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オーレリアは、変わらなかった。
可愛がっていた使用人に『裏切られて』、意気消沈しているかと思えば、彼女はいつも通りにふるまった。それが演技かと思えば、それも違った。今までの執着が嘘のように、彼の髪で作ったかつらも幾度か身に着けただけですぐに捨ててしまった。
彼女は変わらない。少なくとも、クラリッサの願うようには、変わらなかった。
新緑の下、大地を駆けた少女は、やがて書を手にするようになった。勤勉に学び、熱心にカヴァネスに問いかけをする。その姿に、寒々しさを感じた。
――どうせなら、ただの無垢で――愚かな娘に成り下がってくれたらいいものを。
大人に近づく少女の姿に、母の姿が重なることが増えていく。愛おしいはずの妹を、忌々しいと思う。その成長に微笑みながら、傍らで、その聡明さに恐れを抱く。顔を引きつらせる己の醜さに気付くたび、クラリッサは何度もその考えを打ち消した。何を考えているの、オーレリアはあんなにも愛らしく、愛おしいでしょう。自問自答の問いかけは、幾度となく繰り返されて、そして――六年の日々が過ぎる。
*
父は、昔から子供たちへの関心が薄かった。彼は常に母に夢中で、母が死んでからは、末娘のオーレリアだけに夢中だった。その愛情は時に、度を越していたように思えた。彼はオーレリアが一人の使用人を特別扱いしたことを後から知り、いたく腹を立てて、オーレリアをしかりつけたという。捨て置かれ、忘れ去られたクラリッサへの扱いとは、あまりに違った。
ぽとり。ぽとりと、小瓶の中身を父のカップに注ぎ、クラリッサは微笑む。
そんな父が心臓を悪くして倒れたのは、つい先日のことだった。『偶然』とは、恐ろしい。更に悪いことは重なり、跡目を継ぐべき兄に、金銭トラブルが発覚した。実に彼らしい結末ではあったが、その金策の皺寄せに、オーレリアの結婚が選ばれたのは、クラリッサにとっても面白くないことだった。妹が結婚して家を出てしまえば、この屋敷はただの箱になる。
連夜、開かれる夜会の度。兄によって集められた男たちは、妹を賛辞する。贈られるプレゼントの山に、ほくそえむのは兄一人。美しい妹を取り囲む男たちは皆、彼女の心棒者。たとえ、妹にわずかな持参金しかないと分かっても、彼らはきっと不平も言わず、逆に伯爵家を支援することだろう。うつくしい妹には、それだけの価値があった。
しかし、クラリッサには、集う男たちのどれもが、花にたかる虫としか思えなかった。それとなく遠ざけてはいたが、虫はいくらでも湧き、日に日にオーレリアは辟易していった。
花を枯らす、男ども。その存在を、見過ごすことはできなかった。
手の中の小瓶を握りしめて、クラリッサは決意する。
妹を救うため、兄に対して進言する。その恐れと戸惑いは確かに胸のうちにあった。傲慢な兄はいつもクラリッサの話になど耳をかさない。兄の顔色を伺い、保身に走って意見しないことが常だった。兄に異議を唱える、その結末などはじめから目に見えていた。しかし。
己の体を思うままに蹂躙する、無遠慮な男の手を思い出し、こみ上がる吐き気に口元を押さえた。
愛おしい妹。彼女に同じ思いはさせてはならない。ただそれだけを願い、熱い思いがこみ上げる。そしてクラリッサは己を奮い立たせ、兄の執務室へと向かった。
*
意気込んだクラリッサ。ただ一つの誤算は、彼女が恐恐と、重く分厚い扉に手を添えたときに明らかになった。
「お兄様」
中から聞こえた声。それは、オーレリアの声だった。
クラリッサは、扉にそえた手をとめる。ただ一言聞こえた声に、彼女は悟る。ああ、愚かなクラリッサ。オーレリアは、あなたなどが気に掛けなくても、自らの道を自分自身で切り開く。兄に意見し、彼の考えを改めさせることなど、賢明なる少女には容易いこと。
「どうか私の結婚を、考え直してください」
事実、その声は堂々として。はっきりと、兄に向かって宣言する。しかし、オーレリアの声と異なり、兄の答える声はクラリッサまで届かなかった。ただ、彼が何を言ったのか、オーレリアの言葉から憶測する。
「ならもう少し、選んでください。私の価値は、あんな低いものではないでしょう」
その声には、淀みがない。己の価値を理解し、自信に満ちたうつくしい声は、そうして、はっきりと言い放った。
「お姉様みたいに、使い捨ての老人に嫁がせたいの? 勘弁してください。まさか、お姉様のように、私の夫も腹上死させたいの?」
――腹上死。
クラリッサは、そっと音を立てないように、後ずさる。
体の震えは次第に痙攣と呼べるほど激しくなる。知っていた。知っていたのだ、あのうつくしい、無垢な妹は――クラリッサの穢れを知っていたのだ。情事のさなか、男をくわえこんだまま、その命をしぼりとった毒婦。夫を腹の上で、死なせた女。夜毎夜会で囁かれる姉の醜聞を、知って、知らぬふりをした。
「お兄様、どうかお姉様のことも――」
扉の向こうで、オーレリアが言い放つ言葉に咄嗟に耳を塞いだ。もうこれ以上の衝撃を、彼女は受け入れることができなかった。彼女は震える踵を返し、その場から立ち去った。
灯りを避けて、より暗い場所へ。光を避けて、より昏い場所へ――
溢れる涙は勢いを増し、嗚咽が暗い廊下に響き渡る。どうか、誰もいない場所へ。誰一人、クラリッサを蔑まない場へ。
そうして、誰もいない廊下の端にたどり着くと、クラリッサは闇の中に崩れ落ちた。
もう、このまま、溶けて消えてしまいたい。父も兄も、そして、オーレリアさえいない、闇の、そのまた先へ。それだけを願って泣き咽んだ。目が腫れ、声が嗄れるまで、泣き崩れた。しかし、どんなに願っても、どれほど願っても、彼女は消えることができなかった。
ただ闇だけが、彼女にそっと寄り添い続けた。