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雨女

 部屋に戻っても、彼女が言った言葉は頭にこびりつくように残っていて消えてくれなかった。

 彼女の言動は私の中では許せないものだった。でも許せないから頭にこびりついているわけではない。彼女がそう望む、相手をこちらの世界に引きずり込む力が、私のこの手にも宿っているということに対する恐怖心。それが、彼女の不気味な薄ら笑いとともに、前頭葉のあたりを鈍く刺激する。

 額に右手を当てやって頭をもたげていると、後ろからおばあちゃんの優しい声がする。


「ごはん、できたよぉ」


 ふと我に返り、肩を跳ねあがらせる。

 おばあちゃんは、いかにも何か考え事をしていた私にあえて何も聞かずに、外に夕食を乗せたお盆を持って行った。「私が運ぶよ」と声をかける。お盆を手に取った瞬間、その懐かしい取り合わせに声が漏れた。


「あ、にゅうめんだ」


 夏の暑い時期には素麺がよく合うが、おばあちゃんはよくその素麺を温かいお吸い物の中に入れていた。湯気が少しひんやりした夜風に流されて、松茸の香ばしい香りを運んでくる。それと卯の花、出汁のよくしみた肉じゃが。麦の香る麦ごはんは炊きたてで、米粒のひとつひとつが立っている。――私の大好きな食卓。

 窓から見える空は群青色に色づき、先ほど砂浜で拾ったタカラガイの模様のような星空の中に、月がぷかぷかと浮かんでいる。窓を開けると、潮騒が響いてくる広めのバルコニー。そこに置かれた木板を組み合わせた簡素なテーブルが、今日の夕食の席だ。

 まるで夏休みにおばあちゃんと一緒に過ごした小さい頃のよう。

 口角を少し上げ、隙間の空いた上の歯と下の歯の間に幸せを噛みしめる。もう、あの道路で倒れていた少女のことなんて記憶から抜け落ちてしまっていた。頭の中は、これから舌の上で踊ることになる料理のことでいっぱいだ。


「いっただきまーっす!」


 心も子供に帰り、手を合わせて大きな声をひとつ。そして質素で可愛らしい、黒い川を泳ぐ白い鯉や、白い地に咲く、黒い花のあしらわれたお皿に盛られた料理達に箸を伸ばす。

 つるりと舌の上で泳ぐにゅうめん。

 ほろりと口の中でほどける卯の花。


 全てがすべて。優しいおばあちゃんの、優しい味がした。

 全てがすべて。私の小さい頃と同じ食卓だ。


「ねえ、おばあちゃん……」

「なんだい?」


 でも、すべてが同じなことに、少し私は違和感を覚えた。

 なぜならこの世界は違うはずだから。かつての自分がいた世界とは。どれだけ記憶の片隅に追いやっても、自分を苛んでくるあの道路に横たわる無残な少女の姿が、何よりもの証拠。


「……なんで、今のおばあちゃんの隣に、おじいちゃんはいないの?」


 そう、あの少女は他の誰でもない。飲酒運転の車に撥ねられた哀れで惨めな自分だったから。この世界は、そうしてやってきた世界。だからおばあちゃんが私と同じ席でご飯を食べている。なのに。


「ねえ、どうして……?」


 その問いかけは少し答えにくかったのか、少しの間口をつぐんだ。聞かなければよかった。聞かなければ、私はこの世界の意味を忘れて虚ろに浸っていられたのに。本気で後悔しかけたそのとき、おばあちゃんの口はゆっくりと開かれた。


「こことは違う世界にいる。ただそれだけさ」

「……、それって?」

「いつか言っただろう。貝殻の向こう側の違う世界の海のことを。それに、あんたはあんたのおじいちゃんを知らないだろう」


 ここで私に魔が差してしまった。意識の中に、彼女が乗り移るようにして私の唇をつんざいてその言葉は出てきた。


「……連れて来ようって思ったことはないの……?」


 それを口走った瞬間。かろうじて頭の中で自分と彼女を分けていた何かの隔たりが、音を立ててがらがらと崩れ落ちた。

 自分の眼球が古ぼけたガラス球のようにくすんでいくようだった。自分が自分で汚く見えるよう仕向けるように。

 ……ごめんなさい……、今言ったことは忘れて。

 耐えられない。おばあちゃんが私の言葉に応えてくれない気まずさではなく、自分の中にも彼女と同じ感情がいたということに。

 すべてを忘れてほしくて、自ら投げかけた疑問を取り下げようとした。だが、答えは返って来た。

「そんなことしなくても、おじいちゃんは一緒にいるよ。あんたは知らないから、見えていないかもしれない。でも、それは今ここに私がいることと何も変わりないんだよ」

 まただ。おばあちゃんは得意のなぞなぞを仕掛けてきた。

 私はそれを噛み潰せず、ずっと何かが口の中に挟まったかのような感触を抱いたままで、今日は眠ることになった。


     *****


 夜が明け、朝陽が昇った。目が覚めても、まだ私はこの世界にいるみたいだ。

 そして、自分の身体もあの少女よりも少し背の高い、背伸びをした姿。

 寝床から出ると、やはりおばあちゃんは一足先に起きていて、籐を編んだイスに腰掛けて編み物をしていた。変わらないおばあちゃんとの生活に幸せを感じながらも、同時にいびつさのようなものを私は感じ始めていた。


 今日は何をしようか。


 宛てのない疑問が頭に浮かぶ。おばあちゃんに、何か手伝うことはないかと漠然と聞いてみたが、ただ「遊んでおいで」と返されるのみだった。――この世界で、どこに行って何をして遊べば良いのだろうか。

 考えて出てきた答えは、題意からは外れた、ある意味で相応しくない回答だった。


 ……そうだ、キジトラの様子を見に行こう。


 貝殻荘から、もとの世界に戻るのは簡単だ。ただ単にもと歩いてきた道を戻ればいい。もっとも、誰もが通れる道ではないけれども、少なくともこの世界の住人なら誰もが通れる道だ。

 貝殻荘から少し歩いたところにある教科書の戦後の歴史で見たような、灰色のコンクリートの建物がひしめく古ぼけた街。

 そこの路地裏を何回か曲がれば、なぜか違う世界の路地裏に出てくる。

 最初は訳がわからなかったものだが、二回目では何故か少し慣れてしまっていた。


「……戻って来たなあ……」


 しみじみと呟く。本来ならば戻って来てはいけない場所なのだろうが。

 おそらくもう、あの少女は道路には横たわっていない。もと倒れていた場所には白いチョークで縁取りがされて、周りをポールと黄色いテープで囲われている。肝心の身体は、そろそろ嗚咽を漏らす親族に囲まれて布団に入っているのだろう。そんな湿っぽいものを見に行く気にはなれない。それに……。


「……これ、返さないといけないし……」


 昨日もらっていた不格好な男ものの服。

 いや、私が無理矢理着るから不格好なのであって、彼には罪はないのだが。彼は帰さなくていいなどと言ってはいたが、持っていても仕方ない。

 それに、彼にはドジを踏まなければ、気味悪がられることもないだろう。

 まさか自分がお化け屋敷のバイトなどではなく、それそのものだとは思われていないはず。

 私がここで言葉を交わして、普通に笑いあえるのはおそらく彼だけだ。 


 彼だけ……。そう、彼だけ……。


 なぜだか、その言葉を頭の中で繰り返してしまう。ちょっとこそばゆい感触だ。うわの空で短い信号の横断歩道を歩く。

 だが私はとんでもない不注意を犯していた。いや、別にそれが何か支障を及ぼすかと言えば及ぼさないのだが。

 本当に狭い、車がやっと一台通れるような幅の道路で交通量も少なそうだったので油断してしまっていた。私が渡った時には、赤信号でちょうどその幅に目いっぱいの軽トラックが右折のウィンカーを点滅させながら出て来たのだ。

 車体は、荷台に積んでいた荷物とともに私の身体にめりこんだ。私は一瞬の間、トラックの荷台から生えているような状態になった。でも、そのあとは何事もなかったかのように、トラックは無事に右に曲がって大きな道路に入り、去って行った。

 そっと胸を撫で下ろすとともに、自覚する。

 私は、本当はここにいてはいけない存在なのだと。彼に逢いに行く資格なんかないのだと。自覚とともにあの彼女の言葉が頭の中で反響する。


『だから、あなたも、そう思う人ができたら連れてきちゃえばいいのよ。望めばそれくらいのこと、あたしたちはできる存在なのよ』


 なんでこんなときに、あの嫌な女の言葉なんか浮かんだのか。私は可愛いキジトラの猫を見て、この男ものの服を返しに来ただけなのに。それだけなのにどうして、こんな嫌な気分にならなければいけないのか。

 悔しいから、すべて嘘だと思うことにした。私のこの手には、そんな薄汚れた力はないのだと。ほんの悪戯心で電柱に止まっていた一匹の蝉に向けて手を翳す。


 バシッ……。


 そんな音が鳴った気がした。

 虫の細い脚の線維が引きちぎられる音だった。

 目の前で猛々しく鳴いていたそれは、昆虫館に展示されている胴体をピンで貫かれた標本と同じく――あの少女と同じく――魂の抜けた屍となった。

 太陽の光で温められた歩道のコンクリートタイルの上に、乾いた音を立てて転げ落ちる。

 私はそれを見送らずに、必死に走った。どれだけ逃げようと身体にしがみついて来る現実という存在から、無謀にも逃げ去ろうと。必死に、必死に。


 私のせいじゃない。私の……、私の……。

 私のせいじゃない……。


 呪文を唱えながら無我夢中で走り、壁に手をついて肩で息をする。

 ヨーロッパのどこかの街のような、白い漆喰で塗り固められた壁。まだ新しく、くすみのない白で統一された六階建てという高いとも低いとも言えないマンション。

 そこが彼の家。そんなに頭を働かせて、記憶を手繰りながら来たわけではない。なんとなく走っただけなのに、なぜだか着いてしまった。

 まるで何かが、私をここへ引き寄せているかのように。


 どうしよう……。


 そして、ここまで誘われていながら、私の心に迷いが訪れる。きっと彼は私のことを、ただの普通の人として扱ってくれるはず。キジトラのあの猫だって、‘あらぬ’私を見て、毛を逆立てて威嚇することはなかった。

 それでもマンションのエントランスに踏み入るのに、二の足を踏んでしまう。

 頭の中では、先ほどの、小さな命が地に落ちた時の乾いた音が、周波数を変えながら何度も何度も響いていた。ちょうど、暗くて狭い洞窟の中で石を投げたように。

 晴れ間だったところに、どす黒い雲がやって来る。

 ぽつりぽつりと雨。さんさんと陽の光。

 相反するものが降り注ぐ空は、心の迷いを表わす。

 この奇妙で不断な天気は、狐の嫁入りとも言われる。――どうやら私は、雨女にでもなってしまったようだ。

 ぽつぽつとした雨は、まるで流れ弾のように強まった。晴れながら降る雨に、この急激な変化は珍しいことではない。


「……おや、また雨の日に会いましたね」


 でも、その声が後ろから響いとき。私に彼の傘の影がかかったとき。

 雨が少しだけ弱まった。雨粒に込められた大地を打ち鳴らす息吹は、私の心の中にひっそりと宿った。器のない心に水はたまらない。それでも、それでも良かった。

 昨日と同じ、私に傘をさすその声が聴けるなら。


「……返しに来たの。この服……持ってても意味がないから」

「あげると言ったじゃないですか。僕だって着なくなった服をあげたんですよ。まあ、返しに来たのなら受け取ります」


 今なら降って。今こそ降って。

 私の言葉を天が受け取って、雲の上に置いてあったバケツをひっくり返した。


「……この雨です……。また雨宿りしますか?」


 彼の言葉に、ばれない様に微笑みながら首を控えめにこくりと上下に動かす。


 そう、私は雨女だ。

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