チート系に関する自分の考え
さて、昨晩の下らない散文は敢えて私への戒めとして(忌ましめ、かな?)残して置こう。
本文章は私がいわゆる『チート系』について思うことを纏めたモノだ。チート系とは、異世界に転生したり、転移して、神だったりなんだったりから素晴らしい迄の能力だったりを与えられたり、現代兵器やら現代知識を用いて、一歩、若しくは更に大きなアドバンテージを地元住民に対して持つと云うモノである。私もその様な文章は良く読んでいるし、そのイミテーションのような文章も書いて居る。さておき、私が書きたいのは、そもそもチート系って何故書いていて愉しいか、読んでみて興味深いか、である。
私は正直、ハーレム系は嫌いだ。モテないならそれでも良いぢゃないか、異世界とやらでハーレムなんざヘドが出る、とまではいかないが肌に合わない。何だか独善的だ。実はこの『独善的』というモノがチート系のキモなのではなかろうか。
私はハーレムが嫌いだと書いたが、内政チートだったり、軍政チートだったりは好きだ。そこそこなのが他のチート系だ。しかしてハーレムも内政も軍政も他も独善的なモノだ。
ハーレムは女子を助けたり貞操が逆転していたりするのが多いように感じて居る。そして可哀想だからと奴隷から解放したり、この様に振る舞えば女子が喜ぶだろうといった行動、これは一つの独善的言動である。
内政・軍政は民主主義やら何やらを持っていって、言い方は悪いが其を現地住民に押し付けるモノである。現実世界ですら、支那事変やイラク戦争の後のように、上手く行くとは限らないと云うのに、である。まあ、私が書いて居るイミテーションもその様な文章である。詰まる所、自分の価値観が現地住民の価値観よりも優れており、優れているモノの導入こそが正義という独善的言動である。
その他系は、神が独善そのもので、何らかの負い目に勝手に転生させたり、何らかの都合で勝手に召喚したりした挙げ句、武器だかスキルだか魔法だかを与えて放り出す。さらには主人公がその独善の化身よろしく魔族だか何だかをぶっ飛ばしてしまう。
さて、何故人はこの様に独善的言動を好むのか。そんなもの聖書の昔から水戸黄門とかなんとかに至るところに見受けられる。つまりはその方が単純明快で、不快にはなりにくいからだ。世直しだといって悪徳役人をぼこして、『この印籠が目に入らぬか』で権力で反論を許さない独善の方が、双方がそれぞれ正しい事を言って戦い続けるよりも単純だから老若男女にあまねく受け入れられる。水戸黄門がやたらと永く続いて居る理由でもある。
つまり、何故チート系が好まれるかと言うと、単純かつ明快で誰でも受け入れ易いからだ。与えられたチート能力は水戸黄門の印籠と同じで、違うのはそれが権力か否かというちがいでしか無いのだ。