第100話 開いてやるから、さ!
「……ん? あんたらいっしょに登校したのか……?」
メラミルと自転車で、つかず離れず会話もないまま走行し続け学校へ到着、そのまま自転車置き場へもたどり着いた俺たちは、シンリと会った。
家を出る前に、彼女のシティサイクルのパンクをもう直したこと、それで登校することは伝えてあったので、俺が来るのを待っていたのだろう。俺が貸した愛車は、きちんと彼女のそばに停められていた。
「んーん、ぜーんぜんっ。たまたま会ったんだーたーまたまっ。……んじゃ、私先行くね~、ごーゆっくり~……♪」
と、メラミルはにこにこシンリに手を振って、藤カゴを開けて鞄を取り出し肩にかけるとさっさと行ってしまった。自転車の件で、シンリが待っていたのは俺のほうだと察して気を遣ったのか。
ただ、若干言葉にトゲがあったのは、俺に対する嫌味だろうな。シンリの自転車を直したって話したとき、不機嫌になってたし。
「……いまアイツ、怒ってたよな? ワタシに」
「はっ? いや……、怒ってはいただろうけど。それは俺にだよ」
俺は返す。しかしシンリはそれを聞いたのかどうか、すでにちいさくなったメラミルの後ろ姿を見ながら、へえ……、あんな感じで怒るのか、と漏らした。なので俺は苦笑して、続ける。
「あのさ、自分で言うのもなんだけど、メ……、巽は俺のことが好きって言ってたろ? だからアイツ的には、自分の自転車を貸して、シンリの自転車を歩いてまで持って帰って直したことに……なんというか、そこまでするのはどうなの? みたいな。登校中にそんな話もしたんだよ」
「【だから】ワタシに怒ってんだろ? なに言ってんだ、あんたは……。あんたへのは【ムカつき】。ワタシのへは【怒り】。そーいうことだよ。ま、こっちとしては申し訳ない気持ちはあるんだが、反面嬉しくもあるよ。きのうも言ったけど、いろいろ慣れた感じのアイツの底に近づけた気がしてさ」
シンリはかすかに笑みを浮かべ、またメラミルが去ったほうを見やる。それからぽかんとする俺に向き直り、「実は昨夜、ちょっと用事が重なって、芽良に電話できなかったんだけど。もしそこで自転車のことを伝えたら、ワタシが説教されたかもな」と笑みを苦笑に変えて、愛車のカギと紙袋を手渡してきた。
俺はカギをポケットに入れたのち、よく分からないまま紙袋の中を見る。すると青いリボンで口を縛られた透明な小袋があり、そこにはクッキーが入っていた。
「きのうの晩、焼いたんだよ。さいしょはなにか買って渡そうと思ったんだけど、それだとお礼っていうか、修理代の代わりみたいだし味気なくてやめた。ただワタシは料理、からっきしでさ。なかなかにてこずって……。でもそのかいあって、きれいに焼けたし、味も問題ないから安心してくれ。……ありがとな」
シンリは少し赤くなった頬をかく。あまりのことに俺は言葉が出なかった。手作りのクッキー? シンリが? いまもラインでいいのに、わざわざ待っててくれたし、きちんとお礼をしてくれる、っていうのは、すごく彼女らしい。だけどそれがこういう形というのは意外……というとアレなんだが、想像もつかなかった。……なんか逆に申し訳なかったような。そこまでのことをしてくれると。
「おい。【逆に申し訳なかったな】、みたいな表情す・ん・な。あんたってナチュラルに利他的なくせに、自分に向けられた感謝に対しては自然体じゃねーなぁ。謙虚も過ぎればなんとやら、感謝を素直に受け取るのも、人間の美点なんだぜ?」
的確に、こちらの心情を読み取りそう言ったので、俺は思わず苦笑してかぶりを振った。人間……、そうだよな。
「すまん。これは遠慮なく頂くよ。帰ったらゆっくり食べる。……ありがとう」
紙袋をかかげたあと、頭を下げた。それからシンリの自転車を示して、「穴はひとつだけだったし、今朝も問題なかったから、大丈夫だと思う。油も差しといたから。それでも、もしなにかあったら言ってくれ。……んじゃ、行こうか」と、彼女にカギを渡し、カゴから自分の帆布鞄を取り出して、歩き出した……のだが、むんずと腕をつかまれた。
「待った。なーんかあんたって、律義なのと同じくらい、おおポカする印象なんだよなぁ、ワタシ的には。つまりは食べる、と言って食べないような気がする。ド忘れして。んで、二日後くらいに思い出す。……自分の部屋の、机の上に置きっぱとかしてな」
「は……? い、いや、さすがにそれは……、ないって」
ほんのわずか言いよどんでしまったのは、近ごろはセイラルとしての立場でなんやかんやあり、緑川晴としての日常が押され気味だったからだが、その不自然な間は、しっかりとシンリにキャッチされた。
「自覚があるのはいーことだ、今回に限っては! 手作り菓子の日持ちは保存の仕方にかかってるし、あんたの反応じゃ三日と持たないこと必至だし! ……そんなことになったらワタシが納得いかねーからな!」
彼女は俺の手にある紙袋から、さっさと小袋を取り出して開け、クリーム色のクッキーを一枚つまむと、「つーことで、ほら、いまひとつ食べてみ? さすがに口に入れたら忘れる率が下がるだろ! はいあーん」と自分の口を開けつつ、それを俺の口に近づけてきた……って、おいっ!
「い、いや待てっ! 無理だっつーのこんな人の多い自転車置き場で! シンリのクラスのヤツが見たら、それこそ巽の耳にも入るかもしれないのに! ……そんなことになったら困るだろっ!?」
「困らないね。ワタシにやましい気持ちはいっさいないから。きちんと事情を説明できるし、万が一、さっきみたく芽良が怒ったとしても、そんな程度でヒビが入るほどワタシらの付き合いは短くない。そして日持ちのこともあるが、あんたの態度で、いま、ここで食べさせて感想を聞きたい欲がもたげてきた。実はクッキー作ったのは初めてだし、人に食べさせたこともなくてな……。その感想を聞けるなら、なにか困りごとが起こったところで大したことないん・だ・よ! ……ほら、あーん、ってば!」
そう自分の口を二度、三度と開けて俺を促す。果たして自転車を停めにきた連中がめっちゃ見てくるが、シンリはまったく動じずに、「あーじっ、あーじっ、おっしえーろっ」と歌い出す始末。確かシンリは、家がそろばん塾をやってたり、学童保育のバイトをたまにしたりとかで、子供の面倒を見ることが多いと言ってたが……そうか。これは子供に向けたヤツか。言うこと聞かない子供、もといガキ相手へのそれ。歌も含めてノリが保護者や先生みたいな感じだし、そりゃあやましい気持ちもなければ、人に見られて気にすることもないよなあ……。
結果、どうにもならないと観念した俺は口を開け、シンリの細い指先から丸いクッキーをかじり取る。そうして複雑な表情のままぼりぼりすること五秒、歌うのをやめ、ぶれなく真剣に見てくる彼女の圧を受け、やむなくぽつりと言った。
「……うん。まあ、………………ふつう、かな」
「はあーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!? あんた!!! あんたなあ……!!! そりゃふつーーーーーーーなのは味みて知ってるけどほんとうに そ の ま ま 言 う か ! ? なんでそこはナチュラルに述べるんだよもしかして決して己の舌を裏切れないどこぞの美食家かオォイっ!!!!???」
ブチ切れたシンリが俺の肩をつかんでぶんぶん振ってきた。いや別に美食家じゃないけどつい!! あんまり真顔で感想を求めるから!! これはうそなく答えなきゃ不味いようなっていう意識が……ってかいま!!! いまそれやめて喉につまる!!! がっ……んがごっ!!!!
「あ、おはようござ……えっ!? せ、先輩っ!? なっ……なにをしでかしたんですかっ!!??」
と、迷うことなく俺の非を断言し、ロードバイクを素早く自転車置き場の柵にもたれさせ、登校してきた莉子ちゃんがヘルメットを脱ぎつつ走ってくる。それにシンリは、「おう莉子っ!! この男はなあ、ワタシがお礼で焼いてきたクッキーを食べて、味の感想を聞いたら『 ふ つ う 』と言ったんだぞ信じられるかっ!!?? 別に『すごーい美味ーいっ!』とか期待してねーけどさぁ、いくらあんたが建前なし男だからって 限 度 が あ る だろっっ!!!!」と犬歯をむき出しにした。それに対して莉子ちゃんは、
「ええっ!!?? お礼のクッキーに対して 味 は ふ つ う !!?? ……せ、先輩はいったい、いままでどこの社会をどうやって生きてきたんですか……っ!!??」
と叫んだ。そっ……それほどなのーーーーーーーー俺のしでかしたことぉーーーーーーーっ!!??
「……くっ。くっくっ、――くっ!! あははははは、はっ!!! こーなりゃあんたが美味いっていうもの絶っっ対に作ってやる!!!! これからいくらでもいっしょに過ごす機会あるしなあーーーーーー夏休みは合宿もあるし!! 期末が終わったら特訓だーーーーーーーーー莉子にも手伝ってもらうからな!!!!」
「えっ!!?? み、 緑 川 先 輩 の せ い で、私の予定がっ……!!??」
目を見開き、信じられないものを見るように、シンリではなく俺を凝視する莉子氏。ほんっとう、こんなにナチュラル毒舌の自覚なくても、俺みたいな方向性の失言はしないのね……。それが女子社会の経験値ゆえなのか、俺が非常識すぎるのか……。水ちゃんに聞いてもなに言われるか分かり切ってるから、昼飯のとき、橋花と伊草に聞こうっと……。
俺の情けない思考を尻目に、もう紙袋には、きっちり口を縛り直された小袋が返ってきており、さらには「今後あんたになにかしてもらったら、 ぜ ん ぶ 手 料 理 で お礼することにするわー……」と、とてもお礼云々を伝えるようなものじゃない、シンリの声と表情が至近距離にあった。それから彼女は俺の反応を待たずして身を離し、じゃりっ、じゃりっ! と、石畳に散らばる砂と細礫をこすりつけるかのごとく足取りで去ってゆく。残された俺は硬直した笑みを浮かべ、ただ紙袋を見やるほかなかった……。
「……先輩って、いろいろ知ってる慣れた男の人の面と、なんにも知らない不慣れな男の子の面と、両方混ざったような感じがしますよね……。ほんとうに、ぜんぜん分からないです。どこでどうやって、そうした【人間】になったのか……」
声がしたので振り向くも、莉子ちゃんはもう離れ、柵にもたれさせていた、自分のロードバイクにきちんとカギをかけていた。俺は彼女の後姿を見ながら、じいちゃんとの日々を思い出したあと――それ以前に、確かにあったのだろう俺の人生の大半――セイラル時代のことを思い出そうとするが、いつものように霞がかかっているばかりで、またため息をついた。
その後、ふたりで校舎へ向かう最中、莉子ちゃんが、シンリからお礼をされた経緯を聞いてきたので、彼女の自転車を持ち帰りパンクを直したことを話したのだが、「えっ……と。下心、……ですか?」と、だれかと同じ言葉を放ってきた。もしかして、女子に話したら全員この言葉が返ってくるのか? とくに恋愛に関心があったり、その経験値が高そうな相手ほど。……横岸には絶対しないようにしよっと。
そうこう雑談を重ねているうちに、昇降口へ。ほかの生徒たちに交ざり、彼女は一年の下駄箱へ、俺は二年のそれへと別れることになったのだが、少しだけ考えたあと、俺は莉子ちゃんへ言った。
「あのさ……。きのうのことだけど。彼のこと。……ほんとうに大丈夫?」
「……! はい、大丈夫ですよ。だからお話しした通りのことを、きょう、彼に言うつもりです」
俺の言葉に少しだけ目をおおきくしたのち、莉子ちゃんはそう答えて微笑んだ。
いまの話は、彼女に好意を持つクラスメイトの男子と、きちんと自分で話をして、彼への気持ちがないことを伝える、というもので、彼女の言うように結論は出ていた。ただ、くだんの彼がストーカー気味だったために、彼女はいろいろ悩み、それで俺も相談を受けていたから、そうした決意を聞いてからも、少し不安があったのだ。けれど莉子ちゃんの表情を見ると、大丈夫という言葉にうそはないようだ。それでもちょっと心配だけれど。
「……そっか。でももし、なにかあったら言ってくれよ。なんなら会うときに、少し離れたとこで待機してても……」
「……ふふっ。ほんとう、先輩は【男の子】なのか【男の人】なのか分かりませんね。いまのがもし【男の子】としての言葉なら、『私を見くびらないで?』と返しますし、【男の人】のほうなら、『先輩は私のお兄ちゃんじゃないですよね?』となります。あと、加えてもうひとつ言うなら……」
莉子ちゃんは俺に一歩近づくと、周りの生徒たちに聞こえないよう、俺の耳元で、
「『そういうの、女子によっては、誤解するからやめやほうがいいですよ?』――です。……きのうはありがとうございました」
とささやいたあと、俺が言葉を返す間もなく、スカートをはためかせ下駄箱へ駆けていった。
◇
それから時は流れ、昼休み――。俺は弁当包みを持って東棟の、屋上手前の三畳ほどの踊り場へ。そこで伊草と橋花と合流し、皆で飯を食べながらわいわいと、いつものように話をしていた。
メインは変わらず、その圧倒的口数の多さから、自然と橋花のオタトークが占め、そこへ伊草がうるせー等言いながら非オタな返しをしつつ、俺には漫画の話やバイトの愚痴を飛ばし、俺が応えるのだが、それが少しオタ寄りの話題になるとまた橋花が食いつき、その橋花のうるささで、今度は伊草が俺に文句を言う、という黄金パターン。この流れが変化するときは、だれかが少し毛色の違う話題を投げたときで、俺は今回、メラミルや莉子ちゃんに「「下心?」」と言われた話を、ふたりにどう思うか尋ねようとしたのだが、その機会が訪れた、会話の切れ間――。
「……。はあっ……」
と、どでかいため息が聞こえたので、言い損ねる。見ると伊草が肩を落とし、手にしていた缶コーヒーのタブを指でいじっていた。
「……おい。なんなんだよ、急に。もしかしてなんかあったのか?」
「まあ、な。……別にお前らに話すことでもないから気にしないでくれ」
俺の言葉にそう返し、また、はあっ……、と、でかいため息。そのあとは、ぴん、ぴん……とタブを弾く音だけが響く。……気にしないでくれ、って。目の前でいきなり温度を下げられて、それはなあ。そもそも伊草は、ふだんこんなに思わせぶりなことをするヤツじゃないし、気にするなと言うほうが無理だろ。橋花の思わせぶりはしょっちゅうだけども。
「なーに誘い受け丸出しでじめじめしながら言ってんだよこの赤頭はっ! あーみっともないみっともない。レルーカ(※アニメのキャラ。金髪のピュアピュア妖精)みたく可愛い女子ならともかくさあ。お前、よくそんなヤンキーどころかそっち系の人まで一目置くような顔してそんなことするよな。—―はっきり言えっつーのっ! 俺たちは親友だ……ぶほっ!」
橋花の言葉を断つように、伊草の漫画雑誌が飛んできて橋花の顔面にヒット。果たして、「な、なにすんだお前っ! 人が心配して……!」とずれた眼鏡を直しつつ、橋花が反撃しようとしたが、伊草がまた、はあ……っとため息をつき出したのを見て静止する。それから橋花は、俺を引っ張って階段を数段降り、こそこそ話し出した。
「……おい。これは誘い受けどころじゃねーよ。マジなんじゃないの……?」
「いや、まあ……。重そうではあるけど。ほんとうにヤバいヤツなら飯食いに来ないだろうし、そもそもさっきまではふつうに俺たちと話してたわけだから、たぶんタイミングを見計らって話すつもり……というか聞いてもらうために、ああしてるんじゃないか? ただその扉が重いというだけで。それなりの、俺たちの誠実さを示さないと開けないっていうか……」
「ええ……? んだよその面倒くさそうなのは! マジヤバな悩みならともかく、俺の誘い受け愚痴吐露が暗黒パワーアップしてるだけじゃないか! ……緑川にまーかせたっ!」
橋花は両手を上げてすたすた踊り場へ戻り、黒いオーラを放つ伊草に構わずその斜め前、所定の位置に座ると、スマホをいじり始めた。それで伊草の、はあ……っ、が、はああああ……っ! になったけど無視続行。お前、その胆力はなんなんだよ。あと誘い受けの自覚あったのか、とんでもないな!
やむなく俺も戻り、黒さをいよいよ増したオーラ全開の伊草の正面に腰をおろした。それから、もうため息なのか怪獣の攻撃ブレスなのかよく分からないものをはく伊草の様子を見つめ、しばらくのち、ぽつりと言った。
「……もしかして。恋か?」
次の瞬間—―伊草と橋花が同時に顔を上げた。伊草は俺を、信じられないものを見るような表情で見返し、橋花は、そんな伊草を見て、やはり信じられないものを見る表情になり、そのまま俺を見る。要するに、ふたりの驚愕の面が俺に向けられているわけだが……やめい! とくに橋花! お前関係ねーだろうがっ!!
「ばっ……なっ!! み、み、緑……—―川っ!! お、お、おおおおお!!!? お前もしかして、 超 能 力 者 かっ!!??」
「 違 う 。俺はただの……、ふつうの……、……どうでもいいがともかく違うっ! 推測だよ! 別に恋がマジヤバじゃない、とは言わないが、だれかや自分の、死や重度のケガや病気、もしくはそんなふうに人生が壊れるくらいのことを、お前がこんなふうに示すわけないし。少なくとも飯時の話題に出せる程度にはヤバくない、けれど真剣に悩んでいること……と考えたらそうなっただけだ。それで具体的にはどう……」
「 恋 ! ? 恋 ! ! ? ? お前が!? だれかを!? 好きになったってこと!? そーだよなあ好きになられた、ということがもし百万が一あったとしても、それでクソでかため息にタブぴんぴんはないよ言いたかないけどアレは恋した乙女のそれだし!! ……おいおいおいおいおい!! これはとんでもないことでござるよ緑川どのおっ!! オタクで二次元世界の住民票取得を夢見る俺!! ヤンキーも道を空けるレベルの強面の伊草!! そしてどこをどう見てもふつー以外のなにも見当たらないのに訳の分からないオーラがあってふつうからいちばん外れてる緑川っ!! こぉの女子が遠のく非モテサークルにぃ、突如、恋ののろしが激上げじゃあああああああっ!!!」
「 う る せ ー 静かにしろ俺の質問中だっっ!!」「勝手に俺らの集まりを 非 モ テ サ ー ク ル にしてんじゃねーよこのクソオタクがっ!!」
俺と伊草が同時に叫び橋花の尻を蹴る。しかしヤツは「きかーん!!」と、ぴかーん! みたいな言い方で踏ん張りこちらへ向き直り、伊草にずかずか近づくとぐいっ! とその肩を寄せた。
「……で? 相手はどこのだれだ? お前のクラスの子か? 別のクラス? それともバイト先か……も、もももももしかして駅で見かけたあの子、みたいなぁーーーーーーーーーーっ!!?? それでその子がたまたまスマホをベンチに忘れて、それをお前が拾って声をかけ……—―てんめええええ!!! そんなうらやましい、ドラマティック・シチュエーションで恋に落ちさせてたまるかぁーーーーーーーーーーーっ!!!!」
橋花がそのままコブラツイストに移行した。伊草は、「こ……の……クソ妄想オタがああああああああああああああああああ!!!!」とブチ切れながらも、無駄にガタイがよくて力があるイケメンオタクにホールドされ動けない。それで俺に真っ赤な顔で助けを求めてきたため、俺は怪獣攻撃ブレス並のため息をついたあと、橋花の耳を引っ張り「アタタタタアタタッタ!!」とどこぞの一子相伝の拳法のかけ声よろしくの叫びを上げさせ伊草を助け出す。そしてまた暴れ出さないように、橋花を後ろから羽交い絞めにしつつ、伊草に話すよう促す。伊草はむせつつも、ようやく話し始めた。
「……っ、がっはあああ……! ったくこの阿呆ときたらよ……!! 駅でどうのだとか、あるわけねーだろそんな漫画みたいな話がっ!! 俺のはもっと、そんなんじゃなくて、なんの変哲もない話だし、恋…………っていうのはマジだが、あんまり浮ついた話でもねーんだよ」
橋花の暴れる力が弱まる。俺もヤツを抑える力を弱めた。伊草は、下に置いていた缶を拾い上げると一気飲みし、空き缶となったそれを持ったまま、続ける。
「俺んちがマンションなのは知ってるだろ? で、二週間前、真下の部屋に、新しい住人が引っ越しててきて。その家の子がその…………つまり、そういうことだよ! すらっとして、長いきれいな黒髪で、大人びた落ち着きがあって……。どこの学校かは分かんねーけど、高校生でたぶんタメ、雰囲気的に。朝は会わないんだが、学校から帰ってきたときとか、夜に出かけるときにエレベーターで乗り合わせることがあってな。さいしょ、向こうから話しかけてきたんだよ。それで何度か、ぽつぽつと。そのうちに……って、いう」
「……お前とエレベーターで乗り合わせる? しかも話しかけてきた? その子、ビビッてないのかよ!」
橋花が驚いて叫ぶ。無理もない。俺も同じ言葉を言いそうになったから。
伊草は不良ではまったくないが、見た目がとてつもなく強面で、さっき橋花が非モテサークルだなんだと阿呆のようなことを叫んでいたが、その中の、伊草の見た目についてはほんとうのことだ。現に橋花自体が、さいしょはビビッていたのだから。そのように女子も男子も、どころか、大人もたいてい尻込みするほどで、初対面で平然としている人は限られている。……まあ俺もそのひとりなんだが。それもいま思えば……【ふつうじゃなかった】からだろう。
あと、水ちゃんもビビッてなかったんだけど、もしかしたら、俺の影響をちいさなときから受けていたからかもしれない。もちろん負けん気の強さとか、ちいさなころから、人を見定めるカンが鋭かったのも関係してるかもだけどな。
「ああ……。それで逆に、俺がビビッたっていうか。その、緑川の幼なじみの子も平然としてたけど、それとはまた違うんだよな……。どっちかっていうと、緑川に雰囲気が近いかもしれない。あくまで雰囲気な!! 気持ち悪い発想したらぶっ飛ばすぞ!!??」
慌てて伊草がまくし立てるが、んな発想は一ミリもないのにやめてくれ逆に!! 橋花はなぜか俺の手を振りほどいて距離を取るし!
「……ってかそれはどーでもいいんだよっ!! はっきり言やあ、その子を俺が、す……っ、好きになったってこと!!!! しょーがねーだろ俺のこと怖がらずに、ふつうに話かかけてきてくれる、しかも歳が同じでその……こ、こここ好みの女子なんて……いままでいたことないんだから!!」
耳まで赤くし、握りしめた手の中で、スチール缶が少しへこんでいた。橋花はちゃかすこともなく、ちいさく笑い、「ん! そりゃー仕方がない!! 俺に例えたら、俺の部屋を見てもドン引きしないでくれて、かつユーシィ似の子みたいなもんだから完全敗北するよっ!!」とうなずいた。伊草は、「俺の面は、お前のオタ部屋と同レベルなのかよ……」と嫌そうにしつつも、苦笑して、それから笑った。
「それにしてもお前、エレベーターの恋とか、じゅーぶん漫画的でロマンティックじゃないかよ! あーうーらやましーーーーーーなあ!」
と、橋花はバシバシ伊草の背中を叩く。伊草はそれを振り払い、「漫画ならうまく行くだろうがよ! 少なくともそこから、進展のきっかけイベントが発生するだろ!? 俺にはなにもねーからな。そりゃあ、そのきっかけを自分から作ろうとも考えたけども。それどころじゃない、気になることがあって、さ……」と声を暗くしたのち、はああああ……っ、と、かのおおきなため息をついて、落下するように腰をおろした。
「なんだぁ……? つーかもう、いまさらだろ、ぜんぶ話せよ! 少しは俺らが頼りになると思って漏らしたんだろ? ……マジな話をちゃかす気はないぞ!」
橋花が、伊草の前に腰をおろした。向き合う形になったふたりのそばに、俺も倣って腰をおろす。そんな俺たちの姿を見た伊草は、ちいさく息をはいたのち、言った。
「……きのうの晩。8時くらい。近くのコンビニに行こうとしたときも乗り合わせてな。その子もぐうぜんコンビニで、じゃあいっしょに行こうか、危ないしって。初めて外をふたりで歩いて、ぶっちゃけウキウキでコンビニに行ったんだけど……。コンビニへは待ち合わせだったんだよ、彼女」
「!? ま、まさか……彼氏がいた、……とか?」
「いや。女の人。30歳くらいかな。母親でも、親戚のおばさんって感じでもない。塾の先生とかでもない……。なんか、なにかの仲間、みたいだなあって。そういうのが俺の表情に出てたのかもしれないんだけど、彼女はちょっと嫌な表情をして、『じゃあ、私はこれで。さよなら』って。冷たく言って、その人とどっかに行こうとしてさ。……でも、そのときに女の人がなにかの紙を一枚、落としたから、拾って渡そうとしたんだよ。そしたらその人に、『……。あなたなら持っていてもいい、か。あげますわ』って。意味の分からないこと言われて。……それがこれなんだけど」
伊草はズボンのポケットをまさぐると、折りたたんだ紙を取り出し、広げて見せる。が、それで俺の息が一瞬止まる。なぜならそれは、今朝、俺とメラミルに絡んできた男が渡してきた、救いの集いを知らせるチラシと同じものだったからだ。
「……なにこれ。宗教の勧誘チラシか? 『お祈りの会』? ……って、なに教とか書いてないな……」
橋花がチラシを手に取り、隅々まで目を走らせる。それに伊草はかぶりを振った。
「別に宗教自体はいいんだけどよ……。俺のじーさんだって仏教徒だし。ただ、言われたことの意味が分からないのと、彼女が、自分と女の人との関係を探るような目を俺が向けたのを嫌ったことと、このチラシの内容。そういうのをぜんぶ合わせると、……嫌な予感しかしねーんだよ。ぶっちゃけ、変なことに引っ張り込まれてるんじゃねーかって」
伊草はまた、ため息をつくと、赤い短髪に手を入れたあと額を押さえる。橋花はチラシを見たまま無言になり、そして俺は、かの男の表情を思い出すと下唇をかんだ。
あの男は、俺とメラミルへ、だれかれかまわずではなく、弱き【同郷の友】にこそ声をかけている、というようなことを言っていた。じゃあ伊草が気になっている女の子も、コンビニで待ち合わせていた女の人も【同郷】という可能性が高い。
しかしいっぽうで、伊草に、会が開かれる日時の載ったチラシをあげているのなら、そこに人間が参加してもいい、ということになり、リフィナーだけとは限らないとも言えるから、ふたりとも人間かもしれない。
なんにせよ最大の気がかりは、この集いに、俺が接触したあまり好いいイメージが持てない男が出入りしていることにある。
リフィナー自体はバーガーショップの店長みたく、あちこちでふつうに人間として生活している者も多いのだろうが、いくつもの点で人間を上まわる能力を持つリフィナーが多数いて、あの男もいる……現時点で真の目的が不透明な集いに参加しているだろう女の子に、伊草が好意を持っている以上、俺が無関心でいることはできない。できる限り、恋路は邪魔したくないが……。集いには近づけさせないほうがいい。
「……あのさ。実は今朝、俺もこのチラシを渡されかけたんだよ、登校中。断ったんだけど」
「……えっ!? そ、……そ、それで!? その、ど、どんな人だった!? 俺の言ったような女の人か!?」
「いや違う。だけどそんな怪しい【人間】じゃなかったよ。ただここに書かれていることを読み上げて、通りかかった俺に手渡そうとしてきただけ。俺が関心ないから受け取らなかったけど、話を聞く分には、別に変な集まりとも思わなかったな。……たぶん伊草の取り越し苦労だよ。お前は女の人と彼女について、よく分からない関係性って思ったみたいだけど。このネット時代、年齢とか性別とかいろいろ違ってても付き合いのある人たちなんてたくさんいるじゃんか。現に俺だって、【大分歳の離れた】ネッ友いるんだぜ? ちょっと不思議なことを喋ってるってお前が思うのも、このチラシの影響がおおきいんじゃないか? なにより彼女のことをまだよく知らないから、夜とか、見知らぬ人とか、それぞれの、彼女を取り巻いていた事実にあるネガティブな面を見過ぎて、そういうのを組み合わせて想像している可能性が高い。好意を持ってるからこそ、心配も含めてマイナス方向に、……事実を装飾してるんだ」
「……そーだよ、恋は盲目って言うしな! 俺もユーシィのこととなると冷静じゃなくなるし! つーか実は若干、俺もヤバめかなあ……とは思ったんだけど。やっぱ緑川は【こういうとこ】なんだよな。お前のその、たまに見せる冷静さはなんなんだよ。いつもはおたおたしてるくせにさ」
橋花が手を後ろについて苦笑する。伊草はまだ渋い表情をしていたが、俺がチラシを取り上げて自分のポケットに入れると、や、ちょっと待てよ! と手を出してきたので、ぱちん、と軽くはたいた。
「お前がやるべきことは、彼女の私生活を悪いふうに【想像】することじゃなく、彼女と【交流】することだよ。エレベーターの中から飛び出して、遊びにも誘ってみろよ。……んで玉砕したら、励ましの会くらい、橋花と開いてやるから、さ!」
出しっぱなしにしていた手を、二度、三度と叩く。そのあと額を突くと、ようやくいつもの表情に戻った伊草は、俺の手を叩き返して、
「だぁーれが玉砕だバーカっ!! ……実は脈ありなんだよ俺的感覚ではなっ!! 見てろよ……今週の日曜に、きっっちり! デー……、じゃなく、あ、あ、遊びに誘ってやるぜ!!!!」
と、赤い顔で拳を握りしめて見せつけた。それに橋花は、「デート、くらい言い切れよ! あーあ、この分じゃだめだなあー。……励ましの会の菓子はなんにしよ」とスマホで検索しようとするが、伊草に顔面をつかまれて悶絶する。俺はそんなふたりの、いつも通りのじゃれ合いを見ながらポケットに手を入れて、もう一度、唇をかみ……、無機質な紙の感触を確かめた。




