海を見ないか
マンションの外装と同じく、くすみのない白い壁が部屋の中にまで続いている。
玄関のフローリングに上がる前の、いわゆる土間の部分には、スニーカーと、ほんの近くに出かけるときに履くようなサンダル。きちんとこちら側につま先を向けて並べられている。
そして、昨日は気が動転していて気付かなかったのだが、靴箱の上には、カモミールの香りがする芳香剤が。――似合ってないぞ。
心の中で悪態をついてやる。でもこの香りは好きだ。ジャスミンの次くらいに。だからこそ悪態をついてやる。
「今日は、服も汚していませんね」
「……、私がそんな子供みたいなことをすると?」
昨日の出会いのことなんか、棚に上げてやる。癪だから。
私の天邪鬼な態度に、彼の唇はへの字に歪むかと思えば、爽やかな笑みを浮かべる。それを鏡に映したように私が返す。すると、先ほど彼に向かって心の中でついた悪態がちょうどブーメランのように舞い戻ってきた。
似合ってないぞ。生き生きとした笑顔なんて。似合ってないぞ。
自分の心の声には耳栓をして聞こえないふりをした。それをなじるような視線が玄関先から。上目づかいでこちらを見上げるキジトラから差し向けられる。
私が昨日あわてて帰った後も、彼とずっと遊んでいたのだろうか。
最初から、彼になついてはいたものの、そこからさらに角が取れたような印象を受ける。
「もうだいぶ懐いているみたいですね、名前は?」
しゃがみ込んで、その小さな額を撫でてやろうとも思ったが、そこでまた思い出したくもないことを思い出す。すると少しだけ猫の瞳も悲しみの色を映すのだった。もっとも、私の曇った目が、反射しただけなのかもしれないが。そして、そんな曇った瞳こそ、私に相応しいのだろう。
喉を鳴らしながら、私の顔を天地させて覗き見るその仕草は、どこか私を心配しているようでもある。
教えられた名前を呼んでやると、にゃあと一声返事した。それが安らぎを意味しているか、他のなんなのか。分からないが、分らないからこそ安心できるとも思える。
「……ずっと玄関でいるのもなんか変ですし、上がりましょうか」
遠慮がちにこくりと頷く私。猫は人間の言葉を理解しているかどうか、人間側が知ることは難しい。だが、それは人の場合はどうなのだろう。所詮、彼は他人であり、私とはいろんな意味で済む世界が違う人間だ。
それでも、彼が私に感じるものは、私のわかる言葉となって私の耳に届く。それが、嬉しくもあり、同時に猫と触れ合っているときには感じなかった不安をも連れてくる。
「やっぱり、何かぎこちないですね」
「そ、そうですかね……」
はい、そうです。私はどうせぎこちないです。どう取り繕っても、あなたとは違うもの。
そう言いたいような気持もあったが、無難に濁す形の受け答えに落ち着く。わたしはどれだけ、彼の前で取り繕っていられるのだろうか。
「なんか、こういうのあんまり……慣れてないんですよ」
「少し意外ですね」
「え?」
「他意はありませんよ」
気障な言葉を振りまき、どぎまぎする私の様子を彼は、お茶菓子にでもしているのだろうか。そう考えると、つり上がる口角を隠すようにしてマグカップを傾ける彼が少し不愉快にも思えてくる。相変わらず、スプーンをマグカップに突っ込んだままで飲む。取っ手を持つ手は、自分のものと見比べてしまうほど線が綺麗で爪もしっかりと整えてある。なのに、そういうところだけは無骨だ。
そして、かちゃりかちゃりというその無骨な音が、私の心の隅っこをちょんちょんと突っつく。少しだけこそばゆい。
「それで出されたお茶にもなかなか口をつけないと?」
「……、い、いえ……。そういうわけでは……」
「少し、しつこいですか? 仕事柄他人が感じる香りというものに興味がございまして」
「仕事? お仕事は何を……?」
「官能評価士」
「か……官能……」
その言葉が自分の口をついて出てきたことに、恥ずかしくなってしまった。これまで紳士的だった彼の口からそんな破廉恥な言葉が出て来たのだから。しかし、私が感じた破廉恥は、彼の言葉によってすぐさま私自身の無知に対する恥心へと塗り替えられる。
「変な言い方をしましたね。人間の五官を使って、ものを評価する仕事です」
顔を紅くする私を、また彼は笑っている。私はこの人に笑われたのは、いったい何回目なのだろうか。
「味覚や嗅覚が主に使うものですが…、官能評価士自体は私の持っている資格の名前。本業はしがないバーテンダーで、趣味がてらに香水の調合を。官能評価士を持っていれば、どちらの仕事にせよ、自分に箔というものが付きますから……」
「……でも、紅茶の茶葉には安いものを使っているんですね」
彼の目じりがぴくぴくと動く。
「恥ずかしながら、モルトウイスキーの調達にかなり資金を裂いていてね。普段の嗜みにはあまり……、でもコストパフォーマンスで言えば最高品です。トワイニング社のティーバッグは、今やコンビニでも置いていますから」
「……ダージリン……」
ティーバッグのタグに入ったTWININGSの銘柄。おばあちゃんがよく使っていたのも、このティーバッグ。そしてダージリン。
「私のおばあちゃんもよく使っていました……」
昨日その紅茶を飲んでいた私が過去形を使うのはおかしな話だ。
「……ダージリンが好きなんですね。香りを楽しむならセイロンも標高によってウバやヌワラエリア、ディンブラなど、まるで顔ぶれや人格と同じく、実に豊かです。ウイスキーも同じことが言えます。シングルモルトは特に独擅場とも喩えられますから。これ以上話すと長くなりすぎますがね」
「……やっぱり、詳しいんですね」
「仕事ですし、好きでやってますからね。これでも好きという言葉を使っていいのかどうやら、まだ少しおこがましいとも思っていますよ。他に好きな香りとかはありますか? 花でもスパイスでも何でもいいですよ」
「ジャスミンが一番好き。その次はカモミール……、ジンチョウゲも」
「少し、私と似ているかもしれませんね。順番は少し違いますが」
似ているという言葉が少し嬉しかった。玄関先のカモミールの香りに親近感を感じていたから。ダージリンのティーバッグにも。ウイスキーのことは、お酒なんて飲んだことがないからまだよくわからない。
「香りなら、あなたも話に入っていけるようですね。分りやすい話でしたら、私がほんの数年前大学院で合成香料を研究していた時の話が。とはいっても、少し化学に詳しい方なら知っていることなのですが。インドールという化合物をご存知ですか?」
「いいえ……」
さらに、話は天然の香りから人工の香りの話になったらしい。彼は大学院に在籍していたと、そうなると年齢は少なくとも二十代後半は行っているはずだ。この私の姿が、彼には何歳に見られているのかは知れないが、私の実年齢からすれば十も歳が離れていることになる。化学の成績など理科の時点でてんでダメで文系専攻にした私だ。
そこに、化合物名がその人の口から発せられれば、いよいよ本当に遠くの世界の人のように感じられてしまう。
「研究室の教授が、歳にも反して悪戯好きでね。インドールは非常にいい香りがして、ジャスミンのように清らかな香りがすると言われて試験管の中に合成されたインドールの匂いを嗅がされたんだ。どんな匂いがしたと思いますか?」
「え? ど、どんなって……」
「女性にこんなことを言うのは失礼ですが、おならの匂いですよ」
「え?」
耳を疑った。彼の口から下品な言葉が飛び出したというのもそうだが。脈絡からすれば、インドールは花の香りの成分なはず、それがどうしておならの匂いになんてなったりするのか、理解が追いつかなかった。
「思わずむせ返りましたよ」
「じゃあ……インドールがジャスミンの香りだってのは嘘だったんですか」
「いいえ、嘘ではないです。ただ、濃度が違うんです。私が嗅がされたのは、濃いインドールで不快臭を持ちます。でもそのインドールが非常に低濃度の場合は、花の香りになる」
「へぇ……。でも、どうしてですか……?」
「残念ながら、そもそも嗅覚の仕組みというのが完全に解明できてない以上、その質問には答えられない。でも、これは事実だ」
大学院にまで行った彼ならば、質問に答えてくれると思っていた。でも、彼にもわからないことがあった。それどころか、彼がわからないことは、その教授にも脳科学者にも分りきってはいないのだという。
「そして、嗅覚というものが濃度によって繊細に支配されること。同じ組成でもその割合や、温度によって非常に豊かな表情を持つというのは、奥深い世界を端的に表す一例でもあります。私にとって、香りの世界は、クラシック音楽や絵画をたしなむようなもの。……どうです? 少し共感していただけたなら嬉しいのですが……」
でも、そのことに落胆はなかった。
むしろ、分らないということが、香りの世界の持つ奥ゆかしさを私の中で増長させていた。
まるで、蜃気楼のように揺らめくものに情緒を感じるような。そんな感覚を、今この瞬間……。私と彼は共有できたのだろうか。
淡い期待を胸にこくりと頷く。
「良かったです。仕事柄饒舌になってしまうもので」
「いえいえ……、さっきの話ですけど……」
「はい……」
「昨日話してくれた花の話にも似ていますね」
そしてさらに私が感じたことは、彼の興味を惹けるだろうか。彼の話に私が興味を持ったことと同じように。
もうひとつ淡い期待を胸に、私から彼へ話を振りかける。
「……、どういうことですか?」
「花と同じで、香りも主張が激しければ、その背伸びが痛々しくて相手を不快にさせてしまうと……」
口元を吊り上げて、目を見開くとともに顎の前に右手を添える。私と違って、彼はとっさの感情が表に出やすいようだ。私が抱いた淡い期待が実ったことが、仕草から感じられて、思わず私も鏡に合わせたように笑ってしまう。
「面白いことを言いますね」
「でしょ……?」
だから口先も鏡になる。
「少し悔しいが、言い得て妙だ」
悔しいという感情は、私が彼に対して度々感じているものと同じなのだろうか。
同じなら少し嬉しい。少しだけ嬉しい。
彼は微笑みながらも唇を噛みしめて、テーブルの上に置いてあるヒメジョオンを挿した一輪挿しに視線を向ける。
「あ……、そう言えばヒメジョオンって貧乏草って言うんですよ。摘んだり、飾ったりすると貧乏になるって」
「……え? 本当に?」
「おばあちゃんがそう言ってましたから」
「……道理で貧乏なわけだ」
彼が笑うと、私も自然と笑顔になった。
彼が私に話す話に、私は興味を持った。
私が彼に話す話に、彼は興味を持った。
その事実のひとつひとつが事実であることに、私の器のない心が高鳴った。
「……今日もありがとうございます……」
「今日も……?」
「……昨日はお礼を言い忘れていたので」
「なるほど、そうですか」
玄関先で別れのあいさつを済ませる。楽しかった。彼と共有したわずかな時間が、止まってしまった私の中の時計の歯車に、潤滑油を注いでくれたようで。だからこそ、別れは少し辛かった。昨日貸してもらった服も返してしまった。私の中に、彼の部屋を開ける鍵はもうない。
キジトラの様子を見に行くだけでは駄目だろうか。
それとも、知らないふりをしている本当の気持ちを言ってしまおうか。
そうしたら、彼はまたその鍵を渡してくれるだろうか。
「あ、あの……」
「あ、あの……」
再びふたりは互いが互いの鏡になった。同じタイミングで、同じ言葉を話しかけ、同じタイミングで気まり悪くなって口をつぐんで頬を赤らめる。鏡のパントマイムをする二人組。その余韻から抜け出せず、顔を俯けていると、彼の咳払いの後、声が続いた。
「今度……、海を見に行きませんか」
「……、え……?」
思わぬ誘いに口をポカンと開けてしまった。先ほどまで動いていた時計の歯車が、再び違った理由で止まった。記憶と意識がどこかに飛んで行ってしまったのか。私は何を口走ったのか覚えていない。ただ、視界がゆっくりと上から下に動いたことだけは覚えている。
それが表わす意味を知った時には、耳たぶに血潮が満ちて行くのを感じた。