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薄汚れた力

 階段を三階上がって、二番目の部屋。三〇二号室に私は案内された。

 中に入ると懐かしい香りがする。おばあちゃんが好きでよく使っているジャスミンの芳香剤だ。本当に、帰って来たという感じがする。それはとても奇妙なことなのだけれど。


「ほうら、紅茶を入れたよ」


 ポットに沸かしてあるお湯で紅茶を入れてくれた。小さい頃は苦くて渋くて飲めなかったけど、いつも出されるからなんだか矯正させられた。

 むしろ今は好きなくらい。でも気にかかることがひとつ。


「あの……、私は……」

「大丈夫さ。この世界で出されたものなら飲むことができるからさ」


 その答えを聞いて安心した私は、マグカップに注がれた紅茶から、ティーバッグを取り出し、口に含む。茶葉の香りが喉の奥から鼻に抜けるよう、清涼感のある苦味と、どこか安らぎのある渋味。


「おいしい……」


 しみじみと染み入るように口から漏れた言葉に、おばあちゃんは優しく微笑んでいる。本当に変わらない、変わっていない気がした。ふと、自分が取り出したティーバッグのタグが目に入る。ダージリンと書かれていた。

 そういえば、あの人が出してくれたのもダージリンだったなあ……。


「にしても、あんた変な格好してるねえ」

「えっ……」


 思考に耽っているときに突拍子もないことを言われて、肩がびくんと跳ね上がる。彼のことを考えているときに、まさにその彼に関する話が出て来たということだから、びっくりした。


「こ、ここに来る途中で……、服が雨に濡れてびしょびしょになって……」

「男ものを無理やり来てるみたいだけど」


 一目見ればそうとわかる。だぼだぼのシャツの、伸ばせば手の甲まで隠せてしまう袖を捲り上げているのだから。そんな当たり前のことだが、言われるとなぜだか耳元がこそばゆく感じる。きっとまた紅く色づいているのだろう。


「その人に厄介になったんだね」

「……、……」


 言葉を失った。正確に言えば言葉はあったのだろうけど、あまりにも自分の行動を言い当てられすぎて。おばあちゃんの勘の鋭さに――知ってはいたけれど――心が白旗を上げてしまった。


「優しい人だね、その人は」

「……、でもちょっぴり軽かった」


 言い当てられて悔しいから少しだけ強がってみた。鼻にかけた笑みを浮かべて。


「男が考える気さくってのは、そういう風に見えるもんさ。そんな態度をとるのは、あんたが可愛いと思われてるからかもしれんよ」

「なっ……、そ、そんなわけっ!」


 鼻にかけた笑みが、今度は鼻につんと来るようなこっ恥ずかしさに変わる。取り乱し、大きな声を上げてしまう。自分をごまかすべく、慌てて紅茶を一気に飲み干して気を紛らわす。

 おばあちゃんはそんな私の様子を静かに笑った。


「さっ……、そろそろご飯の支度をしようかねぇ」


 籐を編んだ椅子に腰かけていたところから、膝をはらって立ち上がり、台所に向かうおばあちゃん。

 「手伝おうか」と声をかけたが、それよりも「外に出かけておいで」と言われた。「こんな雨の中どこに」と言おうとしたが、バルコニーの向こうには、紅く焼けた雲一つない空が広がっていた。

 先ほどまでの雨は嘘のように止んでいたのだ。

 不思議だった。おばあちゃんと少し話しただけで、心も空までも雨雲が吹き飛んでいたのだから。


     *****


 砂浜の砂には、まだ雨の湿りが残っている。まるで粘土のような粘りを持って、スニーカーのゴム底の溝に食い込んできた。歩くたびに泥でできた板が靴底にまとわりついて、それが風と重力にさらわれて、砂浜へと帰る。その様子を密かに楽しみながら、海岸線を歩く。少しだけ控えめに楽しむ。さっきのように、また誰かに見られていたら恥ずかしいから。


「そうだ」


 一言呟いて、しゃがみ込んで砂を指先で掘り返す。

 爪の間にひんやりとした濡れた砂が入り込む。その感覚を楽しんでいるのではない。貝殻だ、貝殻を探している。右手につけている、おばあちゃんのミサンガの飾りに負けないくらいの綺麗な貝殻を。


「……あっ……」


 数cm掘ったところでそれは現れた。可愛らしいレモン型のフォルム。群青色の夜空に瞬く星をちりばめたようなまだら模様。


 タカラガイだ。


 口角がくいっと持ち上がると、それが歯車を入れ替えるようにして、両の手の動きを加速させる。


「あった!」


 かぶっていた砂を払い落とし、露わになった夜空を、少し前の蒼い蒼い夕暮れの終わりにかざす。

 まだ残る陽と、始まった月明かり。ふたつの光輪が艶やかに、その夜空を照らし出す。


 綺麗だ。


 素直にそう言えて、それでいて足りない、と心から思える。

 瞳を輝かせて、噛みしめるように、瞼を閉じる。夜空を握りしめて胸元に押し抱いて、ゆっくりとたち上がる。――ふと背後から声が。


「綺麗な貝殻ね」


 また話しかけられた。それも、悪く言えば年に似合わない、よく言えば童心にかえってはしゃいでいるようなときに限って。

 後ろを振り返ると、私より幾分か大人びた女性が悪戯っぽく微笑みながら立っていた。目鼻立ちが整っており、悔しいが美人だ。

 でもどこか薄気味悪い、ミステリアスというか、どこかつかめないような雰囲気が漂う女性だった。


「あ、あなたは……?」

「あたし? あなたと同じよ。つい最近こっちに来た哀れな女……」


 自分のことを薄ら笑いながら「哀れな女」と形容する彼女。その瞳は悲しみで濡れていた。確かに、この世界にまだ綺麗と言われるような年頃でやってくるということは、お世辞にも幸せだとは言い難い。事実、私もそうなのだから。でもどこか、それだけが理由とは言えないような悲しみだった。彼女の瞳を濡らしていたのは。


「一緒に探さない? あたしの彼も貝殻を集めてたからさ。きっと喜ぶと思うんだ……」

「……彼って?」

「向こうの世界にまだいるのよ」


 愛する人を置いてきたからだろうか。いや何だか違う気がする。私は彼女が笑うと、恐怖を感じた。

 ミステリアスで何を考えているのかわからないようなところはある。でもそういう得体のしれないものに対する恐怖じゃない。何かもっとはっきりとしたものへの恐怖だ。

 でもその正体がわからない。

 でも、それは次の彼女の一言ではっきりとすることになった。


「もう少ししたら、こっちに連れてくるからさ。そのときに渡そうと思って」

「……え……」


 一瞬、分からなかった。彼女の言っていることが。というよりも分りたくなかったのかもしれない。


「な、なにを……言ってるの……?」

「え? あなたには、そう思う人はいないの?」

「そう思うって……?」

 何を彼女は、とんでもないことを言っているのだろう。

「……ずっと一緒にいたいと思える人よ」

「で、でもそれって……」

「大丈夫よ。彼もこっちに来たがっている。あたしがいなくなったことで、すごく悲しんでいるんだもの」


 そう言って、またあの掴みどころのない笑みを漏らす彼女。まるで自分の禍々しい感情を正当化するかのように。自分の手に帰らないものを羨ましがるだけの感情を都合のいい解釈で美談に仕立て上げる彼女の言い分に、私は虫唾が走った。


「そ、そんなこと……ダメですよっ! それって、それって……あなたの大切な人を……」


 彼女の言葉は間違っている。私も、雨の中、米屋の軒先で段ボールに入っていた猫を見たとき、同じような感情が沸き起こった。いや、誰しもここに来ればその感情にほだされることにはなるのだろう。だからこそ彼女が許せなかった。


「なんで? 一緒にいようっていう約束を彼は破ったのよ」

「で……でもっ……」

「どうしてそんなに、あたしを否定するの? 心中は純愛のセオリーよ。それに……結ばれない恋なんてしたって仕方ないじゃない」


 でも許せなかったのに、彼女のその言葉を聞いたとき、私は反論する言葉を失った。彼女の瞳が、私の口を眼力で抑えつけているようだった。


 「あたしから彼を奪わないで」という強い想いがひしひしと伝わってきた。

 そして彼女はそれが、ふたりが幸せになれる唯一の方法とでも考えているかのようだった。彼女の捻じ曲がりながらも強い思念は、私の脆弱な正義を打ち破ることになる。


「だから、あなたも、そう思う人ができたら連れてきちゃえばいいのよ。望めばそれくらいのこと、あたしたちはできる存在なのよ」


 私のこの手にも、そんな薄汚れた力があるという真実を現したその言葉で。

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