で、理由に思い当たる節が出てきてしまったが……。掘り下げないように奥底へしまっている。
……考えたくもなかった。
「……? どうしたよ。人の話聞いてんのか?」
「……聞いてるよ。ただ、ものすごい久しぶりに感じてな。その赤い髪見るのも。……元気だったか?」
俺は、ちいさく笑みを浮かべる。
するとヤツは、「……はあ?」と怪訝に漏らし、前へ出て、こちらをのぞき込む。
「お前、メールも電話も返さねーと思ったら……。金曜からこっち、電波の届かない面白異世界にでも行ってたのか。うらやましいご身分だな。こっちはずっと、つまんねー現世でバイトだったってのに」
軽くヒジでつついてくる。
俺は一瞬で笑みを失い、前を向いたままはき捨てた。
「……悪いがしばらく、異世界とか、魔法とか、剣とかその他、非現実的ワードを控えてくれるか。……調子が悪くなる」
急に、そばから赤い髪の気配が消える。
振り返ると、ヤツは立ち止まり、阿呆のように口を開けていた。
「な……っ、なんだよその顔は! と、ともかく、そういう話はとうぶんごめんだってことだよ! お前、すぐ漫画の話とかしてくるからな……」
俺は何度も念押しする。
伊草は、ゆっくりをかぶりを振ると、つぶやいた。
「やっぱ異世界にでも行ってたんだな……。ま、いいや。じゃあラノベの話でもしよーぜ。金曜に発売した……」
「ラノベの話もやめろ……! ――つーか、それをいちばんやめろっ!!」
◇
その後、しつこくラノベやゲームの話題を投げてくる伊草の口撃をかわしつつ、ふたりで校門をくぐった。
そして俺は自転車置き場へ、徒歩の伊草は昇降口へと別れる際、俺はヤツの背中へ声をかけた。
「……ああそれと。悪いけどきょうの昼はパスな。……用事があってさ。橋花にも言っといてくれ」
「用事ぃ……? まあいいけど。んで、けっきょくお前。金曜は病気か? それともサボりかよ」
「……調子を崩して、サボらざるをえなかった」
苦々しく、俺は返す。
果たして伊草は、怪訝な光を目に浮かべたが、とくになにも口にせず、ため息だけをつき……、薄い鞄からなにかを取り出してこちらへ投げた。
慌てて受け取り、見やると……。
緑の紙に包まれた、やわらかい、おおきな酒まんじゅうが、ひとつ。
「サボりにも、病気にも、ついでに馬鹿にもきくありがた~いお薬だ。誕生日おめっとさんでした。来月の俺のときもよろしく!」
長めの指でこしらえた拳銃で、俺の胸を狙い撃つ。
俺はすぐ、自転車を片手で支えると、空けた手で、同じように指を突き出し、
「おう。こっちも探しとくよ。お前のへらず口が減るような、ありがた~いお薬をさ。……サンキューな」
……と、笑った。
◇
そうして生徒の波は、すべて校舎へと吸い込まれ……。
緑彩る、高台の住宅街から、朝のざわめきが、ひととき失われた。
その一時間後――。
◇
「……あー、途中になりましたが、ここは次回の小テストに出すので。各自復習しておくように。では」
終わりのチャイムとともに、ぼそり、ぼそり。
おおきな眼鏡がズレ落ちるのを直しつつ、和井津先生はそう告げて、のろのろと教室を出て行く。
無造作にまとめられた、ひとくくりの長い髪。
薄い化粧、淡々とした物言いとふるまい。
近所のコンビニへ出かけるときのような、適当な服装。
きょうは青と白のボーダーシャツに、洗いざらしのジーンズだった。
歳は、よく分からないし、性格とか、ちょっとした趣味興味など、男子も女子も、おそらく同僚であるほかの教師も含め、知っている者はだれもいないと思われる。
それは怖がられているからでも、嫌われているからでもなく……。
とくにだれも、彼女に深い関心を持たないからだった。
そんな先生の言葉でも、「テスト」という単語となると反応はおおきく、果たして「え~!」「マジかよ!」「この間もやったのに?」等々、嘆息まじりの声が飛びかった。
しかしほどなく、統率者のいなくなった空間は、授業前のような憩いの空気に包まれる。
「ほら、ほら、みっちー行きなよ。前わたしだったんだから……」
「む、無理だよ! ……私よりくうちゃんのほうが、感触よくなかった?」
「……なんであたし? つーか、全員のがよくない? 時間短いしさ! そーしよーよ!」
そばに座る、俺の存在などおかまいなしの話し合いが行われ、かしましい女子たちは、ほどなく連れ立って、教室を出た。
俺はぼんやりと、隣の空席を見やる。
風羽は、先生が外へ出たと同時に立ち上がり、席を離れた。
◇
彼女は、俺が入室したときも、着席したときも、授業中も――。一度たりともこちらを見ることはなかったし、出るときもそう。
俺の言葉を守っているのか、クラスでの態度は以前と変わらずだった。
ちなみに、授業が終わり、教室を出る……というのは、いつもの風羽の習慣で、おそらくトイレなどではなく、寄ってくる女子たち、あるいは勇気ある? 男子たちをさけるためだと思われる。
しかしけっきょく、さっきの女子たちのように、追いかけられて、声をかけられることとなるのだが……。あからさまに距離を置こうとしているのに、皆の反応が悪くならない、むしろ興味や好意が増しているのは、対応がいいということなのだろう。
俺はすみの席で、ぼんやりと、周囲の明るい声を聞きながら、ポケットへ手を入れる。
そして、硬く四角いものをつかんで引き抜いた。
【ファレイ・ヴィース】
【090××××××××】
光る画面に映る文字、数字。
誰が見ても、なにも分からないアドレス。
なので堂々と、教室の中で、それを見つめていた。
授業間の小休憩は10分。
迷っているひまはない。
授業中、先生の話も右から左でまとめていた言葉を、頭の中で再度唱えたのち――、俺は座ったまま発信ボタンを押した。
《……も、申し訳ございませんっ! 遅れました! ……ご用命賜ります!!》
8回コールのあとに、慌てた声が耳へ飛び込んでくる。
俺は、先ほどの、女子たちの光景を思い出して苦笑しつつ、おおきく息をはいて、言った。
「……話すことはまとまった。昼休みに、東棟の1階にある旧美術室で。中へは、下の、空気の入れ換えをする引き戸から入られるから。以上」
《……了解いたしました。お待ちしています。……では》
音が消える。
俺はゆっくりとスマホを離し、少しだけ文字を見つめたあとに通話を切った。
◇
話の場所として指定した東棟には、現在、使用されている教室がない。
一般的に、体育館や更衣室、食堂、柔・剣道場がある棟として認識されており、空き教室……昔授業で使われていたものがある、ということを知っている生徒は少なかった。
ゆえに以前は現役だった教室群、美術室や技術室、家庭科室などは、もう新たな学びのにおいを刻むことなく、褪せた室内へ思い出を閉じ込めたまま、ひっそりと佇んでいた。
しかしそこへいまも、学習以外の目的で訪れる者たちがいて……。それは、いわゆるさぼりの常習犯である不良、そして俺や伊草、橋花たちのようなはぐれ者だった。
休憩時間や放課後に、多数派の喧噪から離れ、校内で憩う場所として、屋上や、そこへ至る階段の踊り場……俺たちが昼飯を食う場所としてたむろしている……と同じように、少数派の生徒たちにとって、わずかある貴重な隠れ家となっていた。
もちろん各所、戸は施錠されているので、出入りは窓、または下の、空気の入れ換えをするためのちいさな引き戸からになる。
それらにも、とうぜん鍵はあるが、それぞれ、かつて誰かが「開けて」以来、確認しに来る校務員、教師などもいなかったため、出入り口として復活を果たしていた。……ゆえの「憩いの場」であった。
昼休みに伊草や橋花が、東棟の旧教室へ来ないのは知っている。
不良たちが駄弁っているのは、2階の旧音楽室や、旧家庭科室だ。
なので1階のすみにある、この旧美術室には、いま、だれも来ないことは分かっていた。
ここは裏山に面しているため、そこへ訪れる生徒たちの声がよく届き、放課後は西日がきついので、憩いの場としてはあまり人気がないのだ。
……ということも、一年のときから三人で検証済みだった。
時刻は12時35分。
現在位置は、くだんの教室前。
風羽は、四時間目が終わった瞬間に教室を出た。
俺は少し遅れて、弁当を手に持ち、ゆらりと席を離れた。
クラスのだれもが、俺たちが落ち合うなどとは夢にも思っていないだろうが、念のため行動はずらす。
正規の出入り口の、ふたつの引き戸にある窓には紙が貼られ、それらに挟まれた壁に窓はないので中の様子は分からないが、電話での、相変わらずの従者然とした口調だと、もういるのは分かっていた。
あとは、俺が意を決して、下の引き戸をくぐるのみ。
俺は深呼吸して、弁当包みを下に置いた。
そして、ひざをつくと……。
四つん這いの状態で、ゆっくり引き戸に手をかけ、開けると同時に頭をくぐらせた。
……ら。
すぐ前に、土下座する風羽の姿があった。
◇
「……!? ……なっ……――っ!」
驚いて身を引いたとき、引き戸の鴨居に思い切り頭をぶつけ、俺は悶絶、そのまま敷居の上、教室に体を半分突っ込んだまま、頭を押さえて倒れ込んだ。
「……!!? セ、セイラル様っ!! ……大丈夫でございますかっ!!!」
涙目の俺にかぶさる、かん高い悲鳴。
薄目を開けると、顔から数センチという距離に、風羽の顔があった。
「――!!! ……っ!! ……――あがっ!!!!」
慌てて身を離したら、今度はそばにあった据えつけの作業机に頭をぶつけ、「ぎええええええ……」と、小学生以来の訳の分からぬ奇声を口から発し、くの字になることで、俺はようやく全身の入室を果たした。
「ああっ!! な、なんてこと……!! す、すすすすすぐに保健……、いえ、心許ない!! 救急車を!! ――お待ち下さい!!!」
恐ろしい言葉が耳をえぐってきたので、俺は頭の痛みもどこへやら、近所の野良猫もびっくりスーパージャンプで風羽に飛びつき、その手にあったガラケーの電源を切った。……ま、……間に合ってよかった……。
俺は身を起こし、女の子座りでおろおろする、潤んだ目の、とんでもビューティに携帯を返しつつ、言った。
「……いいかよく聞けよ。明らかに重傷重体異変を感じたとき以・外! 絶っっっ対にことをおおきくするな。……なっ!? ―……おーけーっ!?」
「は、はい! 誠に申し訳ございませんでした!! これからはたぶ……いえ!! そのように!!」
再び土下座する、風羽。
俺はため息をついて、埃まみれの体をはたきながら、続けた。
「……つーか、その土下座はなんなんだよ……。百歩譲っていまのはともかく。入ってきたときのは」
その言葉で、風羽は顔を上げ、表情を一変――また居住まいを正し、土下座をして言った。
「……このたびはっ! ……今朝はっ!! 主に対して無礼千万増上慢!! ありえぬ物言いをしてしまい、誠に申し訳もなく……!!」
小刻みに震えながら、額を床にこすりつける勢いで、頭を下げ続ける。
俺は唖然として、しばらく口を開きっぱなしにしていたが、やがて正気を取り戻し、顔をゆがめてかぶりを振った。
「……ちょっ……と、待て。なにを言ってる。――なんのことだ?」
意味不明の謝罪に、俺は瞬き、たしなめるのも忘れて言葉を放つ。
風羽は、頭を上げぬまま、返した。
「そ、それはあの……、セイラル様に対し、緑川『君』などと呼んだり、対等のような口ぶり……。それらを行ったことに対してです! 言いつけとはいえ、あまりにありえぬことで……」
……。
…………は?
……という言葉しか、出てこない。……なに? あれ? あれで?
「……あのな。……ない。ないわ。それは。……ともかく顔を上げてくれ。話ができない」
その言葉にも、しばらく応じずに姿勢を崩さなかったが、俺が黙り続けていたので、観念したように、おそるおそる頭を起こす。
ただし、必死に猫背になり、俺より目線を低くしようと踏ん張っていた。……。
「……。ちょうど話をしようと思っていた内容と、つながることだから言うけど……。セイラル……、前の【俺】……ってのは。あんたに恐怖政治でも敷いていたのか」
風羽は、一瞬、なにを言っているのか分からないような表情をする。
が、すぐに目を見開き、口をおおきく開けて叫んだ。
「――と、とんでもございませんっ!! そんなことはありえません!!! むしろとてもよくしていただき、なにからなにまで、セイラル様は私のために……!!」
スカートの裾をつかんで、必死にまくし立てる。
俺は淡々と言った。
「じゃあなんで、そんなにかしこまってるの。それとも、そっちの世界では、主と従者ってのはそういうものなのか?」
「い、いえ……。決してそのようなわけでは……。生意気な従者もおりますし、それを許す主もおります。友達のようであったり、恋人や家族のようであったり……。まれではありますが、従者を庇護者のように頼る主もいたりします。そして、先ほど仰ったように、恐怖で縛りつけたりも。……関係は多種多様です」
風羽は、唇を結ぶ。
俺は、ようやく光の落ち着いた、ふたつの黒曜石を見つめながら、続けた。
「つまり、【セイラル】が無理やりとか、【セイラル】を恐怖してではなくて、あんたがそう振る舞うべきとして、やっているわけなんだな。この一連の態度は」
「……は、はい。そうです」
「ならやめてほしい。もっとフランクにしてくれよ。じゃないと困るんだよ」
俺は首をさすり、脱力したように頭を落とす。
が、すぐに耳に、「そ、それはその……!」と慌てた声が飛び込んできた。
なので制して言葉を投げる。
「……別に敬語はやめなくてもいいけどさ。目線を低くしなければいけないとか、土下座するとか。必要以上にかしこまるのはやめてくれ。『かつて』はともかく、『いま』は……。俺は緑川晴っていう、ただの人間なんだから」
「は、はい……。そうですね。セイラル様は、いまは……」
とたんに悲しそうな色を、目に宿した。
俺はまた、ため息をついて言った。
「……俺はもう、あんたの言うことを受け入れている。少なくとも、あんたとの関係は。それを否定したいんじゃない。……っていうか、関係性はいろいろ変わっていくこともあるだろう。態度とか、言葉遣いとか」
……水ちゃんのように。
変化がいいものか、悪いものかは分からないが、いつまでも同じふうではない。
それが自然というものだろう。
「緑川君と呼ぶのは、俺たちが関係を続けるために、こちらの世界で必要な『処世術』だ。そして、極端にかしこまらないってのは、いま、お互いに同級生の……、クラスメイトになったからだよ。俺だけじゃなくて、あんたも高校生なんだぜ?」
俺は、風羽を指さした。
彼女は戸惑いながら、「こ、これは従者として、セイラル様のおそばにいるための……」と、ブレザーに触れながらもごもごやったので、俺は風羽の手を取った。
「……!? セ、セイラル様っ!?」
「ここに来るように命じたのは、かつての【セイラル】かもしれないが、いまの【俺】の言うことも、少しは聞いて欲しい。この現在の関係は、過去の、お互いの関係を否定するものじゃないだろう? 同じ道の続き、ちょっと景色が変わっただけさ」
「……ほんとうに? 続き、と……。思ってくださいますか?」
潤んだ光を、こちらへまっすぐに向ける。
俺はゆっくりとうなずいた。
「ああ。言ったろ? あんたとの関係、つながりはもう否定しない。……学校では、申し訳ないけど、こうして隠れて会うようにしてほしいけど。それはあんたを嫌っているからではなく……」
「――……はいっ! 分かっておりますっ!! 私とあなたの、学校内での立場上の問題のためですよね!!」
笑顔を見せ、嬉々として返す。
あの……。そんな力いっぱい、そういうデリケートなことを叫ばれても……。
たぶん分かってないんだろうなあ……。
俺は思わず笑みを漏らした。
するとまた、風羽は、もごもごとなにかをつぶやいた。
「……? どうしたの。まだなにか言いたいことが……」
「そ、その……」
「?」
「……手……。……を」
その言葉で、俺はようやく、風羽の手を握りしめていることに気づいた。
……がっ!! し、しまっ……!!!
「――わっ! わわわ悪いっ!! こ、これはその、変な意味ではなく、勢いでというか……ともかくすまん!!!!」
今度は俺が土下座した。
そしたらすぐに、「――お、おやめくださいセイラル様っ!!! なにをなさっているのですか!!?」とものすごい勢いで起こされた。
なにを……って。あんたはファレイ・ヴィースでありつつ……。こっちでは【風羽怜花】なんだよ。……高嶺の花の。言っても分からないだろうけど。
「……悪かった。なんていうか、興奮したせい……にしちゃまずいんだけど。これからは気軽に触れないように気をつけるよ」
埃まみれの制服をはたきながら、ちいさく頭を下げる。
しかし風羽はかぶりを振り、ようやく出た声で言った。
「そ、その違うんです!! 嫌だとかではなく!! いままでに、セイラル様と体が触れることは何度もありましたし。けれど、先のように、つよく手を握られることがなかったゆえ、驚いてしまっただけで……」
正座したまま、体をぎゅっと縮こまらせて、うつむき、耳までも赤らめる。
俺は、自分の手を見つめたあと苦笑する。
「……そうか。まあとりあえず、女子に気軽に触れるってのはいいとは思えないから。主と従者ってなら、なおさらだしな」
少なくとも【俺】が、主という立場を利用してあくどい行為を働くようなヤツではなかったらしいので、俺は胸をなでおろす。
そもそも【俺】、風羽のことを『ガキ』なんてって言ってたが……。そういう感じの付き合いだったのだろうか。
「あのさ。これは答えたくなければ、答えなくていいんだけど。……ふつうなら聞かないことだし」
「は、はい……」
「あんたって、その……。……歳……は。幾つになるのかな。……ほんとうの」
【セイラル】が、【俺】になる前の歳が258とか言ってたから、気にはなっていた。
それくらい長生きするのがふつうだったら、『ガキ』とはいっても、もしかしたら……。
「……こちらで、人間として生活している月日も加えると、満87になります」
「……。……あ。そう……。……なんだ」
阿呆のように、つぶやいた。
この、どこから見ても10代にしか見えない、若々しさあふれた風羽が……。
そもそも映像の【セイラル】もそうだけど、そっちの世界の肉体変化はどうなってるんだよ。
しかし……。それほどの歳ならば、クラスメイトへの対応が落ち着いているのも、感情の切り替えが早いのも、納得がいくような気もする。
しかも、こっちの人間の87とは明らかに違って、すべての能力が若いままだろうし。
その成熟した精神と肉体を駆使すれば、こちらでの生活においては、ある意味無敵みたいなもんだろう。
でも、それでも【セイラル】に対しては、心揺らぐ少女のままで……。
ガキ、か……。
◇
「……風羽。……いや。ファレイ」
「……! ――は、はい」
「……きょう、あんたをここへ呼び出したのは……。あんたが知っている限りの、【セイラル】についての情報を教えて欲しかったからなんだ。……つまり俺は、【俺】の記憶を取り戻したいと思っている」
風羽は、瞬きをせずに俺を見返す。
俺は、しずかに続けた。
「あんたとの関係性、つながりも、もう否定することはない。でも、【俺】が【セイラル】であった確証、実感は、記憶を少しでも戻さない限り、得られることはない。……あんたを始め、周りがどれほど【セイラル】として扱うことになったとしても、だ」
俺は少しずつ、息を吸い込み……。はき出すと同時に言った。
「……だから教えてくれないか。知りうる限りの、すべてを――」
「……すべて。ですか……」
「ああ。……頼む」
言い終えて、唾を飲み込み、その黒く美しい目を見据える。
少しの間、俺の光を受けつつも、風羽は唇を固く結んでいた。
……が、やがて、
「……。……申し訳ございません。……それは、できかねます」
そう、ぽつりと漏らした。
◇
風羽は、長いまつげで目を伏せている。
俺は口を開けて固まったあと、苦笑して返す。
「……な、なんでだ? ……ってか前、金曜には包み隠さず話すって、言ってたじゃんか。も、もしかして、ぜんぶ話したら、なにかよからぬことが起こるとか……。そういう魔術的な制約でも?」
風羽は、かぶりを振る。
そして、下唇をかんだあと、言葉をつむいだ。
「お話しできないのは……、セイラル様ご自身に、禁じられているからです。もし記憶を失った自分が、記憶を取り戻したいと言い出し、私から私的なことをあまさず聞き出そうとしたら、……断るようにと。なのでこういった説明も『包み隠さず』……に入っております」
俺は、顔をゆがめる。
なっ……。……なんだそりゃ!? いったいどういう理由で……。
「……あなたの残された立体映像でも仰っていましたが、セイラル様にとって、記憶を失うということは、おおきな問題ではないのです。魂の継続こそが重要で……。『つまらぬ詮索』で貴重な時間を費やす必要はないと。……そして肉体――魂の保持に関して失敗することはない、というところまで術式を完成させたがゆえに、転元を実行へと移されました」
呆然と聞き、しばらくのち、ようやく声を絞り出した。
「じ……、じゃあ、なにについてなら、聞けるんだ? 金曜に言っていた、その、生命を狙いに来る輩がいるとか……。魔法界ってヤツでの立場とか、その辺か?」
「はい。そのような、外から見た、セイラル様の立場がどうであったか、ということであれば。……ただし、それには長い言葉は必要ではありません」
俺は怪訝に見やる。
風羽は、淡々と言った。
「魔法界、フィースソートにおいて、あなたはクラス0S。最高ランクのS台において、唯一のゼロ級――。世界最強の魔術士でした。……それで、すべての説明ができるからです」
◇
風羽の、後ろの窓より差し込む光が、点滅して揺れる。
裏山からの声が、窓を震わせた。
「……クラス。ゼロエス。……っていうのは。……なんだ」
「……。魔術士には上から順に、S、A、B、C、D、Eまでランクがつけられていて、さらにそれぞれのランク内で、こちらも上から1、2、3、4、5、6までと、クラス分けがなされています。……たとえば私はクラス1Aで、クラス6Sのひとつ下となります」
俺はぼんやりと、風羽の姿を通り越し、古びた教室内へ視線を投げる。
クラス……。……いや、ちょっと待て。
「あんた、ゼロって言わなかったか? ゼロはどこにあるんだよ。いちばん上は、1なんだろ?」
「……ゼロは通常ありません。魔力値150万超。保有術式数1万6千を超える、あなたを表現するために魔法界が設けたものにすぎないからです。……そして、彼らが恐れの果てに、あなたへ与えたふたつ名が、――魔神」
俺は言葉を失った。
風羽は、表情を変えずに話を続ける。
「現在のあなたは……。私は測定術式を持たないために、正確な値を出すことはできませんが、おそらく、解放されている魔力値は5に満たないと思われます。保有している術式は失われることはないのですけど、記憶がないのと、魔力値の低さから、使えるものはありません。……つまり、こちらの、ふつうの人間と変わらないということです」
言葉を返しようがなかったが、口を閉じることができない。
唇はわずかに震え、時折上下でくっつき、また離れた。
「金曜日にお尋ねになった、『ややこしいことが起こる可能性』へのご説明を補足しますと……。大前提として、かの日にお戻りになった、現在の、微力ながら、外部からでも感じられるあなたの魔力を、あなたと認識した場合の『可能性』となります」
風羽は、床に置いていたガラケーを拾い、少し見てからポケットにしまった。
「なのでまず、その、あなたの魔力……、厳密にいうと、セイラル様固有の【質】を深く理解している者、さらに人間界へ渡っていると推測、あるいは認識できた者。次に、それらを兼ねた上で、ごく近くにいて『たまたま』魔力を感知した魔術士か、とおく……魔法界からでも、微少な魔力を感知できる、ランクS以上の魔術士か。いずれかの場合に限られ……、さらにその中で、あなたによからぬ心を抱く者となり……。それらすべてに該当する存在は1パーセント以下と、個人的には推測します」
彼女は息をつき、俺を見る。
俺の乾いた唇は、その光を受けて、再び言葉を発した。
「近くにいて、……って。人間界にいるのか? ふつうに。……魔術士っていうのは」
「はい。理由はさまざまですが。さして珍しいことではありません。人間界は、魔法界からすると、少しばかり離れた島国のような感じですから。……外見に大差はなく、言語の習得は、比較的かんたんな魔術によって可能ですので。行き来のみならず、移住する者も。……記録で、セイラル様も、そのことを」
◇
――人間界にも、魔法界の者はいるからな――
――信頼できるヤツに、俺を、この本の舞台となった日本の、どこかの人間の家へ預けてもらうように頼んでおいた――
◇
「……。……そ……か」
あの日の、【セイラル】の言葉が、頭の中を駆け巡る。
【セイラル】自身へ意識が行きすぎて、抜け落ちていたが……。
俺を引き取り、乳児院に預けた魔術士がいるのか。
まだ、こっちへ残っているかは分からないし、それが日本である可能性も定かではないけど……。
わずかな静寂のあと、裏山からの声に、俺は体を揺らした。
それから、口を閉じた彼女を見て、言った。
「……【セイラル】が、【セイラル】を託した魔術士のことは……。確かまだ分からないんだったよな」
「はい……。乳児院を起点として、調査は続けておりますが、なにせセイラル様のお知り合いとなると、相当な手練れであると考えるのが妥当です。さらにその身を託されるほどの、となると……。かんたんに素性姿をあらわにされる御仁とは思えません。恥ずかしながら、私の能力では……。相当な時間を頂くことになると思います」
頭を深く下げる。
俺より、はるかに優れている風羽……ファレイ・ヴィースがそう言うのなら……。
俺がやみくもに当たるより、任せて様子を見たほうが現実的なのかもしれない、が……。
気持ちとしては……。……。
考えあぐね、俺は床を見つめていた。
が、数分後――。
チャイムが鳴り響いて、思考が分断される。
……予鈴、か。
◇
俺は息をはき、くぐってきた引き戸を見やる。
するとそこに、青い包みがぽつん、と置いてあるさまが目に入った。
……あ、しまった。
「……弁当。食うの忘れてたよ……。そんな場合でもないけど。……ってか、あんたも……」
俺は頭をかいたのち、風羽と、その周りを見るが、弁当らしきものも、パンの袋なども見当たらない。
……さいしょから用意してなかったのか。
それはたぶん、いや、確実に。いつもの態度からすると……。
「俺のせいだな。……すまん」
頭を下げる。
すると風羽は、すぐに、かぶりを振り、「い、いえ! ……それよりも!」と言葉を返し、
「ま、まだ5分ありますから……! とりあえずお話の続きは後日にして。少しでも、お食事をなさってください! ……食事はとても、大事ですから!」
と、立ち上がり、ハンカチを取り出すと作業机をふき始め、さらにはイスをもきれいにして、俺に着席をうながした。
いま食い始めたら、移動する時間もふくめると、確実に5時間目は遅刻なんだが……。
そんなことはとうぜん、風羽も分かっているだろうけど、さいしょからして、俺のことでさぼってたからな……。
……っとに、なあ……。
……【セイラル】よ。
◇
「……じゃあ、食うか。食事が大事なのは、俺もそう思うしな。……ちょっと待っててな」
引き戸の向こうへ手を伸ばし、包みを取ると立ち上がり、さっさと中身を取り出した。
そして、作業机の上でふたを開けて、よっつあるおにぎりの中からふたつ、裏返したふたへ移し……。
唐揚げや卵焼き、ほうれんそうのごま和えなども、半分、同じように分けた。
「半分こしようぜ。きのうの残り物を詰めただけだし、俺が作ったのだから。たいした味じゃないけど」
風羽は目を丸くする。
それからふたと、弁当箱のほうと、交互に見つめて……。
みるみるうちに頬をゆるませ、満面の笑みを浮かべて言った。
「いっ! いいいいいいた、いただいてもっ!!? ほんとうに!!? ほんとうですかっ!!?」
「ああ……。ってか、おにぎりは手でいいとして……。おかずは……。箸も一本ずつにして食うか」
俺は青い箸を一本、風羽へ渡した。
彼女は、それをまるで、アイスの当たり棒を引いた子どものように見つめて、笑顔をこぼし、体を揺らした。
そのさまを、苦笑しつつ見たのち、俺は風羽のふいてくれたイスへ座り、正面の席を示して、彼女はそれに従った。
ふたのほうを俺が取り、弁当箱を風羽へ差し出す。
そして、手を合わせた俺を見て、彼女もならい、ほぼ同時に言った。
「……いただきま」「――すっ!」
おにぎりを手に取り、俺はおもむろにかぶりつく。
……うん。まあまあかな。
塩もちゃんときいてるし。
前、まったく味がなかったときがあったからなあ……。
俺は口を動かしたまま、体を前後に揺らして待つ風羽へ、うなずいた。
すると彼女は両手でおにぎりをつかみ、じっと見つめたあと……口へと運ぶ。
さいしょはゆっくり、だんだんと唇は躍動し、頬はピンクに染まっていった。
「……どんな感じ? 俺的には、まあまあだと思ったんだけど……」
尋ねると、風羽は口の動きを止めないで、S字をえがくように頭を動かし……、
「……ひいでふ!! ……――とってもおいひいでふ!!!」
と、ご飯つぶを唇から幾つもこぼし、……潤む目で、笑った。
◇
時折目をぬぐいながら、食べ続ける風羽を、俺は手を止め、しばらく見ていたが……、彼女にうながされ、食事を再開する。
頭では、また、さっきまでのことがらが、ぐるぐるとまわり始めた。
しかし、やがて……。子どものようにおにぎりを頬ばり、一本箸で唐揚げを口へ入れる風羽……ファレイの姿を見ているうちに、気持ちが落ち着き……。
いつの間にか、午後の光が落ちる中、ただ向き合って、食事を楽しんでいた。
本鈴が鳴り響いても、気にもせず――。
◇
そして、これは、いままでの話のせいかもしれない。
気のせいかもしれない、が……。
喉の奥で、あたたかな味を感じながら……。
どこか俺は――。
この時間を、なつかしく思った。




