出逢いは雨空の下
おばあちゃんの髪は白かった。もとから白かった。――でも、初めてだった。腕や顔まで青白いのは。
その日のおばあちゃんは、布団の中に入って仰向けに寝ていた。寝相の悪いおばあちゃんだもの。仰向けでじっとなんてしていられるはずはない。
でも動かない。寝返りを打ってくれない。
認めたくない。認めたくないけど、どこか心の中で分かってしまう自分が憎い。
「ねぇ……おばあちゃん、教えてよ。ねぇ。人は死んだらどこに行くの? 教えて……くれた…ら…さ。逢いに行くから……」
そう言っても、泣きじゃくっておばあちゃんの肩を揺さぶっても、おばあちゃんは答えてくれない。
当りまえのことだけど。それでも答えてほしかった。
その唇がかすかに動いて、皺だらけの顔がにっこりと優しく笑って、それでそれで……、あの優しい声が聞こえるのを待っていた。待っていたかった。
でも私の願いは叶わなかった。
「……どこにも行かないよ」
隣から声がした。でも隣には誰もいない。周りを見渡しても、動かなくなったおばあちゃんを囲んでお父さんやお母さん、そして親戚のみんなが、顔を畳の床に向けて暗い顔をしているだけ。
そしてもうひとつ。私にはわからないことがあった。
その声が、まぎれもなくおばあちゃんの声だったこと。
でもおばあちゃんは、もう動かない。――でもおばあちゃんの声は聞こえた。
もちろん、唇が動くところは見ていない。――でも聞こえたんだ。
「でもそれを知ることができないから、みんな……。どこかに行ったんじゃないかと思うんじゃよ。何かが聞こえても、私の唇が動いていないんじゃあ、そう思うじゃろ」
頭の中にある時の知らない声が響くことはよくあること。それが、死んでいったものの言葉だとは、どこかで聞いたことがある。いいや、それも死んでいった誰かさんが言った言葉なのかもしれないけど。
とにかく、そんなことがあったのは小学四年生になって三ケ月がたったときのこと。
そして、それから七年の月日が経った今。
この物語は、始まることになる。
始まるというよりも終わってしまったに近いけど、この物語は終わってから始まるようなものだから、始まるということにする。
その日も雨が降っていた。本当にうるさいくらいにざあざあと。
昼間は晴れていたくせに。陽が傾いたかと思うと、その太陽の上にバケツが乗っていて、それがひっくりかえったのか。そんな雨がざあざあとどしゃ降る。雨がよく降る初夏の終わりで、夏の始まりの季節。台風かそれとも熱帯のスコールか。最近のテレビニュースは、この季節の雨を後者のスコールだ、スコールだ。日本は地球温暖化でおかしくなった。そう騒いで、二酸化炭素を出さないように節電、節電と呼びかける。
でもそんなもの至極私にはどうでもいいことだ。
もう私は、口から二酸化炭素を吐き出さない“省エネ”な存在になったのだから。
「これから何をしようか。どこへ行こうか」
私は道路に横たわる少女にそう呟いた。でも返事は帰ってこず、相も変わらず道路のど真ん中で迷惑にも横たわるのみ。私は返事を聞くことを諦めてすたすたと。いやすたすただろうか。
かつんかつん。こつんこつん。
私は固いヒールなんて履いたことない。でも今なら履けたりするのだろうか。
私は背伸びをしてみた。あの少女みたいに背が低い女の子は少し嫌だから。背を伸ばしてみた。そうだな。百六十センチを少し超えるくらいがいいかな。そうすれば低すぎないし、男の人に可愛がってもらえるのにちょうどいい高さだ。そうすればきっと私にもきっと……。
そうだ。おしゃれな傘を差そう。スミレのように紫がほのかに混じった薄い青に、うっすらと桃色の香る白のラインがあしらわれた傘。それをくるくると回しながらなら、この雨の中だって気分がいいはず。私は水たまりどころか、もはや川となってしまった道路の上を、憧れていた固いヒールを履いて歩く。
こつんこつん。かつんかつん。
いいや、今は川の上を歩いているんだ。
ばしゃりばしゃり。ぼしゃりぼしゃり。
そんな感じの音も、頭の中で足音の後に付け加えよう。
きっとそういう風に聞こえるはず。――聞こえるはず。
うすうす気づいている。気づいてはいる。この雨は心の中を現したものだって、でも気付きたくない。無理やりにでもテンションを上げてやる。慣れないスキップをしてばしゃりばしゃりと水たまりをけっ飛ばしてやる。思いっきりずぶ濡れではしゃいでやる。
そう、想像した。そう……想像した。
少しはしゃぎ過ぎただろうか。
きっと昔なら息が荒くなっていただろう。身体が今の何倍も何倍も重たかったから。いやそういう意味じゃない。私は別に太っていたわけじゃない。
「少し休憩っ」
降りしきる雨は一向にやむ気配というものがない。むしろより一層、雨脚を強めているかのようだ。道路を覆う川はより深さを増して、七センチのヒールなんて越えて水が足を濡らしそう。――もう関係ないけど。
関係ないから、この雨の中道路に直に座り込んでやる。どうだ、これはなかなかマネできないだろう。――そう、関係ないんだ。
心の中で、自分でもびっくりするくらい憂鬱な声で呟く。一応クラスでは明るいつもりでいたのに。そして先ほどから独り言も、心の中の呟きも分ける必要はあるのだろうか。どっちも一緒じゃないか。どっちも。だって私は……。
にゃぁご。にゃあにゃあ。
そんなことを考えていると、雨音に混じって声がする。猫だ。可愛い猫の声がする。どこからだろう。あのシャッターの下りた米屋の軒先の下に置いてある段ボールだ。近づいてみると、綺麗なまん丸の目をしたキジトラだ。
夏が近いとはいえ、庇があるとはいえ、この雨の中ではきっと弱ってしまう。
でも今の私には何もできない。この小さな命を撫でてやることすらさえも。少しだけ恨めしく感じた。目の前で甘えた声を出して、慈愛を乞うその姿が。でも、そんな汚い心にほだされたくはなかった。
「その猫捨てられてたんですか」
「おわぁああっ! な、ななななななにっ!」
あまりにも突然のことで、私がこんな表現を使うのもおかしいが、心臓が止まってしまおうかという勢いでびっくりした。肩がびくりと跳ねあがり、ひっくり返ってすってんころりん。シャッターに頭をぶつけて金属製のシャッターがじゃらんじゃらんとやかましい音を立てる。それでも冷静になれなくて、荒い息をしながらじりじりと後ずさり。
「な、何をそんなに怖がってるんですか」
怖がってるんですかだって。むしろなぜ、こっちをこの男は怖がらないんだろう。どうして私に堂々と話しかけることなんてできるのだろう。すべてが不思議で怖くて、怖くて怖くて仕方がたなかった。
「ほうら、立ってください。服も雨に濡れて泥だらけじゃないですか。せっかくきれいな服を着ているのに」
私に向かってやせっぽちの腕を差し伸べる彼のことが。骨ばっていて、たくましはあるけれどけれど、どこか頼りない。屈強とはいえない体躯。
「ほら、早くしないと風邪ひきますよ」
恐れのあまり、唇を震わせながら首を左右にふる私に、なおもその手は優しく伸ばされていた。――この人は本気で言っているのだろうか。
ごくりと出るはずのない唾を飲み込み、からからに乾いた口を開く私。
「な、何を言ってるんですか。あなたには私がどう見えているんですか! 自分でもわからないのに! ……どうして私なんかに話しかけるんですかっ!」
自分でも何がなんだかわけがわからず、とっ散らかったような言葉を乱暴に言い放ってしまった。でも、これで良かったのかもしれない。これでおそらく……。
「……少し落ち着いて話しませんか」
「えっ……」
でも、また結局耳を疑いたくなるような言葉が、彼の口から放たれた。私のことを拒絶して欲しかったのに。
この人は相変わらずだった。
「家も近いんです。そんな汚れた服じゃ、店にも入れてもらえませんから」