忘れないで
海が近い町だとは知っていた。
私が住んでいた町は。彼が暮らしている町は。風が強い日は、ほんのりと潮の香りがするほどだ。
学校帰りにふらりと寄ったりもする。桟橋がいくつかあって、クルーザーやモーターボートが何艘か停まっていて、テトラポットと小さな灯台。砂浜は残念ながらなかった。海もゴミがごちゃごちゃと浮いているなんてことはなかったが、別段きれいなわけではない。――それでも何故か好きだった。
海に向かって脚を投げ出し、桟橋に腰かける。漁師や釣り人がいれば危ないと呼び止められるが、幸い今のこの小さな港には人影は見当たらない。もっとも、人影がいたところで、その人に私は見えないのかもしれないが。ふとそう思うと、自分がこの世のものではないということに、どうしようもない空しさを感じてしまう。
分かってはいた。分かっていないはずなんてなかった。
自分の身体のことだもの。
そう、この身体に血はもう通っていない。
彼を待つこの心にもう、心臓はない。
そして、飲酒運転の車に轢かれて血みどろになって道路の真ん中に倒れていたあの哀れな少女は、他の誰でもない。私の亡骸……。
分かってはいた。でも分かりたくなかった。
分かりたくなかったから目を背けて背伸びをした。もう、誰にも見られる必要なんてないのに、誰かに見られたくて。背伸びをしたのが、今のこの偽りの私……。
分かっていたのに、私はここに来てしまった。
ここで彼を待っているという、どうしようもない思い上がりを享受している。
所詮、所詮……。私はどうにもなれないというのに。
いったい、私は何を考えて、首を縦に振ってしまったのか
今も何を考えて、彼が来るのを待っているのだろう。
自分で自分にぶつけた疑問の数々に対し、自分自身が応えてくれるはずもなく。どうしようもしない疑問は波にさらわれて消え去っていく。岩礁に叩きつけられ舞い上がっては、風にさらわれていく飛沫のように。
「本当はどうなりたいかなんて分かってるんじゃないの?」
急に誰もいないはずの隣から声がし、思わず肩をびくつかせる。気付かないうちに、そいつはいた。相も変わらず読めない怪しい微笑みを浮かべて。ちょうど私と同じように、脚を海に向かって投げだして桟橋に腰かけていた。
「あ……あなたは……」
正直言って会いたくなんてなかった。彼女は忘れてやりたかった存在だ。
「教えてやったじゃないの。大丈夫……あたしの見立てだと、彼はあなたに気があるわ。その気になればきっと、オトせるわ」
「私をたぶらかしているつもり? 一緒になんかしないでっ!」
「一緒でしょ? 一緒じゃなきゃ、彼の誘いになんか乗ったりしない。どうなりたいかって……?」
彼女は私の手を冷たい手で握り、薄ら笑う。彼女はこの手で自分の想い人をもう、引きずり込んでしまったと言うのだろうか。その冷たい冷酷な体温が、私の何かを奪うようにして、私の心を冷やしていく。背中を悪寒が走る。
私は彼女の手を振りほどいた。私が彼女と同じ冷たい存在になってしまう前に。すると、彼女の姿も振り払った手とともに消えてしまった。まるで私の中にある気の迷いが見せた幻であったかのように。荒くなってしまった息を整えるため、胸をそっと撫でおろし、深呼吸をする。
私がどうなりたいかなんて、分らなくても……これだけはわかる。
私はあなたのようになんか、なりたくない。
そう自分に言い聞かせて、立ち上がり、拳を握りしめる。
「……何をしているんですか」
「え?」
すると後ろから待ち人の声が。また変なタイミングだ。握りしめた拳をほどくとともに気というものがすっぽりと抜け落ちてしまう。でも、彼の顔を見れたことは嬉しかった。
「海に向かって叫ぼうとでもしてたんですか」
「……、まあ、そんなところ」
面白い人だと笑われた。また笑われた。笑われたけれど、……もう慣れた。
「で、どうして海なんかに?」
「……とくに考えてなんかいないですよ」
彼は私の隣にあぐらを掻いて座り込んだ。部屋でいるときは小奇麗な薄手のスラックスを履いていたが、今日は厚めのジーンズをはいている。青みも濃くて、むしろ黒に近いぐらいで、夏の初めの日差しを受けて熱を持っている。見ているだけでも少し暑そうだ。
「ただ、あなたと一緒に海を見に行きたかった。そんな気分になっただけです」
「はは……、何それ」
今までの仕返しも込めて、笑ってやると彼は苦笑いを浮かべて、額に掌をあてがう。目じりを下げて、困り顔をする。
「いやあ……私もあまり、こういうの慣れてないもので」
「……嘘ばっかり」
「本当ですよ」
「バーテンダーなんでしょ? 女の子を口説くくらい仕事じゃないの」
「私のような、しがないバーテンダーではそんな芸当はできかねますよ」
「そう……、なんか安心した……」
ずるい……。本当にずるい人だ。
「……、岬の鐘つき台のところに行きませんか」
こくりと頷いて、歩き出す彼の後を追う。この小さな港には、桟橋のほかにもうひとつ。私の好きな場所がある。そこだけはやけに綺麗な白煉瓦が敷き詰められていて、八角形状に海に向かって飛び出た広場が作られている。そして、その中心に真鍮でできた小さな可愛らしい鐘がつるされた鐘つき台があるのだ。その鐘をふたりで鳴らせば結ばれるだなんて、いつからかそんなおまじないが出来上がったが、私には到底無理な話だ。――所詮……、私は……。
海に向かって突き出た桟橋から、海岸線に戻り、鐘つき台へと向かう。足元を見やると、ちょうど灰色のコンクリートから、真っ白な白煉瓦へと変わる境目のところだ。
……彼は、どうして私なんかをここに連れて来たんだろう。もしかしたら彼は、……。
その境目が私には、同時にふたりの間にある一線をも象徴しているように見えてしまった。思わずはたりと足が止まり、彼だけが鐘つき台へと足取りを進める。
彼が……、そう思っているとしたら……。
私だって、できることならば答えたい。でも、私は……、私は……。
そのとき、耳元にふっと潮風に乗せられて優しい声が飛んできた。おばあちゃんが言ってくれたあの言葉が、おばあちゃんのあの声で。
『その人には、その人が望むことをしてやりな。自分がどう見られたいかじゃなく、その人のために自分が何をできるかを』
……そういう……、ことか……。
私の中でひとつ答えが生まれた。彼に対する答えが。私はポケットからその答えを取り出し、ひっそりと目をつむって握りしめる。
「……おばあちゃん、やっとわかったよ」
開いてしまった彼との距離を埋めるべく小走りになって、鐘つき台で待つ彼のもとへ。私の答えは決まった。あとは切り出すタイミングだけだ。おそらくきっと、これ以上渋っては、辛くなるだけだ。
「何か発見でもありましたか」
「……いえ、ぼうっとしていただけです」
その時間はもうすぐ傍に近づいている。頭の中で秒を刻む時計の音が鳴り響く。私は秒針が回りきるまでの瞬間のひとつひとつを噛みしめる。できれば、この時間が永遠に続いてほしい。私だってそう思っている。
「そうですか……」
波の音が寄せては帰す。その音だけが響いて聴覚を支配する。そんあ静寂の中。彼は手を後ろに組んで、少し深呼吸をした。
「この鐘は、いつからかふたりで鳴らせば結ばれるなんていう、おまじないが出来上がりましたね」
「ええ……知ってる。だから……?」
気付いているけど鈍感なふりをする。彼の胸の動きが、内心の緊張を表わしている。彼が私のためにどぎまぎするなんて初めて見た。今までは、その逆ばっかりだったから。
嬉しくはあった。愛おしくもあった。
でも、その口が開かれれば、もうタイムリミットだ。
「……あ、あの……、もし……よろしければ……」
唇が震えている。
「一緒に鐘を鳴らしてくれませんか……」
彼の気持ちが私の思っていた通りだったことに、嬉しさと切なさを同時に噛みしめた。私の答えはもう、決まってしまっているから。
『その人には、その人が望むことをしてやりな。自分がどう見られたいかじゃなく、その人のために自分が何をできるかを』
私が彼の気持ちにこたえて首を振ること。それが彼の望むこと。というのはそうだ。でも、おばあちゃんが言ってくれた言葉はそんなことじゃない。それは結局は、私が思い描く空想上、思い上がりの中の彼が望むことだ。
本当の彼は、望まない。もう死んでしまった私と結ばれるだなんて。
彼女のように、自分の想い人を引きずり込むようなことを
私がするだなんて、そんなこと。彼もおばあちゃんも誰も望んでいない。
そして、私も……。
だから、だから……、私が彼にできることは……。
「……、ねぇ、手を出して」
「え……?」
脈絡に沿わない私の言葉に、まごつく彼。彼の中では、「はい」か「いいえ」のどちらかで答えられるものだったのに、私が全く別の返しをしてきたから。おどおどしたまま、右の掌を差し出す彼。私は彼の温かい手に初めて触れた。
しばらく目を閉じて、本当にちょっとしばらくの間だけ、彼の体温を私の冷たくなってしまった手で感じる。そして、名残惜しいけれども心の中で、その温もりにさよならを呟いた。
「……これが、私の答えです」
「これは……タカラガイ?」
答えが持つ意味を分かりかねている彼はさらに狼狽を強めていく。彼の次の口が開く前に、私は頭を大きく下げ、大きな声で謝った。
「ごめんなさいっ!」
「……そうですか……」
残念そうにつぶやく彼。
「今まで言い出せなくて本当にごめんなさい」
でもその後に続く言葉で、私の言った「ごめんなさい」が、自分の中で描いていたものと違う意味だったということに彼は気づく。
「言い出せなかった……? 何を……ですか……」
「私が……もう、この世の人じゃないってこと」
ひときわ長い沈黙が続いた。彼の中ではもう何が何やらという状態だったのだろう。何も言えないでいる彼に向かって、顔を上げることはできないが、彼の狼狽え様が、私が見詰める白煉瓦に映る彼の影から伝わってくるようだった。
「私、幽霊だったんです。つい3日前に車に轢かれて死んだ女の子の。生まれて一度も恋をしたことのない、可愛そうな少女の霊。……楽しかったです……。少しだけ、あなたとそんな気分になれたから。でも……もう、これで終わりです。これで終わらないと……
くるし……いだけ…ですから……。あなたも…私も……」
精一杯に笑顔をつくって歪んだ笑いを投げかける。すると、彼はいつものように私を笑った。
「あははは、じゃあお化け屋敷のバイトなんかじゃなくって。本当に、お化けだったわけだ。いい理由だ……」
両手を広げて、告白に失敗した自分ごと笑い飛ばすかのように、すがすがしく笑う。でもそんな受け取り方はしてほしくなかった。たとえ馬鹿げた話だとしても、彼には真実を分かってほしい。
彼には私の本当の気持ちを分かってほしい。
「私も楽しかったですよ。分りました。これで終わりに」
「言い訳なんかじゃないですよ」
「……、え……?」
「全部、本当です。そして、本当はあなたの気持ちに答えたいということも。でも、残念ながら死んでしまった私にはそんな答えしか出せませんでした。その貝殻に少し耳を当ててくれませんか」
言われるがままにタカラガイを耳に当てる彼。ここでいよいよ彼も、私の言葉を出鱈目と思わなくなってきたよう。
「……あなたは……」
また声が震えている。先ほどとは違う意味で。
「中から、波の音が聞こえるでしょう。私はその砂浜にいます。これからもずっと……だから、私のことを忘れないでください。私も、あなたのこと……忘れられそうにないですからっ」
そして、私の声も震えていた。きっと彼と同じ意味で。私のうるんだ瞳から涙が零れ落ちるとともに、ぽつりぽつりと陽が照りながら、雨が降り出した。私は空を仰ぎ見て、顔を濡らした。きっとその言葉を言ってしまえば、抑えられなくなってしまうから。
涙を隠すために、私はまた雨女になり、雨を降らせたのだ。
「……さようなら、……そして、ありがとう」
「待って」とそんな声がかすかに聞こえた気はしたが、振り返らずに私は、彼の前から姿を消した。ちょうどスクリーンに映像を映し出す映写機の電源を落としたように忽然と消えた私の姿を見て、彼はすべてを悟っただろう。
もう残念ながら自分から見えなくなることを選択した私には、彼の姿さえ見えないが。
私の世界には彼がいなくなり、ちょうど彼が来るのを待っていた時のようにひとりぼっちの海が私を囲んでいた。背後には、彼が一緒に鳴らそうと言ってくれた真鍮の鐘が、私と同じく待ちぼうけを喰らっている。
「……、鳴らしたかったなあ……」
ちょっとだけ後悔を吐いて、蒼い蒼い海の向こうを遠く水平線の彼方まで眺める。霧吹きを吹きかけたような、狐の嫁入りに身体をしっとりと濡らしながら。私は、自分にかけていた背伸びの魔法を解いた。あの日に目を背けた、背の低い痩せっぽちの少女の姿に私は戻り、海に向かって歌うかのように話しかけた。
「これから何をしようか。どこへ行こうか」
それに答えるように、海猫の声が木霊した。