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短編

たったひとりで死ぬしかないきみに

作者: 阿江


【わかばのころ】


 私は夢を見た。


 わたしは15歳だった。そして青年時独特の「独りきり」であるという孤独感を持っていた。窓辺で新緑の風に当たり、さわやかな同年の少年少女たちの声を聴くと、それは一層深まった。


 高校生となり、周りに若々しい感性のものがいると、とても追いつけない寂しい気がする。

 微睡の里、夕暮れに追いやられた若々しい箱庭――――――。


 そう皆が皆、そのなかで精いっぱいと生きている。わたしはそこでのびのびと、その空気を吸うことができずうつろに遠くを見ているだけ。


 窓から見える竹藪は受け入れる風をもみくちゃにしてわたしの耳に届けてくれる。4限目の終了とともにわたしは一人で窓から空気を吸っている。

 太陽の光は、ちろちろと葉の間から廊下にまだらの模様をつくった。そのまだらの揺れは誰にみられることもなく、自然現象という名で存在した。

 

 わたしはクラスにとけこめていなかった。友人はできたものの、その子たちとは心、十数年の隔たりがあり、求めている人たちでもなければ、わたしも彼女らにとって求められている人ではなかった。


 5月の終わりだった。



 わたしはいまだに学校の造りを把握していなかったから、5限目が理科実験室で行われるといっても、どこに行っていいか分からなかった。教室の戻れば校舎図があるので、それを見ようと歩き出した。


 風が汗の匂いをふくませ、髪をそよがせた。5月の涼しさが、なにか穏やかなものに支配さえている。



 ぼんやりと廊下に視線を移すと、ただ一人少年の背があった。わたしはその背の細さを感じてしまった。その存在にふと感応してしまった。男の子の襟足の無造作に視線を吸い寄せられた。


 わたしはその後ろ姿に視線を吸い寄せられたまま、なんとしようと思った。わたしは彼と言葉を交わしたかった。まるでふたりしかいないみたいに、わたしは特別に空間をつくった。スカートが膝にあたりこそばゆかった。


 頬が色づいた。わたしは彼の表に言葉が届くように、丁寧に一歩足を踏み出し、理科実験室の場所を聞いた。


 彼は振り返らなかった。顎の先が見えるくらい首をひねって、案内するということを申し出た。

 彼の声は世界に溶け込んでいた。少しも不快なところがなかった。声も語感もすべて心地よく存在した。ただ背筋は冷えた。


 恐ろしいくらい悠然と個性を含まない音。


 けれどすべてになじむ声。震えるからだ、ピリピリと彼の存在を意識する心と臓。心地よく、もどかしく、どうしてだか彼の声が裂けて彼の心が見えるような気がした。


 横並びになった。わたしたちはもともと二人で歩いていたように、なじんだ。彼の身体とわたしの身体の境目はなく、その二人のまじりあうところをお互い感じた。


 そこで、歩きながら彼はわたしの顔を一切見ることなく、いないかのようにさらさらと景色を眺めるみたいに自然な優しい口調で「ゴミ箱なんです」といった。

 

 わたしはわたしすらもまるでその話を穏やかな天気をうかがうような調子で受け入れていた。彼はつづけて、僕は人からゴミ箱のように見られる、といった。

 わたしは突然のその話にとまどうことはなく、どちらかというと心地よく聞いていた。

 彼の話は悲惨で、悲痛で、それゆえに仕方ない世間の悲しさを感じさせた。彼の言葉の節々には「だから死のうと思っている」という心情がうかがえた。


 わたしは一生分の話を聞いたにもかかわらず、まだ理科実験室についてはいなかった。


 彼は話を聞かせた謝罪を述べ、理科実験室を指さした。わたしは横並びのまま、ああ一生校舎をさまよいたかったと唇をかんだ。わたしの頬はまだとろりと朱い。


 初めて相槌以外の言葉を口にした。二つほどの質問。彼はそれに答えた。わたしはやっと彼の柔い部分に触れる決心をして、森閑とした空間から足を出した。


 声はかすれた、けれど落ち着いていて穏やかにでた。


「貴方の語り口調は穏やかでとても素敵で、そして顔も明るい表情をされているととてもさわやかです。、貴方は誰にでも穏やかに受け入れることのできる人です。わたしにはとうていあなたがゴミ箱であることを否定します。


 頑張ってください」

 

 彼を見て、ふうと笑みを浮かべる。世界はがらりと崩れ、目を見開くとわたしを眺めている彼はやわらかそうな静かな瞳の少年だった。わたしが彼の質感を一気に感じたように、彼もまたそのようだった。わたしたちは話しをしたが、初めてお互いの存在と質量を感じていた。一瞬はさいなむ。


 世界のすべてとなった彼の顔が花がほころび開くように、頑なだった聖域がゆるむようにわたしを受け入れた。


 ふたりは見つめあい泣きそうになりながら、廊下の真ん中にいた。


 


 


 否定をしたのは一瞬だった。目をきつく閉じて、もはや何をうしなかったのかを認識し、身を横たえジッと耐えた。ベッドに横になっている己。それを俯瞰して感じる。


 引っ越してきて25年、誰が選んだわけでもないのに愛着のないかけたきりのカーテンは薄く、青紫の光が黒い夜から漏れ出ている。カラスの鳴き声が聞こえて、普段なら早く起きたと、うれしくもないのに空気を入れ替えるが、そんな気は起きなかった。少し冷えるようになった空気から逃げるように、ほんのり温かい布団に顎を寄せた。


 私は周りを見回す。そこは学校でもなく校舎でもなく、もちろん五月でもなかった。

 そして私は柔らかな顔をした女の子ではなく、そう女ですらない。


 布団をめくり、立ち上がると、キッチンにはカップラーメンが置かれ、生ごみの匂いがする。


 今見たのは夢だった。誰一人として心当たりのない登場人物が出る夢だった。私は一人で、ここに住み社会の置物で多くの人々にとって何の意味もない置物で、なにも心動かせることなく、一人でこの生ごみの匂いのする場所で住み、誰からも理解されることなく、愛されることもなく、そして死に向かっていく中年の男だ。


 思春期の悩みや苦悩を誰にも話さず生き、働き出しても誰とも同じ時間を過ごさず、そしてもうだれからも悩みも苦しみも聞いてもらえない年齢になっている。


 あまりにも心奪われる夢だった。夢の中であの少年と少女はただひとつの初恋を経験した。決してお互い以外を受け入れない契約も。

 しかしそれは夢として、手に入れたのに奪われてしまった。


 脳の見せたまやかしであるとしても、そのとき私は少女として少年に恋し、そして向こうも同様だったと知っている。


 身体に常にまとう疲労感とともに起き上がり、息を吐いた。玄関まで意識があまりない状態で歩き、そしてなんとかサンダルをはいた。足の指には毛が生えていて、自分の口臭も自覚している。よろけながら玄関の扉に額を付けた。


 誰がこの男について気にするだろう。不愛想な態度で人を拒み、一度も女と付き合うことなく、人間としての成長もない。


 9月だった。玄関から外に出る。朝の独特の空気の澄み、暁の空は薄明りにある。月がおぼろに見えた。透明な月、もう消える。


 中秋の名月。思い出した。今日、いや正確に言うと昨日がその日だったのだ。小学生のとき、教師が話していた。



 夢は5月だった。

 今はもう9月で、最も人の心情に語り掛ける美しい季節。染まりゆく葉をながめ、枯れ落ちていく葉を踏みしめ、透き通る空気の中の季節を燃やす煙をかぎ、龍が潜むようなこわいほど緊迫した水にいたる。

 たった一人で。ふと浮かんだ言葉に、目の前がさあと暗くなった。


 そして冬に備え、もはや来ない春を眺めながら、暗い冬の檻で生きる。


 私は月を眺め続けていたが夜は開けて、もう気配を感じることもできない。



 朝が来る。



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