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第10話 新たな日常は、かくありき


《……はい、残念ながら! 先週金曜日に引き続き――……、きょうも最下位となってしまった双子座のあなた! ラッキーカラーは赤なので、なにか身につけるもの……服とか、持ち物ならハンカチなんかがいいですね。そんなものを準備して……。どうか落ち込まないで、前向きに! 明るい気持ちで今週を! きょう一日を始めちゃってくださいね~。――ではまた!!》


 コーナー担当の女性が、情のかけらもない愛想笑いを浮かべたまま、一方的にまくし立て……、画面は、さっさとCMに切り替わる。


 すると今度は行進するペンギンたちが、《ぱっぱっぱ~、ぱっぱっぱ~、おかかのぱっぱ~》と、合唱しながら、手にしたフリカケを同じリズムでふり始め……、最後に、《『おかかのぱっぱ』以外、ふりかけと呼ぶにはふさわしくない》と渋いナレーションがかぶさったところで、俺は顔をしかめた。


「なんなんだ、……っとに。……苦情とか来ないのか」


 テーブルの前に立ったまま、横目でテレビを見やりつつ、俺はトースターへ手を伸ばし、色づいた朝食を引き抜いた。


「そりゃ、どっちのことだ? さっきの占いか。いまのCMか」


 正面のじいちゃんが、新聞を読みながら言う。

 窓から落ちる光が、じいちゃんのカップよりのぼる湯気に混ざり合う。


「両方だよ。……あとあのふりかけはまずい。かつおっぽくない」


 座り、トーストへバターを塗りたくる。

 じいちゃんは、「ま、かつおを使ってないからなあ」とけらけら笑い、カップに口をつけた。


 俺はキッチンの隅にあるゴミ箱へ、思わず目を走らせるが、「ゴミは出しといたから、空袋はもうないぞ。確かめたけりゃ坂木さかきのおばちゃんちに顔出して行け。大量に買い置きしてるから。……ついでにもういらないって言っといてくれ」と、にべもなく告げられる。


「……は? 買ってたの、じいちゃんじゃなかったのかよ!」


「かつおを使ってない『かつおふりかけ』を? ……わしの趣味じゃねえな。それは」


 ……よく戸棚にあるわりに、じいいちゃんが使ってるのを見たことないと思ったら……。おばちゃんが布教しようとしてたのか。

 じいちゃん、断りきれないから、俺に押しつけようとしてるな……。


 俺の半眼から逃れるよう、じいちゃんは新聞で顔を隠す。

 俺はため息をついたのち、トーストにかじりついた。


     ◇


 テレビの騒がしい音の間をぬうように、小鳥と風の声が優しく窓を叩いている。

 キッチンへ差し込む光は、ときおり消えたり、輝きを増したり……。

 世界は、目覚めの息吹をうちへ伝えていた。


 いつもの朝と同じように――。


     ◇


「……んじゃ。おばちゃんち寄るからもう行くよ。あと、買い出しと料理当番、忘れないでくれよ」


「はいよ。……なにか食いたいものあるか?」


「……。じゃあチーズカレー」


「……ふっ。……分かった。行ってこい」


 じいちゃんは笑いながら、追いやるように手をふる。

 ……悪かったなあ、ワンパターンな注文で!


「行って! きます! ……極上のカレー、よろしく!」


 俺はじいちゃんを指差し、そのあとあかんべーをする。

 それに白髪の紳士は、中指を立てて応えた。


     ◇


 古びたドアを開けると、木の香りが鼻をくすぐった。

 俺はそばにとめていた自転車あいしゃを出して、門を出た。


 ふだんなら、そのまま自転車これにまたがって家々を抜け、2、3分で国道へ入るのだが、おばちゃんちに寄るため、手押しのまま歩き始めた。


 表の道には、早足で歩いて行くサラリーマンや、俺と同じような自転車通学の高校生、徒歩の中学生などが行き交い、住宅街の一角は、月曜の朝をあらわにしている。


 色とりどりの屋根たちに、青い空がかかっている。

 すれ違う人々が、風を置いていく。

 遠くから車の音が響いてくる。


 うちの中と同様に、街は、先週まえと変わらぬ姿を俺に示す。

 しかし俺は……。


 いつもと同じようには、それを受け止められずにいた。


     ◇


「……も、……申し訳ございません……。……みっともないところを……」


 ひとしきり泣きじゃくったあと、袖を濡らして涙をぬぐい、風羽ふわは頭を下げる。

 体はかすかに震えていた。


 俺は、ポケットからハンカチを取り出し、風羽へ差し出す。

 風羽は慌ててかぶりをふり、自らのポケットを探ろうとするが、俺の手が動かないのを見て、おそるおそる受け取った。


 それから、俺は風羽をベンチへいざなった。

 俺たちは、さいしょのように、ふたつの鞄をはさみ、並んで腰かけて、しばらくぼんやりと風を受ける。

 

 やがて、チャイムが鳴り響き、最後のが空に吸い込まれ……。

 風羽の瞳が、もとのしずかな光をたたえたとき、俺は口を開いた。


「……ファレイ。で、いいか……。いまは誰もいないし」


 気がつくと、風羽は俺の前にひざまずいていた。

 垂れた長い前髪が顔を隠していたが、先ほどまでの悲しみは消え失せている。

 初夏の光を受けた全身は、喜びの色に満ちていた。


「……。えっと……。今後のことなんだが。とりあえず月曜日の昼休みに、いろいろ話をして決めたい。あしたとあさって……土日でちょっと、整理したいんだ。あんたに聞きたいこととか、……きょうのこととか」


「承知いたしました。お会いする場所など、当日の詳細は、携帯電話よりご指示頂く、……ということでよろしいでしょうか」


 こちらをまっすぐに見つめ、透き通った声で尋ねてくる。

 指示……って。

 まさかこれから、ずっとこんな調子なのかよ……。


 俺は顔を引きつらせたあと、咳払いして気を取り戻す。


「……ああ。月曜の朝にでも電話するよ。……何時頃なら出られる」


「いつでも。……どうかお気になさらず、必要なときはどんなことでもご用命下さい」


 風羽は、また深々と頭を下げた。


 ……もっとフランクにしてくれと、命じることはできないのだろうか……。


     ◇


 そんなふうに、風羽と別れ、帰宅したのち――。


 俺は、玄関で待ち構えていた坂木のおばちゃんによる『ハッピーバースディ・アームロック』の歓待を受け、そのまま居間へ連行、そこでじいちゃんにただいまと言ったとたん、来ていたじいちゃんの店の常連さんたちから、酒とつまみを押しつけられ……。考えに沈むひまはいっさいないまま夜は更けて、とこについた。


 ちなみに、ケーキは買い忘れたので、食べることはなかった(出席者全員、酒飲みで甘いものを食べないので、誰もカットケーキすら用意していない。代わりにチーズやらサラミやらたくさんもらったが……)。


 そして翌日の土曜はじいちゃんに、日曜はおばちゃんの用事にかり出され、どちらの晩も、倒れるように寝て記憶がない。


 つまり二日とも、風羽へ言った、考えを整理することはおろか、思いをめぐらすことすらできなかった。

 しかしそれは、必要な時間ときだったと、今朝目覚めて思った。


 金曜日と同じ、平日の朝。

 学校へ行く朝。


 目を開けて、白い光を受けた瞬間――。金曜の、風羽とのやり取り、そして【ヤツ】の姿と言葉がフラッシュバックし、硬直したあと、心臓がつよく一度打つ。

 その後、枕元のスマホに気づき……。わずかな躊躇のあと、つかみ、中身を確認する。


 そこに映る、『ファレイ』の文字。

 電話番号と、メールアドレス。

 それらが合わさり、頭の中で響き出す、風羽の【セイラル】と呼ぶ声――。


 鼓動が速くなる。

 喉が渇く。

 息がおおきく乱れた。


 まるで、【セイラル(おれ)】という異者ことものの侵入に対し、拒絶を示すように、心身をきしませて、【緑川晴おれ】が金曜の記憶を追い出しにかかっていた。


 苦しさでスマホを手放したと同時に視界はゆがみ、部屋をひたす光がうねり、おおきな波となって俺を飲み込み、そのまま暗い海の底へ引きずり込もうとした。

 ……が。


「……!?」


 突如、鳴り始めた丸い置時計の目覚まし音によって気を取り戻し、ベッドの下へ落としたスマホを拾い上げようとしたときに、じいちゃんやおばちゃんに命じられた本の整理や部屋の片付け、庭の草むしりなどによって疲弊した俺の筋肉が鋭い痛みを発して、思わず固まる。


 俺は顔をゆがめたまま、置時計へ手を伸ばし、音を止めた。

 そのときにはもう、鼓動も呼吸も、視界も、もとに戻っていた。


 俺は呆然としたあと、部屋を見まわして、痛む肩や腕を軽くさすり、苦い笑みを漏らす。

 そして、拾いそこねた、カーペットに転がるスマホへ目を移した。


 風羽のこと。

 俺のこと。

 ……【アイツ】のこと。


 冷えた頭の中で、途切れかけたあの日の思考と感情が、次々と浮かんでは、パズルをはめ込むようにつながってゆく。

 俺はベッドをおりてスマホを拾い、親指でその赤いふちをなぞりながら、床へ腰をおろした。


「……金、土、日。……きょう


 指を折り、ひとりごちる。


 あれは夢じゃない。

 いまとつながる現実だ。

 あらためて、そう確認するために。


 結果、俺の心と体は、もう異議を唱えることはなかった。


 俺は深呼吸したのち、しばらく朝日を浴びながら、暗い画面を見つめていた。

 風が窓に触れる音が、時計音と混ざり合い、耳の奥を刺激して、思考はますますはっきりと、透明になっていく。


 ……これから、自分がやるべきことはなんだ?


 スマホにうっすら映る顔へ、問いかける。


 分からないで右往左往?

 棚に上げてやり過ごす?


 ……いや。

 もう、決まっている。


 あのとき思った通り、……ただひとつ。

緑川晴おれ】の中で眠りこけている、あのくそったれ――。


セイラル(ヤツ)】の記憶を呼び戻すことだ。


     ◇


 風羽怜花(れいか)


 クラス一、もとい学年一とも噂される、ミステリアスな美貌の持ち主。

 二年連続同じクラスで、いまは隣の席に座っている。

 だがつい数日前まで、喋ったことも、目が合ったこともない――。

 近くでいて、とおくに咲く高嶺の花。


 ……の正体……、が。


     ◇


――お久しぶりです。セイラル様――


――……ご命令通り、このファレイ・ヴィース――


――17年の時を経て、あなたのもとへ参上しました――


     ◇


 ファレイ・ヴィース。


 という名の、別世界の住人で、魔術士であり……。

 あまつさえ、【セイラル(おれ)】の従者という。


 風羽のときにまとっていた、クールな雰囲気はそのままに、しかしときには慌てふためき、取り乱し、顔を赤らめ、……涙も流す。

 はじめて触れた別世界ほんとう素顔かおは、よほどこっちの世界の人間らしかった。


 そんなアイツは……。

セイラル(おれ)】をあるじだと言う、ファレイは……。

 これまでどんなふうに【セイラル(アイツ)】と関わり、すごし――。


 ……どれだけ【セイラル(ヤツ)】のことを、知っているのか。


     ◇


 主と従者。


 それが、向こうの世界にとって、単に仕事上のつながりなのか、身分としてのものなのか、あるいはその両方か……は分からない。

 だが風羽――ファレイは明らかに、業務的、身分的な主従関係に収まらない、つよい感情を持っているように感じる。

 ……【セイラル(ヤツ)】のほうは、分からないが。


 ただ少なくとも、記憶を失った自分の頼る先となるように、あれこれ命じていたようだから……、たとえ身分、仕事としての関わりのみだったとしても、ある程度以上の信頼は置いていると感じる。

 ならば、個人的なことも彼女に話している可能性が高い。


 ともかく……。まずは。

 風羽が、ファレイとして知っている限りの、【セイラル(ヤツ)】についての情報を集めることだな。

 ほかのすべては、そのあとだ。


 そう決めて、スマホを消して立ち上がると、汗ばんだシャツを脱ぎ、ベッドへ放った。


     ◇


 いつもとは違った、木々の奏でる朝の音色を一身に受け、あれこれ考えごとをしながら、ゆっくり自転車を押していた俺は、細い路地を曲がってすぐの、古びた門の前でスタンドを立てる。


 四方を車輪梅しゃりんばいに囲まれた、おおきな庭つきの、青い屋根の二階建て。

 築60年というこの木造住宅は、うちの家から歩いて3分の距離にあった。


 もともと、ここはおばちゃんが子どものころから住んでいた実家で、結婚を機に離れたのだが、ご両親が亡くなる前におじさん……旦那さんといっしょに戻ってきて、じいちゃんとはそれ以来の付き合いになるらしい。

 俺が引き取られる前のことだから、物心ついたときより、おばちゃんの姿はこの目に映っていた。


 彼女は男所帯のうちを、なにかと気にかけてくれ、いまに至るまであれこれ世話を焼いてくれているので、単なる近所の人というよりも、俺にとってはもうひとりの家族だった。


 歳はじいちゃんと同じくらい。

 豪放磊落ごうほうらいらくを絵に描いたような人で、よくしゃべり、よく笑い、よく動く。


 そのエネルギーは、周囲の人間をも巻き込み、……もちろん俺にも向けられ、ちいさなころからあちこち連れまわされたり、用事をさせられたりと、ほぼ毎日、おばちゃんがらみで動きまわっていた。


 中学のときも文化系クラブ、いまは帰宅部の俺が、人並み以上に丈夫な体にはなったのはそのおかげだが、高校生になったいまでも、小学生のときと変わらずに扱われるのは、少々困っていた。


 ちなみに、おばちゃんは大の電話嫌いで、携帯はおろか、5年前におじさんが亡くなってからは、家の電話すら取り外し、うちの電話やスマホに呼び出しがかかることはなく、ぜんぶちょくだった。


 ゆえに、とくに予定はないが、疲れて参っているとき、またはとんでもないやっかいな用事を事前に察知したときは、こそこそと家からの脱出を試みるのだが、およそ8割の確率で捕まった。


 なのでとうぜん、きのうのように、疲れて朝の10時ごろまで眠りこけていたら、「――起きな晴坊せいぼう!」の一言とともドアが開き、確実にかり出されることになる。……思い出したらまた体が痛くなってきた。


「……。さて、と……」


 俺は門の中へ目をやって、人の気配がないことを認めたのち、やや離れる。

 そして路地の入り口を始め、周囲を幾度かチェックしたあと、車輪梅を背に、ポケットからスマホを取り出した。


【ファレイ・ヴィース】

【090××××××××】


 起動した画面に映る、まだ見慣れないカタカナの名前と電話番号。


 いまの時間、おばちゃんを含め、この細路地へ人が来ることはまずないので、電話はここでしようと決めていた。歩きながら、話す内容もまとめられたしな。


 俺は深呼吸すると、光る画面を見つめつつ、先ほどまで頭の中で転がしていた言葉をつぶやく。


「……。お、おはよう……。あ、ひ、昼……、いや、きのう、……いや、金曜のことなんけぎょ……。――!?」


 思わずスマホの電源を切った。


 落ち着け。

 落ち着け。

 ……落ち着け。


 アイツはファレイ・ヴィース。

 風羽怜花じゃないんだ。


 女に電話した経験ことなんかゼロなのに、さいしょの相手が「あの」風羽だなんて思ったら……。

 とんでもないことをしている気持ちになる。

 別世界の魔術士に電話するほうが、よほどであるんだろうが……、そんな冷静な分析は、いまの俺には無用の長物だった。


「……――はー……。……もう知るか!」


 俺は一度、息を吸い込んでから、はき出すと同時に発信ボタンを押した。

 すると――。


《おはようございます、セイラル様。如何様いかようなご用命でしょうか》


 わずかな間。

 ……との表現も及ばないほどの時間を経て、彼女は出た。


 そして登録した音声のように、いっさい無駄のない返事に、俺は喉の奥を突かれて息が止まる。


《……! ど、どうされました!? ま、まさかなに……――すぐに参ります!! では!》


「……!? い、いや違……。って、おい!!」


 通話は切れた。


 ……すぐに参りますって……。

 ……ま、まさかほんとうに来るんじゃないだろうな――……。

 どうやって?

 場所の特定は?

 ……。


 俺は口を半開きにしたまま辺りを見まわし、何度か細路地を行ったり来たりするも、「ともかくここを離れるべきだ」の一点で混乱を払拭、意識は統一――。スマホをしまい、自転車のハンドルをつかみ、スタンドを蹴飛ばしてUターンしようとした……。ら……。


「……なにをしているんですか。ばたばたと。うちに用事ですか?」


 門の向こう側。

 白の朝日を背に受けて――。


 青いブレザー姿の少女が、こちらへ怪訝な目を向けていた。


     ◇


 俺の肩ほどしかない、ちいさく華奢な体。

 逆光でうっすらと影を帯びてはいても、はっきりと分かるそのつよい感情ひょうじょう

 黒のミディアムヘアが、さらさらと風になびいている。


「……? どうしたんです。すごく変な顔をしていますよ。まあ、もともとそっち系の顔ではありましたけど」


 ちいさな口から発せられた、りんとした声の、無礼な言葉が耳へ入り、俺は正気を取り戻す。

 再び息をはき出すと、彼女に言った。


「……久しぶりだね。こっちに来てたんだ。……すいちゃん」


 俺の言葉に、彼女――水ちゃんは、おおきな目をまばたく。

 そのあと、ゆっくりと門の鍵を開けた。


「来てたというか……。……いえ。そんなことより、用事があるんじゃないんですか?」


 じっと、俺を見つめる。

 用事はあるにはあるが……。ふりかけのことだしな。

 いまはここを離れないといけない。


「あー……。いや。いいよ。たいした用じゃないんだ。ごめんね、朝早くから騒がしくして。――んじゃ!」


 笑顔を見せて、さっと背を向ける。

 ……よし、自然な態度だ。違和感なし!


「動かないで下さい」


 突如、冷たい声が背中に刺さる。

 おそるおそる振り向くと、おおきな目が半眼となり、ぎらぎらとした光を放って俺の全身をつらぬき、彼女の言葉通り、動けなくなる。

 そんな俺の前に、水ちゃんは、膝丈のチェックスカートを揺らしてすたすたとまわり込んだ。


「……昔から。あなたは嘘をつくときは、『たいしたことじゃない』と言いますし、不自然な笑顔を見せますし、『んじゃ!』と言って逃げようとします。つまり100パーセント嘘です。……緑川さん。もう一度聞きます。……なんの用ですか」


 緋色ひいろのネクタイを整えたあと、自らの細い腕を抱き、半眼を崩さぬまま、俺を下から睨みつけてくる。

 ……ぐ……。確か一年……ぶりか? 久方ぶりに会ったというのに……。相変わらずというか、なんというか……。

 おばちゃんとは正反対のベクトルで、パワーがあるんだよなあ……。


     ◇


 水ちゃん。――美浜水みはますい

 歳は俺の5つ下。

 彼女は、おばちゃんの娘の娘……つまり孫であり、俺ともちいさなころから付き合いがある。


 隣の県に住む彼女は、春、夏、冬の長期休暇には、決まっておばちゃんの家へ泊まりに来ていた。

 歳が離れているので、いっしょに遊ぶというか、おばちゃんに言われて、俺が遊んであげていたのだが……。おばちゃんに似たのか、きゃっきゃとよく笑い、はしゃぎ、元気に走りまわる子だったので、いつの間にか、俺がひっぱりまわされることとなった。


 しかし2年くらい前から、急によそよそしくなり、俺に対する呼び名は【晴兄せいにい】から【緑川さん】となり、言葉遣いは敬語、そして態度は冷たくなり……。

 去年はとうとう、こっちへ顔を見せなくなった。


 俺がなにかしたのか。

 あるいは反抗期? ってやつなのか……。

 単に歳を重ねた必然の変化なのか。


 まあ去年はおばちゃんの家に来ること自体、していなかった(と思う)ので、俺とは関係ないとは思うが……。その前からの、態度の変化が気になる。


 ともかく昔のように頭をなでたり、ふざけて社交ダンスのまねごとをしたり、自転車の後ろに乗せて坂道を下り、「ジェットコースターごっこ!」などとは、もうとても言えるような雰囲気ではなくなった。

 俺のおふざけに、きゃいきゃい喜んでいたあの子とは、とても同一人物とは思えない。


 少し背は高くなっているものの、相変わらず華奢で、さらさらした肩ほどの髪に、おおきく澄んだ目、ちいさな口。

 見た感じは、まったく同じなんだけどなあ……。


「……なんですか。私の顔になにかついていますか?」


「……いや。なにも。……おっと、これはほんとうのことだよ。つーかさっきのも。用事ってのはふりかけのことだし」


 俺は手を上げて、しずかに話す。

 水ちゃんは、「ふりかけ……?」と、さらに訝しんだが、俺の態度が冷静になったのを察したのか、ため息をつくと、言った。


「まあいいですけど。ちょうどよかったです。……少しの間、待っていてくれますか?」


 そう言い残すと、彼女はきびすを返し、飛び石の上を歩いて、家へ戻っていった。

 な、なんだ……?


 俺はしばたたき、奥の、閉じられた引き戸を見やった。

 その後、左腕を上げて、銀時計を確認する。

 ……電話から5分経った。


 まずい。

 水ちゃんの用がなにか知らないが、すぐに終わるとは思えない。

 このままだと……。


 出くわす可能性がある。


     ◇


 風羽アイツがどんなふうにして、俺の場所を突きとめるかは分からない。

 だが、俺のことを、『ある程度』『調べている』『魔術士』だ。

 常識的な判断は取っ払う必要がある。

 突きとめてやって来た場合のことだけ考慮すべきなんだ。


 その場合……、いや別に……、【風羽怜花】としてだけなら、いい。

 ……よくはない……、水ちゃんはともかく、おばちゃんに知られたら、【緑川晴おれ】にとって、ややこしいことになる、が……。

 しかしセイラル関連の話を聞かれるよりは、100倍ま……。


「――……セイラル様っ!! ……お待たせいたしました!!」


 とつぜん響くブレーキと、タイヤがアスファルトにこすれる強烈な音。

 煙と見まごうばかりの、立ちのぼった砂ぼこり。


 俺の眼前で急停止した深紅のママチャリには、青いような赤いような表情かおをした、クール……のかけらもなくなった・ビューティ――。


 風羽怜花。

 ……もとい。


 ファレイ・ヴィースの姿があった。


     ◇


「お怪我はございませんか!? 体調は……。そ、それともなにか、お心を乱すような出来事が……!!」


 ……お心を乱しているのはお前だよ……。


 俺は顔を押さえて、よたよたとそばの塀へもたれかかる。

 すると一瞬でママチャリをとめて、俺の周りをうろうろし、「……!! ど、どうしましょう……。私は回復術はあまり得意でなく……。この世界の医療機関は……!!」などと、1000パーセント口にして欲しくないことがらをまくし立て始めたので、俺は我が身のために必死で力をみなぎらせ、ショートヘアの制服女の口をふさいだ。


「……もぐっ!? もぐぐぐ~っ!???」


「……いいかよく聞けよ。俺は元気はつらつ異常なし。そしてあんたは風羽怜花。俺の同級生でクラスメイト。ちょっとした知り合いで、ぐうぜん路地の前を通りかかり、声をかけた。……このことをじゅ~ぶんに頭へ叩き込んで、いまから先は話して動け。……――了解したか!?」 


「……も、もぐ……」


 風羽は、ゆっくりと首肯した。

 俺はその黒曜石の両眼を、念押しするように見つめたのち、手を離す。

 それと同時に、がらがら……と引き戸の開く音がした。


「……? ……」


 果たして水ちゃんは、戸の前から怪訝な顔で風羽を見る。


 そして手にしていた紙袋を、その場におろして、手ぶらでこちらへ戻ってくるや否や、俺を睨みつけ……。事情の説明を、半眼で求めていた。


「……あー……。あのな。こち……。彼女は俺の……」


「はじめまして。風羽です。緑川君とはクラスメイトなの」


 淡々と、涼やかな声が放たれた。


 先ほどまでの動揺はどこへやら、隣に立つ女は実に落ち着いた様子で、背筋を伸ばし、水ちゃんへ微笑を向ける。


 ……前も思ったが、コイツの切り替えの早さはなんなんだ。

 ま、まあ助かったけど……。


「……。先ほどのおおきな音は、あなたが?」


 水ちゃんは、風羽と深紅のママチャリを交互に見やる。

 辺りには、まだタイヤのこすれたにおいがした。


「ええ。ごめんなさい。ちょっと緑川君に、電話では伝えきれない、急ぎの用事があったものだから。これからは気をつけるわ」


 と、笑みをつよめる。


 ……なんか微妙に、引っかかりがないではないが……。

 たまたま見かけて声をかけたにしては、自転車の音がおおきすぎたか。

 妥当な言い訳かもしれ……。


「……は?」


 俺の思考をさえぎって、地獄の底から響いてくるような冷たい声が、耳をえぐった。

 見ると、水ちゃんの半眼はますますきつくなって、風羽の微笑へと向けられていた。


「……朝の早くから。電話では伝えきれずに、慌てて自転車を飛ばしてやってくる。それって、どんな用なんですか。ふつうじゃないと思いますが」


「そうね。でもさっき以上の説明は難しいわ。ほかの人には。これは私たちのことだから」


 ……おい。

 おいおいおい。


 なんかおかしい。……おかしいでござるよ……?


 俺はロボットのようにぎこちなく、再び、水ちゃんのほうへ首をまわす。

 すると歯をくいしばった、般若のような表情かおをした彼女がいた。

 ……ひっ!


「……ふわさん、でしたっけ。失礼ですけど、あなたのお話では、ただのクラスメイトとは思えないのですが。……どういったご関係か、ご説明いただけますか」


「なぜ? あなたは緑川君の妹さん……ではないわよね。ご家族でないなら、これ以上の説明は不要だと思うのだけど」


 あくまで微笑を絶やさずに、しずかに言葉を返す風羽。


 ……コ、コイツ……。これで適切な対応をしているつもりか?

 空気を読むってことを知らんのか!


 果たして犬歯を見せるほどに、怒りを隠さなくなった水ちゃんは、耳まで赤くして言った。


「……ええ。妹なんて冗談……。けど少なくとも、あなたよりは近しい関係にあるんですよ。10年以上の付き合いがあるので」


「……10年?」


 風羽は、刹那、先ほどまでの微笑を消したのち、……わずかに目を細めて鼻で笑った。

 それからため息をつくと、俺に向き直った。


「緑川君。心配したことはないようだから、私はもう行くわ。……また、一時間目が終わってからでも、電話を」


 そう言って、わずかに頭を下げたあと、じっと俺の目を見つめ……、ママチャリのハンドルをつかむと、押して細路地を出て行った。


 俺は呆然と、しばらく路地の入り口を見やっていたが、がしゃん! という音で振り返る。

 すると門をわしづかみにし、こちらを睨んでいる幼なじみと目が合った。

 ……!!


「……放課後。うちへ来て下さい。大切なお話があります。……いいですね? 帰宅部の緑川さん」


「……は、……はい……」


 俺は、そう答えるほかなかった。

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