6
皆がオーレリアを愛していた。
父。兄。クラリッサに、使用人たち。領地に降りることは少なかったが、領民の誰もがうつくしいオーレリアを誇らしく思っていた。愛される少女。その中で、ただ一人だけ、別の感情を持って、現れた男。アレン・ホワイト。彼の存在が、閉じた世界を打ち開く、その予感に震えたときから、彼はじわりじわりと、伯爵家の日常へとにじり寄った。そして、もうすぐ一年が経つと言う頃には。
「……お兄様の、友人だと言うのは、本当だったのね」
彼の存在は、伯爵家にとってあまりに当然になっていた。
「何を、今更」
その日。兄との鷹追いを終えたあと、テラスで優雅に紅茶を飲む青年に、クラリッサは問いかけた。
兄との友好関係から、彼が伯爵家を訪れることが増え、その姿は、もはや屋敷に馴染みつつあった。料理人はアレンの好みを熟知し、メイドたちは彼の訪れを心待ちにしては、頬を赤くし息をつく。彼が現れてから、間違いなく屋敷は活気づいていた。
「だって、絶対嘘だと思ったのよ。年が、違いすぎるわ」
すると、彼は意外ですかと、肩をすくませた。当然だ。兄とアレンは、十以上年が離れていた。
「友人であることに、年の差など関係ありませんよ。ただ、互いに敬意を持つだけだ」
「うふふ、あのお兄様相手に、敬意、ねえ……それで、どのように近づいたの?」
「クロード様が卒業したパブリックスクールに、私が通っていたのです。学校の先生方が引き合わせてくれたのですよ」
彼の言葉が正しければ、つまりは、オーレリアに見捨てられ、行き場のなくなった少年は、学校に通うことができたという。それだけの道筋をただの少年が持つはずがない。彼が教育を受けることができたのは、男爵家の力だ。
「クラリッサ様」
かつと陶器が触れる小さな音が場を制する。カップをソーサラーに置いて、彼は空の瞳をクラリッサに向ける。
「何故、私の正体を、オーレリア様に告げないのですか?」
「あら。あらあら、何故、言う必要があるのかしら。オーレリアは、あなたのことなど、欠片も覚えていないのに。ねえ、アレン。アレン・ホワイト。それに、その答えは、あなたも知っているでしょう。あなたの内にも、あるでしょう」
アルヴィン・ランスター男爵。ただの浮浪児だったはずの、少年。盗人の烙印を押され、オーレリアに追放された、子供。彼について、調べさせた。
「あなた、おじいさまが、憎い?」
七歳――オーレリアと出会うまで、彼の幸せは実の祖父によって、踏みにじられてきた。
「…………憎い? まさか」
ことさら明るい笑みを浮かべ、彼は何でもないように、笑う。
「憎くないはずがないでしょう……あいつは、母を娼婦と呼んだ」
くすりと笑うその唇が自然でも、彼の目だけは爛々と輝いていた。そしてアレンは吐き捨てるように、彼の出自を語り始めた。監禁と、そんな言葉を使って、彼は祖父を冷やかに罵った。そして、吐かれる言葉はやがて感情を乗せて勢いをましていった。
「囁かれ続ける、老人の怨嗟の声。祖父は父を愛していましたが、父が使用人と駆け落ちしたことは決して許さなかった。父を裏切り者と呪い、母を罵倒し、僕の全てを、否定した。反論すれば、撤回するまで鞭でなぶられた」
だから、僕は。彼は言う。彼の『理由』を語り連ねる。それは、今まで誰にも語られることのなかった、彼の真実。彼の本心。むき出しの心は、荒ぶる感情とともに吐き出される。
「従順である……ふりをしました。あいつの猫撫で声は本当に気持ち悪かった。あいつの手が、気持ち悪かった。だけど、僕は耐えた、耐え続けた……母に、会いたかったから……」
そして――
「七歳のとき、隙をついて逃げ出しました。裸足で駆け続けて、足の裏が血だらけになったころ、ようやく母の待つ家に帰ったとき……彼女はもう、神の御許に」
顔を覆い、吐き出された失望。その表情が見えなくても、伝わる空気。その絶望。
「その後は、クラリッサ様の知る通り。ロンドンで浮浪児として、日々を繋いでいました。縋る様に、たまたま手を伸ばした光が、あの女……オーレリアお嬢様だった」
太陽に焦がれ、手を伸ばしすぎた男は、その翼を奪われ地に落ちる――そんな神話を思い出した。吐露を終えた男は息をつく。勢いのままに語られた彼の出生、その感情の発露。それに、違和感を覚えた。少なくとも、クラリッサの知る男は、こんな風に、他者に感情を晒すような男ではなかった。
だが――クラリッサはそこでようやく、目の前の男が、まだ十八歳の少年にすぎないことを思い出した。堂々とした立ち振る舞いや、毅然とした態度に忘れていたが、彼はまだ、その顔に幼さを残しており、祖父を亡くし男爵の地位を継いだばかりの、まだ頼りない少年に過ぎなかった。
おそらく、彼は今まで誰にも、その本心を吐き出したことは無かったのだろう。普段の策略家然とした様子からは、あまりにかけ離れた姿は、はじめての感情に振り回される子どものよう。見るに堪えない、子供の駄々。クラリッサは、あがく少年を眺めて微笑んだ。
――これは、懺悔か、告解か。それとも、復讐の制止を求めているのか。
もしそうならば、この哀れな少年は、その相手を見誤った。
そのときはじめて、目の前の少年に対して、愛おしさが溢れた。それは、母性に近しいものであり、汚泥に這いまわる悪鬼を見下ろす神に近しいものだった。クラリッサは自らの頬を染め、恍惚と彼の頬に手を伸ばす。当然その手はすぐに打ち払われたが、そんなこと、彼女にとって、どうでもよかった。
クラリッサは、アレンに微笑み、その薄紅色の唇から吐息を漏らせた。
「ねえ、アレン。私と結婚しない?」
それは、男の想定を超えた言葉だった。
アレンの目が、大きく見開かれ、その目の中で、あの空の瞳が宝石のように輝いている。かつて見た、昏い瞳も好きだったが、この瞬く光も素晴らしいことに気付いて、胸に愛が満ちる。
「それはひどい……冗談ですね」
「あら、冗談じゃないわ。私、あなたの驚く顔が好きなの」
くすりと笑って、クラリッサは彼の手に腕を絡ませて、耳元で囁いた。
「……私と結婚するのは、怖い? あら、意外に勇気がないのね。ではあなたは一体何しにきたの。あなたの復讐はそんなもの? そうね、例えば。あなたの真実を知って――オーレリアが謝罪すれば、満足なのかしら。」
あなたの絶望は、それで満たされるの? そう、耳元で吹き込んで、彼をそそのかす。
「ねえ、アレン。信じてもらえなかったこと、捨て去られたこと、あなたはとても悲しかったでしょう」
「……いいえ……いいえ。クラリッサお嬢様、違います。貴女は勘違いをしている。信じてもらえなかったことも捨て去られたことも、確かに悲しかった……だけど、何より許せなかったのは……」
そのあとに続くはずの言葉を、男は噛みしめ飲み込んだ。その目は、かつて見た、あの昏い闇色に飲み込まれていた。
「……いえ、貴女に言っても意味がない。貴女に言っても、分からない。貴女に……理解されたいとも思わない」
男はからまった腕を払う。
クラリッサを遠ざけ、拒絶をつきつける男。彼を眺めて、クラリッサは息をつく。
「ねえ、アレン。私ね。初めて結婚して屋敷を出たとき思ったの――オーレリアのいない人生は、何て退屈なんでしょうって」
アレンを眺めれば、彼はクラリッサを不可思議なものでも見るように見つめていた。理解、できないのかもしれない。オーレリアを求める心はこんなにも似ているのに――その本質は、まるでいびつな鏡を挟んだよう。
「あの子にしてみれば、私は人の顔色を窺ってばかりいる、臆病で取るに足らない、平凡な女。そうね、あの子の観察眼は、間違いないわ。私はどうしたって、周囲の顔色を見てしまう。だれかの命令には絶対逆らえない。だから、あの子が私を見下すのは、仕方ないことだわ。だけどね」
「だからといって、脳みそがないってわけじゃあないのよ」
「……まさか、貴女は、お嬢様のことが、憎いのですか?」
アレンの問いかけに、クラリッサは微笑んだ。なんと愚かしい問いかけだろう。
「……私は、あの子のことが大好きなの。あの子のことが、可愛くてたまらない。そして――妬ましくてたまらない」
一瞬その目に過った、不穏な影は、しかしすぐに光にとけた。
「だけど憎いとか、愛おしいとか、そんな一言で表せるものじゃないのよ……だってわたしたちは、家族だから」
でも。だめねと――クラリッサは、胸を押さえて苦痛に耐えた。
「あの子はこのままでは誰かに嫁いで、その先で愛されて幸せな生を歩むことでしょう……私を、置き去りにして――そんなの耐えられない」
頬を伝う涙は決して演技ではないというのに、その仕草は芝居じみて、滑稽だった。
「だから、私。あの子をずっと、手元に置きたいの。離れるなんて許さない。結婚なんてさせないわ。あの子の一番傍で、あの子の全てを堪能したいの。あの子の愛らしさ、溌剌とした声。苦悩に、歪む顔。その全てを、独り占めしたい――ねえ。アレン……それは、あなたも同じでなくて?」
手を差し伸べた、その先に、一人の男が立っている。
オーレリアに焦がれ、偽りの翼さえも手放した、哀れな男。彼の求めるものなど、分かり切っている。彼もまたオーレリアの囚われ人。彼は、私の、ゆがんだ鏡。
「あんた……気持ち悪いな」
映し出されたその先で、虚像は差し伸べられた手を払い、ふっと毒を吐き出し笑った。
「あら、お互い様でしょう。特等席を用意してあげる。……私たち、愛なんてなくても、いい夫婦になれるんじゃあ、ないかしら」
アレンは重々しく瞼を閉じ息を吐くと、差し出されたクラリッサの手を取り、口づけた。
この少年のことはどうでもいいが、その顔は見惚れるほどに好きだった。この先長く続く結婚生活の、僅かな足しになることだろう。
「あなたも知っての通り、もうすぐオーレリアは十九歳――その誕生会に、貴方を招待するわ」
その場で全てが決まる。それは、合わせた瞳で、言葉を交わさずとも分かっていた。しかし、鏡の向こうの私は、やはり滑稽でしかない。
「……クラリッサ様。一つ聞いてもいいですか」
何と、問いかけると。その目にあの、暗いものが滲む。彼はクラリッサを見つめて、はっきりと、問いかけた。
「……貴女は、六年前。櫛を盗んだ犯人が、本当は誰か、御存知ですか?」
答えなど、当の昔に知っているくせに。何と愚かしい問いかけを。クラリッサは、満面の笑みを浮かべて答えた。
「ええ。勿論。知っているわ」
そして、ふたりは手を取りあう。
アレンとクラリッサ。二人の婚姻を知ったとき、愛する妹はどれほど取り乱すことだろう。そのときの、絶望の顔はどんなに美しいか。うっとりと、まだ見ぬ先を夢想して、クラリッサは微笑んだ。