貝殻荘
来てしまった。なぜか来てしまった。いいや、もう言い訳をしよう。
私は猫が気になったんだ。猫がちゃんとこの人のところで幸せに生きて行けるか。その適性検査をしに来たんだ。
ぶるるるる……、ぶるるるる……。
えらく機嫌が良さそうに、膝の上なんかに乗って……。
こいつ、動物の扱いがうまいのか。
部屋は小奇麗にしてあり、キッチンもひどく片付いている。なのにフライパンには取れていない焦げ目があったり。自炊で使い込んでいるようだった。食卓には、一輪挿しが置いてあり、ヒメジョオンの花が何本か挿されていた。
「風呂も借りていいんですよ」
丈の合わない半ズボンと白シャツ。あとずり落ちないようにするベルトをもらった。――本当にこいつ、何を考えているんだろう。
それを受け入れている私も私だけれど。
おまけに風呂まで借りてもいいと。――なんだか馬鹿にされた気分。
「……結構ですっ」
言ってやった。結構強気な調子で。
「あっはははは、他人の家の風呂なんて借りられませんってわけか。もう服はもらって着ていますけどね」
「……あんなびしょ濡れの服で上がられたら、そっちも迷惑でしょ。優しさで着てあげてんです。この格好にハイヒールだなんて考えただけでもダサダサよ」
なんでこいつ、人懐っこく笑ってなんかいんのよ。
こいつというより、なんだかこいつのペースにまんまと乗せられている自分に自分の腹が立つ。
やけに座り心地のいいソファーに向かい合って座る。
立ち上がって、やかんからティーバッグを入れたマグカップに湯を注いでくれた。私がトイレで着替えている間に湯を沸かしていたらしい。
「で、どうして傘があるのにあんな濡れていたんですか」
目の前にマグカップが置かれる。マグカップの中でティーバッグからすこしずつ茶色い色素が滲みだし、螺旋を描いてゆっくりと溶けていく。ティーバッグから伸びた紐には、ダージリンと書かれたタグがついている。
投げかけられたのは、実に返答に困る質問だ。ありのままを話して楽になろうか。
「ちょっと……、はしゃぎすぎちゃって……」
「あっはははは」
「わ、笑わないでください」
いいや、冷静に考えれば笑わないなんて無理な話だ。私は十七歳の年頃の少女。今の見た目だともっと上に見られているのかな。
「仕事はどんなことを?」
そんな話題を切り出されるくらいだから。
そんな年頃の女性が、雨の中ではしゃぐという、十もいかない子供がするような行動をやれば、攻められても反論はできない。
「おば……」
「え?」
「あ、違います……。お、お化け屋敷のバイトを……」
そしてまた、こいつは私のことを笑う。そしてまた、私の発言も笑われてしかるべきものだ。――いくらなんでもその言い訳は稚拙すぎる。
自分に自分で呆れたため息をつくと。さらに厄介な質問がとんでくる。
「……紅茶……、嫌いなんですか」
「……え……そ、その……」
「なんならお湯も余っていますしコーヒーもあるんですよ」
返答が思い浮かばない。正直に言ったら、どんな顔をされるだろうか。
ちょうどこいつに話しかけられたときと同じ感覚。肩と唇が震えだす。
そうだ、話題を変えよう。文字通り、お茶を濁そう。
「あ、あのっ!」
「ん? どうしたんですか?」
第二ボタンまで外してシャツをはだけさせて、細い首を少し右に傾ける。その振動が伝わるようにして、右手に持ったマグカップに入れたスプーンがかちゃりと音を立てる。
マグカップにスプーンを突っ込んだまま飲んでしまうタチらしい。
「ヒメジョオン……好きなんですか」
とっさに思い付いた話題がそれだった。また、笑われるだろうか。笑われるだろうな。
静寂の中、キジトラの喉を鳴らす音が聞こえる。それくらい静かな時間がちょっとだけ続いた。
「ああ、好きですよ」
「……え……?」
「小さな花だからね……。大きな花は派手で、背伸びばかりしていて、私を見てくれっていう主張が激しい。とくに草丈に似合わないくらい大きな花をしているものは。そんなものより……」
ダイニングテーブルの一輪挿しに揺れるヒメジョオンを眺める彼の横顔は、目鼻立ちがきれいだった。細い首筋に、遠慮がちに突き出た喉仏。
手入れの行き届いており、剃りのこしのない滑らかな顔の肌。
「草丈ばかり大きくて小さい花を咲かせるほうが、ずっといい。“私は不恰好だけど精一杯咲いています”と訴えかけるようでね。――そんな背伸びをしない健気さが僕は好きだ」
私の瞳は彼を見つめていた。
「さ、あなたの質問に答えたんです」
「え……?」
「お飲み物、なににしますか?」
「ご、ごごごめんなさいっ!」
急いで部屋を出てしまった。逃げ出したかった。
逃げ出したくて無我夢中でマンションの階段を五階分駆け下りた。一階にたどり着き、コンクリート製の廊下に膝を立てて肩で息をする。運動部をしていないせいですぐに息が上がるのか。――いいや、今はそれよりももっと別の原因がある気がする。
とにもかくにもここを出よう。すくっと立ち上がり、膝をはらったところであることに気が付く。
「あ……、お礼を言うのを忘れちゃった……」
気味は悪かったが、いろいろ優しくしてくれたことは確かだ。
そしてもう一つ確かなことは、彼がいわゆる、『見える人』だったということだ。
「……この格好で帰るのか……」
改めて自分の格好を見ると嫌気がさしてくる。だぼだぼの白シャツに、だぼだぼの半ズボンをベルトで無理くり締めている。そして、足元には慣れないハイヒール。小さい頃によく遊んだ着せ替えイラストを思い出す。まさに取ってつけた様な格好と言ったところ。
「……で、帰るってどこに……?」
静かにぼそりと呟き、右腕につけている貝殻のあしらわれたミサンガをまじまじと眺めている。私がまだ小さい頃におばあちゃんが作って私にくれたものだ。
今なら、おばあちゃんに会えるのかな……。
すると、携帯電話の着信音が。あたりをキョロキョロと見回すが、やっぱり紛れもなく私の服の中から鳴っている。携帯電話なんて置いてきたはずなのに。ポケットに手を入れると見慣れない携帯電話が。真っ黒いシックなデザインの、半ば時代遅れのガラケーと言われるものだ。男ものかとも思うが、さっきの彼に渡された時には、こんなものが太ももに当たっている感触はなかった。携帯電話を開く。かけてきた主の名前を見て驚愕する。
「おっ、おばあちゃん!?」
誰のおばあちゃんだろうか。まさかとは思うが、自分の。
「もしもし、あんたかい?」
そのまさかだった。じゃあこの身に覚えのない携帯電話は私のものだとでもいうのだろうか。私の物を私が覚えていないないなんて。それも携帯電話という頻繁に使う代物を。
「こっちに来たんなら、早く言ってくれよ」
「……おばあちゃん……」
「大丈夫かい? わからないことだらけで不安じゃろ? 私のとこへおいで……」
「……本当に……おばあちゃんなの……?」
「ああ、そうじゃよ。まさか私の声忘れたんじゃないだろうねえ」
忘れてなんかいない。忘れているわけなんかない。
でも“さっきまで忘れていた事実”が同時にまざまざと突きつけられたようで、胸がきりきりと痛み出す。目を背けていたあの少女の無残な姿が頭の中に思い出されると同時に、膝を抱えて泣き崩れた。
「ごめ……んなさい……、ごめんなさい……」
嗚咽を漏らし、着せてもらったばかりのシャツを涙で濡らす。外に開けていた階段から横殴りで雨が私に向かって降り注いでいるようだった。風なんて大して吹いていなかったのに。
「……謝るなんて必要ないだろ? 私を追いかけて来たってんなら謝ってもらうけどさ」
「……飲酒運転だった……」
「そうかいそうかい。とにかく私のところへおいで」
でもその声は優しかった。濡れた私を、陽だまりが温かく乾かしてくれるかのように。やっぱり、おばあちゃんは変わらなかった。おばあちゃんは、おばあちゃんのままだ。
でもどうやって、おばあちゃんのところへ行けばいいのだろう?
おばあちゃんの家はもう引き払ってしまった後だ。
そう伝えると今度は、携帯電話が入っていたのとは反対側のポケットを探ってみなさいと言われた。紙だ。また見覚えのない紙が服のポケットに入っている。どこかのアパートの場所がある地図のようだ。地図にはそのアパートの名前が、おばあちゃんの字で記されていた。
『貝殻荘』
*****
「ここかな……」
降りしきる雨に傘をさしながら、どうにかたどり着いた。固いピンヒールでは足が痛くてどうにかなってしまいそうなので、途中でスニーカーにした。
『そんな背伸びをしない健気さが僕は好きだ』
……。なんで彼……いや、あいつの言葉が思い浮かんだんだろう。
首を左右に振り、アパートに入る。たしか地図に書いてあったのはここの三〇二号室だ。アパートの部屋の玄関ドアが立ち並ぶ側からは海が見える。雨のせいで濁ってはいるが、おそらく晴れているときは青く綺麗なのだろう。雨のにおいに混じって潮の香りがほのかにする。
寄せては帰す波の音に、かつておばあちゃんからもらったあの言葉が。
海岸沿いの砂浜をおばあちゃんとふたりで歩いたときのこと。
***
「……ほうら、綺麗な貝殻だろ」
波と戯れてばかりいる私に、おばあちゃんは砂浜から掘り起こした貝殻を渡した。沈みかかった陽を紅く跳ね返す、瑠璃色の巻貝だ。
「耳に当ててごらん」
ひっそりと瞼を閉じて、貝殻の中の螺旋階段を上っては降りる風の声を聞く。それは波の音に似ていた。貝殻から香ってくる磯の匂いがそう感じさせるかも知れないが。
「……おばあちゃん、海の音がするよ」
「それはね、遠い海とつながっているからだよ」
「え……?どこの?」
ワクワクしそうな答えに、私は貝殻から耳を離し、おばあちゃんの顔を見上げる。おばあちゃんはしゃがみ込んで私に向かってにっこりと笑いかけた。
「向こう側の世界の海さ。だから貝殻を持っていたら――たとえ、離れていても、いなくなっても貝殻の中の海を通して、いつでも傍にいられるんだよ」
「本当にっ!?」
「ああ、本当だよ」
「そっかー、だからおばあちゃん、いつも貝殻のミサンガつけてるんだね。
ねえねえ、その中には誰がいるの?」
「そうさねえ、おじいちゃんがお前を見てかわいいと言っとるよ」
「本当に? ねえねえ、私にもこの貝殻で作って」
***
そうして作ってもらったのが、今も右手に巻いてある貝殻のミサンガ。
本当ならあのときと同じように夕日に照らしてみたほうが、ずっと綺麗なのだが。曇天の今では仕方がない。
「あら、意外と早かったんだね」
後ろから思い出の中と同じように優しい声が聞こえた。
「お、おばあちゃん……」
振り返るとそこに、あのときと変わらない姿のままでそこにいた。
七年間本当に会いたかった。ずっとずっと……。あのときは見上げていた肩にがばりと同じ高さで抱き着く。するとおばあちゃんも私の背中に優しく手を回してくれた。不思議と温かさを感じる。私がよく知る暖かさだ。
「……大きくなったねえ……」
しみじみと呟くおばあちゃん。会いに行くたびに言われていた言葉だ。でもその次におばあちゃんは、なにか読めないような表情をした。
「……少し、背伸びをしているね……」
「え……?」
「もう、誰かに見られる必要はないのに……、見られよう。見られようとしている。違うかい?」
「お、おばあ……ちゃん……」
「それとも……、誰か見てほしい人でもできたのかい?」
そう言われたとき、口がポカンと開いてしまった。
鏡がないのに自分の顔が紅潮するのを感じる。頬の皮膚の下を流れる川に赤い血潮が満ちていくよう。
そんな様子を見て、おばあちゃんは私のすべてを悟った。そして小言をひとつ。
「……その人には、その人が望むことをしてやりな。自分がどう見られたいかじゃなく、その人のために自分が何をできるかを」
おばあちゃんが言った言葉は、少し難しかった。
あのときと同じだ。あのときから変わらない。
いつもおばあちゃんは、本当にあとちょっとのところで分りそうだけど、分かりきれない言葉を言ってくる。そしてそれを尋ねると決まってこう返す。
「そういうことは、自分でわかったほうが身に沁みるだろうさ」
答えにはなっていない。いつも答えは自分で探せと言われる。
「さ、早く部屋に入りな」
ともかく呼ばれたので部屋に入ることにした。――その答えはきっと、今すぐには分らないのだから。